第十三話 帰らない蛙
ブーランジェリー・トチノミの扉を開けたのは、金曜日の夕方5時を少し回ったところだった。
この日、出版社との打ち合わせで新宿に来ていたので、ついでに佐藤さんのケーキが販売されているというブーランジェリーへ行くつもりだった。佐藤さんの作るケーキは人気だと松下さんから聞いていたので出来れば早い時間帯に来たかったが、打ち合わせという名の雑談が思ったより長引き、気づけばもう辺りは薄暗い。
トチノミに佐藤さんがいるわけじゃない。それでもなぜか緊張して、店の前を一度素通りしてしまう。そう、俺、三屋朔はビビりなのだ。好きな人の好きな人が作るお菓子が並ぶ場所へ行く勇気すら、気合を入れなければ出ない。しかも、佐藤さん=斎藤さん説もあり、心臓は緊張と期待から変な高鳴り方をしている。自分ではなく、友人が舞台へ立つのを見守るような、当事者でないからこそ感じる歯痒い緊張感だった。こんなんで三屋書店の跡取りになれるのか不安だが、それはまた別の話だ。今は、とりあえずトチノミへ入る。プリンを購入する。出来れば、店主さんに佐藤さんの聞き込みをする。どんな人が作っているのか、今どこにいるのか、それとなく不審がられない程度に。
カラン、カラン。
木製の扉を開けると同時に鈴の音が出迎えてくれ、次にパンのいい匂いが鼻をくすぐる。ああ、パン屋の匂いだ。近所にも人気のパン屋は複数あって、店の前を通るたびにその香しさに心惹かれてきたが、ここのパンは甘く柔らかいバターの香りではなく、焦げ臭さの混じった強い小麦の香りがする。夕方だからか、数種類のパンがちらほらあるのみ。カンパーニュ、バケッド、ライ麦食パン。焼いたままの状態で、クリームとフルーツたっぷりのデザートパンや、これでもかと具が挟まったサンドイッチもなく、どれも素朴だ。(もっと早い時間に来れば違ったのかもしれない。)
「いらっしゃいませ」と、元気のいい声をかけられ、慌ててパンから視線を上げる。
「すいませんね、もうあまり残ってなくて。もう閉店近いんで、お安くしときますから」
もじゃもじゃ頭の店主は弾むような声音を響かせ、愛想の良い笑顔を向けてくれる。話しやすい雰囲気を全身から放つ人の良さそうな店主に一気に緊張が消え去る。本来の目的も忘れ、気づけば俺は残っているパンを全て買うことになっていた。「じゃ、じゃあ、せっかくだから全部いただきます」と、口が勝手に動いていたのだ。流されがちな妹にいつも偉そうに注意するが、俺だってこうして過剰に空気を読んでしまう。でもまあ、パンは美味そうだし、冷凍も出来るし、家族も食べるだろうし、全て買っても2千円しないのだからいいだろう。パンを袋詰めしながら店主は「ありがとうございます。助かります」と、嬉しそう。
3階建ての小さなビル一階にある店の店内は8畳ほどの小ささで、野性的なパンたちが並ぶにしては少し不釣り合いだと感じた。店主が出てきた暖簾の先にパンを焼く窯や作業場があるとはスペース的に思えない。
俺の心情はそんなに読みやすいのか、店主は簡潔に教えてくれた。
「ここで焼いてないんですよ。しかも作ってるのは俺じゃなくて、友達。奥多摩で煙をモクモクにして焼いて、朝こっちに運んできてくれるんです。あともうちょっと早かったら美味しいケーキもあったんですけどね。あ、それも俺が作ってるわけじゃないんですけど」
「佐藤さんの!?」
レジ下にある空のガラスケースを指しながら事情を親切に話してくれる店主には悪いが、本来の目的を思い出した俺は会話をぶち切り、それとなく不審がられない程度に聞くはずだった人物の名前を大声で叫んでしまった。今更口を押えても意味はないが、流れるように右手は口元を隠す。
初めてやってきた怪しい客に対して、店主は訝しむことなく「あ、佐藤さんを知っているんですね。お店に行かれたことがあるんですか?」と、笑顔だ。
「いや、行ったことはないんですけど、行きたいと思っていた矢先にお休みされたと聞きまして。けど、ケーキがこちらに置かれていると教えてもらったので来ました」
「あー、じゃあ、なおさら残念!売り切れちゃったんです。人気だからなぁ、佐藤さんのケーキ。あんまり広告打ったりするの好きじゃないからこっそり売ってますけどね、アピールしたら店舗拡大できるよって俺いつも言ってるんですよ、でも頑な性格してるから」
お喋りな店主に救われる思いがする。これならもっと情報を貰えるかもしれない。今どこにいるのか、いつ店を再開するのか、それから、それから――。
カラン、カラン。
もたついている内に他の客が来てしまった。それもどうやら店主とは親しい仲のようで、店主は「ああ、待ってたよ。今持ってくるね」と、俺に一礼して暖簾奥に引っ込んでしまう。
やって来た客は30代後半から40代前半くらいの細身でやや童顔のイケオジだった。いや、まだイケメンで通る。誰かに似ているな、思い出せないけど。頭の中で、知り合いから芸能人まで該当しそうな人間を思い浮かべるが駄目だった。けれど、暖簾奥から店主が箱の入ったビニール袋を提げて再登場し、「山田君、このケーキ2つくらいこのお客さんに分けてもいい?」と、頼んでもいない気遣いをみせ、「はあ?なんだそれ。それじゃ予約の意味ないだろ」「いいじゃん、また買いに来てよ」との問答に居た堪れなくなり「い、いや申し訳ないですよ、俺がまた買いに来ますから!」と、申し出を断ると「ほら、こう言ってるんだからまた買いに来てもらえよ」「えー、心狭いなぁ。お客さんは神様でしょ」「古いな、もうそんな時代じゃないだろう」などのやり取りを経て、この客の正体にやっと思い至った。
小説家の、山田無量だ!
メディア露出せず、サイン会もここ10年はやっていないからすぐ顔を思い出せなかったが、間違いなくこの人は山田無量先生に違いない。
「や、山田無量先生!」
「あれ、よく分かりましたね。もうサイン会とかもしてないんでしょ?」
「おい」
思わず叫ぶ俺と、叫びを肯定してくれる店主と、店主を睨む山田先生。パンもケーキも佐藤も斎藤も頭から吹っ飛び、関心は目の前にいるこの山田先生のみに集中。なぜなら俺は山田無量先生の大ファンだからだ。10年前のサイン会にも参加したし、三屋書店では先生の本を一番いい箇所に配置している。サスペンスミステリーや社会風刺の強い作品を主に執筆されているが、最近は絵本の脚本やSFにも挑戦されている。
「俺、先生の、ファンで!お会いできて光栄です!」
「ああ、それはどうも」
「10年前のサイン会でサインしてもらった本もうちの本屋に飾っています!」
「うちの本屋?書店を経営してるのか」
「はい。祖父の代からですが、世田谷で」
捨ててくれて構わないので、と前置いて懐から名刺を取り出して差し出すと、意外にも礼をいいながら受け取ってくれた。
「きみ、三屋書店の跡取り息子か」
「え!あっ、はい!」
「流行りに流されすぎずに古い書籍や専門書の種類も豊富、いい本屋だと思っていた。おじいさんの想いを受け継ぎ、これからも変わらずに経営していってくれ」
ちゃんと先生のお言葉は聞こえているし、どうやら褒められているらしいことも理解しているが、感激を通し越して感情が無の境地まで到達していくのが分かる。
嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい。三屋書店らしさを失わず、先生に認めてもらえるようもっと仕事を頑張ろう。ようやく感情が活発さを取り戻したのは、トチノミを出てから。俺が店を出るまでの間、店主と山田先生が以下のような会話をしていた気もするが、夢心地すぎて記憶が定かでない。
「じゃあ、山田君、お客さんのパンとケーキを交換してさしあげてよ」
「なんでだよ」
「いいじゃん、山田君のお客さんでもあるんだよ。ケーキはまた明日取り置いておくから」
「本当にお前はいつも自由だな」
「ココでは僕がルールですから。それに、お客さんは最初から佐藤さんのケーキを買いたかったみたいなんだよ」
「・・・いいよ、わかった。でもそんなには食わんから、バゲットだけでいい。あとは、青年、お前に全部やる」
でも現に、俺の右手には白い箱の入ったビニール袋、左手にはパンの入ったビニール袋がぶら下げている。あれちょっと待て、俺、2千円しか払ってなくないか?これはちょっとした強盗だぞ。追加料金を払わねばと慌てて店の方を振り返るが、既に店内の灯りは消え、内側からカーテンが引かれている。
早いな!行動が!先生との邂逅も驚きだったが、店主もなかなか印象深い人だった。今日はいい日かもしれないな。




