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プロローグ




シャツの襟元から微かな夜気が入り込んでくる。

それが素肌を撫でるたびに、私は“ここにいる“ということをほんの少しだけ思い出す。


視界の端で、細い煙が流れていった。

指の間のタバコはもう三本目になる。


部屋の中にはまだ彼の残り香が漂っていた。ほんの少し甘酸っぱい果実の香りと、汗ばんだ肌の温もり。けれどそれはもう、夜のとばりの下で静かに横たわっているだけだった。もう、余韻も何も残っていない。ただの事実としてそこにあるだけ。涼しい風が、目の前を通り過ぎていくだけ。



——眠れなかった。

それが今夜のすべてだった。


透と身体を重ねたあと、私はいつもより少しだけ長くシャワーを浴びた。肌に残る温度を剥ぎ取るように。くすんだ心の奥を、そっと洗い流すように。


薄いシャツが風をはらんだ。

その下に身につけた下着一枚のまま、降谷環はアパートのテラスに立っていた。


ネオンに濡れた街のそば——旧・南新宿と呼ばれていた場所のそばで、煙草だけを手にして。



音の止まない街だった。

このネオ・トーキョーという都市は、眠るということをとうにやめてしまったらしい。

上空をゆるやかに流れる空中バスのライトが、建物のガラスを斜めに照らし、時折、遠くでAIの声が交通案内を囁く。

それが都市の“子守唄”になるはずだった。


だけど今夜は違った。


私の頭から離れなかったのは、彼の名が書かれた課内ファイルだった。

「黒瀬駿一」

7年前、私がすべてを失った日から、一文字も変わらずそこに刻まれていた。


目撃情報——郊外の廃墟街区、旧・第22エリア。

目撃者は匿名だった。報告の精度も高いとは言えない。けれど、それでも。

「なぜ今、彼の名を再び目にしたのか」

その偶然だけが、私をここまで眠れなくさせていた。


 


彼のことは——忘れたはずだった。

そう、自分に言い聞かせてきた。

もうあの頃には戻れない。彼がどこでどう生きているか、知る必要なんてなかった。

けれど、私はわかっていた。

忘れたのではなく、思い出さないようにしていたのだと。


 

——タバコの煙が、夜空へと吸い込まれていく。


この都市の空は、もう“青さ”を持たない。

人工雲が視界を遮り、星はホログラムの光に紛れてしまう。

それでも今夜は、ほんの僅かに本物の星が瞬いて見えた。

あるいはそれすらも、私が見たいと思った“記憶”に過ぎないのかもしれないけれど。


下を見下ろせば、電子広告が流れ続ける街。

ARで彩られた光の海と、錆びついた路地が混在するコントラスト。

ネオンの滲むその風景は、まるで心のなかの焦点を狂わせるようだった。


こんなにも情報が過密で、こんなにも何も伝わってこない世界。

私は、ここで“ひとり”だった。

彼がいなくなってからの七年間、そのことだけは確かだった。


 


透は、優しい。

彼は私の過去に触れようとしないし、私の沈黙を“沈黙のまま”受け止めてくれる。

ただそばにいて、何も壊さない。

それが、今の私には心地よかった。


だけど。


 


「……駿一」


口の中で呟いてみた。

声になったはずなのに、誰にも届くことのない音。


——あのとき彼が逃げたのは、私のためだった。

彼の暴走した能力、殺してしまった上級生、取り巻く誤解と偏見。

私はそれでも「逃げるな」と言ったけれど、彼は「環には未来がある」と言って背を向けた。

逃げることが彼の“正しさ”だったのなら、私の選択は何だったのだろう。


未来。

それが今、ここにあると言えるのだろうか。


私は夜の街に溶け込みながら、かつて彼と交わした“別れの記憶”を反芻する。

それはいつも、煙とともに浮かび上がってくる。


——この世界は、嘘をついている。

私はそれを知っている。

けれど、どこまでが嘘で、どこからが真実なのか。

今の私には、それさえも曖昧だった。


 


遠くのビルの屋上に、一瞬だけ何かが光った。

それはドローンの閃光だったかもしれないし、あるいは——


私の目は無意識に、その光を追っていた。


彼が、そこにいる気がした。

根拠なんてない。ただ、そんな気がした。


私は最後のタバコを吸い終え、フィルターの焦げ跡を指先で弾いた。

火の粉が風に舞い、ネオンの海に吸い込まれていく。


この都市に流れる無数の光の中に、彼の“生”がまだ残っているのなら——

私はきっと、それを見つけてしまうだろう。


それが、たとえ取り返しのつかない何かを呼び覚ますとしても。


 


私はゆっくりとドアを閉じ、眠れぬ夜へと戻っていった。

眠れないのは、記憶がまだそこにある証拠だった。


そしてそれは、“始まり”の前兆でもあった。

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