老夫婦の目に映る街
風が変わった、と妻は言った。
彼女は、詩をしたためるのが趣味のせいか、たまに不思議なことを言う。
午後の陽が傾きはじめたクロスロードの路地は、つい昨日まで絵とコーヒーの匂いで満ちていたのに、今日は金属と焦げの匂いがする。夫婦は手をつないで歩幅を合わせ、店のシャッターの隙間からのぞく油絵に、ふと立ち止まる余裕まで絞り出した。
「駅の方へ下がりましょう。あそこなら地下がある」
夫はそう言って、妻の肩をそっと抱き寄せる。若いころ、彼はユニオンステーションで短い勤めをしていた。広い床の冷たさも、地下保全庫へ降りる階段の幅も、足が覚えている。
角を曲がると、迷彩の兵士が避難民の列を仕切っていた。肩口の無線は休まず鳴り続け、彼の顔には疲労の上に焦りが薄く積もっている。
「無線が、なにか言ってるみたいだけど、大丈夫なの——?」
妻が問うと、兵士は短く息を整えて答えた。
「我々は州軍なのですが米軍の小隊も合流して、避難と迎撃を同時に回してる。無線がやかましいのは、そのせいです」
「それと国連のランナーズとか言う特殊部隊も動いてるみたいなんですが……いえ、なんでもありません。さあ、避難誘導に従ってください」
説明はそこで途切れた。路地の奥で、異様な音がしたのだ。
銃声のようでいて、銃声の後に来るはずの反響がない。耳が音を探すのに空振りする、妙な静けさ。兵士は顔色を変えた。
「下がって! この先はまずい!」
避難列が折れ曲がる前に、影が飛んだ。屋根から、壁から、舗装の亀裂から、黒い肢体があふれ出す。金属とも生き物とも言い切れない、光沢と筋肉の中間みたいなものが、地面を引っ掻くたびに火花を散らした。
老夫婦は店の軒に身を寄せる。夫は自分の体で妻を隠し、背中に冷たい壁を受けた。
「大丈夫。ここでやり過ごす」
声は震えなかったが、指が震えた。妻の手がその震えを包む。
前方で兵士たちが撃つ。火花、煙、号令。だが何発かは、空中でふっと消えたように見えた。火薬の匂いだけが残り、弾痕が壁に刻まれない。兵士のひとりが叫ぶ。
「やばい!ヤツがいる!さっき、うちの小隊が正面でやり合った。弾が、やっぱり手前で消える。理屈は不明だ——近づくしかない!」
言葉のとおり、兵士は距離を詰めた。吠えるような息遣い、踏み込みの音。だが黒い群れも待っていたかのように厚く重なり、反撃のうなりが人間の形を弾き飛ばす。誰かが倒れ、別の誰かが引きずり起こす。無線はなお鳴り続け、短く、命令の骨だけを吐き出した。
妻は夫のコートの袖に顔を埋めた。
「あなた、聞こえる?」
「聞こえるよ」
「心臓の音がうるさいの。あなたのと、わたしのと、どっちがどっちかわからないくらい」
夫は笑おうとしたが、喉が乾いて音にならない。代わりに昔話が舌の先に浮かんだ。駅前の広場で、彼女に初めて渡した花の色。冬の風で涙目になった彼女に、手袋を貸してやった日の温度。
いま目の前の道は、そのすべてが燃え尽きたみたいに赤黒いのに——それでも彼は思い出せる。思い出せることが、たまらなくありがたかった。
影がひとつ、軒の上に止まる。
妻が小さく息を呑み、夫は反射的にその頭を抱え込んだ。落ちてくる。来る。来る——
そのときだ。別の音が割り込んだ。
乾いた靴音が、路地の入口から連続して響く。一定のリズムで、速いのに乱れがない。
銃を持った兵士のそれとも違う、妙に静かな息遣いが近づく。闇に溶けるような黒い外套の裾が、視界の端を横切った。
兵士の無線が一瞬だけ明瞭に拾う。
「こちらランナーズ計画カンザスシティ前線司令室より——北西角、走者接近。通路を空けろ。避難列を後退させろ。繰り返す、通路を空けろ」
走者。
夫婦は顔を見合わせる。単語の意味は知らない。ただ、その音に重みがあることだけは、肌でわかった。
黒い影は、まっすぐにこちらへ向かっている。
夫は妻の手を握り直した。骨ばった手と手が噛み合い、互いの脈がつながる。
「やり過ごすのは、無理そうだな」妻が小さく言う。「ええ、でも私、走れそうにないわ」
夫は頷いた。
その瞬間、軒の上の影が跳躍した。
牙が光る。風が裂ける。
そして——靴音が、さらに一歩、近づいた。
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それはそうと、この小説、と言うか作中に戦略を担当する中央司令室と作戦領域の前線を担当する前線司令官と言うのがあるのだが、前線司令室の呼び方をちゃんと決めて置かなかったがために、領域担当の司令室の呼び方が、出てくるたびに毎回違うと言う不具合が発生した(完全に私のせいなわけだが)と言う事で、今回、完全に呼び方を決めたことを読者様に報告しようと思い、この長ったらしい「あとがき」(言い訳)を書いているわけでございます。
呼び方は「作戦領域+司令室」に決めました。
正確に言うと「ランナーズ計画○○○司令室」になるが、長いので大体は「ランナーズ計画」の部分は、ほとんどの場合、省略させる(はず)。
もう、最終章間近なのに、何やってるんだろうね、私。
本当に反省してます、すまんかった。
時間が空いた時に、修正しておきます。
そして、いつも読んでくれて「ありがとう」と感謝を述べて、今の所は終わっておこう。




