「約束」後編
「フィリスの数値が落ちています。……いえ、“消えた”と表現すべきでしょう」
会議室のスクリーンに、穏やかな曲線が水平線に溶けていく。
白衣たちの声は冷静だが、焦りは机の上の指先に滲んでいた。ブレイクは壁際で黙って立ち、光るグラフから視線を外さない。
(このまま、そう記録してくれ)
彼は心の中で呟く。
あの夜、フィリスは眠る前に何度もこちらを見た。言葉を待つ子のように、でも答えはすでに知っているように。
会議が終わると、主任が彼に向き直った。
「ブレイク、君は最近、射撃の精度が上がっている。何か、訓練を変えたか?」
「風の読み方を学びました」
嘘は短く、平坦に。主任はしばし彼の目を覗きこみ、ペン先で書類を叩いた。
「……そうか。続けたまえ」
*
廊下に灯る非常灯は、いつもより青く見えた。
窓際のベンチにちょこんと座って、フィリスが靴の紐をいじっている。七歳の手には、まだ結び目が難しい。
ブレイクが屈んで、ほどけかけたループを整えてやると、フィリスは目を瞬き、いつもの合図みたいに小声で言った。
「誰にも言っちゃダメだよ」
「言わないよ」
彼は笑ってみせる。唇の端だけで、声を揺らさない笑い。
「今日、先生たちが言った“消えた”ってやつ。あれ、平気?」
フィリスは少し考える顔をして、首をかしげた。
「うん。ブレイクの言った通りにしたから、たぶん平気」
彼女は自分の胸をとんとん叩いた後、兄の胸にも小さく触れた。
「なら、大丈夫だろう」
その一拍が、ブレイクの胸骨の奥に残ったまま、消えない。
「俺がお前の分まで戦う」
口にしてから、言葉の重みが自分の背中に載るのを感じた。
これから何年も、彼はこの一句を何度も心の中で繰り返すことになる。
貰いもので構わない。貰った才能を、最後まで握って走ればいい。妹が、もう戦わなくて済む世界であるように。
「ねえブレイク」
窓の外、夜の庭に小さな風が立って、砂利がさわ、と鳴った。
「外へ出たら、どこへ行く?」
「まだ決めてない」
「わたしはね、絵を描くところ。色がいっぱいのところ」
「いいね」
彼は視線を落とし、フィリスの手の甲に浮く小さな血管の色を眺めた。
色がいっぱいのところ。
(そういう場所へ、お前を送る)
*
訓練は続き、少年は青年になった。
射撃場の空気は乾いていて、耳の中の世界はいつも静かだ。
的紙に黒い円が浮かぶ。ブレイクは呼吸を浅く整え、脈の合間に引き金を落とす。弾道は“意志”で曲がり、収束し、穿つ。
「いい精度だ」
教官は頷くだけで、理由を詮索しない。ブレイクは「はい」とだけ答える。
ある日、教官は部隊規律の講義でこう言った。
「鍵は肌身離さず。お守りだと思え。いつ襲撃されても、誰かが倒れても、次へ渡せるのは“生き残った手”だけだ」
それはまだ遠い実戦の話だったが、ブレイクは胸の内側――心臓の上に、形のない鍵を想像して、そこに手を置いた。
夜、外灯の下でフィリスと並んで歩く。
研究棟の影が二人を追い越す。
「ブレイク」
「ん?」
「わたしね、戦うの、やっぱりこわい」
「知ってる」
「ごめんね」
「謝ることじゃない」
彼は立ち止まり、彼女の肩にコートをかけ直した。
「お前は、自分の幸せだけ考えてくれ。俺が、ほかの仲間を説得する」
フィリスは頷き、胸の前で小さく拳を握った。
ブレイクが、フィリスの頭をなでながら、笑顔で優しく語りかけた。
「じゃあ合言葉だな。誰にも言っちゃダメだぞ」
「うん、誰にも言わない」
ふたりの間に流れる秘密は、小さな灯みのようで、夜道を照らした。
ブレイクは、その灯りがいつか遠くなる日を、もう恐れなかった。恐れより先に、守りたいという欲求があった。
世界は広い。彼女が選ぶ“色がいっぱいのところ”まで、道は必ず繋がっている。
*
ガラスに映る青年の顔は、少年の輪郭をまだ残している。
拳銃を分解し、清拭して再組み立て。金属が正しく噛み合う音は、今日も変わらず心を落ち着けた。
机の引き出しには、薄い革のインナーホルスター。彼はそれを取り出し、胸元に当ててみる。まだ鍵はない。だが、いつか託されるものを収める場所は、もう決めておきたかった。
部屋のドアがノックされる。
フィリスが顔を覗かせ、部屋の中に入る。
「何してるの?」
「準備」
「どこへ行く準備?」
「わからない。でも、そこがどこでもいいように」
フィリスは頷き、ベッドの端に座った。
「ブレイク」
「ん?」
「もし、わたしがいなくても、ブレイクはブレイクだよ」
その言い回しは、子どもの頃の彼女に戻ったみたいで、ブレイクは少しだけ笑ってしまう。
「お前もな」
長い沈黙のあと、フィリスは立ち上がって彼の胸に両手を当て、そっと押した。
「重いよ、それ」
「わかってる」
「でも、持っていくんでしょ」
「持っていく」
合図。
「誰にも言っちゃダメだよ」
「もちろん」
*
それから先の年月は、記録と訓練と、小さな日常の反復でできている。
食堂で分けたスープ、窓の外の雨、夜更けの廊下の匂い――どれもが、約束を包む薄い膜のようだった。破れないように、そっと呼吸する。
いつか、世界は燃える。
そして、彼は走る。
そのとき胸元には、革に収まった**“鍵”**があるはずだ。
それを握って、彼は誰かへ道を繋ぐ。
ブレイクは灯りを消し、カーテンの隙間から夜の空を見た。
星は見えない。だが、どこかに確かにある。
彼は目を閉じて、掌に小さな重みを想像した。
まだ渡されていない鍵の重み。
まだ届いていない未来の重み。
俺がお前の分まで戦う。
その言葉は、祈りに似ていた。
いつの間にか、祈りは、前へ前へ走るための信念になった。
前へ。前へ。———さらに前へ。もっと前へ。
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