まにまに外伝 芽吹きのラフィ ─ 風に揺れる温室 ─
風は、ひとひらの花びらを運んできた。
温室の天蓋を編む蔦がわずかに揺れ、淡い光が降り注ぐ。
ラフィはティーカップを持つ手を止め、目を細めた。
薄桃色の花弁が、白磁の皿に舞い降りる。
「……まあ。今日も、春の風ですね」
囁くように微笑むと、彼女はスカートの裾をひとつ摘み上げて、音を立てずに立ち上がった。
テーブルの上には、ラベンダーとレモンバームのブレンドティー。香りはまだ、柔らかく蒸気を立てている。
ケーキは三種。
ベリーのタルト。くるみと蜂蜜のクッキー。すもものコンポートを重ねたふんわりした焼き菓子。
「今日は、少し頑張りすぎたかしら……?」
けれど口調に疲れはなく、むしろ満ち足りた微笑みを浮かべたままだった。
スプーンを取る手は、まるでピアノを奏でるように優雅で、音もなく皿を滑る。
温室の奥からは、小さな葉の揺れる音。
記録の植物たちが、風の触れるまま、過去を囁いている。
それを聞くでもなく、ラフィはケーキを口に運ぶ。
ゆっくりと、ひと噛み、またひと噛み。
「……もう少し、ラム酒を効かせてもよかったかしらね。でも、春にはやっぱり、柔らかい甘さが似合うもの」
窓のない温室には、それでも「季節の気配」があった。
壁も屋根も植物が編んだもの。陽光の角度、蔦の伸びる速さ、咲く花の種類。すべてが、ひとつの循環を成していた。
そして、その中心にラフィはいた。
「そろそろ、お客様がいらしても良い頃なのだけれど……」
誰が来るというわけでもない。けれど、毎日の午後には必ず、もう一人分のティーカップを置いていた。
白い小さな椅子。背もたれにツルバラが巻かれている。
誰かが腰掛けるのを、ただじっと待っているような、そんな椅子。
ラフィはそっと目を閉じる。
温室の奥の蔦が、かすかにきしんだ。
風が、わずかに止んだ。
そして——
熱が、匂いとなって忍び込む。
焦げた木の香り。
焼けた葉の刺激的な匂い。
ラフィはカップをそっと置いた。
「……来たのね」
その声は、貴婦人のように優雅で、
それでいて凛としていた。
風が止まった。
静かになった空気の中に、別の気配が混じる。
焦げた匂いが、温室の外から入り込んできた。
それは、わずかに金属の匂いも含んでいた。
ラフィは立ち上がると、裾を整え、姿勢を正す。
その動きはひどく静かで、
まるで誰かを迎える儀式のようだった。
蔦の絡まる入口に、黒い影が立つ。
数人の気配。彼らは、ためらいもなく踏み込んでくる。
足音。
それは、草を裂き、土をならす音。
先頭の男は長身で、燃えるような眼をしていた。
ガルブレイズだ。
背後には剣を携えた戦士と、魔力をまとった者が続く。
「花の匂いだと思ったら……こんなものが残っていたとはな」
男の声は低く、あくまで静かだった。
だが、その奥に何かを“決めている”気配があった。
ラフィはにっこりと笑った。
口元には紅茶の残り香が残っていた。
「ようこそ。お茶にしますか?
今日はベリーのタルトが焼き上がっています」
男は微動だにせず、視線を温室の奥へと這わせた。
「ここには……何がある?」
「あなたの足元にあるもの。それだけです」
答えは柔らかく、でもそれ以上でもそれ以下でもなかった。
ひとりの部下が、温室の壁に手を置いた。
蔦が、かすかにその指に巻きつく。
だが、傷をつけるようなことはしなかった。
「植物だけ、か」
男が呟く。だがその口調には、
わずかに“落胆”のようなものも混じっていた。
ラフィは椅子を引いて、いつも空けている席を示した。
「本当に、何も持たずに帰るつもりなら。
ここで、少し休んでいかれては?」
男は、その椅子を一瞥した。
そして、静かに振り返る。
「……火をつけろ」
部下たちが一斉に動く。
手にした魔力の火が、温室の根本へと放たれた。
ラフィは、驚きも、叫びも見せなかった。
ただ、深くお辞儀をした。
「どうか、お気をつけてお帰りくださいませ」
次の瞬間、炎が空を舐めた。
風が走る。熱がうねる。
花が焼け、蔦が焦げる。
紅茶の香りが、焦げた甘さに変わる。
だがラフィは、動かなかった。
静かに、席へ戻り、焦げゆくケーキを見つめていた。
熱がその姿を飲み込む刹那、微笑みだけが残っていた。
すべてが燃えた。
蔦も、花も、白いテーブルも。
そして、ラフィも。
残ったのは、黒く染まった土と、
ところどころ白く崩れた灰。
風が吹けばそれも舞い上がり、どこかへ流れていく。
何も残っていないように見えた。
だが、そこには確かに「静けさ」があった。
騒がしさではない。
怒りや、嘆きではない。
ただ、何かが“待っている”ような、土の眠りだった。
──ある朝、空気が少しだけ変わった。
陽が射した地面の中心、ほんの小さなひび割れから、
ひとつの緑が顔を出した。
それは、名もない芽。
けれど、陽の光に向かって、ほんのすこし身体を起こした。
その隣に、もうひとつ。
またひとつ。
芽は一つずつ、確かに広がっていく。
焼け焦げた大地の下で、生きていたものたちが、まるで合図を受け取ったかのように。
何日目かの朝。
ひときわ柔らかな蔓が、土を押しのけるように持ち上がった。
そこから──ぽふん、と音がして。
白い花びらに包まれたような小さな影が
地面の上に立ち上がった。
それは、ラフィだった。
けれど、もう貴婦人の姿ではなかった。
肩までの白い髪、ひらひらの薄布の服、
小さな手と、土まみれの足。
「……ふぇ〜……ん〜? あれ……おなか、すいた〜……」
ふにゃりとした声が、風に乗る。
彼女は焼け跡を見回し、ぺたんと座り込んだ。
「なんか〜、こげくさ〜い……」
指で地面をほじくって、顔をしかめる。
「ここ、なーんか……だいじ、だった、きがするの〜……」
何を“思い出している”のかは分からない。
けれど、その瞳は、灰の向こうにある“何か”を見ていた。
次の瞬間、彼女はぱっと立ち上がる。
「よーしっ! おちゃ! いれる〜!」
どこに器があるわけでもない。
だが彼女は小枝を拾い、葉をちぎり、
地面に小さな輪を描き始めた。
「う〜ん……こーして〜、こーして〜……ぐつぐつ〜!」
どろっとした草の煮込みができあがった。
味は、ひどかった。
「……まず〜い……うぇぇ……でも、あったかい〜」
笑った。
草に座り、指に泥を塗って、顔をしかめて、また笑った。
風が通り抜けるたび、芽はそっと身をゆらした。
そして小さな温室は、再び、芽吹きの支度をはじめた。
ラフィもまた、歌いながらその中心にいた。
「ららら〜♪ まいにち おちゃのひ〜♪」
黒い土は、
いつの間にか柔らかい緑に覆われていた。
焦げた木のにおいも、今では甘く涼やかな花の香りに変わっている。
蔦はのび、また絡まり、天蓋を編み直した。
その隙間から射し込む光は、季節の変化にあわせて角度を変え、温室を静かにあたためていた。
ラフィは、朝になると目をこすりながら草のベッドから起き上がり、まだ寝ぼけた顔で「ふぇ〜……」と呟いた。
「きょうも、おちゃいれる〜……」
細い腕に小さな籠を提げて、彼女は野草を摘みにいく。
芽を見つけるたびに「こんにちは〜」と声をかけ、葉をちぎるときには「ちょこっとだけ、もらうね〜」と囁く。
摘んだ葉は、石の上で干され、小さな土の壺に保存される。
火は、光る虫の背に宿ったあたたかさを使う。
道具は少なく、調味料もわずか。
けれど彼女はいつも、何かを「作っていた」。
土をこねて器を作り、
花びらを混ぜて砂糖の代わりにし、
甘さも渋さも、舌で確かめながら覚えていった。
「ん〜……きょうのケーキ、かた〜い〜! でも、おいし〜!」
そう言って、もぐもぐ食べる。
ほとんど泥団子にしか見えないものも、「おかわり〜!」とぺろり。
気づけば、温室はかつてのように、緑と花であふれていた。
テーブルも椅子も、蔦と木の枝で編まれたものが並び、
窓辺には干した葉の束、入り口には小さな木靴が並ぶ。
何より、その空間には“誰かが暮らしている匂い”があった。
土の匂い。お茶の香り。花の甘さ。
そして、ラフィの笑い声。
「ら〜ら〜♪ おちゃと〜けーきと〜おひさまのひ〜♪」
歌は変わらない。
でも、それを包む空気が、少しずつ、やわらかく、深くなっていった。
来訪者はいない。
けれど、毎日もう一客ぶんの
カップを置くことだけは忘れなかった。
「だれか、くるかも〜♪ こないかも〜♪ でも、だいじょぶ〜♪」
まるで、なにもなかったように。
でも、確かに“なにか”を越えて——
ラフィは、今日も、芽吹いた葉にそっとお湯を注いでいた。
その日は、風がいつもより軽やかに吹いていた。
朝からラフィは落ち着きがなく、
カゴを持って温室の中を走り回っていた。
「おちゃっぱ〜、よし! はっぱのケーキ〜、よし! にんじんのジュレ……あれ、どこいった〜?」
焦げ茶の髪に花びらが張り付き、
指先には砂糖漬けの蜜がついている。
足元では、小さな葉がそよいで、くすぐるように触れた。
「だれか、くる〜。そんなきがする〜!」
根拠はなかった。
けれど、空気がわずかに変わっていた。
そして──その予感は当たる。
「……ここが“記憶の温室”か」
木々を分けて現れたのは、まにまにたちだった。
先頭を歩いていたユウトが立ち止まり、奥にある植物のドームを見上げる。
「……あれ、建物じゃない。全部……生えてる……」
「生きてる、って感じだね」ナギが杖を手に呟いた。
ソウマは腕を組み、「誰かの住処……ってことか」と低く言う。
その瞬間。
「いらっしゃ〜い!」
ぱたぱたと音がして、草をかきわけて飛び出してきた小さな少女が、彼らの前でぴたっと止まった。
「らふぃ、いま、いそがし〜!
でも、おちゃ、いれるから、まってて〜!」
目をまんまるにしたまにまにたちをよそに、ラフィはくるりと踵を返して温室へと駆け戻る。
ユウトがぽかんとしながら言った。
「……今、妖精みたいな子が通った気がする……」
「通ったんじゃなくて、おもてなししに来たんだよ」
ナギがくすっと笑う。
温室の入口には、
すでにラフィが草のカーテンを開いて立っていた。
「おちゃできたよ〜! おきゃくさま、こっちこっち〜!」
それが、出会いだった。
焼け焦げた過去も、消えた貴婦人の姿も、そこにはない。
あるのは、小さな少女の、明るい声と、湯気の立つティーカップ。
「すきなの、のんでいいよ〜! みんな、よくきたね〜!」
春風のように、軽やかで無垢な笑顔。
けれど、その温室のどこかに、
“かつて、すべてが燃えた”ということを知っている空気が、確かに漂っていた。
まにまには、一歩だけ中へ入り、
足元の小さな芽に目を落とした。
そこにあったのは
——静かに、光に向かって伸びる、緑の意思だった。