「約束」前編
アトラス育成研究所の夜は、温度が一定で、音が少ない。
白い壁、消毒薬の匂い。廊下の床に走る非常灯の青いラインを、少年ブレイクは靴先でなぞった。
ガラス室の中央に、円筒のシリンダーがある。
淡い光に満たされた培養液の中で、小さな手が水面へ向かって伸びた。小さな手の持ち主は、フィリス。
ブレイクと同じDNAから生まれた「妹」と説明された存在。まだ言葉も持たないのに、目が合うと笑う。その笑いは、人工の風が揺らす薄いカーテンより、ずっと生きていた。
「観察はここまでだ、ブレイク」
白衣の職員が告げる。
「君は——現時点では能力発現なし。基礎値は良好だが、特筆なし、このままだと“見込みなし”で里親に出されるぞ」
「そうなれば妹にも、もう会えなくなる」
自分が失敗作と見なされていることを、彼はもう理解していた。
それでも、ガラス越しにそっと指先を当てる。内側のフィリスも、まるでまねをするように小さな掌を当てた。冷たいガラス一枚を挟んだ“タッチ”。何も起きない。ただ、胸の奥が少しだけ温かくなる。
*
季節は曖昧に巡り、三歳のフィリスが走り出す頃。
研究区画の片隅、子ども向けの簡易訓練室。数字カード、発音カード、柔らかなブロック、そして安全基準を満たした低出力の訓練銃。
フィリスはカードを片づけ、ふいにこちらを振り向く。
「ブレイク、手」
小さな声。差し出された掌。
ブレイクが屈んで指を重ねると、耳の奥で“蓋”が外れるような音がした。視界のピントが一段鋭く合い、空気の流れが線になって見える。
手のひらから、何かが静かに流れ込んでくる。
「……今、何を——」
問いかけるより先に、フィリスが顔を寄せた。
その瞳は、幼いのに、事情をすでに察しているように澄んでいる。
「ブレイク、誰にも言っちゃダメだよ」
彼女の囁きは、小枝が水面に触れるみたいに軽く、しかし決定的だった。
訓練銃の前で、ブレイクは静かに呼吸を整える。
照準、引き金、反動。――そのどれもが、急に身体の内側で“線”になって結ばれていく。
的の端に向けて撃った低出力の弾は、空気の抵抗を撫でるように微かに軌道を曲げ、中央の印へ吸い込まれた。
職員は眉をひそめ、風向センサーを確認し、首を傾げる。
「偶然だろう」「装置誤差かもしれない」
ブレイクは何も言わない。フィリスは、ただ笑ってブロックを積んだ。
その夜、帰り道の廊下で、フィリスはブレイクの袖をつまむ。
「きょう、できたね」
ブレイクは答えない。胸の奥の借り物の火を、手で覆うみたいに静かに歩く。
非常灯の青が長く伸び、ふたりの影は一つに重なった。
彼は、その影がいつか別の方向へ分かれる日を、うっすらと怖いと思った。
——この時、まだ誰も知らない。
数年後、**「フィリスの能力は消失」**と記録される夜が訪れることを。
そして、その“消失”が、誰かを守るための嘘として選ばれることを。
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