ゴブリン(2)
「小鬼の心を見つめすぎたのね」前世の私はそう言うと、自分のカップからコーヒーをひとくち飲みました。「そうでなくても、死にゆくものを長く見つめるのは良いことじゃないわ。ほら、よく言うでしょう、君がもし深淵を長く覗き込むならば」
深淵もまた君を覗き込む。ニーチェですね。
「うん、そう、それ。あなた、ふだん以上に無理をしたうえに、魔力溜まりの魔力を吸い上げて魔法を回してしまったから、自分の許容量を越えて、見るべきでないものを見てしまった。……あのままだと、あなたはあれに呑み込まれるか、それとも魔法の効かせ過ぎで本当に路傍の石に変化しちゃうか、どちらかだったわよ。」
あの、あれは一体、なんだったんでしょう?
「あれ、あなたニーチェは覚えてるのに、あれは思い出せないの? あれは『人喰い』、小鬼や犬鬼や大鬼の王。あるいは□□。もしくは□□、ある意味では輪廻転生の一端を担うとも言えるわね。■■■に信仰の道を諦めさせて、心理学への探求へと導いたものと、同じものよ。」
ごめんなさい、よく聞こえないんですが。
うーん、と彼女は眉をひそめて、私の目を覗き込みました。
「やっぱり、ここに呼ぶのは早すぎたか。まぁ、あのまま放置しておくわけにもいかなかったし、仕方ないんだけど。……そうか、今のあなたにはここも『深淵』か。あまり長くいるべきじゃないわね。」
すいません、お聞きしたいことが沢山ある気がします、なのに頭がとてもぼんやりとしていて、うまく考えられないのです。
「お仲間があなたを助けに来てる。大丈夫、もうすぐ戻れるわよ。」
待ってください、あの、ううんと、ええと……。
「ひとつだけ具体的なアドバイスをあげるわ。転生というのはね、ネイ、あなたの世界では闇の眷属たちの業だとされているから、気をつけて。自分が転生者だなんて触れて回ってると、寿命が縮むわよ。」
ち、ちょっと待ってください、それって……。
前世の私は、とびきりの笑顔を私に向けました。「大丈夫、きっとまた会えるから。またそのときに、ゆっくり話しましょう。」
* * *
ばちん!と、音がした気がします。
気付くと私は妖術師の洞穴で、ランクさんの腕の中で横になっていました。エルフの魔剣士は私を護るように手を広げて、『抗魔力場』を展開しています。ばちばちと、魔力溜まりの魔力が力場に反応して青白い光をあげているのが、とてもきれいに見えました。
「あぁ!クロムちゃーん、ネイちゃんが目ぇ覚ましたよー! な、ネイちゃん、平気? どっか痛いとか、気持ち悪いとか、ない?」
私は首を振って、ランクさんの手を借りながら立ち上がりました。ちょっとくらくらしますが、その程度で済んでいるようです。「ええ、大丈夫です」と、私は応えました。
「小鬼の死霊術師の死体のとなりでネイちゃんが倒れてて、ようわからんけど何かしらの魔法がネイちゃんに向けられてるみたいやったから、やつが最後に呪いでも掛けたんやないかと思て……。ほんまに大丈夫? お腹痛いとか、ない? 平気?」
クロムさんが駆けよってきて、ランクさんから私のことを引ったくるようにして、がっしりと抱擁をしてくれました。
「よかったぁ……このまま目を覚まさなかったら本当にどうしようかと思ったわよ。」
あの、クロムさん抱擁が容赦なさすぎて息ができないです、鎖帷子がごりごり当たって痛いです……。私がばたばたしていると、クロムさんはようやく気付いて、身を離してくれました。
「よくやったよネイ、本当に、またあなたに助けられたわ。」
そうは言っても、クロムさんもランクさんも、充分に仕事はされていたようでした。もう動かないエティンの死骸は、サイズ感が半分くらいにまで削られています。通路を埋めつくすゴブリンの死骸も、その多くが原型を留めていません。妖術師を倒したことで、動く死体たちはもとの動かない死体に戻ったようですが……。
「あの、私が何もしなくても、お二人で何とかしていたのでは?」私は素直に、そう聞いてみました。
「んー……どうやろ。五分五分、やないかなぁ。」
「そうだね、こっちはもう少し分が悪かったと思うよ。まぁ、何とかできたかもしれないけどね、それでも妖術師がまだ他に切り札を残してたかもしれないわけだし、どっちみち、あなたの功績は間違いないよ、ネイ。」
* * *
任務を達成したら、ひと跳びで街まで帰れたら楽なのですが、当然そんなわけにもいきません。疲れた身体を引きずって、私たちは森のなか、来た道のりを辿って帰路につきました。
旧道に着いたころには、もう日は落ちていました。
「無理せんと、明日はもっとペース落として、二日かけるつもりで帰ろうか」宿営の焚き火で、兎と香草のシチューを小鍋でかき混ぜながら、ランクさんが言いました。兎も香草も、ランクさんが道中で手際よく手に入れたものです。
「賛成だね、慌てる理由もないし。」クロムさんは酒瓶を傾けながら答えます。
「私も、そのほうが正直、助かります。」堅焼きパンを取り分けながら、私も答えます。
ささやかな夕餉を済ませると、クロムさんはとっとと横になり、じきに寝息を立てはじめました。私も横になりましたが、どうもうまく眠れません。疲れているはずなんですが、目を閉じると魔力溜まりの洞穴や、玉座の間と『人喰い』、ソファとカフェテーブルとコーヒーなんかが、頭のなかをぐるぐると巡るのです。
あるいは、久しぶりにコーヒーを飲んだせい、だったりするのでしょうか、この不眠は?
「どしたん、寝られへんの?」ランクさんが目ざとく気付いて、私に優しく言いました。
私は彼に、もやもやと返事をして、あきらめて身を起こしました。ぱちぱちと燃える焚き火を、しばし見つめていましたが、眠気はどこかに行ったまま、戻ってくる様子はありません。
「ねぇネイちゃん……あんたはん、何を見たのん? あの洞穴で、倒れてる間に。」
「……秘密です。」私は少し迷ってから、笑ってそう答えました。
そっかー秘密かー、とランクさんも少し笑って、それから二人でしばらく黙って、焚き火の揺らめきを眺めていました。
「異邦人の話やけどな。」ランクさんが話し始めました。ちょうど前世の私のことを考えていた私は、心を読まれたのかとどきりとしましたが、ただの偶然のようです、ランクさんは何の気なく、そのまま話を続けました。
「南の宿場町から、もすこし南のあたりに、うちの知り合いで、やたら歴史が好きな土精が居ててな。ネイちゃんの言うエイリアンの手掛かりがあるとしたら、うちの知ってる限りやと、そいつんところやと思うねん。」
私は礼を言いました。町に帰って落ち着いたら、クロムさんにも相談してみましょう。
きっとまた会えるから、と、別れ際に彼女は言いましたが、はてさて、いつになることでしょうね……?
【クエスト:ようじゅつし の とうばつ】
【クエストを たっせい しました】