阿部一華の話(三)
今日は大忙しの日であるはずだったが、樹達の無駄のない動きのおかげで午前中のノルマは11時には達成されたので、早めの昼休憩を取らせてもらうことにした。憩が勤める弁護士事務所から注文を受けている客用カップが届いているから、事務所のあるビル周辺には飲食店も多いし、配達するついでにその辺りでランチでもしよう。
カップの配達に事前連絡は不要、受付の方に渡してくれればいいと言われていたのが、憩と一緒にランチできるのではないかという下心から一報を入れてみた。するとすぐに「OK!隣のビル一階にある店にしよう」と返事が来た。
重い荷物を下げながら地下から地上へ出て、浜松町のビル街を歩いて数分、集合場所へ到着。時刻は現在12時18分、待ち合わせは12時20分。我ながら無駄のない時間配分である。
あとから一人来ますと店員さんに伝え、メニューを眺めながら憩を待った。しかし、待ち合わせの時間が過ぎても待ち人は来ない。12時30分を回ったところで店員さんの目線が気になり出したので、待ち人を諦め一人での食事に変更。樹は約束を破る人ではない、緊急の仕事でも入ったのだろう。元から約束していたわけではないし、残念だが仕方ない。
食事を手早く済ませ、会計時にサンドイッチを一人前テイクアウトで注文した。
「あの、このサンドイッチ、玉ねぎとレタスを抜いてもらうことって出来ますか?トマトはそのままで大丈夫なんですが」
「あ、はい。出来ますよ」
「じゃあ、お願いします」
気恥ずかしさから必要以上に頭が上下する。我々はもう28~29歳の立派なアラサーであるが、憩は野菜が嫌いだ。料理上手だし、家族のため野菜を使った料理も振る舞うが、作った本人はあまり食べたがらない。オムライスやパスタに入っている玉ねぎやピーマン、ハンバーガーのピクルスやレタス、お弁当の副菜や漬物が嫌いで、はじいて残してしまうほどだ。けれど残すこと自体に罪悪感はあるようで、外食では食べれそうものしか頼まないし、家ではそもそも自分の分を作らない。(最近は頑張ってサラダくらいは食べられるようになったようだ。)要は、子供が好きそうな食べ物が好き。学生の頃は好き嫌いなく健康的な食生活をしていたと思うが、いつから食の好みが変わってしまったようだ。栄養はないのにカロリーはあるスナック菓子を食べる姿をよく見るようになったのはいつからだったろう。実用的な物を好み、飾るだけのインテリア用品や機能性無視の雑貨に興味がなかったはずの彼女が、可愛いマスコットのついた書きにくいペンを使っているのを目撃した時は軽く衝撃を受けた。缶が欲しいからという理由でクッキーを買う姿には違和感さえ覚えた。いつからか定かではないが、憩の様子は確かに変わった。ほんの少し、だが。
憩の努める弁護士事務所はこのビルの7階にある。エレベーターに乗り、あっという間に事務所前の受付にたどり着いて、お届け物と差し入れ(憩への昼食と、皆さんへ紅茶)を受付の女性へと手渡した。女性はお礼を述べてから「申し訳ございません、塩田先生は只今来客中でして。お荷物の件は伺っております」と、申し訳なさそうに続ける。憩の名前の後に付く『先生』という呼称にこそばゆい気持ちになって、無意識に頬が緩む。そうだ、憩は先生と呼称される立場、全国的に有名な弁護士先生なのだ。自然と背筋が伸びる。
「ありがとうございます。じゃあ、こちらは、塩田先生に渡し――」
「お願いです!もう少し話を聞いてください!」
突然の荒々しい女性の声に、肩が飛び跳ねた。反射的に、受付の女性とシンクロして事務所内を覗き見る。受付から事務所は見渡せないが、曇りガラスで仕切られた小部屋があって、人影が複数あることは確認できた。小部屋の扉が開かれ、声が外に漏れ出たのだろう。
来客らしいその声の主は必死だった。責めたり、なじったりしているわけではなく、あくまで低姿勢で懇願しているようだ。声は震え、涙が混じっている。
「私のために、久美さんはあの男を殺したかもしれないんです。あの人だけが罪に問われるのはおかしい!」
「彼女が何も語らないのが証拠だと私達は考えております。法律に詳しくありませんが、裁判のやり直しは出来ませんか?久美さんの減刑のため――」
来客は2人、どちらも女性。前者は、数日ぶりに発声したのかと思うほどか細く不安定で、声質が若い。後者は、整然とした口調で落ち着いている。
あの箱の中に憩もいるのだろうか。扉が閉ざされたのか、もう何も聞こえない。受付の女性が恐縮した様子で謝ってきたため、居た堪れなくなって早々と事務所を離れてエレベーターに飛び乗った。速足で来た道を戻る。時間に余裕はあるが、駆け足で駅の階段を下って、ちょうど来た電車に飛び乗って、空いている席に腰を下ろす。電車が走り出して、胸のざわめきはようやく静まってきた。
「私のためにあの男を殺した」、そんなフレーズは私の人生に登場しない。恐ろしい、と率直な感想。憩はああいう世界にいるんだ。
担当している仕事内容を聞かせられないのは当然であるが、仕事の件は抜きにしても憩は秘密主義者だ。だって、恋人がいることすら教えてくれなかった。てっきり特定の人を作らない主義か、恋愛そのものに興味がないタイプかと思っていたのに。なぜ彼氏作らないのか質問したこともあるが、「意図して作らないわけじゃないよ、良い人がいればいつでも大歓迎」と、軽くあしらわれた。恋バナにおいて、憩は私達の聞き手で、司会者だったのだ。そんな彼女に彼氏ができた。けれど私達に打ち明けてくれない。あれ、私達って、憩の親友だよね?ちゃんと親友と認識してもらえているんだろうか。不安になるよ。
幼稚な嫉妬心を消してしまいたくて、スマートフォンで検索したのは、『殺人事件』『久美』『加害者』のワード。ずらっと並んだ検索結果を見て、思い出した。
そうだ、2年前に起きた殺人事件だ。殺害されたのは24歳の大学院生・福原康生さん、犯人は45歳の飲食店パート従業員・吉岡久美。事件の概要は、福原さんに一方的な思いを募らせた吉岡久美が、思いを拒絶され激高して殺害、遺体ごと自宅に放火したというもの。福原さんは両親と暮らしていたが、日中の犯行だったため、家族に被害はなかった。が、放火された自宅は半焼状態、福原さんの部屋と遺体損傷も激しく、殺害方法が吉岡久美の供述通りの刺殺であったか断定は不可能。殺害方法が何であれ、残酷な事件には違いはないのだが。
中年男性に若い女性が殺される事件はたまにあるが逆のパターンは珍しいためか、報道番組がこぞってこの事件を流していた。
――「私のために、久美さんはあの男を殺したかもしれないんです。あの人だけが罪に問われるのはおかしい!」
――「彼女が何も語らないのが証拠だと私達は考えております。法律に詳しくありませんが、裁判のやり直しは出来ませんか?久美さんの減刑のため――」
推察するに、吉岡久美は前者の人のため、福原さんを殺し、家に放火までした?おかげで吉岡久美は無期懲役刑を言い渡された。犯した罪の重さからして妥当な判決だし、家族からすればそれでも足りないくらいだろう。死刑を望んでいたはずだ。
――「久美さんは私のためにあの男を殺したかもしれないんです。あの人だけが罪に問われるのはおかしい!」
耳にこびり付く女性の声には、怒りや憎しみ、嫌悪が込められている。まるで福原さんの方が加害者だ、悪人だとでも言いたげで。顔も知らぬ“私”さんは福原さんに酷い目に合わされ、吉岡久美は福原さんを“私”さんのために殺した。殺害自体を“私”さんが依頼したわけではないが、自分のために行われた可能性のある殺人に”私”さんは強い罪悪感を持っている。よって、吉岡久美だけではなく、“私”も裁かれるべきだと考えている。――の、かもしれない。まあ、私に真実など分かりっこないのだが。
消化不良のまま帰社し、さっきの出来事をつい話してしまう。言うまいと思っていたが、2人の顔を見たら心も口も軽くなってしまった。
「吉岡久美の弁護を担当したのが、塩田が所属している事務所の所長さんみたいだな。だから訪ねて来たんだろう」
倉田君はタブレット端末で事件概要を簡単に調べ、情報の不足分を補填してくれた。
「へえ、なるほど。じゃあ憩も関わっていたのかもね」
「その吉岡久美の犯行動機が実は違っていて、それが情状酌量の余地があるものなら、減刑されることもあるのか?」
倉田君のその疑問に答えられる人間はこの場にはいないが、とりあえず討論してみる。まずは私が挙手をした。
「そういうのって出来ないんじゃなかった?一事不再理とかなんとか。あれ、違う?」
「それは無罪判決が下ったらもう有罪に出来ないってやつじゃない?今回の場合、刑期についての再審請求だから可能なのかも?」
「でも家族でもない人のために、殺人なんてする?しかもその“私”さんは今も生きていて、復讐殺人ではない」
「うーん、どうだろう。家族同然の間柄だったのかも」
「だったら事件が起こった時に警察に事情を話したりしない?その時話していたら量刑は変わっていたかもしれないのに。なんで今更?」
警察官を父親に、有名弁護士を親友に持ちながら、私達の法律知識は恐ろしく乏しい。法曹界は憩の聖域であり、私達が軽々しく踏み込んでいい領域ではないのだ。(本当は頭が追いついていかないだけ。)
私と樹の進展しない会話に倉田君は参加する気はないようで、視線はタブレット画面に向かっている。その眼差しに熱はない。熱心に記事を読み込んでいるわけではなく、ただなんとなく画面に追っているだけのように見えた。けれど唐突に、倉田君は衝撃的なことをさらっと呟く。それはさも当然といった口ぶりで、本人は私達が驚くようなことを言った自覚すらないようで。
「俺も殺すと思うよ。お前らがもし、立ち直れないほど酷い目に合わされたら、そいつを殺す」
その眼差しには、熱がない。私達に向けられたことのない、冷え冷えとした瞳をしている。




