雫ちゃん(二)
不思議な同棲生活はもう一カ月も続いている。
その間、女も男もわたしの存在には少しも気付かなかった。あいつらに霊感が無いのか、わたしの幽霊力が低いのか。女の子が寝ている間に外へ出てみたこともあったが、やはり誰の目にも映らないし、何にも触れられない。わたし自身の変化もない。聴覚も触覚も嗅覚もあるが、お腹も空かないし、眠くもならない。暇である。だいたい女の子の近くにいた。何もしてあげられないが、そばにいた。
男の方はこの子の実父ではないらしい。女の彼氏というだけ。男は気まぐれに女の子にかまい、女はそれが気に食わないようだった。男の関心が、他者へ向かうのが嫌。たとえそれが自分の子供であっても。そんな母親の反応を機敏に察知し、女の子は男へ自ら話しかけないし、近づかない。主張をしないし、女の顔色を見て怯えている。押し入れが彼女の唯一の居場所なのだ。
何度か、女は女の子を叩いたり、なじったりした。「なんでこんなことも出来ないの」「馬鹿だね」「ママ、嫌いになっちゃうよ」「ゆめはぶさいくだから、誰にも好かれないよ」などと言う。その度、女の子は泣いて謝った。叩かれても、つねられても、抵抗せずに。
わたしはヒステリックに叫び、「やめろ!クズ!お前が馬鹿だろ!ブサイク!死ね!」と生きていた頃には一度も吐いたことのない罵声を浴びせる。殴ったり蹴ったり、キッチンにある包丁を握ろうともしたが、やっぱり触れない。
女が女の子に言う台詞や行為は、きっと女がされてきたことなのだろう。この女は、愛されず、邪見にされて育ち、教育も不十分。全てに飢えている。されたことをし返すことで、自身の辛かった過去を消化しようとしている。そんな行為、無意味なのに。
理不尽に怒鳴られ、長い爪でひねられた小さい二の腕はすぐ内出血を起こした。気が済んだ母親がシャワーへ向かうと、女の子は押し入れで二の腕を抑えてすすり泣き出した。ウサギのぬいぐるみを抱きしめて。
白かったはずのうさぎのぬいぐるみは、もう灰色。所々に茶色いシミ。彼女が常用しているタオルケットも同じような状態だ。一度も洗濯していないのだろう。
女はたぶん、ぬいぐるみや布団類の洗濯方法を知らない。面倒だからやらないのではなく、知らないからやらないのだ。してもらった経験がないから出来ないのだ。哀れだとも思う。自分が生きた状態で今ここにいられたなら、お節介ではあるが洗濯の方法も料理の仕方も教えてやっただろうし、子育て支援の行政に連れて行っただろう。あんな中身のない、お前の身体しか興味のない男はやめろと助言もしただろう。でもきっと、わたしの助言をこの女は聞き入れない。
押し入れで、声を殺して泣いている女の子を後ろから抱き締める。このままでは、この子はずっと苦しく辛いままだ。
小学生になれば社会との繋がりができて、この状況は改善される?
あの女が、ランドセルや必要な物を買い揃え、朝決まった時間に起きて学校へ送り出し、宿題を見たり、学校行事やPTAに参加するなんて出来る?
想像して、ぞっとした。出来るか否か、答えはNOだ。そもそもこの子に戸籍があるのかすら怪しい。少なくとも、行政がこの家に訪ねて来たことはこの一カ月の間にはない。
ぴちゃん、ぴちゃん。また、わたしの手から雫が垂れる。
「ぴちゃん」
突然、女の子が言葉を発した。「ぴちゃん」と。
わたしの手からこぼれる雫の音。わたしは驚いて、女の子を見る。と言っても、後頭部しか見えない。女の子は涙交じりの声で、また「ぴちゃん」と言った。
衝動的に、手から一滴を垂らす。ぴちゃん、床に雫が落ちる。するとその音の反応するように、女の子がまた「ぴちゃん」と呟く。
わたしの発する音が、届いた。
「ぴちゃん」
ぴちゃん。
「ぴちゃん」
ぴちゃん。
わたしの存在に、女の子は、なんとなく気付き始めているのか、「ぴちゃん、いるの?」と押し入れの端に向かって問いかける。すかさず、一滴を落とす。もう心臓は動いていないのに、とても騒がしい。
「ぴちゃん、いるんだね」
女の子は、嬉しそうに言う。ふふっ、と笑みの混じるその声色に、無いはずの涙腺が一気に緩み、崩壊する。わたしは確かに泣いている。今度は手からではなく、瞳から溢れた雫が落ちる。ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん。女の子はまた嬉しそうに、しかし声を押し殺して笑う。くるっとこちらを向いて、何かを探すような素振りをし、床を触る。
「ぴちゃん、いるんだね。どこ?」
女の子と、目が合った気がした。気がしただけだ、実際のわたしにもう目はない。だけど、女の子はわたしのいる方を見つめ、嬉しそうに笑ってくれた。
それだけのことが、わたしの心を大きく動かした。内側から形容し難い感情が湧き上がり、ぐつぐつ沸騰し、吹きこぼれる。
わたしは心から、この女の子を守りたいと思った。
守るにはどうしたらいいか、考えて考えて考えた。けれど良い案は浮かばない。己の無力さと無慈悲な現実に心が折れそうになる。女の子の方が、わたしより何倍も辛いのに。
しかし、次の日、小さな奇跡が起きた。
朝日が昇ると同時、わたしは身体を得ていたのだ。残念ながら人間の肉体ではない。薄汚れたウサギのぬいぐるみの身体だった。
自分の手を見る。少しベタッとした質感の、親指も人差し指もない、ただの長円状の手。これじゃあ何も掴めないな、おにぎりも握ってあげられない。けど、見えない触れない幽霊のままよりずっといい。
女と男がアパートを出て行った後、それまでじっと女の子に抱きしめられていたわたしは、思い切って動いてみることにした。
もぞっ。
まず、女の子の手に優しく触れてみた。怖がらせたくなかった。次に、俯いていた顔を上げてみた。
客観的に見ればかなりホラーな光景だが、女の子は怖がる様子もなく、目をまん丸くして凝視。ぱちぱち、と瞬きを繰り返し、小さな口は「ぴちゃん?」と呟いた。
わたしは大きく頷いた。「そうだよ!」と言ったが、変わらず声は聞こえていないようなので、身体で肯定を表現した。
賢い女の子は瞬時に状況を理解し、わたしがぬいぐるみに宿ったことを喜んでくれた。ぎゅうぎゅうと抱き締められる。女の子が喜んでくれたことが、わたしは嬉しい。
その瞬間から、わたしは彼女の友達・ぴちゃんになった。




