「Now here」
都会の雑踏の中、
黒いコートを羽織った青年がビルの谷間を歩いている。
名前は翔、27歳。
目を閉じれば誰かの声が聞こえる気がする。
だがそれはただの幻だと、何度も言い聞かせる。
感情は邪魔だ。
胸の中に封じ込めた箱に鍵をかけ、もう二度と開けるつもりはない。
彼は3年前、大切な人を失った。
それは恋人でも家族でもない、ただ一緒にいることが心地よかった人──友人の陽だった。
陽との日々は色鮮やかで、彼にとって初めて「生きる」意味を与えてくれた存在だった。
しかし、ある日突然、陽はこの世界から姿を消した。交通事故だった。
翔は彼女に最後の言葉すら伝えられず、心を閉じた。
それ以来、翔は感情を殺すことで前に進んできた。
感謝も、愛情も、悲しみも、すべてを無意味だと片付けてきた。
出会いも別れも、どれも価値がない。
ただ時間が過ぎていくだけ。そう思うことで自分を守った。
その日、彼はいつものように定時で仕事を終え、家に帰る途中だった。
街路樹の下に、見覚えのある影を見つけた。
女性が佇んでいる。翔の胸が締め付けられる。
彼女は陽によく似ていた。
いや、似ているどころではない。まるで陽そのものだった。
「陽…?」
声に出してしまった。
女性は振り返り、戸惑いの表情を浮かべる。
彼女は陽ではなかった。ただの他人だと理解するのに数秒かかった。
「あの…誰かと間違えてますか?」
翔は首を振った。
「すみません、気のせいです。」
足早に立ち去ろうとする翔に、女性が声をかける。
「あの、何かあったなら話してください。人違いでも、何か感じたんですよね?」
振り返った翔は、無意識に笑みを作った。
「何もありません。ただの記憶の中の幻影です。」
「幻影…。」
彼女の視線が、彼の心を見透かしているようで居心地が悪かった。
だが、それ以上何も言わず、彼女は微笑んで去っていった。
夜、翔は部屋の片隅に座り込んでいた。
あの女性と話したことが頭から離れない。
「幻影」──その言葉が自分の中で引っかかる。
陽を失ってから、自分はずっと幻影の中で生きていたのかもしれない。
感情を殺し、他人との距離を保ち、自分を守るために。
だが、その代償として、彼は何かを失い続けていた。
陽との記憶が蘇る。
彼女はいつもこう言っていた。
「翔、人と出会うって奇跡みたいなものだよ。だからその瞬間を大事にして。」
彼はその言葉を無視してきた。
陽がいなくなった後、誰とも本気で向き合おうとしなかった。
すべてを無意味だと片付けてきたからだ。
翌日、翔は会社を休んだ。
部屋を片付けながら、昔の手帳を手に取る。
ページをめくるたびに、陽と一緒に過ごした時間が頭をよぎる。
だが、記憶は薄れ、内容もまったく理解できない自分に気付くと、手帳を閉じた。
「俺は何がしたかったんだろう…。」
その瞬間、陽の笑顔が脳裏に浮かんだ。
彼女ならどうしただろう? 翔は立ち上がり、外に出る決意をした。
街の喧騒の中、彼は無数の人々とすれ違う。
誰も彼に気づかないし、彼も彼らに気づかない。
だが、今なら少しだけ理解できる気がする。
出会いの大切さを。
立ち止まり、もう一度周囲を見渡してみる。
そこに、昨日すれ違った女性がいた。
彼女もこちらに気づき、微笑む。
「やっぱり、昨日の人ですね。」
翔は彼女に向かって一歩を踏み出した。
感情を殺してきた自分を少しだけ解放しながら。
「もしよければ、話しませんか?」
彼女は頷いた。
そしてその瞬間、翔は初めて自分が「今」を生きていると感じた。
陽が教えてくれた出会いの奇跡を、もう一度信じてみることにした。