塩田憩の恋人(二)
斎藤は笑顔を作るのが下手な男性だった。口元だけくっと上がって、軽く目を細める。作り笑い、苦笑、愛想笑い。そのどれとも違い、 彼の不器用な笑顔を具現化するのは難しいが、『楽』『嬉』そういった感情はあっても、表情とうまく連動していない、という例えが合うかもしれない。普通の人間なら『喜び』と『笑み』をセットだが、斎藤にとっては『喜び』と『笑み』の間に隔たりがあって、その隔たりを超えるまでに時間がかかる。時間経過とともに表情に反映される『笑み』は減っていく。
その隔たりの正体を、憩は知っているのかもしれない。だって、斎藤が憩へ向ける笑顔だけは隔たりがまるで無いから。花が太陽を浴びて、伸び伸びと気持ちよさそうにゆっくり花弁を広げていくような、まるで解けていくような笑みなのだ。
――あ、この人、憩さんのことが好きなんだ。
今更ながら、飛鳥は理解した。そして、もう一つ理解できたことがある。
自慢の姉は異性同姓関係なく好かれる。好意のある視線を向けられてきたのを間近で見てきた。好かれすぎるのも考え物だと思わされる出来事もあった。だから時折、憩を透明人間にしてその視線達から隠してあげたいと思った。上手に姉を守る術が自分にはないから、憩自身に透明になってもらうしかなかったのだ。けれど現実、憩は透明にはならず、歳を重ねる毎に色鮮やかに、もっと鮮明になっていったし、自分で自分を守った。
斎藤の、この人の柔らかな視線は他の人間とは違う。自分の欲求や願望のために、憩をどうこうしようと思ってはいない。『幸』、『好』、『護』、『敬』、『尊』、『哀』、『愛』。文章にならない文字の羅列が、形のいいアーモンドアイからぽろぽろ零れていくのが見える。見えるはずがものが、飛鳥には見えてしまった。この人なら、姉を大切にしてくれる。
これはもう天からのお告げの近く、口が勝手に動いた。
「斎藤さん、うちで一緒に暮らしませんか」
提案したのは、意外にも飛鳥だった。驚きと戸惑いの声が漏れるものの、反対する者はおらず、憩が全員の意見を再確認し、翌月の1月から同居が開始されることとなった。
ボストンバックひとつと、謎のカエルの置物を抱え、いつも通り冴えない服を着た斎藤は塩田家へやってきた。
生活する上でのルールをみなで決め、斎藤は憩の部屋で寝ることに。このため憩はわざわざキングサイズのベッドを買った。就寝時は当然ながら、縁側で寄り添って昼寝をする場面を子供達は何度か目撃した。肩を寄せ合っている場面を目撃されても、彼らは離れたり照れくさそうにしない。
――大人ってそういうものなんだ。父親と母親ってこういうものなのかも。
千叶と風香はそう自己解釈をした。
多忙な憩に変わり、残業のないホワイト企業勤めらしい斎藤は家事も担った。とは言え、洗濯などは女性陣への配慮から、男性陣のみの洗濯物を担当し、風呂掃除・トイレ掃除は元より子供達の担当であったので、それ以外の細々とした掃除や庭の草むしり、生活必需品の補充、あとそれから食事作りを担当した。
これまで憩は子供達への食事作りだけは弁当を含め手を抜かなかったが、不規則で長時間拘束される仕事のため、どうしても帰りが遅くなる日、早く出社しなければならない日などは簡単な作り置きをして勝手に食べてもらっていた。それを心苦しく思っていた憩は、自分の代わりをして欲しいと斎藤に頼んだ。千叶と風香は「もう子供じゃないんだから、お弁当も夕食も作れるよ」と、声を揃えたが、「手伝ってもらうけど、食事作りの担当は大人がするの。お掃除してくれたりするんだから、他の時間は自分のために使いなさい」と、まるで母親みたいな台詞を吐く。そのくせ、千叶達には作って食べさせるのに、自分は野菜を食べない。
「大人は食べなくてもいいの。大人になったら食べない選択肢を選んでもいいんだよ」
「なんで?」
千叶は憩の健康を心配をして言っている。それを分かった上で、憩は、己の持論をまるでこの世の真実と言わんばかりにのたまう。
「大人になったら、本当に好きなものを選んで食べてもいいんだよ。もちろん、好きな物だけじゃなくて、嫌いなものだって健康のために食べる人もいるけど、その人はそういう選択をしているだけ。私が好きな物しか食べない選択をしているみたいにね。なんでもそう、映画も漫画も音楽も洋服もね、周りに合わせなくてよくなるの。大人になると、人と違うものを選ぶことを怖いと思わなくなるんだよ」
大人になると、人と違うものを選ぶことを怖いと思わなくなる。浮かんだのは、斎藤だった。誰もが認めるイケメンでなくても、お金持ちでなくても、自分が脱ぎ捨てた靴下を拾って歩いてくれる面倒見のいい優しき人を憩は選んだと言うことだろうか。
斎藤と暮らし始めてから、憩はなぜか彼に子供のいたずらの範疇だが意地悪をするようになった。からかい、ともすれば嫌がらせに近いが、じゃれ合いとも取れる行為だった。例えば、ケチャップでオムライスにウンチの絵を書いたり、洗濯を干す斎藤の服に洗濯バサミを付けて邪魔してみたり、服のボタンをひとつ掛け違えてみたり、リアルバイオハザードごっこ(憩がゾンビ側、斎藤が喰われる側)をしてみたり。また、何度注意されても靴下を脱ぎ捨てる、ポケットにお菓子の包みは入れっぱなしで放置するなど、これらは斎藤の手間を増やす目的でわざとやっているに違いないと子供達は推理。髪を濡らしたまま寝ようとすれば、斎藤が乾かしてくれると分かっていてわざと乾かさない。居間で寝落ちしてしまう頻度が増えたのは、斎藤がベッドまで運んでくれるから。決して筋肉質とは言えないのに、「僕が運ぶよ。みんなも早く休んで」と、軽々と憩を抱えていく。ストーカーを撃退した件といい、斎藤は案外力持ちで、運動神経が良いのかもしれない。
休みの日は、憩と斎藤は肩を並べて料理をする。時間と手間のかかるレシピ、食べたことのない遠い国の食べ物、某アニメの再現レシピ、家庭では作らないような本格的な洋菓子。合間に昔流行ったドラマを見たり、花壇の世話をしたり、ジグソーパズルをしながらお喋りをする。
仕事や買い出し以外で、斎藤はあまり外出をしない。塩田家で暮らし始めてから、斎藤を交えて外食することもめっきり減った。外出しても、車で遠くの街まで行く。それでも近所住民との接触は避けられないので、憩によるいつもの適当で奇天烈な説明がなされた。
「友人なんです。ずっと一人暮らしで寂しいみたいで、一緒に暮らすことになりました」
成人男性が家族に加わった経緯をそんな風に説明されても「ああ、そうなの、憩ちゃんだもんね」でまかり通る。また、礼儀正しく控えめな斎藤に好感を持つ人は多く、また、ストーカーから憩を守ったという経緯もあり、その存在はすんなり受け入れられた。さらに、興味本位で噂を広める下世話な隣人がいないため、斎藤の存在は近所住民の間で暗黙の了解として伏せられた。以前、週刊誌に撮られたことがあったため、憩の穏やかな生活を守る配慮をしてくれたようだ。要するに、良識ある隣人達に塩田家は恵まれていたのである。
特に親しいご近所さんは高梨夫婦だ。斎藤が塩田家で暮らす以前から、祖母の絹代と元芸子仲間で姉妹のような関係の高梨真子とその夫・直治とは度々互いの家を行き来するほど仲が良い。絹代が8年前に亡くなってからも事ある毎に塩田家を助けてくれた。
当時、憩は20歳の大学生、学業と家事で忙しい彼女に代わり、まだ小学生だった子供達の放課後の預かりやと習い事の送り迎え、授業参観などの学校行事にまで出席してくれた。高梨夫婦は子供好きだったので同じ空間を共有すること、自分の時間を使うことは何の苦でもなかった。絹代への恩もあるが、真子自身、荒んだ家庭環境から子を儲けるという決心がなかなか着かず、気づけば機を失い、晩年は少し後悔もしていた。そんな心を、塩田家の子供達が癒してくれるようで、彼女らの存在は真子にとって救いだった。また、憩達はきちんと都度お礼を言い、手作りのお菓子や料理を届けてくれる。料理が苦手な真子と、甘いもの大好きの直治には有難いお返しだった。
その日の午後、同窓会へ出席するまで時間、憩と斎藤は一緒にプリンを作ることにした。フィナンシェ、シフォンケーキ、キャロットケーキ、ハミングバードケーキ、マカロン、シュークリーム。斎藤はこれまで色々なお菓子を作ってきたが、プリンは初めてだった。
プリンが完成したら、飛鳥が高梨家へお裾分けに向かう予定。大学受験に向け、大学で教鞭をふるう直治に週2回ほど数学を教わりに行っているので、これが授業代わりにもある。飛鳥は数学と英語がからきし駄目なのだ。
プリンを作っている間も、憩と斎藤の肩が触れそうなほど距離が近い。卵を手早くかき混ぜる斎藤の手を、無意味に掴んで妨害する憩はケラケラ笑って実に楽しそうで、慣れっこの斎藤も抵抗しつつ嫌そうではない。
「へえ、クリームチーズを使うんだ」
「はい。あと隠し味に、白味噌をほんの少し」
憩は感心した様子で肩越しから手元を見つめ、斎藤は憩の横顔を見つめる。眼差しから、やはり『愛』『幸』『楽』、たまに『哀』が混じってぽろぽろ零れている。
これでいて、友人関係であると主張するのは、無理がありすぎやしないか。それでもなお、憩達は友人関係という前提を崩さない。
不揃いのカップ10個の中には、8分目までカスタードがたっぷり、粗熱が冷めたらカラメルは上からかけるようだ。プリンの粗熱が冷めた頃、憩は同窓会へ出かけて行った。軽く顔を出すだけだから、夕方には戻ると言い残して。
冷蔵庫で眠るプリンは5つ高梨家へ消え、3つは子供達の3時のおやつ、残りの2つは夜にでも憩と斎藤が食べるだろう。
その日の夕方4時、バイトから帰った風香、友人の家でテスト対策していた千叶が戻り、やや遅れた3時のおやつが開始された。最近、痩せたい、ダイエットする、としきりに宣言する千叶だが、平日は節制し、土日は好きに食べると決めているようで、小躍りしながらプリンにスプーンを指した。ちなみに千叶は太っていない。普通体系だが、女子高生が瘦せたがるのは通過儀礼なのかもしれない。
「おいしい!なんか懐かしい味がする!」
「隠し味に白味噌使を使ってるからかな?」
千叶の味への感想に対して、斎藤はどこか気恥ずかしそうだ。
「うん、本当においしいね。斎藤さん、お菓子作るの本当に上手ですね。習ったり、ケーキ屋さんでバイトしてたの?」
「ううん、特には。全部独学だよ」
「すごいなぁ。これが、好きこそものの上手なれってやつですね。紅茶もおいしい」
風香は満足げにカップの紅茶を啜りながら、ちらりと横目で、同じようにプリンに舌鼓を打つ妹を見る。ダイエットをすると言い出し、凝り性で一度言い出したらやり通す根性のある千叶を内心心配していたのだ。ちなみに風香は飛鳥と同様、痩せの大食いタイプである。
「斎藤さんのプリンは、カラメルが上にかけられているタイプなんですね」
一般的なプリンのイメージ、あるいは市販のものは下にカラメルがしかれている。まあ、いずれも器に出せばカラメルが上になるし、上にカラメルがかけられたタイプも珍しくはないが。
3時のおやつの時間に交わされる談笑、何気ない問いかけだったはずなのに、斎藤の表情は一瞬強張った。顔から表情がすうっと抜け落ちて、白い肌から生気は失せ、瞳は虚空を見つめる。けれどそれは本当に一瞬で、プリンに目を落としていた千叶も風香も気づかない。一拍置いて、斎藤は風香の疑問に答えた。
「下にカラメルがあると、食べ進めるとカスタードと混ざったり、最後にカラメルが残るから」
「それがいいんじゃないですか?最初は甘いカスタード、終わりに近づくとちょっと苦いカラメルって流れが」
「カラメル嫌いな人のためのプリンにしたかったんだ。これなら、カラメルを先に全部食べてしまえるでしょ。残るのは、甘いカスタードだけ」
斎藤のがらんどうの瞳には、風香も千叶も映っていない。でも、厚いレンズがそれを上手く隠してくれている。
昔、カラメルが何から出来ているのか初めて教えてもらった時、風香は衝撃を受けた。甘みや苦みと言った複雑な味が凝縮されたカラメルが、砂糖のみで作られたとはとても信じられなかったから。
「風ちゃんは偉いね、カラメル食べられて。私はカラメル、苦くて嫌いなの」
憩は優しく微笑み、幼い彼女の柔らかい髪を撫でた。褒められて、頭を撫でられて嬉しかった。だから、少し苦くて残してしまいたくなっても風香はカラメルを頑張って口運んだし、慣れてくるとカラメルの存在を受け入れられるようになった。今ではこのカラメルがあってこそプリンだと思えるほどに。
冷蔵庫に眠る2つのプリンの内、一方にはカラメルはかけられていない。




