予感
ウェストサイドのアパートで、窓枠がかすかに鳴った。
風のせいじゃない。胸の奥の、言葉にならないところで、糸がひとつ切れる音がした。
フィリス・サンダースはカーディガンの袖を握りしめ、ベランダの外に目を凝らす。夕暮れの色が町を薄く染め、遠くでサイレンが重なり合っている。音は多いはずなのに、真ん中の帯だけがすっと抜け落ちる瞬間があった。鼓膜がそこだけ空振りする——彼女はその空虚の主と戦っているであろう人物を知っている。
机の上に、兄から昔もらった古いスケッチブックがある。幼いころ、彼女は色鉛筆で空を塗った。色がいっぱいのところへ行きたいと笑ったとき、兄は「いいね」と言って背中を叩いた。
——わたしは戦いが怖い。
——なら、戦わなくていい、俺がお前の分まで戦う。
二人だけの約束は、子守唄みたいに胸の内側で反復される。誰にも言っちゃダメだよ。言わない、言わない、言わない……そう繰り返すほど、嫌な胸騒ぎが太くなっていく。
外がざわめく。避難を促す拡声器の声、階段を駆け下りる足音。フィリスは玄関に置きっぱなしのスニーカーを突っかけた。財布も、携帯も、その場に置いたまま。ドアを閉める手が震えて、鍵がうまく回らない。
「……ブレイク」
名前を口にしただけで、喉の奥が熱くなる。彼がどこにいるのか具体的には知らない。けれど、この街のどこかで走っていることだけは、確かだった。
避難所に指定された教会に行くと教会の前で、兵士の無線が激しく鳴っていた。
〈こちら前線司令室。クロスロード二番街の避難線、南へ移送。駅前広場は交戦中。走者は西から進入……〉
フィリスはその言葉の断片だけを掴む。中央司令部の硬い口調ではない。ここは現地の声だ。誰かの短い息継ぎや、靴音、走る気配が混ざっている。最後の一本を打ち上げるために、街の……いや今、アメリカが動かせる軍が総動員されているのがわかる。通信が多いのは、そのためだ。
「中へどうぞ!」
救護班の女性が手招きした。
「すみません、わたし——」フィリスは言いかけて、言葉が見つからない。「ここから、駅まで歩いたら、どれくらいですか」
「今は危険です。広場は封鎖の予定で——」
無線が割り込む。
〈広場で特異個体確認。名称判別は——〉
言葉は消えた。消えたのではなく、真ん中の音だけが抜けた。さっき家で感じたのと同じ欠落が教会の壁にも落ちる。
フィリスの背筋が、細い針で撫でられたみたいに震えた。
「行かせてください」
「だめです、あなたは民間人で——」
「兄が走っているんです」
女性の目が揺れる。ほんの一瞬の沈黙。その隙に、フィリスは人の流れの外側へ滑り出た。
外は騒がしいのに、心臓の音だけがはっきり聴こえる。階段を二段飛ばしで下り、斜面のある近道を選ぶ。地図はいらない。クロスロードへ向かう道は、足が覚えている。施設の外で暮らせるのがうれしくて“色がいっぱいのところ”へ出かけるために、散々歩き回った街だからだ。
角を曲がるたび、破れたキャンバスが目に入る。ギャラリーの窓は割れ、額縁が床に倒れ込んでいる。赤いペンキが、血の跡みたいに流れていた。胸の奥がつきりと痛む。
怖い——戦いたくない。
それでもフィリスは走るのを止めなかった。
足の裏が地面を掴み、呼吸が細く等間隔になる。兄の走り方には届かないけれど、彼女にも彼女のテンポがあった。
途中、路肩で膝を抱える老婦人がいた。フィリスは横にしゃがみ、肩に触れる。
「手を、貸して」
「わたしは大丈夫。あなた、逃げなさい」
老いた妻が言う。
「一緒に。ここはすぐ塞がる」
その夫がフィリスを心配して避難を促した。
ふらつく身体に腕を回し、避難列の最後尾へ引き渡す。礼を言われても、首を振るしかできない。先を急がなければならなかった。
また、音が抜ける。空気の真ん中が薄くなる。
そのたびに、胸の奥の糸がもう一本、もう一本と切れていく感覚がする。
思い出すあの時の場面と言葉。
「誰にも言っちゃダメだよ」
(——あんな力、ブレイクにあげなければ良かった。)
彼女は噛みしめる。秘密は守る。けれど——走る方向だけは、もう変えられない。
クロスロードの入口に差し掛かると、焼けた匂いが濃くなった。高架下から、黒い影が走り去るのが見える。無線が短く鳴った。
〈駅前広場、局地的沈黙発生。特異個体は前方。走者の生体反応、継続——〉
そこまで聴いたとき、フィリスは気づく。無線の声は彼女宛てではない。それでも、言葉の骨が空気を伝ってくる。通信の声は、いつでも誰か一人に届くようにできている。受け止める準備のある耳へ、まっすぐに。
石畳に差す夕陽の色が、ほんの少しだけ冷えた。
広場の方角から、白い光の名残が遅れて届く。耳の内側が揺れて、世界が半歩分遅れる。
フィリスは走る。足は勝手に、兄のいる方角へ向かう。
自分の能力のことは、考えない。兄から奪って自分が使うなんて、考えるだけで吐き気がする。
彼は力を望んでいた、彼に力を与えると決めた日から、彼女にできることはひとつだけだ。彼の邪魔にならないこと。彼に守られること。彼がそう望んだから。彼の望みを叶えること。
「ブレイク」
声に出した瞬間、喉が潰れそうになった。
間に合わないという言葉が、靴の裏から這い上がってくる。
けれど、もう一段、速くなる。
人混みの隙間を縫い、散ったガラスを蹴らないように足の角度を変える。呼吸が苦しくなってから、さらに一歩。視界の端で、駅の輪郭が浮かぶ。
広場へ続く最後の角で、フィリスは立ち止まらない。
曲がりながら、名を呼ぶ準備をする。
泣きながらではなく、届く声で。
——ここにいるよ、と伝えられる声で。
その先に何が待っているのか、彼女は知らない。
ただ、音の抜けた空白が一枚、道の正面に立っているのを感じた。
その向こう側に、彼がいる。
フィリスは、最後の一歩で迷わず踏み込んだ。
大好きな兄を絶望から救うために。
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