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君の手のひらで踊りたい。  作者: 田邑綾馬
第Ⅲ章 転

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番外編 雫ちゃん

 早く、早く逃げなきゃ。

 前だけを見つめて、髪を振り乱して、一心不乱に足を動かし、息を切らせて、私は走っていた。目的地はない、ただ真っ直ぐ走った。足を止めれば死ぬことが分かっていたから。足を止めれば、あいつは私を殺すだろう。だから、ただただ、走った。心臓が破裂しそうになるほど、息が苦しい。

 足が砕け散ってしまうのではないかと思うほど懸命に地面を蹴り、頑張って走っていたはずなのに。なのに、さっきまであった故郷の街並みが、なぜかもう見えない。私は今、なにもない暗闇の中にいる。ここにたどり着くまでは、時々うすぼんやりと太陽の光や夜の闇を感じたり、人々の足音だとか、人の話し声も聞こえた。だけど今、私はなにもない暗闇にいる。

 感覚もない、嗅覚もない、たぶん視覚もない。どれくらいここにいるのかすら分からない。どうしてここにいるんだろう、ここはどこ。この空間が、あんなに頑張って走ってたどり着きたかった場所なのか、もう分らない。私はどこへ行きたかったんだろう、なんで走っていたんだろう、何から逃げていたのだろう、あれ、あれ、私は、わたしは誰なんだろう。


 わたしは誰なのか、わたしは『私』の名前すら忘れてしまったらしい。こうなると、縄の切れたブイのように、広大な海をただ漂うだけのようになって、目的地もないから進む方向も分からないし、だから漕ぎ出す一手を決められない。『自由気まま』と言えば聞こえはいいが、わたしは、どこかへたどり着きたいと思った。帰りたいと強く願った。でも、たどり着くべき自分の家を、わたしはもう思い出せない。


 暗闇を漂うだけの時間を繰り返していると、もっと『私』の記憶は曖昧になり、わたしは『私』について考えることをやめ、完全にわたしになった。そうするといささか気分は楽になった。なにも持っていないという状況は、案外悪くないのかもしれない。心に開いた穴が開いたかのようなこの喪失感も、きっともうすぐ気にならなくなる。

 そうして、喪失感すら無くしてしばらくした頃、わたしは久しぶりに人間の声を聞いた。その声の持ち主は言う。「いない、いない、どこにもいない、どうしてあのひとは・・・」と。久しぶりに聞いた人間の声が、嘆き悲しむ声であるのは心苦しくあったが、人の声が聞けたこと、まだ言葉が理解できることが嬉しかった。


 けれど次の瞬間、わたしは突然、臭いなにかを口に押し当てられた。

 臭い!鼻の中に異臭が流れ込んでくる。嗅覚が戻った。

 口の中がしょっぱい。すぐに口をゆすいで、水を飲みたい。味覚が戻った。

 冷たい!ずぶぬれだ。全身が芯から冷えている。触覚が戻った。

 テレビの音がする。耳に届くのは複数の人の笑い合い声と楽し気な音楽。聴覚が戻った。

 ふっと顔を上げると、鏡に映るわたしが見えた。濡れた髪が青白い顔に張り付き、落ちくぼんだ眼をした女がいる。これが今のわたし。視覚が戻った。


 取り戻した視覚で辺りを見回す。ここはどこかアパートのユニットバスのようだ。狭い空間は掃除が行き届いていないのと、換気が不十分なせいで臭かった。浴槽内は黄色いカビが敷き詰められ、便器は言わずもがな。公衆トイレの方が綺麗だ、とわたしは思った。この部屋の借主は掃除が嫌いなのだろう。


 なぜ自分がここにいるのか、思い出せない。確か、何かから逃げていたはずだ。状況が分からない。ドアノブをひねり、ユニットバスから出ると、聞こえていたテレビ音が大きくなった。短い廊下の左手が玄関、右手にはキッチンと部屋がある。部屋は広くない、8畳ほどのワンルームだ。今は昼間だが、カーテンも引いていないのに部屋は薄暗く、誰もいない。地面には洋服やペットボトルが散乱していて汚い。洋服は女性物が多いが、男性物も混じっている。壁際に配置されたドレッサーの上には化粧品、小さいテーブルの上には灰皿。男女が同棲しているようだ。このような有り様だ、キッチンシンクには使用済の食器が散乱し、快適に料理ができる状態にない。


 住人はいない。それなのにテレビがついていて、少し薄気味悪かった。

 それより、ここはどこだろう。頭の中に靄がかかっているような、ぼんやりとした状態で立ち尽くしていると、半開きになっている押し入れから微かに音がした。布が擦れ合ったような音だった。とても驚いてしまって、肩が跳ねた。恐る恐るそちらを振り向き、じいっと押し入れ内に目を凝らした。すると、投げ入れられているタオルケットが、のそっと動いた。一瞬、この家で飼われているペットだと思った。犬か、猫。でも、違った。タオルケットの隙間から見えたのは、小さな足。人間の足だ。次に手、髪、顔が見えて、それが幼い女の子だと分かった。

 細い手足をした女の子は、身体も細かった。顔には生気がない。目も虚ろだ。のそのそとタオルケットから這い出て、慣れたように漫画本を重ねて踏み台にし、キッチンの蛇口をひねる。汚いコップに水を注ぎ、それをごくごく飲んだ。飲み終えると、すぐ漫画本を元の位置に戻す。ああ、そうしないと怒られるのだろうなと直感した。

 そして、再び押し入れに帰る。狭い押し入れが彼女の居場所で、抱き締めているウサギのぬいぐるみが唯一の友達なのだろう。


 彼女はわたしが見えていないようだ。「あの、わたしの声、聞こえる?」「大丈夫?」と、声をかけてみるが無反応。少し近づいて、手を振ってみるが、やはり無反応。小さいあの子には、わたしが見えてないみたい。振っていた手から、一粒雫が床に落ちた。ぴちゃん、と。床に雫が垂れれば、ボタ、と鈍い音が響きそうなものだが、なぜか”ぴちゃん”と水辺に落ちたような音がした。

 この明らかに異常な状況に、新たな登場人物が加わる。彼女の親らしき若い男女が帰ってきたのだ。

 わたしと小さい彼女は同じように怯え、身を縮こませる。


 男女は楽しそうに帰宅してきた。どんな馬鹿なカップルだろうと身構えたが、見た目は少し派手な程度のどこにでもいる普通の男女だった。両手いっぱいに食品や日用品の詰まったビニール袋を持ち、女の間延びした「ただいま~」の声が狭い部屋に響く。

 女の子は、胸元のぬいぐるみをぎゅうっと抱きしめる。そして、「おかえりなさい、ママ」と、ぎこちない笑顔を浮かべる。男はやや乱暴に女の子の頭を撫でながら、ビニール袋から菓子パンを3つほど取り出し、どさっ、どさっ、どさっ、と押し入れの中に投げ入れる。


「いい子してたかぁ?ほら、ご飯。好きだろ、パン」

「よかったねえ、うれしいねえ、ゆめ」

「うん、ありがとう」


 どこが良かったのか、どこが嬉しいのか。女の子の顔をよく見てみろ。女は男にしな垂れかかり、もうすっかり女の子への興味を失っている。

 女の子はまた押し入れに戻り、投げられたパンの一つに手を伸ばした。


 女も男も、わたしが見えていないようだ。思い切って、「わたしが見えてますか?聞こえてる?」と、彼らの眼前で尋ねるが、何の応答もない。


 その時ちょうど、テレビに映るアナウンサーが、今日の日付を読み上げた。それから、ちょうど一年前の今日、日本で何が起きたのかを涙ながらに述べ、黙とうする。女と男はテレビに見向きもせずにじゃれ合っている。

 わたしはテレビに釘付けだった。膝を付いて、テレビを両手で掴もうとしたけど、掴めずに空気を切った。思えば、ユニットバスから出た時もドアノブをひねれず、戸をすり抜けてしまったような気がする。


 そうか、あの日から今日でちょうど一年経つのか。そんなに経っていたんだ、知らなかった。じゃあ、わたしは死んだんだ。わたしは数字になり、あの死者数の中に入ってる。

 わたしは死んだんだ。幽霊になったんだ。気付かなかった、一年もの間ずっとどこかを漂い続けてきたから。


 しばらく呆然としたままテレビを見つめていたが、すぐ横にあるベットで女と男が性行為を始めやがったので怒りが湧いた。真昼間に、こんな日に、この時間に、女の子のいる前で?理解に苦しむ。

 自分にできる精一杯の恐ろしい顔をして、「やめろ!」と髪を振り乱して怒声を浴びせ、蹴り飛ばしてやろうとするが無理だった。空気を蹴るだけ。悔しくて、惨めだ。どうして、わたしは幽霊になったのに、人間一人驚かせられないんだろう。


 女の子のいる方を見る。半開きになっていたはずの押し入れは完全に閉じられている。中は、きっと暗闇だろう。

 首を襖に突っ込むと、思った通り暗闇で、目が慣れてくると女の子がタオルケットを頭からかぶっている姿が確認できた。カサカサと音がしている。パンを食べているのだろう。

 女の子は発育不足でずいぶん小柄で細いが、会話もできて自分で食事も摂れている。おそらく4、5歳くらいだろう。


「保育園に行っていないの?」「おばあちゃん、おじいちゃんはいない?」「おともだちは?」「好きなテレビはなに?」「好きな食べ物は?」「お風呂は入れてる?」「さっきは一人でお水飲めて偉かったね。喉か湧いてたんだよね」


 狭い押し入れの中で、小さい彼女に聞こえない言葉を投げかける。外から聞こえる醜い嬌声が、その小さく愛らしい耳に届くのを少しでも防ぎたくて、おそらく耳の位置だろうと目星を付けた箇所に手を当てる。実際に当てることは無理だった。わたしは触れられない。


「大丈夫、大丈夫、すぐ終わる。そうだ、桃太郎、知ってる?桃太郎って言うのはね、」


 本当はわたしが外の音を聞きたくなくて、一人でずっと喋り続けた。受け止められない現実と、自分がこれからどうなってしまうのか不安で、幽霊なのに仮想世界へ逃避したかったのだ。

 ぴちゃん、ぴちゃん、わたしの手からは変わらず雫が落ち続けている。

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