第十一話 生きる目的
「真子、お願い、あの子を見守ってあげて。もし、私の心配が当たるようなことが起こったら、あの子を守ってあげて。こんなこと、あなたにしか頼めないの、ごめんなさい」
病院のベッドの上で、乞うように絹さんは私にそう言った。随分細くなってしまった手を握り返して、何度も頷く。 大丈夫です、憩ちゃん達のことは私が責任を持って守りますから、助けますから。だから、どうか謝らないで。一日でも一秒でも長く生きて、私達と一緒に居てください。
そう強く願っても、神や仏に祈っても、人は死ぬ。憩ちゃんについて、ある相談をしてくれた日から数日後、絹さんは亡くなった。食道がんが見つかり、手術や投薬をして一時回復したが、一年ほど前から入退院を繰り返し、闘病の末に彼女は亡くなった。
私にとって絹さんは、仕事での姉妹関係にあたる先輩というだけでなく実の姉ように慕う大好きな人だったため、悲しみと喪失感は酷かった。嗚咽するほど泣き、食事も喉を取らないほどだった。けれど、悲しみが頂点を迎えるはずの葬式・告別式の間だけは悲しみが少し遠ざかってくれた。なぜなら、かねてより絹さんから聞いていた憩ちゃんの恋人・佐藤未来さんが、この会場に現れるのではないかと、その姿を探していたからだ。そのため、いささか気は紛れた。結果、それらしい人は現れなかったわけだが。
確かあれは憩ちゃんが中学3年生の頃だったと思う。当時から憩ちゃんは目立つ子だったし、私の目から見ても彼女は少女ではなく、大人の女性に近かった。外見云々ではなく、内面が大人びていた。もう恋人がいても驚かない、思ったままを絹さんに伝えると、彼女は渋い顔をした。
「憩ちゃん、そろそろ彼氏とか出来ちゃうんじゃないですか」
「うーん・・・」
「え、もういるんですか?」
「いるような気はするんだけどね、なかなか尻尾を出さないの、あの子」
「まあ、憩ちゃんですもんね」
他の同年代の少女がやれば心配されるようなことをしても、また、突拍子もない行動を取っても、大体は「ああ、憩ちゃんだもんね」で通るほど彼女は特別だった。特別、信頼されている子だった。彼女の行動にはきちんと意味がある。大抵は誰かを助けるためだった。そして、誰かを助けて偉ぶらず、手柄顔ひとつしない。絹さんにとって、彼女は自慢の孫。きっと、お似合いの素敵な人を見つけるだろう。
そしてそれは憩ちゃんの16歳の誕生日前日のこと。絹さんが尻尾を掴む前に、向こうから以下のように宣言されたらしい。
「明日、泊りになるけど心配しないでね。怪しくも危くもない人だから、お祖母ちゃんが心配するようなことは起こらないと約束するよ」
「えっ、それって相手は男性ってこと?」
「うん。ほら、女友達だと嘘吐いたり、黙って泊まると心配させちゃうでしょ。だからちゃんと事前に伝えとくね。あ、ちなみに彼氏とかじゃないよ、友達ね」
思いもよらぬ孫からの先制攻撃に、絹さんはたじろいだと言う。その言い方は、さながら試されているようだった、と。
「だってね、ここで泊りなんて駄目!なんて言ったら、次からは女友達と泊まるって嘘を吐くぞ、無断外泊するぞって脅しているようなものでしょう?わたしの祖母力を試しているわけでしょう。これはもう先手を打たれたって思ったわ!」
「憩ちゃんやりますねぇ」
「そうなの!わたしだって元花街の女だし、その頃にはいい人もいたし、普通のおばあより寛容な方だとは思うけど、やっぱり自分の孫となると駄目ね」
「送り出したんですか?」
「出したわよ!脅されてるし、言って聞くような子じゃないもの。まあ、あの子はしっかりしてるし、危ない人に近づかないとは思うから」
「そうですね。ちゃんとした人とお付き合いしてると思いますよ、憩ちゃんなら。誕生日プレゼントなに貰ったんだろう。お相手は年上の人なんでしょう?名前はなんて?何やってる人ですか?」
「名前は佐藤未来さんだって。歳は4つ年上の20歳で、もう働いてる人らしいの。普通の会社員だって」
「えー、普通の会社員ってところが噓くさい!」
「でしょう!?あの子が言う”普通”は怪しいのよ!そりゃわたしたちにとって20歳はまだ子供みたいなものだけど、普通の成人済み会社員は高校一年生に手は出さないからね。憩だから信用して送り出したけど、普通は通報されても文句言われる筋合いないわ」
「あはは、確かに」
「あとね、プレゼントは高級な紅茶と、ルームフレグランスみたい。ほら、あの子、苦いの嫌いでコーヒーは飲まなくて紅茶専門だし、意外と香りものが好きなの」
「へえ!消え物で勝負してきたかあ。ブランドの財布とかアクセサリーじゃないんですねぇ。良かった!」
「良かったってなによ」
「お相手がちゃんと憩ちゃんを想って贈り物を選ぶ人で。ブランドあげておけば若い子は喜ぶだろうって安易に考える年上もいたじゃないですか」
「あらやだ、真子はブランド物で喜んでいたじゃない」
「そりゃ好きでもない相手からの贈り物ですからね、そこは安易に高価な物が欲しいです」
「あんたは昔から正直ね。そこが真子の良い所」
明け透けなお茶会は楽しかった。芸子を辞めてから踊りの先生をしている絹さんと、その補佐の仕事をしている私達は人生の多くの時間を共有しているが、それでも話題は尽きない。
その話以降、憩ちゃんの外泊が続くことも、佐藤さんの続報もこれと言ってなかった。絹さんも詮索しなかったようだ。そうこうしているうちに千叶ちゃんが現れ、風香・飛鳥の姉弟が加わり、あっという間に塩田家は5人家族となり、生活は一気に賑やかになった。絹さんの忙しさは増えたが、生きがいもまた増えた。私達夫婦も、塩田家から届く賑やかな声や、子供達が焼いたクッキーや絵の贈り物に喜びを感じていた。彼女らの生活を見守ることが、私のいきがいにもなった。この幸せな時間が出来得る限り長く続いて欲しい。心から願った。
けれど、その時はあまりにも早く訪れてしまった。憩ちゃんの大学入学からしばらくして、絹さんにがんが見つかった。2年後、この世を去った。私の幸せが一つ減った。
当時の私は必死になって良い病院を探した。がんに効くとされるものは何でも買った。今考えれば効果などあるはずないと分かるのに、渦中にいる内はどうしても目が曇る。夫には随分心配と迷惑をかけたと思う。対して、憩ちゃんは気丈だった。冷静だった。一日も欠かさず病院に通い、甲斐甲斐しく絹さんの看病をしつつも、子供達のメンタルケア含む世話も卒なくこなし、休まず通学する。体力的に大変そうではあったが、唯一の肉親を失う現実を前に追い詰められている様子はない。それは絹さんが亡くった時も、その後も変わらなかった。悲しみを背負いながらも、彼女は立ち止まることなく日常生活を送り、馴染みの周辺住民の力を借りつつ子供達の面倒を見続け、程よく遊び、大学も無事に卒業した。無事どころか、あれほど忙しい状況下で司法試験に合格した快挙に周囲はざわついた。夫も「さすが憩ちゃんだなあ」と両手を叩いて喜び、近隣の住民も、憩ちゃんの友人達も、3姉弟も驚きはしたが「ああ、憩ちゃんだもんね」と納得していた。どんな願いも実現させる力がある、そう思わせるるほど彼女は強い光を放つ存在だった。
彼女の行く末にはなんの障壁もないのだと思っていた。あの日、絹さんからとある頼まれ事をされるまで。
この入院がおそらく最後、もう家には戻れないだろうと医師から宣告された絹さんは、「そんなこと言われる前から分かっていたわよ。自分の体のことだもの」と、口を尖らせた。随分やつれてしまったけれど、空気が重くならないように、私が泣いてしまわないように気遣ってくれる優しさは変わらない。けれど、表情は暗く浮かない。余命宣告されたからではなく、私へ何か伝えたいことがあるようだ。言いにくい話題なのか、瞳を左右にさ迷わせ、何度か口を小さく開閉する。躊躇いと葛藤の10秒後、「お願いがあるの」と、絹さんは口火を切った。だが、すぐに肩透かしを食らう。
「お願いがあるの」
「はい、なんでも言ってください」
「あのね、昨日ね、佐藤さんがお見舞いに来てくれたの」
「へ?」
「ほら、例の、憩の彼氏さん。当の本人達は友人だなんて言っていたけれどね」
「あ、ああ、そうなんですね。どんな人でした?」
「とても、とても素敵な方だった。直感で思ったのよ、この人は良い人だって。お話してみて、やっぱり良い人だと思ったわ。落ち着いていて、スマートで、話し方も理路整然として、挨拶が遅れたことも謝罪してくれた。わたしのこともすごく心配してくれてね」
言いながら、スマートフォンを差し出してくる。画面には、中央に絹さん、左に憩ちゃん、左には知らぬ男性が微笑んで写っている。話の流れからしてこの男性が憩ちゃんの彼氏兼友人の佐藤未来さんだろう。10代の恋愛など砂の城のように儚いものだ、あっけなく消えてなくなる。だからまだ彼女らの関係が続いていたことに若干驚いた。
初めて見る佐藤未来さんは憩ちゃんと釣り合う美しい男性だった。華美さはないが、自然体な美しさがある。どこか、憂いだとか、艶のような独特の雰囲気を画面越しから感じる。白いシャツと黒いスラックスだけのラフな格好だが、着飾らない方が雰囲気が引き立つ男性だ。歳は憩ちゃんの4つ上のはずだから、26歳くらいだろうか。36歳、20歳と言われても頷いてしまいそうな年齢不詳気味の容貌だが、実年齢よりずっと落ち着いて見えた。
ああ、お願いってことのこと?2人の後見人になってくれということだろうか。それとも、結婚?結婚するから保証人?結婚式は?絹さんに憩ちゃんのウエディングドレスを見せてあげたいからここで、いや近くのチャペルでも貸し切って小さくても式を挙げたい。まだ絹さんが動ける内に、早く。
およそ2秒の間でこれだけの妄想を繰り広げて突っ走ってしまったが、絹さんが語り出したのは私の陳腐な妄想とは全く異なる内容だった。思いもよらない現実だった。
「こんな人が憩のそばにいてくれるなら安心だって思った。心強いなって」
「そうですか、よかった」
「だから思ったままを憩に言ったの。佐藤さんは良い人ね、もっと早く紹介してくれたらよかったのに。あんな人があなたのそばにいてくれるならおばあちゃんは安心よって。そうしたら、あの子、言ったの。「佐藤さんは、千三つなんだよ」って」
「せんみつ・・・」
まず、この時代の若い女の子が千三つという単語を使うことに驚いた。そして、頭の中でじわじわと、千三つの意味と、状況が悪い方へ転がり始めたと理解していく。
日常的に使われる単語ではないが、さすがに意味くらいは知っている。大嘘つきという意味だ。千に三つも本当のことを言わない大噓つき、を指す。
「佐藤さんは、千三つなんだよ。でも、それはもうどうでもいいの、佐藤さんは私に生きる目的をくれた。心から感謝してる。その目的がね、もうすぐ叶うんだよ」
憩ちゃんはそう言って、この部屋で、絹さんのために温かい紅茶を淹れてくれたそうだ。(佐藤さんの手土産のノンカフェインの紅茶。)
『目的がもうすぐ叶う』字面だけならば、それは喜悦と幸福と期待感に満ちている。その目的とやらは昨日今日設定されたものではない上に、憩ちゃんの生きる支えとなっていたようだし、叶うのなら喜ぶべきところだろう。でも、喜べない。絹さんはきっと直感したのだ。その目的が叶うことは、憩ちゃんの幸せにならない、と。だって、語る絹さんの声は震え、顔は蒼白で、呼吸しにくそうに手で胸を押さえて、瞳には涙が溜まり今にも落ちてしまいそう。この上なく、不安そうだ。怯えにも近い。
「あの子はしっかりしているから大丈夫ってどこかで思ってた。実際、あの子はいつも気丈で、何があっても平気って顔をしてた」
「そうですよ、憩ちゃんは私から見てもしっかりした良い子です」
「しっかりし過ぎていると思わない?」
大きい瞳がこちらを見上げる。眼光鋭く、思わず息を呑んだ。
手の中にあるスマートフォンに視線を落とし、自身の孫を見つめる。懐かしむように、でも懺悔するように語り出す。
「まだあの子が9歳の時に、息子が病死して、お嫁さんの三咲さんは自分一人では憩を育てられないと、家に来た。3か月もしないで三咲さんは憩を置いて家を出て行って、無責任だと思ったし、わが子に愛情はないのかと怒りもした。でも、美咲さんは息子の恵のことが大好きだだったから、娘の憩よりも恵を愛していたから。だから、恵がいなくなった現実と向き合えなくて、逃げてしまったのね。それでも、憩を群馬の家に放置せず私の所へ連れてきてくれたから、彼女に怒りはあるけれど憎んではいない。それよりも気になったのは、憩の態度」
「態度?」
「親を恋しがる素振りが、まるで無かったの」
ヒヤリとした。背筋に冷たいものを押し当てられたみたいだった。のけ反るように、自然と背筋が伸びる。
どんどん口調が早くなり、熱が入ってく絹さんに、私の心臓もつられていく。




