第20話 母のこと
もはや、母の料理の才能については、けっこう知って頂けたかと思いますが、ここで母自身のことについて、少し書いてみたいと思います。それを知ると、さらにその才能の秘密がより理解できるのではないと思っています。
時は、母が高校くらいの頃、今から、かなり前の話しになります。母は、両親と弟と妹との5人家族です。実は、母の父親は、かなり大きな会社の社長を務めており、部下は千人を超えていたといいます。かなり裕福な家庭に育ちました。子供3人、母は1番年上の長女で、3才下に長男、その3才下に次女がいます。
そして、3人には、それぞれ面倒をみる女性が一人ずつついており、学校には、お抱えの運転手が高級車で送り迎え、その他にもメイドさんのような人が4人いたということです。母の弟などは、小学生の頃から、父に内緒で運転手を呼んで、友達を誘い高級車に乗り、遊び回っていて、父親に見つかっては、よく怒られていたようです。一方で、母の父親は、かなり女遊びが激しく、今の時代には考えられませんが、毎日何人も女性を自宅に連れ帰り、夕飯を食べ、酒を飲み、浮気相手も相当数いて、仕事も相当なやり手ではありますが、かなり女遊びが激しく、母の母親はかなり苦労したような印象でありましたが、実際には、母の母親は、まったく女性としての色気もなく、女性らしさも感じられない、男性ならば、女性として相手にはとても選ばない、そんな祖母だったと祖父から一度聞いたことがありました。私も小学生の頃、孫として、とても可愛がられましたが、そんな幼い頃であっても、祖母は、あまり女らしさを感じない、とてもサバサバした人だなと思っていたので、そのことをのちに聞いても、なんとなく祖父の気持ちがちょっとだけわかるような気がしていました。
しかしながら、祖父は、仕事面では、他の会社からの人望も厚く、信頼できる社長として有名だったようで、地位も名誉も金も女性も、半端ではないほどに自由にしていたようですが、実は、ここだけの話しになりますが、この祖父のことは、あまり詳しくは書けないのです。
というのも、母の父親はかなりの有名人で、現在70才代より上の人なら、誰なのかは、わかる人にはすぐにわかってしまうそうです。ここまで書いているのも、この場だけ、特別のことにしています。
そして、その会社に千人の部下のうちの1人として、父がいました。当時、母はまだ十代だというのに、母には、父親から将来的に決められた結婚相手がいたようですが、父は母のことが好きになり、猛アタックします。ここで、ちょっと、息子の立場から言うのも、なかなか気がひけるのですが、母は、けっこう美人で、地元ではかなり有名だったようでした。おまけに、育ちの良さがあふれていたものですから、昔はかなりモテたようです。ということで、十代の頃から、会社の取引先からは、将来、息子の嫁に、という話しがかなりの数きていたようです。
私が小学生の頃、初めて授業参観で、母が学校にきた時、友人から、お母さんきれいだね、とか、ひょっとして、お母さんハーフ?とか、よく言われましたが、当時、自分では何の意識もなかったのです。
当時、母には、回りから多くの誘いがありましたが、父も母にアタックしたすえ、やっと何回か会うことはありましたが、母はまだ十代だったこともあり、父には、別に興味も何もなかったようで、父とは恋愛関係にはなっていなかったようですが、たまたま祖父は、会っていたことを知って、交際していると勘違いして激怒。結婚相手を決めているにもかかわらずと、猛反対です。また、それには、また別の理由があり、実は、父は、会社内では要領がよく、仕事はできるが、サボったりすることも多く、社長である祖父には目をつけられていたようで、さらに1人娘にちょっかいをだしたということがきっかけとなり、会社を解雇されてしまいます。また、母は、そのタイミングで、無理矢理決められた相手と結婚させられる羽目になり、母も家出をしてしまいます。
しかしながら、行く当てもなく、お嬢様育ちで自立もできない母は、仕方なく父の家に転がり込みました。
それが20才の時、母は、父に別に好きも嫌いもない時でしたが、他に行く当てもなく、知り合いもいなかったので、仕方なくおいてもらうことになりました。
そして、次の日から、父の料理の特訓が始まったのです。父は、母に初対面で一目惚れしたにもかかわらず、結婚しても、妻として優しい態度や思いやりなどはまったくなく、私も子供ながら本当に母のことが好きなのだろうか、とよく感じたものでした。
それまで、何もできないし、する必要もなかった生活そのものから、貧乏生活の中、父の厳しい、料理作りの高いハードルを与えられた母には、父は、特に料理の指導をするわけではなく、ただ作れ、の一点張りで、相当に苦労した年月だったようでした。
しかし、そんな、幼さの残る若い母を、近所の主婦たちは優しく暖かく迎えてくれて、中でも、近所の3人の奥さんが、あまりに幼く、家庭のことどころか、とても世間知らずな母をみて、とてもかわいそうに思ったそうです。お嬢様育ちで、料理はおろか、まさに、絵に描いたように、箸より重いものを持ったことのない母に、とても同情した3人の奥さんたちは、その日から、家事の一から徹底して教えてあげようと決意したということでした。
「宮本と申します。宜しくお願い致します。」
さっそく、ご近所に挨拶に行った母は、もう2度と家には帰れないかも知れないと覚悟していたようでした。
母は、父の家にやっかいになるのに、今とは違って、結婚していない男女が一つ屋根の下に住むなど、同棲などは、当時はとても考えられませんでした。それに、別に父のことが好きで、きたわけではないのですが、人にはそんなことを言うわけにもいかず、当然、籍も入っていないけれども、近所の手前、宮本姓を名乗っていたそうです。一方で、父は母との結婚を望んでいたので、これ幸いと迎い入れ、結局は、その後、結婚してしまいますが、こんな結婚の縁なんて、とても時代を感じますね。今では、とても、ありえない話しです。
さて、近所の3人の主婦たち、もちろん私は、名前まで聞いたことはありませんので、ここで、佐藤さん、鈴木さん、高橋さん、と仮に名前をつけておきます。この3人こそ、家事に卓越した3人であり、何もやったことのない母に、とてもよく教えてくれたそうで、色々な面でよくしてくれたということでした。母の、料理や家事が上達した秘密は、その近所の主婦3人にあったのです。
3人で色々と話し合った結果、佐藤さんは主に料理を教える担当、鈴木さんは掃除や洗濯の担当、高橋さんは裁縫の担当です。話しの内容だと、母は、3人は自分の母親くらいの年齢かと思っていたようですが、父の話しによると、実際には40才くらいで、意外に若かったらしいです。しかし、この3人は、家事について、なんでもよくできて、なんでもよく知っている。母は、子供が、料理や家事を学ぶくらいの基本的なことから、実に事細かに丁寧に教えてもらっていたそうで、この3人のことは、料理や家事の生涯のお手本として、いつまでも忘れずに感謝しているそうです。
まずは、佐藤さんが、
「今日から、ご飯の美味しい炊き方を教えるわね。」
と、今日から、料理の仕方の前に、基本から教えてあげよう、ということになっても、まず、ご飯を炊くやり方もわからない。それどころか、包丁やまな板も、触ったことがないどころか、今までみたこともないというのを知って、世間知らずにもほどがあると思い、あきれてしまったそうです。まず、最初に、ご飯の炊き方を教えることにしたのは、ただ、母がご飯を炊いたことがないからだけではありません。
「お米は、日本人として生まれて、主食として、何よりも大変ありがたい食べ物であって、1番感謝をして大切に食べなければいけないの。だから、その、炊き方も、注意深く気を使って、美味しく炊かなければ申し訳ないのよ。それが日本人としての心使いなのよ。お米をとぐ時も、力を入れすぎず、お米一粒一粒が欠けてしまわないように気を使って、とぐことが大切よ。」
そして、その後も、料理を教えようにも、ただ料理ができない人に教えるようなレベルではなく、台所で使うものもそろっていないので、色々と必要なものを、母と買いそろえていったということです。しかし、そんなことも気にせず、3人の主婦たちは、母には、昼間、様々なことを教えて、夕方には、自分の家で夕飯の支度をしたのち、余分に作ったおかずを度々、もたせてくれる。そのおかずも、本当に家庭のおふくろの味のようなものを作って、もたせてくれても、母は、あまり、見たことも食べたこともないものも多くて、母は、いったいどんな生活をしていた娘かと思われていたそうです。しかしながら、一方で、主婦たちとテレビをたまたま観ていると、3人がこれまで見たことも聞いたこともない料理を、母は信じられないようなレベルで、とてもよく知っている。それどころか、レストランではなくて、うちで食べていたということを知って、3人は最初、冗談かと思うくらい、驚いたそうです。
そして、基本的な包丁の使い方や、様々な台所用品の使い方や、初めてのお味噌汁の作り方、煮物の煮方や、焼き物の焼き方などの基本的な料理法を教える度に、その微妙な煮る具合や焼き物の焼き具合など、そして味付けの仕方などは、一度教えると味見などしなくても味がわかるようになり、焼き色を見ただけでこの火力だと何分くらいとか、感覚で、すぐ的確に判断してしまうようになったのには、驚いていたそうです。そして、一度やり方を覚えると自分なりのやり方に変えていき、実に早く終わらせることができて、常に同じことをいかに上手に早くやるかということを、すぐに習得しているようだったということです。こんな感覚の持ち主でしたから、人の何倍も早く覚えられるので、佐藤さんも、次々と新しいことも教えていって、とても上達が早かったそうです。
そして、佐藤さんがよく言っていたというのが、
「料理がうまく作れない人ほど、作りながら味見をします。それは、自分の味付けに自信がないからなのよ。」
実は、実際には、味見しないで作ることはとても難しい。なにも知らない母は、それを当たり前だと思って、実際に習得してしまったというわけです。しかし、もしかしたら、佐藤さんが、母の才能を見抜いて、あえて厳しく言っていたことなのかもしれません。今となっては、その真意はわかりかねますが。
それに、これまで母が育ってきた中で、一つだけよかったのは、贅沢三昧で育ってきたことで、その時まで食べてきたものが、普通なら食べられない高級なものばかりで、本人も気づかないうちに、様々な味に出会ってきたことで舌がかなりこえてきてしまったことが、料理を覚える上でかなり役立ったのだろうと思います。
次に、掃除や洗濯担当の鈴木さんのことですが、洗濯は、もちろん洗濯機で行なうのですが、その干し方、畳み方などは、当然、母には、みたこともやったこともないので、わかりようもありません。同様にどう干すのがよく乾くのかとか、干し方を工夫することでアイロンかけの手間を減らすための方法やら、ついには、畳み方を上手くやることでアイロンをかけずに済むことまで、決して手抜きではなくて、手間を減らすことで、家事の時間を短縮する工夫まで教えてもらっていて、母は、その工夫の仕方に感動して、喜んで教えてもらっていたようです。そして、母の干し方、たたみ方は実に素晴らしかったのを覚えています。
一方で、洗濯は、脱いだあと、出来るだけ早くすることが大切ということです。洗濯物は、長く置くほど汚れが落ちにくくなるのと、一度に洗濯する量がたまり洗濯機に入れる量が増えると、汚れが落ちにくくなる。
そして、掃除は、清潔にするため、汚れないようにするためのことであって、汚れたからするものではないということです。そもそも汚れないようにするために、習慣的に行なうことを言うのであり、同時に自分の心を整えるために行なうことだということです。
そして、母もこれに習って、よく洗濯も掃除もよくしていましたが、洗濯については、最近の洗剤の方が汚れがよく落ちるので、鈴木さんも、今だったら、少し考えが変わっていたかもしれません。しかしながら、いつも綺麗にしておこうという心がけは、人の心も同じように綺麗でいたいということだったというので、母はとても感銘を受けたということです。
次に、裁縫担当の高橋さんです。
「裁縫ができることは、料理ができることと同じくらいに、女性として当然のたしなみです。」
これが、いつも、口ぐせだったという高橋さん。ただ縫うことは、どんな人でも、そこそこできるようにはなる。だけど、縫ったあと、これは、どこをあとから縫ったのかがわからないようにならなくては、縫った意味がない。あとから、ここが縫ったあとだ、などとわかるようでは恥ずかしいと言われたというのです。
もっと言うなら、洗濯した後、洗濯物をたたむ時に必ずほつれたところをチェックして黙って縫って直しておき、直したことを言わずに、直したことも気がつかないというのが理想だというのです。普段、裁縫をしていることにすら、あまり気づかれなければ、合格です、とのこと。また、ここがほつれたとか言われたら、その時点で失格、こちらで、先に気づいて本人に言われる前に修繕しておくのが主婦として当たり前のことです、と、いつも言われていたそうで、これは、実は、母は、そのまま体得していて、実践していました。つまり、縫い方も縫ったあとも素晴らしかったのです。もちろん、そのほつれ方や、ひどい切れ方をした時など、絶対に跡が残ってしまう、修繕が難しいレベルの場合も、たとえ直した跡がわかっても、きれいに直っていると思われれば、それは合格ということです。
実際に、私の高校の制服のボタンが、緩んできた気がしたとたん、次の日には、しっかりと直っていたという経験がありました。高橋さんから教わった通り、忘れずに、必ずチェックをしていたのですね。
そういえば、母の母親は、料理は作りません。当然といえば当然ですが、料理を作る料理人も、家事を様々、掃除をやる人、洗濯をやる人、など、身の回りのことなどもやってくれる人が何人もいましたから、何もする必要がなかったのです。これでは、母も、本当に何もできなくて当然だったというわけです。
それに、ある料理人が、次のように言っていました。子供には、高いものを食べさせなくてもいい、大人になってからいくらでも食べることができるからと言う人がいますが、そうではなく、小さなうちから、高いもの、本物を食べさせることが、何よりの情操教育になるという。母は、まさに、そういった食生活を送ってきて、その中から、食に関して非凡な才能を養ない、開花させることができたのだと思います。
さて、家庭において、主婦としての母はというと、本当に手前味噌ではありますが、100点満点、であると私は言いたいのです。掃除、洗濯など、とにかく母は綺麗好きでした。なかなか、ここまでの綺麗好きの人はいません。すべてが、3人の主婦の影響は大きいとは思いますが、正直言って、すぎるほどなのです。裁縫なども、近所の主婦から教えてもらったことで、メキメキと腕を上げて、簡単で綺麗に仕上げてしまうので、きっと生まれつき手先も器用だったのでしょう。雑巾も手縫いで山のように作っておきます。
そして、掃除は、これも自宅にいる時は、家の中の掃除をやるプロみたいな人たちが何人もいたので、やることはなかったのに、嫁いでから、家の中はピカピカで、少し汚れても気になって、掃除もよくしていました。やはり、幼い時から、多くの使用人によって、いつもきれいになっていた豪邸に住んでいましたから、いくら自分がやるようになったとはいえ、きれいにしておかないと我慢ができなかったこともあったようです。雑巾などはたくさん縫っておいておき、頻繁に取り替えて洗濯していたので、汚れたから洗濯するというものではなく、一度使うとすぐに洗うというもので、いつも真っ白で、友人の家に行った時に見たふきんよりも綺麗だったのは、とても驚いたものです。それから、小学生の頃、学校にあった雑巾が、家にある雑巾と比べて、あまりにも汚くて、本当は、これが世の中に多くある雑巾なのですが、自宅にある雑巾があまりにきれいすぎて、食事の際に口を拭けるようなレベルであり、こういうものを普通の雑巾だと思っていました。結局は、母の家事は、逆に、家事をしっかりとやりすぎて、身体をこわさなければいいけどと、いつも家族で心配していたほどなのです。
それから、父の会社が中華の調味料を扱うようになってから、母も中華料理についても、以前にも増して、かなり興味を持ち、多くの本を読んでいました。そのおかげで、その調味料の使い方を様々理解したことで、売り方も広がって、その後の中華調味料の売り上げにかなり貢献したということです。やはり、料理に関するセンスというか、その感覚が生まれつき違っていたのだと思います。
そして、母の性格も、料理を極めることに大きな影響があったのではないかと、今さらながら感じているのです。というのは、結婚して、姉を産み、私が生まれて、まだおんぶされていた頃のことです。
今、考えても信じられないような出来事が起こったのです。乾物屋の店をやめて、穀物の輸入卸の会社を立ち上げた頃のことだったのですが、父は会社をまだ1人で行なっていて、毎日かなり忙しくしており、従業員をそろそろ雇わなければどうにもならないというギリギリだった頃のことでした。
突然、刑事が数人やってきて、
「宮本勝太郎だな。窃盗容疑で逮捕する。」と、いきなり連行されて行きました。
母は、あまりに突然のことで、まさに寝耳に水。父は、性格がとても冷たく、家族に対しても優しさなどはありません。それは、仕事の上でもそうでした。当時、この先、会社はけっこう忙しくなって、かなりの利益を生む会社となっていくのですが、人に優しくも出来ず、感謝の言葉など一言も発しているのを見たこともない。そんな父が会社で成功したのは、当時、まだ子供だった自分にとって、奇跡としか思えませんでした。
しかし、そんな父でありましたが、決して悪いことなどする人ではありませんでした。
「ちょっと、待って下さい。何かの間違いです。何があったのですか。とにかく、夫は悪いことなどしていません。」
母は、とりあえず引き止めて、話しをしようとしたのですが、逮捕状がでていて、とにかく連行されて行ったのです。
父は、知らずに盗品をある業者に売ってしまい、その商品を持っていた業者が盗んだ犯人を探していて父を犯人と断定して、警察に訴えたのです。そこまでの経緯では、偶然にも父には不利な条件が揃っており、また、後日、明らかになっていったのですが、まだ若かった父は、会社の景気が上向きになっているのを妬まれて、はめられてしまったということでした。実は、父は、仕事の上では、若いのにけっこうやり手で、取引先にも評判は悪くなかったのですが、なんせ若いのにそれほど愛想もよくない、それなのに自分たちよりも会社がよくなっていくというのを、よく思わなかった人たちが、この機会に父に濡れ衣をきせたということでした。当時の、警察の取り調べは、とてもひどいもので、取り調べという名前の拷問のようで、自分が犯人だと自供するまで、言葉の暴力で追い詰める、そんなやり方でした。とにかく、自分がやった、という言葉を聞くまで責めるだけという行為の繰り返しです。
母は、次の日から、取引先すべての会社に連絡をして、事情があってしばらく取引をお休みするということにします。とりあえず、父のことをなんとかしなければなりません。その頃、真冬の寒い中、まだ幼い私をおぶって、小学生だった姉を連れ、まずは、父に面会に行きました。
父は、荒くれのような刑事の激しい取り調べに、すっかり気落ちしていました。
「あなたが犯人なんて信じられない。あなたは、人に冷たくもするし、ひどいことも言うけど、決して犯罪を犯す人じゃない。私が1番よく知ってますよ。」
「お前、久しぶりに会うなり、ひどいこと言うなあ。しかし、おれは、もうだめだ。もう、おれには、犯人はわかってる。おれは、はめられたんだ。○○のBだと思う。だけど、刑事が言うには、おれがやったという証拠があるというんだ。その証拠で残っていたものはおれのものだから、もう言い訳できないんだよ。」
「何を言ってるの。やってなければ、どこまでもそれを貫いて、もっと堂々としてなさいよ。いつもの威張っていたのは、どうしたの。そんな弱気になって、あなたらしくないわよ、」
まだ、20代後半の若さだった母は、そんな父に激しく言い聞かせて、とても気丈でした。
その後も、子供を連れて毎日、面会に行く母。そして、刑事にも、話しをしに行きました。
「宮本の家内です。どうか、話しを聞いて下さい。夫は、あんな人ですが、悪いことはできない人です。もっとよく調べて下さい。どうかお願いします。」
くる日もくる日も、父を元気づけ、刑事に説得する母、
「昨日、もう罪を認めなければ、かえって罪が重くなるだけで、素直に認めた方が罪は軽くて済むと言われた。おれは、もう限界だ。おれ、今日、罪を認めるよ。」
「何、とんでもないことを言ってるのよ。あなた、本当にやってないんでしょ。」
「おれは、人のものなんて盗まない。本当に、やってはいない。だけど、もうどうしようもないんだよ。別に人を殺したわけでもないんだから、大した罪にはならんだろう。」
「だめよ。絶対に罪を認めたら、だめ。どこまでも、無実と言って、罪を認めないでちょうだい。私がなんとかするから。あなたを絶対にここから出してあげるから、それまで待っててちょうだい。必ずよ。わかったわね。」
その後も、何回も刑事に再捜査の依頼をする母でした。そして、あまりのしつこさに刑事も、とうとうお手上げになりました。
「奥さん、あんた、こんなに若いのに、たくましいなあ。ここまであきらめずに、今日まで欠かさずにやってきて、根性あるなあ、見直したよ。ここまでやる人は、見たことない。旦那さんもいい奥さんをもらったな。ここまでされたら、おれたちもこのままでいるわけにはいかないな。わかったから、もう一度だけ調べてやるよ。もう少し待ってくれ。」
すると、母は、父に言われた情報や、めぼしい犯人のことなど、すべて話し、再捜査を頼みました。
その結果、父の情報が的を得て、捜査が進み、とうとう真犯人が捕まりました。約ひと月の拘留ののちに、真犯人の逮捕となり、釈放が決まりました。
その日、雪が降りしきる中、警察署の入り口で、2人の子供と待っている母。奥からは、疲れ切った表情でふらふらとした足取りで、父が出てきました。
すると、
「おかえりなさい。お疲れ様でした。」
「おう、本当に、ありがとう。しかし、よくやってくれたな。本当に感謝してるよ。しかし、本当に、よく捕まったな。お前、すごいよ。これから、お前には、このこと一生言われるんだろうな、はははっ。」
「当たり前でしょ。これからは、威張らせないからね。」この時、父の言った、ありがとうは、生涯で唯一の心のこもっていた最高のありがとうでした。やっと、ほっとした表情になった2人は、その時、心の底から喜びを感じたようでした。
本当に、母は、どんな時もあきらめず、どんな逆境に遭っても弱みをみせないし、絶対に挫けません。父の会社が不景気で、ピンチでイライラしている父でも、横目にみて、いつものように平気でいる母でした。どれだけ、強心臓なんだと、みんなで思っていたのでした。母には、弱い、とか、負ける、とか、あきらめる、などの言葉は通じません。かといって、そこまで強いものを持っていても、決して父よりも前には出ずに、父よりも三歩下がって控えている、まさに昭和の妻の姿でした。そして、どんな時でも決して倒れることもなく、むしろ回りが倒れそうなのを見て、元気づけて助けて支えている母。父からの料理の追求に負けることなく極め続けられたのは、そんな母だったからなのだと思います。




