帰らない蛙(二)
「なにニヤニヤしてるの?」
突如、聞き間違えるはずのない美しい声が耳に届いて、今日はやはりいい日なのだと確信する。ああ、この声はノエミさんだ。声に導かれて顔を上げると、やはりそこには彼女がいた。
ノエミさんは基本的に着飾らない。今日も茶髪の長い髪を一本に結わえて、細身のジーンズに黒いティーシャツのラフな恰好をしている。シンプルだからこそスタイルのよさが際立ち、下手に着飾るよりも目立つ。新宿という大都会の中でも彼女は埋没せずに光を放っている。
「ああ、やっぱりもう閉店しちゃってたか。朔君は買えたんだね。運が良いね、人気なんだよ、ケーキもパンも」
「ああ、うん、運は良かったかも、色々と」
「佐藤さんのこと、何か聞けた?」
そこで、本来の目的を思い出した。にやりと意地悪気に笑うノエミさんに見惚れつつ、頭の中で言い訳をアレコレ製造するが、彼女に失望されない回答が流れてこない。『気の利く言い回しが出来るようになる本』だの『人を惹きつける会話術』だの読み込んでも現実はこうだ。
告白を何度も断っているのに諦めず、挙句、好きな人の情報を聞きつけて相手を調査しに来た俺をノエミさんは嫌いになっただろうか。気色悪く思ったろうか。これは最早ストーカーと同じではないか。妹や友人が同じ目に遭っていたら相手の男に不快感を持つだろうし、そんな人間と付き合うのはやめておけと注意もする。たまたま店を見つけて寄っただけと嘘を吐こうか?でも、俺の表情筋はあまりに正直者で、ポーカーフェイスというものを作れない。声だって裏返って、視線だって泳いで、誰が見たって俺は好きな人の好きな人を調査しにやって来た情けない男だった。
「その、ひょんなことから佐藤さんを知ってしまって、色々あってどうしても気になって来てしまいました。でもこれといって何も収穫はなくて、あ、いや、ケーキが飛ぶように売れる売れっ子で、店舗拡大も狙えるのにしない奥ゆかしい人物という情報を得たけど、それだけで!でも、こうやってこそこそ聞き回るような真似して、本当、気持ち悪いと我ながら今思いました、もう二度としません!ごめんなさい!」
「ふふ、あはは!」
「わ、笑うところかな?」
「大丈夫、朔君に悪意がないのは分かってるから。私は気にしてないよ」
緩むその表情に嫌悪の色が感じ取れなくて安心したけれど、俺の行動を少しも気に留められていないのもそれはそれで悲しい。
今日、ノエミさんの店は定休日で、用事を済ませてダメ元で寄ってみたらやはり閉店していて、代わりに俺を見つけたのだと言う。
それならばこれを。俺はケーキの入った袋を迷わず差し出す。
「え、いいの?」
「うん。ご存じの通り、作ってる人に興味があったからね」
「正直者だね」
「いいよいいよ、無理して褒めないで」
「正直者は馬鹿を見る」
「確かに。俺、馬鹿だもんなぁ」
「あはは、意味違うでしょ」
彼女は袋を受け取り、開いて中を覗き込む。視線の先にあるのは箱だけで、ケーキ自体は見えないのに顔はほころび、嬉しそう。けれど、眼差しに切なさを見てしまうのは、俺の気にせいではないと思う。今、俺の胸も痛いが、ノエミさんも同様の痛みを感じているはず。
「この後時間ある?よかったら一緒に食べようよ」
有難い申し出だった。この後の予定もない。
再びケーキの袋を受け取り、並んで歩き出す。すぐに彼女の方から話をしてくれた。ノエミさんにとって、本当なら一番したくない話題のはずだが、彼女は落ち着いている。
「私が父親に夜の店で働かされてて、そこを逃げ出した時に匿ってくれたのが佐藤さんだったの。ドラマかって話だけど、本当なんだよ。追いかけられていた時に佐藤さんとぶつかって、店に引っ張り入れて守ってくれたんだ。それからケーキと紅茶を出してくれて、その日は店で寝かせてくれた。次の日には松下さんに繋いでくれて、ようやく地獄から抜け出せた。「たまにうちへケーキを食べに来てください。お金は取りませんから」って言ってくれた。ね?こんなの、好きにならない人いないでしょ?だから私は、自分を助けてくれたヒーローに恋しているだけで、佐藤さん自身を愛してるわけじゃないのかもしれない」
「そんなことないよ、佐藤さんのその行動は誰にでもできることじゃない。とても勇敢で優しい人だ。ノエミさんは彼の人柄に惹かれたんだから、それは間違いなく恋だし、愛だよ」
「もう、朔君はどっちの味方なの?」
「いや、そりゃノエミさんだけどさ、気持ちを無理に否定したり、自分を偽る必要はないよ。あ、アンチクトンに行ってみる?もしかしたら帰ってるかもよ?店舗の2階に住居があるって松下さん言ってたし」
「佐藤さんはもう帰ってこないよ」
もう帰ってこない、とはどういう意味だろうか。喫茶店営業はせずに現在のような販売形態に変える、ということだろうか。
ヒールを履いている彼女と俺の身長差はほぼ無くて、目線は同じ。ちらりとその横顔を覗くと、やはり予想通りノエミさんは物憂げ。恋心を自ら否定しても、慕う気持ちは胸から出て行ってはくれない。叶わぬ想いというものはずっと胸に残り続けるのだろうか。時が経てば薄まるのか、別の恋をすれば消えるのか俺には分からない。
俺だって初恋を経験し、中学2年で初めて彼女も出来たし(高校入学と共に自然消滅した。)、高校でもお調子者が功を奏してそれなりにモテたし、大学では年上の彼女もいた。(彼女の就職と共に別れた。フラれた。)けれど、ノエミさんに片思いをしてみると、歳並みにあると思っていた恋愛経験は役に立たず、全てがリセットされてしまった。好きになって欲しいけれど、何を言えば、何をすれば好かれるのか、どういう経緯を経て恋人同士になるのか思い出せない。どうしたらいいか分からない。妹を含め俺の周囲が色恋事に一途な人間が多すぎるのも一因かもしれない。影響を受け過ぎたのだ。
佐藤さんはもう帰ってこない、という言葉の意図を問う前に、再び彼女の方から説明してくれた。
「アンチクトンの店先にね、カエルの置物が置いてあるの。閉店している時は店内のガラス戸越しに見える位置にいて、あの子はあの店のマスコットだった。チクトン君って言うんだよ。でね、6年前に1年くらい休業している時期があったけど、その時もチクトン君はいた。でも、今回は・・・」
「いないの?」
「うん。だから、もう帰らないってこと」
カエルがいないから、帰らない。それだけで決め付けるのは早計ではないかと思う一方、彼を見続けてきたノエミさんが言うのだからそれは真実なのかもしれない。
彼女はさらに話を続ける。
「きっと、チクトン君は佐藤さんと一緒に好きな人のところへ行っちゃったんだよ」
「佐藤さん彼女いるの?」
「彼女かどうか分からないけど、特別な人はいるだろうね。佐藤さんが長く休むのはその人絡みだと踏んでる。女の感」
「誰?知ってる人?」
「知り合いとかじゃないけど、知ってるし、たぶん会ったことある。有名な人だから」
会ったことがある、の前に「たぶん」が付くのが不思議だったが、すれ違った程度だからそういう言い回しをしたのだと判断して、その人物について尋ねる。俺の知り得る人物であるはずないのに、反射的に相手は誰かと聞いてしまった。
この時点で『斎藤=佐藤説』の妄想推理はすっかり抜け落ちており、ノエミさんの返事を真っさらな気持ちで待った。「塩田憩さん。ほら、親子冤罪事件で有名になった弁護士先生」と、彼女の口からよく知る名前が出て、時が一瞬止まった。妄想推理もぶわっと蘇る。
道すがらの会話で助かった。向かい合って会話をしていたらバレていた。今、俺の顔は驚きに満ちていている。「何でもない」は通用しないほどに。
俺と憩ちゃんが友人であることを、ノエミさんや松下さん達に喋ってはない。妹もノエミさんと直接的な面識はない。だから憩ちゃんとの繋がりをノエミさんが知っているはずはないのだが、後ろめたさから頬が引き攣る。
じゃあなんだ、やはり斎藤さんは佐藤さんなのか?なぜ変装してる?微妙な偽名の真相は?いや、変装はいつものことなのか?趣味か?ノエミさんはそのことを知ってる?ノエミさんはいつ憩ちゃんと会ったんだ?憩ちゃんはアンチクトンに来たことがある?いや、そもそも憩ちゃんは斎藤が佐藤と承知しているのか?それなら、なぜ――。
いくつもの疑問が水面に出ては沈んでいく。どれを一番に救い上げていいか選べず、手がなかなか伸びない。
そうこうしている内にノエミさんが疑問のひとつを救い上げてくれた。
「佐藤さんと出会って少し経った頃に店に行ったら、カウンター席に女の子が座っていたの。大人っぽい印象を受けたけど、まだ中学生くらいだったんじゃないかな。カウンターは5席あるんだけど、その日はなぜか6席あって、一番入口から遠い6席目に彼女が座ってた。あの席が一番、互いの姿を確認しやすいから。特に2人が会話してる様子もないし、目線を交わし合っているとか、そういうんじゃないんだよ。たけど、同じ空間にいて同じ時間を共有しているのはなんとなく分かった。でね、今思うと、その女の子は塩田憩さんだったと思う。・・・ロリコンだって?ないない、佐藤さんはそういうタイプじゃないね。もし恋人同士になったとしてもそれは彼女がもう少し大人になってからだよ。塩田さんが今いくつだろ、28歳?なら4歳差か。全然ありでしょ。いや、直感で分かるよ、佐藤さんはロリコンじゃないって。・・・あはは、生き別れの兄妹説?無くはないかもね、考えたこともなかった。朔君、やっぱり面白いね。ああ、彼女だと断定した理由はそれだけじゃないよ?松下さんがトラブルに巻き込まれた時にさ、佐藤さんが弁護士事務所を紹介してくれたらしいんだけど、憩さんが所属する事務所だったの。松下さんは塩田さんと佐藤さんの関係には気づいてないんじゃないかなぁ。・・・それでね、新聞に塩田さんの記事が載った時ね、それを読んでる佐藤さんを見ちゃったんだけど、表情がさ、普段とまるで違うの、放つオーラからして違うんだよ。全てが優しいの。そんなに笑う人じゃないのに、まるでふわーって花が開くみたいな笑顔なの。普段使っている表情筋じゃなくてさ、別の筋肉が動くの、だから表情そのものが変わっちゃう。彼女のマイナスな記事が週刊誌に載ったりしたら、ぶすっとしてずっと怒ってる。隠しているつもりなんだろうけど、分かり易くて笑っちゃうくらいだった。まあ、あんなに凄い人なら佐藤さんが好きになるのもしょうがないよねぇ。・・・え?彼女を見たのは10年以上前に2回くらいかな。私がそんな頻繁にお店に行けないから知らないだけだろうけど。・・・あー、うん、常連は常連だけど、通い詰めるなんて出来ないよ。だって、「あなたからはお金は受け取りません」なんて言われたらさ、逆に遠慮するでしょ?本当に受け取ってくれないし、何回も通えるわけない。だから、すぐ気づいたよ、佐藤さんが言ってくれた「お金は取りませんから」の本当の意味。あれは優しさじゃなくて、ただの親切だった。最初から、一線引かれていたんだって」
「・・・もっと図々しく通えばよかったのに」
「あはは、そうだね。言葉の意味が分からないうちにもっと通えばよかった。でも、気づいちゃったから」
知らぬ内に一線が引かれていて、気づいた時にはもう遅い。あっという間に線が割れて、広がって、谷になって、渡る術はもうない。あっちに飛び込みたかったのなら、線に気付く前にするべきだった。勇気を持って、退路を断って、飛び出すべきだった。
憩ちゃんはそれが出来たから、あっち側に行けたのだろうか。ノエミさんの切ない横顔を見ながら、不謹慎ながら思ってしまった。ああ、憩ちゃんなら飛べたろうな、とも。落ちたらどうしよう、無事渡れてもあっち側で上手くやれなかったらどうしよう。そんな不安を軽く鼻で笑って、「落ちたら死ぬだけ、幽霊にでもなります。あっちで彼と上手くやれなくても、私はひとり楽しく生きていけます」と、事もなげに言うのだろうな。
さて、どうしたものか。ノエミさんに『斎藤=佐藤説』含め、全て打ち明けてみようか。自分の妄想推理を証明したい気持ちも手伝い、口が動きかけたが、声が出る寸での所で「幸せになってくれたらいいなぁ」と、独り言のような呟きが耳に届いて、思わず押し黙る。
幸せになってくれたらいいなぁ。シンプルなその願いには、温度を感じるほどの愛情が籠もっている。そして、そっとしておいてあげたい、彼らの邪魔はしたくない、自分は彼を追わない、そういった気遣いも混じっているように感じられる。
憩ちゃんも素敵な女性だけれど、ノエミさんだって負けていない。こんな心の美しい人に愛されて、佐藤さんは幸せ者だ。
きっと、佐藤さんは斎藤さんなのだろう。身分を詐称し、変装もするが、きっとそれは誰かを陥れたり騙したりする目的ではなく、のっぴきならない事情から仕方なくしていることで、彼らが同じ空間で同じ時間を共有するために必要な手段なのかもしれない。
俺の中にあった妄想推理は、ノエミさんの愛の熱によってゆっくり溶かされていく。彼への疑念までは消えない。それでも、水面に浮かんできた『黙って見守る』という選択肢を、俺は救い上げることにした。
叶わない恋だったけれど、ノエミさんの彼への愛は確かにこの世に存在していて、俺はその愛の影響を大きく受けた。彼らの平穏は、この人の愛によって守られたのだと証明するため、俺は口を噤むのだ。
「よし、今日はやけ食いだ。全部食べてやりましょう!」
その曇り顔を少しでも晴らしたくて、ずっしり重いケーキの袋を持ち上げながら努めて明るく宣言すると、ノエミさんは眩い笑顔で頷いてくれた。




