広場の白、足音の黒
ウェストサイドからクロスロードへ下る坂は、夕方になると風が逆さに吹く。
背中を押すはずの追い風が、今日は正面から頬を叩いた。フィリスは鼻から短く息を吸い、口を固く結んだ。心臓の鼓動が足取りに重なる。二歩ごとに、胸の奥の糸が一本ずつ切れていくような感覚が増していく。
角を曲がるたび、街の色が荒れていく。割れたガラスの粒、焦げた看板、倒れた自転車。ギャラリーの白い壁に、煤が指で塗ったみたいに広がっていた。
その白の上を、遠い稲妻の残光のようなものがかすめる。耳の真ん中から音が抜ける瞬間が来るたび、彼女の足は自然と速くなった。
広場が見えた。
空気が一枚、薄い膜で覆われたみたいに重く、白い。砕け散った照明塔の影が長く伸び、その根元に黒い外套の背中が倒れている。
呼吸が止まる。
足は止まらない。
彼女は瓦礫を避けるのではなく、踏み越えて走った。膝が震えても、角に脚をぶつけても、止まらない。
近づくにつれて、倒れている背中の輪郭がはっきりしてくる。コートの肩が破れ、縫い目から黒く乾いたものが見える。胸元には革のベルトが走り、その下に硬い四角が覗いていた。
(鍵)
「ブレイク」
彼の名を呼ぶ声が、自分の口から出たとは思えなかった。膝をつき、両手で彼の肩を抱える。顔を覗き込む。
まつ毛に灰が降り積もっている。唇に色はない。頬に泥が筋を作っている。
胸元に耳を寄せる。
——聴こえない。
——いや、聴こうとすればするほど、街の音の抜けた空白が耳の奥で膨らむ。
(聴こえないのは、わたしの耳の方だ。落ち着け。呼吸を整えて、もう一度)
もう一度。
皮膚の温度。
鼓動の気配。
それでも興奮して、うまく聞き取れない。
答えは、どちらとも取れた。生きている、と言い張ることもできる。もう、届かないと言い切ることもできる。その曖昧さが、喉に刺さった。
革のベルトに指をかける。小さな金具を外すと、硬い四角が掌に落ちた。
(これは、彼のもの。彼がずっと持っていたもの。彼がわたしに持たせたくなかったもの)
胸の奥が攪拌される。吐き気に似た感情。
「……借りるね」
誰に許しを乞うのでもなく、そう呟いた。
そのときだ。
空気の真ん中が、また抜けた。
視界の端で、崩れた照明塔の影が立ち上がる。黒い装甲がゆっくりと姿勢を起こし、仮面の平面がこちらに向いた。
足音はない。けれど、踏みしめるたびに石畳の目地が微かに鳴った。
「あの者の近親か?」
声は空気を直接撫でた。口は動かない。
「関係ありません」フィリスは立ち上がる。「ここを通してください」
「選択の要件を問う。鍵は人類にとって最後の手段。だが、鍵を通すためには、この場を越える必要がある。お前はその役を担えるのか」
担えない、と答えるだけなら簡単だった。
けれど、その言葉は喉を出なかった。
彼女は戦いたくない。兄が望んだから与えた力を、兄から奪って戦うなんて、なおさら嫌だった。
それでも——彼がここまで走ってきた道の先に立っている以上、立ったまま目を逸らすことはできなかった。
「通してください」
繰り返した声は、さっきより乾いていた。
仮面の平面が、わずかに傾く。観察の角度。
彼——ン=ゴは、前腕を少しだけ持ち上げた。
その周囲の空気が、水面のように揺れる。
(これが、さっきも感じた、音の抜ける正体)
「君自身の能力は、戦いに資するか」
ン=ゴが問う。
フィリスは首を横に振った。
「わたしの能力は、誰かに何かを与えたり、奪ったりすること。わたしは、それを使わないと決めている……いえ、決めていた」
「では、ここで倒れるだけだ」
「そう……だから——」
「選択を誤るな」
彼は一歩、近づく。
踏み出した足の先で、石畳の砂が無音で跳ねた。
フィリスは後ろを見ない。ブレイクの背中を見ない。前だけを見る。
(わたしがここで退けば、彼の道はここで途切れる)
ゆっくりと、彼女は姿勢を低くした。戦いの構えではない。走る前の前傾。
右手の指が、カードキーの角を確かめる。左手は空いたまま。
ン=ゴの仮面の平面に、彼女の姿が小さく映る。
「通して」
「拒否する」
空気がひとつ、深く沈んだ。
無線が遠くで鳴る。
〈前線司令室——広場に民間人。止めろ、止めるんだ!〉
どこかで兵士の靴音が石を叩く。間に合わない。
フィリスは一歩、前へ出た。
ン=ゴが腕を上げる。
薄い膜が、彼女の目の前で揺れた。
その膜は、触れれば消す。
だが、触れなければ、通れる。
でも、通った先は、硬い。
——敵の能力を知らぬまま、彼女は前へ出た。
「ブレイク」
名前を呼ぶ声が、膜の向こうで震え、白い空気に吸い込まれた。
彼は返事をしない。
返事をしないことが、返事だった。
フィリスは走りだした。
彼女は戦士ではない。
だが、走者の妹だった。
——彼の代わりに、走る。
——彼の約束を、わたしの足で繋ぐ。
黒い装甲が迫る。
白い広場が遠ざかる。
音の抜けた真ん中に、自分の心臓の音だけが響いた。
彼女は、踏み込んだ。
その瞬間、世界は白くなった。
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