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君の手のひらで踊りたい。  作者: 田邑綾馬
第Ⅰ章 起

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生きる目的(二)

「父親が死んで、住む家も環境も変わって、母親までいなくなったのに、あの子は気丈だった。「お母さんも大変だから、辛いからしょうがない」、そう言うだけ。動揺したり、泣いたり、不安がったりしない。「すぐお友達作れるし、都会の学校に行きたかったから楽しみ」って私を気遣う余裕まであった。だから私、不安になったの。もしかしたら、憩は、息子夫婦に虐待されていたんじゃないかって」

「ま、まさか!」

「だから親がいなくなって、環境が変わったことに逆に安堵したんじゃないかって。自分を守るために強くなるしかなかった、しっかりするしかなかった。じゃないと、生きてこれなかった」

「ち、違いますよね?勘違いだったんですよね?」

「・・・そうね。あの頃、色々調べたのよ、昔の伝手を頼って小児精神科医の先生を尋ねて事情をお話して、わたしの友人と嘘を吐いて憩に会わせた。カウンセリングもしてもらった。結果、”年の割に落ち着いているだけ、それがこの子の性格”ということで終わった。群馬の学校にも行って、先生や近所の人から話も聞いた。あの子の日記をこっそり盗み見たこともあるけど、それらしい内容はなかった」


 良かった。けい君や三咲みさきさんが憩ちゃんを虐待していた、そんな事実はどこにもない。心から安堵した。知らず知らずのうちに全身に力が入っていたようで、虐待が否定されると一気に力が抜けて、体内から不要な空気が抜けていく。感情的に喋り続けていたせいか、咳き込みながら苦しそうに肩を上下させる絹さんの背中を摩る。骨ばって、薄い背中だった。


 日記をこっそり見た、という告白には少々驚いた。絹さんは一人息子の恵君にも放任的で、やりたいことを自由にやらせ、勉強も運動も強制しなかった。大学進学も彼の意思を尊重した。最初は父親と同じ教師を目指して進学したが、途中から学部を変更して弁護士を目指したいと言い出してもそれを否定しなかった。恵の人生は恵のものだから、と。そういう人だったから、いくら孫とはいえプライバシーの塊である日記を盗み見たというのが意外ではあった。が、やはり孫で、女の子で、さらに虐待疑惑まで加われば行動も変わってくるは必然だと自分を納得させる。

 話はまだ続いた。


「あの先生のおっしゃる通りなら、親が死んでも消えても、取り巻く環境が変わっても、姉妹のいないあの子が幼い子の世話を問題なく見れているのも、その忙しない中で給付の奨学金を勝ち取ることも、今まさに唯一の保護者を失いそうになっても滞りなく生活しているのも全て、あの子がしっかりしているから出来ているってことよね?・・・しっかりしているって、便利な言葉よね」


 何が言いたいのか、いまいちピンと来ない。絹さんは耄碌もうろくしているわけではない。瞳は真剣だ。焦っているようにも見える。いや、焦っているのは間違いない。だって、彼女は遠くない未来、ここにいない。自分がいなくなる前に、彼女は私に何かを伝え残したいのだ。これは言わば遺言で、私はその言葉の一言一句から、表情や挙動さえ正確に記憶しなければならない。記憶しておきたい。なのに、私の理解力が足りなくて、未だ脳内は混乱している。


「それでいて、あの子はちゃんと遊ぶのよ。お友達も沢山いて、ちゃんと年頃の青春を経験している。こんな素敵な恋人もいて・・・」

「それはとても良いことじゃないですか」

「そうね、でも私には絶対に真似出来ない。あの子は偏らないのよ。勉強も子育ても遊びも、全てバランスがよく、過不足がない。普通はどれかに手いっぱいになるものよ」


 でも、それは憩ちゃんだから。それが憩ちゃんだから。・・・いや、どれが憩ちゃんだ?何が彼女らしさとはなんだ?絹さんの言う通り、全てそつなくこなす有能さ?良いことじゃないか。孫が有能で、優秀で、何が悪いのか。なぜそんなにも辛そうに顔を歪めるのか、私には分からない。「まるで、演じているみたい。塩田憩という人間を」とまで言うものだから、ますます気持ちが分からない。いいじゃないですか、演じているみたいに完璧な人間だって。何でも出来る何者にもなれる孫だと自慢してください。憩ちゃんはそういう人間なんですよ、選ばれた人間なんです。いや、相応の努力を重ねてきたんです、裏付けされた実力なんです、不安に思うことなんて一つもないんです。あなたはちゃんと憩ちゃんを守ってきた、慈しんで育ててきた。

 

 私の必死の励ましはあまり意味がないようだ。絹さんの中で、「あの子にとって、私達はきっと観客で、仕事相手みたいなものよ。そして、佐藤さんは仕事仲間で、憩のプライベートを知る人間」と、答えは決まっているらしい。その誤った答えを覆すのは私では不可能。


「たとえ一人でもいいから、憩が本心を話せる相手がいてくれたらと願っていた。だから、佐藤さんがいてくれて良かったと心から安心したの。・・・でも、逆だったとしたら、どうしよう」

「逆?」

「佐藤さんが、憩のしっかりし過ぎている理由だとしたら、どうしよう」


 口に出した瞬間、とうとう涙が瞳から零れ落ちる。そこからは、堰を切ったように本心が溢れる。子供のように泣きじゃくって、不安をぶちまけた。


 ――私は、本当のあの子を見つけてあげることが出来なかった。何を考えて、何を想って、何を秘めていたのか、知ることが出来なかった。強くなるしかなかった理由が知りたかった。憩にとって、私は心を打ち明けるに値しない存在だった。打ち明けるには頼りない祖母だった。そんな私の言うことを、憩は絶対に聞かない。影響力がない。そういう関係性にしてしまった。憩から彼を遠ざける力は、私にはない。佐藤さんはきっともう私の前には表れない。住んでいる場所も職場も、私に教えてくれた情報は嘘だと思う、だって千三つだもの。この写真も消してしまうかもしれない。だからお願い、あなたが保存しておいて。現像して、私の柩に入れて頂戴。あの世で、神様にお願いするから。この人が憩の幸せを奪う悪い人なら遠ざけてって。あの子を守ってって。・・・もう、こんなことしかしてあげられない。


「真子、お願い、あの子を見守ってあげて。もし、私の心配が当たるようなことが起こったら、あの子を守ってあげて。こんなこと、あなたにしか頼めないの、ごめんなさい」


 尋常ならざる話と、温かい病室のせいで全身びっしょり汗をかいている。

 神頼みは嫌いだと、現実主義者の絹さんは言っていたのに、孫のためなら考えも変わるのか。こんなにも想われて憩ちゃんが少し羨ましいが、このちっぽけな嫉妬心など、たちまちかき消されてしまうほど重い責任に慄いていた。


 見守る、守る?あの憩ちゃんを私が?この男が憩ちゃんに害を仇成す者だった場合は私が引き離す。出来るだろうか、そんなこと。浮かぶ憩ちゃんの姿はまるで勇者のようで、聖女のようで、佐藤さんはさながら魔王で、平民の私がどうこうできる存在ではないように思える。絹さんとの一連の会話を経て、憩ちゃん達の階級はそれほどまでに上がってしまった。


 現実、絹さんの死後も憩ちゃんは変わらずしっかり者であり続け、父親と同じ弁護士になり、あの有名な親子冤罪を担当して無実を証明した。仕事も順調だが、もちろん子供達の養育も疎かにしない。3姉弟も今や青春真っ盛りの高校2年生と大学一年生。これからもお金がかかるからバリバリ働くのだと肩を回しながら笑う憩ちゃんは頼もしかった。


 絹さんの死後、この8年の間に憩ちゃんの身に起きたトラブルといったトラブルは大きく2つ。1つは、彼女が21歳の時だ。建設現場の足場一部が落下し、衝突する事故に遭遇したが、一時意識不明の重体となったものの奇跡的な回復をみせて短期入院で済んだ。2つ目は、26歳の時のストーカー事件だ。所属する弁護士事務所へ相談にきていた顧客が一方的な思いを募らせ、断られると付きまとい、最終的にはナイフを用いて脅して逮捕。よく弁護士をストーカーする気になったものだと世間を呆れさせた。

 

 九死に一生であることは間違いないが、いずれも強運なのか、日ごろの行いが良いのか大事に至らず済んでいる。他に週刊誌に撮られるなどしたが、これはカウントに入れなくていいだろう。

 やっぱり憩ちゃんは『ただの有能な人間』なのだ。器用で、要領のいい天才肌。それだけだ。絹さんが心配するような展開にはならない。あれは杞憂に終わったのだ。憩ちゃんが幼少期に何か闇を抱えてしまったのではないかと、佐藤さんがその闇に関係しているのではないかと憂いていたが、愛する孫を想うあまり考え過ぎてしまっただけ。あれから佐藤さんのさの字も、気配もない。若い頃の恋愛だ、お別れしたのかもしれない。憩ちゃんであればまたすぐ素敵な人と出会える。ロマンチックな出会い方をして、ゆっくり愛を育んで、幸せな結婚をして欲しい。そこまでは何としても見届けたいし、生きていなくては。

 

 でも、あれはなんだったんだろう。ふと、絹さんとの病室でのやり取りを思い出す。


 ――「佐藤さんは、千三つなんだよ。でも、それはもうどうでもいいの、佐藤さんは私に生きる目的をくれた。心から感謝してる。その目的がね、もうすぐ叶うんだよ」


 憩ちゃんの言う、生きる目的とはなんだったのか。その目的は既に叶っているのか。あの日の病院での会話は一生誰にも話さないと決めているので、この疑問を夫にも共有することができず歯痒いが、まあ仕方がない。

 

 しかし、2025年の1月半ば、変化は唐突に起きた。いつものようにお裾分けを届けにきてくれた千叶ちゃんが内緒話でもするみたいに小声で囁いた。


「あのね、今度から家に憩ちゃんの友達が住むんだ。憩ちゃん達は友達って言うけど、たぶん彼氏だと思う。そっと静かに暮らしてほしいから、真子さん達には事前に言っとくね」


 その囁きによって、状況は一瞬にして変わってしまった。その時が来た、ついに来た。心の何処かで親愛なる絹さんの叫びにも似た訴えを信じていた。人の感情の機微に敏い彼女が、一番身近にいる孫について、的外れな心配などするわけがない。孫の本心を、抱える闇の正体を、当たらずといえども遠からず見つけていたはずなのだ。

 「へえ、ついに憩ちゃんにも彼氏がねえ」と喜ぶ暢気な旦那が羨ましい。指先や足先はどんどん冷えて、私の顔は真っ青だろう。


「その人、なんて名前?」


 声を絞り出した。自分でも声に動揺が混じっているのが分かる。


斎藤未来さいとうみらいさんって言うの。第一印象はこう、冴えないなぁ、ちょっとダサいなぁとか思っちゃったんだけど、穏やかで優しい人だよ!私達のこともすごく気遣ってくれるし、料理も上手で、この間も――」


 斎藤未来?佐藤未来じゃなくて?それに、冴えない?千叶ちゃんが帰ったあとで現像した写真を急いで箪笥から引っ張り出して見てみるが、当時抱いた印象のまま、佐藤さんは雰囲気のある美しい男性だ。千叶ちゃん年代のダサい基準を理解できている自信はないが、少なくともこの佐藤さんはダサいに該当しないはず。何しろ、憩ちゃんと並んでも見劣りしないのだから。8年という月日が彼を変えたのだろうか。


 2日後、ゴミ捨てに出ると、件の斎藤未来さんがいた。隣には飛鳥君もいる。ゴミ捨て場とこの地区のルールを指南している様子だった。斎藤さんは私の存在に気付くと、少し緊張の混じる声色で自己紹介と挨拶をしてきた。若干おどおどしている。前評判通り、冴えない印象の男性だった。古臭い型のジャケットと使い込まれた革靴、センスのない柄のネクタイ、多めの前髪と眼鏡のせいで目元が隠されているためか、表情が乏しい印象を受ける。

 あの写真の佐藤さんとは、風貌が似ても似つかない。写真から得られる情報には限りがあるが、それでも服装や佇まい、放たれる雰囲気くらいは読み取れる。この斎藤さんと、写真の佐藤さんはまるで違う。・・・けれど、同一人物だ。雰囲気は異なっても、目鼻立ちや背格好は変えられない。この人は、あえて冴えない人物を演じている佐藤未来さんだ。でも、どうして、そんなことをする必要があるの?普通の会社員が、変装し、微妙な偽名を使い、他人の家に入り込む妥当な訳とはなんだ。

 

 思わず、天を仰いだ。


――「佐藤さんは、千三つなんだよ。でも、それはもうどうでもいいの、佐藤さんは私に生きる目的をくれた。心から感謝してる。その目的がね、もうすぐ叶うんだよ」


 リフレインする。ああ、会いたい、絹さんに会いたいよ。あなたの懸念通りに、もしも本当に、“生きる目的”が、彼女を不幸にするものだったら、私は一体どうすればいいの。どうすれば、憩ちゃんを守れるの。

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