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約束の嘘

アトラス育成研究所の旧体育棟は、夜になると壁のペンキが少し冷たくなる。

蛍光灯を最小限だけ点けて、ブレイクはマットを畳み、鉄扉に椅子をかませた。ここなら見回りの足音が聞こえる。誰かが来れば、二十秒は隠す時間が稼げる。


「集まってくれてありがとな」

声を落とすと、周りの仲間がうなずいた。皆、訓練用のスウェットのままだ。息はまだ熱く、汗の塩が袖口で白く固まっている。

フィリスは、壁際で手をもじもじさせていた。視線が一度ブレイクに上がり、また床へ戻る。


「今から見せることは、ここだけの話だ。——職員には言わない。言わないと約束できるやつだけ、残ってくれ」


誰も帰らなかった。床の配線が低く唸り、空気が一段静かになる。


ブレイクは中央に立って、フィリスに手を向けた。「フィリス」

「……うん」

小さな掌が彼の指に触れた瞬間、空気の温度が半度だけ上がる。耳の奥で“蓋”が外れるみたいな、あの感覚。視界の輪郭がはっきりし、弾む心拍がゆっくりに感じる。

ブレイクは訓練銃を持ち、距離を取り、呼吸を一つ。的の端を狙って引き金を絞る。弾はわずかに曲がり、中心へ吸い込まれた。


「……それ、お前の“能力”じゃないのか?」

エステバンが息を呑む。ブレイクは首を振る。


「違う。フィリスの力だ。彼女は**“目覚めてない相手の能力を目覚めさせる”。俺は、その借り物の力で撃てるようになった」

低く、丁寧に置いていく。言葉が床に落ちて割れないように。


驚きで視線が集まる中、ブレイクは的から目を外さず続けた。

「もうひとつ——彼女は、目覚めた能力を奪って自分で使うこともできる。でもやらない。やらせない。誰からも取らない。俺は、彼女に戦ってほしくない」


フィリスは、ブレイクの話にわずかに遅れて、こくりと小さくうなずいた。

「わたし、怖いの。戦うの、嫌い。だから……」

言葉がそこで途切れ、彼女は視線を落とした。ブレイクが代わりに受け取る。


「だから、俺が走る。走者は俺だ。彼女の力は”消失した”ことにする”。その口裏を——頼む」


「職員を騙すのか?」フリントが眉をひそめる。

「守るためにだ。あいつは、戦いを望まない。俺も望まない。フィリスが“普通”でいられる世界を、俺たちで通す。頼む協力してくれ」


沈黙が落ち、体育館の梁が一度だけ軋んだ。

やがて、リワンが長い息を吐き、「……わかったよ」と言った。

もうサファルが「俺も」と続き、最後に全員の顎が静かに下がった。約束は、拍手もなくそこに結ばれた。


「確認のために実験を一回だけ」

ブレイクは視線で合図し、射撃訓練で成績が上がらず、能力の発現も芳しくなく肩を落としていたステルンを手招きした。

「手、出して」フィリスが恐る恐る言う。

掌と掌が触れる。廊下のモーター音が遠のき、空気が少しだけ甘くなる。仲間は半信半疑で訓練銃を構えた。

一発。弾は意志に引かれるみたいに弧を描き、外周から中心へ。

彼は銃口を見つめ、次に自分の手を見た。「……今、何をしたの?」

「目を覚まさせただけ」フィリスの声は小さい。「あなたの中に、もともとあった力を、ちょっとだけ」


ブレイクは微笑んで肩を叩いた。「そのまましまえ。——そして誰にも言うな」


鉄扉の向こう、見回りの足音が遠くに二つ。椅子に噛ませた足が振動を伝える。

ブレイクは皆を見渡し、最後にフィリスに向き直った。

「俺がお前の分まで走る。だから、お前は色がいっぱいの場所を探せ」

「……うん」

「合図」

「誰にも言っちゃダメだよ」

「誰にも言わない」


旧体育棟を出ると、非常灯の青が長い直線になっていた。

ブレイクはポケットに手を入れ、空のインナーホルスターの感触を確かめる。いつかここに**“鍵”**が入る。そのとき彼は、今日の嘘を何度でも引き受けるつもりだった。


廊下の突き当たりで、フィリスが立ち止まる。

「ブレイク」

「ん?」

「もし、わたしが怖くて立ち止まったら、怒る?」

「怒らない。——走らなくても、前に進む方法を、俺が作る」


彼女は少し笑って、頷いた。

その笑顔は、子どものころと同じで、約束の鍵穴みたいに小さく光っていた。



翌日、会議室のスクリーンには「能力消失」の冷たい文字が並び、白衣の誰かが眉を寄せた。

ブレイクは壁際で、ただ静かに立っていた。

嘘は、胸の内側で熱に変わっていた。

その熱を抱えたまま、彼は走者になる準備を始めた。


——そして今、時間は広場へ戻る。

白い光の残滓と、黒い足音の真ん中で。

彼の嘘が守った少女が、ン=ゴの仮面と向かい合っている。

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