第十四話 黒か、白か
「白です。白を切って下さい」
床に放り出されたスマートフォンから、憩の声が聞こえる。そして、白を切れ、と言っている。
斎藤の目の前には、四方30センチほどの段ボール箱が明けかけの状態で置かれている。覗くと、中には、白と黒のコードが伸びた配線板のようなものと安っぽいデジタル時計が入っていた。しかしそのデジタル時計は時の刻み方が変だ。05:00,04;59、04:58、まるでカウントダウンのように文字数が減っていく。
右手にハサミを持つ斎藤は、今まさに白いコードを刃で挟もうとしていて、これはどう見ても爆弾解除の場面だった。実際、段ボールの中にある物体は正真正銘の爆弾で、あと5分で爆発するぞというところで憩から「白」を切れば爆弾機能を停止すると連絡が入り、今まさにコードを切断しようとしているその最中だ。
なぜ、斎藤と憩はこんな危機的状況に巻き込まれてしまったのか。話は2時間ほど前に遡る。
「あ、事務所にUSB忘れてきちゃった」
金曜日の夜11時を少し回った頃、仕事用の鞄をひっかき回していた憩の絶望滲む嘆きが自室に響いた。風呂を済ませ、部屋着に替え、既にベッドの中で本を読んでいた斎藤は彼女の嘆きに、機敏に反応した。
「珍しい、あなたが忘れ物なんて」
「そんなことないよ、しょっちゅうだよ。どんどん忘れ物増えてきてる」
「その歳でそれはなかなかだよ。取りに行くの?」
「そうだね。明日の休みに少し仕事したかったし。それに、休みの日に取りに行って誰かと鉢合うのも嫌だしさ。この時間ならギリギリ誰かいると思う。最悪、守衛さんに頼んで開けてもらう」
「じゃあ、送迎します」
「おっ、いいの?助かる~」
「風香さんからも頼まれているしね」
とある日、風香は斎藤に運転免許の有無を聞いた。塩田家は自家用車を一台所有しているが運転手は当然ながら憩のみ。普段は電車通勤の憩だが、終電帰宅もざらにあり、駅から自宅までの道中を心配していた風香は、斎藤が送迎してくれるのではないかと期待したのだ。毎日でなくていい、深夜・早朝の送迎、こういったイレギュラー時だけでも対応してくれたら、と。結果、風香の期待通り免許を所持していた斎藤は、こうしてたまに憩の専属運転手になる。
リビングでテレビを見ていた千叶と飛鳥(風香は二階で勉強中。)に声掛けをして、2人は車に乗り込んだ。行き慣れた道は深夜も差し掛かった頃だというのに混んでいる。金曜日、夜、都会。この3つの単語だけで混み合いの説明は十分だろう。
ふいに、半笑いの憩が「ねえ、なんか怖い話してよ」と無茶を言う。道中の暇つぶしにしても深夜の車中でするには不適切な話題ではないだろうか。突拍子のない行動と言動で定評のある憩だが、さすがの斎藤も訝しげだ。
「怖い話をすると、幽霊が寄ってくるって本当なのかな。斎藤さんはどう思う?」
深夜、職場に忘れ物を取りに行く。このシチュエーションが憩に刺さったのかもしれない。いつになく上機嫌で、愉快そうな口調だ。
隣に愛おしい人がいるのに、信号で停まっても、斎藤は真っすぐ前を見据えたまま。憩の問いかけにも曖昧に答える。
「さあ、どうだろう。寄ってきて欲しいの?」
「うん、そうだね」
「なぜ?」
「どうやって幽霊になったのか、聞いてみたいから。やっぱり、人への恨みやこの世への未練かな。私、幽霊になったことないから知りたいんだよね」
そりゃそうだろう、誰だってそうだろう。あまり奇妙なことを言わないでくれ、と言うかと思いきや、斎藤は肯定的な受け止め方をしたようだ。「その手があったか」と受け止め、続けて、まるでプロポーズのような台詞を吐いた。
「幽霊になって、ずっと僕の側にいてくれますか」
奇天烈なプロポーズに対し「考えとく」とだけあっさり返して、肝心の怖い話を促す。
「それより怖い話は?」
「んー、二足歩行の蛙、とか」
「何それ、全然怖くない。むしろ可愛いじゃん」
「手足のある蛇」
「それはトカゲに近くない?」
「二足歩行の馬、牛、豚・・・」
「あはは、怖い話じゃないじゃんそれ。二足歩行させたがるね~」
「でも実際いたら驚くし、怖いでしょ」
「四足歩行の人間の方が怖くない?しかも超高速で走ってたりしたら」
「・・・確かに。それが一番恐ろしい」
怖くない怖い話をしていると、あっという間に港区のオフィス街へ入り、憩の事務所が入っているビル前に到着した。「すぐ戻るから」と告げ、ビル裏手にある関係者入口へ走る憩の背中を消えるまで見守ると、斎藤はようやく座面に背中を預けた。
周囲には車も人影もない。真のオフィス街の夜は静かで暗く、居心地がいい。大通りを外れた道なら路上駐車しても誰にも咎められないところもいい。
ハザードランプのカチ、カチという規則的な音を聞きながら、ルームミラー越しに憩が消えていった先を見つめ続けて早5分が経ち、10分経ち、20分過ぎると斎藤に不安がよぎった。入口で警備員に事情を話して入館し、事務所のあるフロアまで行き、USBメモリを取って帰る。まだ事務所に人がいて、立ち話している可能性はある。まだ20分だ、遅すぎるとは言えない。けれど、不安という黒い一滴が波紋と共にじわりじわり斎藤の胸に広がっていく。
こう見えて、斎藤は自身の直感を大切にする質だった。急いで近くの駐車場に車を置き、関係者入口へと走った。シルバーの戸を引き開けて、すぐ左手にあるガラス張りの警備室を覗いてみるが誰もいない。可笑しい、複数のオフィスや弁護士事務所が入るビルの警備室に警備員のひとりもいないなんて考えられない。
これは緊急避難、この場合は許されるだろうと判断し、斎藤は警備室へ。そして更に奥の、おそらくは警備員控室へ飛び入った。
「これは――、」
目の前の光景に驚きつつも落ち着いた斎藤の声が控室に響く。彼の予想では、警備員が縛り上げられていたり、殴られて出血していたり、最悪殺害されている事態を想定していたが、安らかな顔ですやすや眠る中年男性2人に少々肩透かしを喰らった。次いで、胸を撫で下ろす。
危害を加えられた様子はないし、争った痕跡もない。ただ、テーブルに空のカップが2つ置かれているのが気になった。ああ、飲み物に混ぜられた睡眠薬で眠らされている、斎藤はそう直感した。20分程度で実行は不可なので、さすがに憩の仕業ではないだろう。
気がかりなのは憩の安否だ。彼女はこの状況をどう捉えただろうか。警備員がいなくても気にせず、忘れ物を取りに行くだけだから問題ないとセキュリティをすり抜けてフロアに上がったのだろうか。
憩に連絡するため取り出したスマートフォンがタイミングよく振動する。ディスプレイには『憩さん』と表示されている。急いでタップし、耳に当てる。
『斎藤さん、遅くなってごめんね。今どこ?』
「警備室前にいます」
『だよね。申し訳ないんだけど、事務所の7階まで上がって来てもらえる?』
「分かった。電話切らないで、事情を話してくれる?」
『うん。守衛さん誰もいなくて驚いてね、だから控室に行ったら寝ちゃってて。様子が可笑しいからとりあえず事務所まで行ってみたの』
「どうしてそこで僕を呼んだり、警察に連絡しないの?」
『まあ、好奇心ってやつだね』
返事になっているようでなっていない、いつもの斜め上の回答に今日ばかりはイラっとする。いや、イラっとすることは多々あるが、惚れた弱みで流してきただけ。でも、もし、その有り余る好奇心とやらがトラブルに引き寄せたらどうするのか。あなたはこれまで苦労の多い人生をたくさん送ってきたのだから、自ら台風に飛び込むような真似はしてほしくない。けれど斎藤がいくら憩の身を案じても、彼女はちっともいうことを聞いてくれないのだ。
『そうしたらね、事務所の廊下で怪しい動きをしている守衛さんを見つけて、声を掛けたら逃げ出したから、とっ捕まえてみたんだ。そしたら女性だったんだよ。それで今、事務所のオフィスで監禁してる。だから早く来て』
なぜそういう展開になるんだ。7階のボタンを押しながら、斎藤は天を仰いだ。なおも憩は続ける。
『それで、この人さん、ビルに爆弾しかけたとか言ってるんだよ。どうしたらいいと思う?』
「・・・普通に、警察に通報すべきでは?してはいけないと言われているの?」
『言われてない。じゃあ、斎藤さん通報しておいて。今話したのでだいたい全部だから』
「僕が、通報するの?」
『うん。私は説得してみる。じゃあ、よろしくね』
ブツッ。電話は切られた。
ああ、神よ。斎藤は仰々しく心の中で呟いて、再び天を仰いだ。仰いだ先には無論、天井しかないわけだが、有名企業や弁護士事務所が入るビルのエレベーターだけあって、鏡張り仕様で天井にすら高級感がある。天に映るのは、斎藤の困り顔だけ。軽く息を吐くと、斎藤はスマートフォンを持ち直し、画面に人差し指をかけた。




