表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
86/119

「約束」後編

「フィリスの数値が落ちています。……いえ、“消えた”と表現すべきでしょう」


会議室のスクリーンに、穏やかな曲線が水平線に溶けていく。

白衣たちの声は冷静だが、焦りは机の上の指先に滲んでいた。ブレイクは壁際で黙って立ち、光るグラフから視線を外さない。


(このまま、そう記録してくれ)


彼は心の中で呟く。

あの夜、フィリスは眠る前に何度もこちらを見た。言葉を待つ子のように、でも答えはすでに知っているように。


会議が終わると、主任が彼に向き直った。

「ブレイク、君は最近、射撃の精度が上がっている。何か、訓練を変えたか?」

「風の読み方を学びました」

嘘は短く、平坦に。主任はしばし彼の目を覗きこみ、ペン先で書類を叩いた。

「……そうか。続けたまえ」



廊下に灯る非常灯は、いつもより青く見えた。

窓際のベンチにちょこんと座って、フィリスが靴の紐をいじっている。七歳の手には、まだ結び目が難しい。

ブレイクが屈んで、ほどけかけたループを整えてやると、フィリスは目を瞬き、いつもの合図みたいに小声で言った。


「誰にも言っちゃダメだよ」


「言わないよ」

彼は笑ってみせる。唇の端だけで、声を揺らさない笑い。

「今日、先生たちが言った“消えた”ってやつ。あれ、平気?」


フィリスは少し考える顔をして、首をかしげた。

「うん。ブレイクの言った通りにしたから、たぶん平気」

彼女は自分の胸をとんとん叩いた後、兄の胸にも小さく触れた。

「なら、大丈夫だろう」


その一拍が、ブレイクの胸骨の奥に残ったまま、消えない。


「俺がお前の分まで戦う」

口にしてから、言葉の重みが自分の背中に載るのを感じた。

これから何年も、彼はこの一句を何度も心の中で繰り返すことになる。

貰いもので構わない。貰った才能を、最後まで握って走ればいい。妹が、もう戦わなくて済む世界であるように。


「ねえブレイク」

窓の外、夜の庭に小さな風が立って、砂利がさわ、と鳴った。

「外へ出たら、どこへ行く?」

「まだ決めてない」

「わたしはね、絵を描くところ。色がいっぱいのところ」

「いいね」

彼は視線を落とし、フィリスの手の甲に浮く小さな血管の色を眺めた。

色がいっぱいのところ。

(そういう場所へ、お前を送る)



訓練は続き、少年は青年になった。

射撃場の空気は乾いていて、耳の中の世界はいつも静かだ。

的紙に黒い円が浮かぶ。ブレイクは呼吸を浅く整え、脈の合間に引き金を落とす。弾道は“意志”で曲がり、収束し、穿つ。

「いい精度だ」

教官は頷くだけで、理由を詮索しない。ブレイクは「はい」とだけ答える。


ある日、教官は部隊規律の講義でこう言った。

「鍵は肌身離さず。お守りだと思え。いつ襲撃されても、誰かが倒れても、次へ渡せるのは“生き残った手”だけだ」

それはまだ遠い実戦の話だったが、ブレイクは胸の内側――心臓の上に、形のない鍵を想像して、そこに手を置いた。


夜、外灯の下でフィリスと並んで歩く。

研究棟の影が二人を追い越す。

「ブレイク」

「ん?」

「わたしね、戦うの、やっぱりこわい」

「知ってる」

「ごめんね」

「謝ることじゃない」

彼は立ち止まり、彼女の肩にコートをかけ直した。

「お前は、自分の幸せだけ考えてくれ。俺が、ほかの仲間を説得する」

フィリスは頷き、胸の前で小さく拳を握った。

ブレイクが、フィリスの頭をなでながら、笑顔で優しく語りかけた。

「じゃあ合言葉だな。誰にも言っちゃダメだぞ」

「うん、誰にも言わない」


ふたりの間に流れる秘密は、小さな灯みのようで、夜道を照らした。

ブレイクは、その灯りがいつか遠くなる日を、もう恐れなかった。恐れより先に、守りたいという欲求があった。

世界は広い。彼女が選ぶ“色がいっぱいのところ”まで、道は必ず繋がっている。



ガラスに映る青年の顔は、少年の輪郭をまだ残している。

拳銃を分解し、清拭して再組み立て。金属が正しく噛み合う音は、今日も変わらず心を落ち着けた。

机の引き出しには、薄い革のインナーホルスター。彼はそれを取り出し、胸元に当ててみる。まだ鍵はない。だが、いつか託されるものを収める場所は、もう決めておきたかった。


部屋のドアがノックされる。

フィリスが顔を覗かせ、部屋の中に入る。

「何してるの?」

「準備」

「どこへ行く準備?」

「わからない。でも、そこがどこでもいいように」


フィリスは頷き、ベッドの端に座った。

「ブレイク」

「ん?」

「もし、わたしがいなくても、ブレイクはブレイクだよ」

その言い回しは、子どもの頃の彼女に戻ったみたいで、ブレイクは少しだけ笑ってしまう。

「お前もな」


長い沈黙のあと、フィリスは立ち上がって彼の胸に両手を当て、そっと押した。

「重いよ、それ」

「わかってる」

「でも、持っていくんでしょ」

「持っていく」


合図。

「誰にも言っちゃダメだよ」

「もちろん」



それから先の年月は、記録と訓練と、小さな日常の反復でできている。

食堂で分けたスープ、窓の外の雨、夜更けの廊下の匂い――どれもが、約束を包む薄い膜のようだった。破れないように、そっと呼吸する。


いつか、世界は燃える。

そして、彼は走る。

そのとき胸元には、革に収まった**“鍵”**があるはずだ。

それを握って、彼は誰かへ道を繋ぐ。


ブレイクは灯りを消し、カーテンの隙間から夜の空を見た。

星は見えない。だが、どこかに確かにある。

彼は目を閉じて、掌に小さな重みを想像した。

まだ渡されていない鍵の重み。

まだ届いていない未来の重み。


俺がお前の分まで戦う。

その言葉は、祈りに似ていた。

いつの間にか、祈りは、前へ前へ走るための信念になった。


前へ。前へ。———さらに前へ。もっと前へ。

続きが気になる方は、ブックマーク、評価をお願いします。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ