第二十一話 救われた3人
ああ、ここは病院だ、病院の天井だ。分かった瞬間、自分は助かったのだと理解した。あの状況でよく助かったと自分でも思う。刃物が皮膚を引き裂いた時の痛みはしっかり覚えているが、今はそれほど痛まない。まだ麻酔が効いているからだろうか。
犯人に立ち向かっていったのは正義感ではなく義務感に近かった。襲われていたのが星野さんだったから身体がすぐ動いたけど、あれが見知らぬ人だったら違っていたかもしれない。“お前は彼女を守る義務がある、四の五の考えずに動け”と頭の中で大号令が出されていたため、迷いはなかった。
武道の心得に乏しい俺の捨て身の抵抗と反撃のおかげか、記憶を手放す直前には周りの男性陣や警備員により犯人は取り押さえられていたはずだから、星野さんは無事だろう。他の被害者も、怪我をして出血はしていたが命に別状ないと信じたい。
しかし、こういうケースの場合は犯人の量刑はどうなるのだろう。下手したら複数人が死ぬ大惨事だが、結果として傷害止まりだ。犯人はそこそこの刑期で出所になるのか。あとで塩田に聞いてみよう。
俺が意識を取り戻したのは、事件から翌日の朝で、近くにいた看護師さんに今回の功績と回復力を同時に褒められた。駆け付けた医師によって、口元に付けられていた酸素吸入器?を外され、容体の説明を受けた。午後にはICUから一般病棟に移ってもいいと言われ、そこでようやくある疑問が湧いてきた。
「あの、俺って軽傷なんですかね?」
「軽傷ってことはないよ。実際刺されているわけだしね。でも搬送時に聞いていたより傷もずっと浅かったし、出血量かなり少なくて驚いた。君は運もいいね」
「3か所も刺されたのに?」
「3か所?いや、刺されたのは2か所だよ」
2か所?いや、違う、3か所だ。痛みは確かに3回襲ってきた。刺された当人が言っているのだから間違いないのに、医師や看護師の良かった良かったと言い合う様子に反論する気が静まってしまう。
その後、一般病棟に移され、スマホを確認する暇もなく警察官の聴取が入った。俺の過去を持ち出されるかと身構えたが、軽い質疑応答だけで拍子抜けするほどあっけなく聴取は終わったし、むしろかなり褒められた。褒められても素直に受け取れず、「いえいえ、大したことしてないです」「とんでもないです」「俺なんて、全然」を繰り出す人形になってやり過ごし、一息ついたところで入れ替わるように樹達が雪崩れ込んできた。申し訳ないが、こいつらのことをすっかり忘れていた。
登場時から、樹、阿部、三屋は大号泣していて、続いて現れた星野さんも瞳に涙をいっぱい溜めている。星野さんも病院着を着ているが、包帯を巻いているのは右手のみで、大きな怪我はしていないようだ。良かった、これでこの2か所の傷も浮かばれる。
「大丈夫、痛くない?ごめんなさい、私のせいで」
「星野さん何も悪くないですよ。むしろお誕生日だったのに、こんなことになっちゃってすみません」
「あ!!」
はっとしたように揃って口を押える樹と阿部。昨日が彼女の誕生日だったことを失念していたようだ。無理もない。つまり、今日は樹の誕生日ということだ。
「星野さん、実は今日彼の誕生日なんです。よかったら一緒にお祝いしませんか」
星野さんの涙顔は違和感があり過ぎる。俺の提案に、彼女は涙を拭いて、笑顔で応じてくれた。
けれど俺の体調が気になるようで、「でも大丈夫なの?起きていて辛くない?」と気遣ってくれる。自分でも不思議だが、傷がそれほど痛まないのだ。そりゃもちろん痛みはある。動く度にズキズキとした痛みを感じ、縫い合わせた皮膚が破れてしまわないか不安になるが、こうやって喋ったり、ベットに支えられている状態であれば上半身を起こしても大丈夫そうだ。
「はい、傷もそんなに痛まないんですよ。なんなら刺された腹より、切られた手の方が痛いくらいで」
「本当に?あんなに血が出ていたのに・・・。ああっ、辛いこと思い出させてごめんなさいね」
「それは星野さんも同じじゃないですか。気分は大丈夫ですか?」
「ええ。落ち着いているわ。朝市君のおかげね」
この時の俺はやはり気分が高揚していたのだと思う。曲がりなりにも人命を守れたし、友人達は俺の無事を心から喜んでくれる。星野さんとも打ち解けて話が出来て、全てが上手くいっていたから。大団円ってこういう状態も当てはまるのだろうか、なんて考えた。色々ありつつも、最終的には全てが丸く収まって、皆で笑い合う。まさに今の状況ぴったりじゃないか。
コンコン。
しばし談笑していたが、ノック音で一時中断。入室してきたのは、同じ病院に入院している塩田と、その彼氏・斎藤未来さんだった。数日前とは逆になった邂逅に、なんだか気恥ずかしさを覚えた。
塩田の第一声は「おう、ヒーロー、体調どう?」だった。
「うん。結構平気。自分でも驚きなんだけど」
「そうか、良かった。神に感謝だね」
「あはは、そうかも」
ああ、そうか、感謝すべき相手を忘れていた。塩田の一言で、皆が口々に神に感謝した。「有難いね」「お墓参り行かなきゃ」「近所の神社にお賽銭しに行くわ」と。
それから、初対面の星野さんに塩田と斎藤さんは軽く自己紹介をし合うと、星野さんは斎藤さんに興味を示したのか、彼の顔をじっと見つめている。
「あ、ごめんなさい、じっと見たりして。その、知り合いと名前が一文字違いで、お顔も少し似ている気がしたから」
「一文字違いで顔も似ている・・・、もしかして親戚関係かもしれませんね」
塩田が隣にいる斎藤さんを見上げながら可能性を説くが、星野さんはゆっくり首を横へ振る。
「違うのは苗字の方なんです。私の知り合いは佐藤さんだから。私の姉の恋人だった人なの。――もしかしたら天国にいる姉が、私や朝市君を守ってくれたのかもしれない」
懐かしい名前が出たことと、通り魔に襲われ九死に一生を得る体験から、星野さんも気分が高ぶっているのかもしれない。亡くなった姉が守ってくれたのかもしれないと、感傷的なことを言う。
在りし日の姉の姿を思い浮かべているのだろう彼女は包帯で巻かれた右手を摩りながらしみじみ呟くと、呼応するように樹が「優しいお姉さんですもんね」と言葉を添える。阿部も三屋も、こくこく頷いている。
一体感のある空間だった。同じ属性の者同士が集まっている。例えば、色。深緑、黄緑、若草、山葵、抹茶、多くの種類があるけれど全て緑色として括られるように、今、この部屋の中で、多少の違いはあえど俺達は同色の仲間に思えた。――塩田と斎藤さんを除いて。この部屋の中で、この2人だけ、俺達とは違う色をしている。けれど皆楽しそうに会話をしていて、そのことに気付いていない。
どうしたんだ、塩田は。いつもの彼女らしくない。口角は上がってこそいるが、あれは愛想笑いだ。この空間で、この話題で、なぜそんな能面のような笑顔を作る必要があるのか――。
コンコン。
次に戸を叩いたのは看護師だった。目覚めた時、俺のすぐ近くにいて、最初に会話を交わした女性だ。大きい瞳が特徴的な彼女は控えめに「すみません、そろそろ・・・」と、樹達の退出をやんわり促した。
「あ、そうですよね。朝市も疲れちゃうよな、ゆっくり休めよ」
「おお、ありがとう。星野さんもありがとうございました。誕生祝いは・・・とりあえず樹達と。また日を改めてお祝いさせてください」
「いいのよ、気にしないで。私は明日には退院するから、またお見舞い来るわね」
樹達が退出するのをベッドの上から見送った。それから看護師に差し出される体温計を受け取り、左脇に差し入れる。
「体調はいかがですか。傷は痛みますか」
「え、ああ、大丈夫です。痛みも我慢できる程度ですし」
「それは良かった」
頭上から降ってくる看護師の声は優しく力強い。子供の頃から身体だけは丈夫で、病院へも数えるくらいしか行ったことがなく、もちろんこれが人生初の入院で、看護師という職に対するイメージが乏しいのだが、なるほどこれが巷で言う白衣の天使というやつか、と妙に納得してしまう。優しくされるのはやはり悪い気分にはならない。それも弱っている時に介抱されると、その優しさが骨身に染みる。
彼女は体温計が鳴るのを待つ間に手早く右上腕に血圧計を巻き付け、血圧を測っていく。スイッチを押すと加圧が始まって、思った以上に強い圧に慣れない機器に視線はくぎ付け。プシュー、ピピッ。血圧と体温計の計測がほぼ同時に終わり、彼女はそれらを記録する。無駄のない動きだった。
しなければならない作業が全て終了したのか、体温計と血圧計を仕舞うと、彼女は俺の顔をじっと見て、それから眉を下げて微笑んだ。
「少しでも体調が悪くなったら遠慮なく言ってくださいね」
「あ、はい。ありがとうございます」
「これから少し、お話を聞いていただかなくてはならないので」
話?何の?
彼女の言わんとする言葉の意味が分からずにぽかんとしていると、ノックもなく戸がスライドした。自然と視線は出入口へ。引かれていたカーテンがひらっと揺れ、現れたのは、以前塩田の病室で会った警察官2人、それと知らない女性が1人。警察官は前回同様の恰好だが、女性の方はとにかく派手だった。ピンクとオレンジを混ぜたような色の長い髪、キャラクターネイルの施された長い爪、緩いダメージジーンズ、黒のスウェットという出で立ち。古着屋でも経営しているのだろうか。警察官とこの女性の組み合わせはミスマッチ過ぎる。
彼らの当然の登場に呆気に取られること約4秒、どんな要件かこちらが尋ねる間もなく、新たな人物がカーテンを揺らして入って来た。今度は俺のよく知る人物達だった。昴と、乃愛ちゃんだ。2人は揃って沈んだ表情、気まずそうに視線をさ迷わせている。しっかり者の昴と明るい乃愛ちゃんらしくない挙動だった。まるで彼らに無理やりここへ連行されてきたような、借りてきた猫のような、とにかく居心地が悪そうだった。
「あ、あの、」
「倉田朝市さん、お加減いかがですか」
あの、これは一体どういうことですか。俺が事情を尋ねる前に、美しい警察官は口火を切った。




