ゴブリン(1)
妖術師は失われゆく意識のなかで、何か危険な呪いの術式を組みたてていましたが、もう遅い。
私はそんな彼に向けて『提案』を投げかけます。あなたにとっては残り少ない貴重な時間です、呪いなんかに使うのは勿体ないですよ。彼は私の提案通り、今際の際の走馬灯へと意識を向け、そちらのほうに耽溺してくれました。
普段なら抵抗されたのかもしれませんが、すんなり通じてしまいました。彼の意識が薄れつつあるせいかもしれませんし、あるいは、魔力溜まりによって私の魔法効果が増強されてたのかもしれません。
私は油断なく、消えゆくゴブリンの意識を観察し続けました。
彼の走馬灯は、驚くべきことに、前世から繰り返して続いていました。ふつうのゴブリンとして、ゴブリンの戦士として、ゴブリンの妖術師として生まれ、時には内輪揉めで、多くは冒険者に倒され、まれにその短い天寿を全うして生涯を終え、という繰り返し。迷宮管理者になるのも、彼の認識では今回が3度目のようです。
これはまったく、驚くべきことです。私は、自分自身を除いては初めて、この世界で転生している生き物を知りました。さてゴブリンは、種族として転生をするものなんでしょうか、あるいはこれは彼個人の特殊性なのでしょうか。
もう少し詳しく確かめたいところですが、ゴブリンの意識は今まさに消え去るところです。これ以上深く調べることは、叶わぬ願いでしょう。
私は、ゴブリンの意識が完全に消えるさまを、最後まで見届けました。幾重にも連なる思い出のなかを安らかに、彼の意識は闇の奥底へ、ゆらりと沈んで消えました。念には念を入れて、さらにしばらくそのまま観察を続けましたが、先ほど見た緋色の縄の発動も確認できません。
ちょっと心配していたのですが、自分自身の死を制御するほどの技量は、この小鬼の死霊術師は持ちあわせないようでした。
やれやれ、大冒険でしたが、これで一区切りついたことでしょう。私は『心理探査』を切り上げようとして……
……闇の奥底から、
何かがこちらを、
見ていることに、
気づいて、
しまいました。
* * *
気がつくと私は、黄金色の玉座のある広間のなか、冷たい敷石の上にへたりこんでいました。
広間は窓もないのに変に明るく、それは先ほどの魔力溜まりの洞穴に似ていなくもないですが、それよりも何十倍も明るくて、玉座の上に居るものを照らしていました。
それは玉座の座面から真っ直ぐに天井へと伸びていて、初めは太い黒い木の幹のように見えました。が、私はすぐに、それが生きた肉、皮に覆われた肉の塊だと気付きました。それの頭の頂点には目が唯ひとつ、真上をじっと見つめています。
玉座に続く床には、毛足の長い上等な絨毯、その色は血のような赤。絨毯の先には重たげな深緑の垂れ布、その先にも何か部屋があるようですが、こちらからは見えません。
玉座の主は、ぴくりとも動きません。辺りには、耳が痛いほどの沈黙しかありません。
私は、今いるここが何らかの心象風景なのか、それとも物理的に強制転送させられた現実世界のどこかなのか、区別がつかないでいます。
私の身に付けているものは、ここに来る直前と変わりないようです。初級魔導師セット、使い古しの外套に揃いの上着、魔法の詠唱を妨げない軽革鎧、地味な色味の股引に革靴。首飾り型の魔除けの護符も身に付けています。けれど、腰の革紐には杖棒も直刀小剣もありません。気付けば背嚢も無いようです、どこにいったのでしょう。
掌のなかにじんわりと、嫌な汗が湧いてくるのを感じます。
危険な事態です。もしこれが心象風景だったとしても、これほど現実的に自己認識した状態では、ここで傷つけば現実にも傷つき、ここで死ねば現実にも死ぬことでしょう。
あぁもう、一難去ってまた一難、ということですか。
幸いにも、相手がこちらに気付いている様子は、まだありません。『存在秘匿』がまだ効果を保っているのでしょうか、だといいのですけど。
身じろぎもせず玉座に居座るそのそれは、とても大きいのですが、どれくらい大きいのか、うまくいえません。具体的なサイズ感のとらえどころがなく、ただとても大きい。まるで、幼少のころに見上げた父親のように、大きく見えました。
正体不明のそれが、今にもこちらに目を止めて、虫のようにこちらに向かってくるのでないかと、私にはひどく恐ろしく思えました。いまの私には杖も剣もなく……いえ、あったとしても役立つでしょうか? 相手は相当に高位の、魔神か何かのようにも見受けられます。
そこまで考えてから、私はようやく、常時展開してていたはずの私の『生物探知』が、消えているのに気付きました。
魔法が使えない? そう気付くと、背筋に冷たいものが走りました。それでは、ここにいるのは只の人間、平均よりすこしは健康的な、14歳の小娘でしかありません。
相手がただのゴブリンであっても、今の私なら容易に引き裂いてしまうことでしょう。ましてや目下の相手は、恐らくはゴブリンたちの魔神。
……何か、この正体不明のものについては、前世の記憶にある、ような、気も、します。
私はとっさに、その記憶の棚を閉じ、目を反らしました。思い出してはならないもののように思えたのです。思い出すことによって何かが変わってしまう、観測することで確定してしまう危険な要素が、あれには潜んでいた気がします。
私の薄い胸の奥で、心臓がむちゃくちゃに叩き鳴らされています。ええと、どうしましょう、僧侶職なら聖句でも唱えるのでしょうけれど、生憎と私は祈る神を持ちません。
効き目があるかどうか怪しみつつ、それでもそれしか頼るものもなく、私はアミュレットを胸元に掻き抱いて小さく身を屈め、そこに書かれた秘文字をじっと見つめました。ランクさんに教わった共通語訳を、口のなかで繰り返し呟きます。私は路傍の石である、私は路傍の石である、私は路傍の……。
「思い出せないの?」と、すぐとなりで誰かが、私に告げました。
「それとも、わざと思い出さないの? あれは、『人喰い』よ。」
私の恐怖は頂点に達しました。私は慌てて、その声の主から距離をとろうと、飛び退こうとして躓いて、ぶざまに床に転がりました。
* * *
いそいで立ち上がろうとする私を、声の主が優しく押し留めました。
「もう大丈夫よ。ほら、座ってて。」
私は、彼女の優しい声と仕草とに、気を取り直して、改めてソファーに座り直しました。
……ソファー?
私のお尻の下には、さきほどの冷ややかな敷石ではなく、ソファーの座面がありました。クリーム色の、柔らかすぎない絶妙な座り心地の、古いけれどよく手入れのされた品のようでした。
気付くと、私はまた違う場所にいました。うすい緑の壁紙、何かの薫香のよい匂い、背後から小さく聞こえる冷蔵庫の駆動音。辺りの気配はとても穏やかで居心地がよく、先ほどの不穏な緊張感は完全に消えています。どうやら、もう安全なようです。
かちゃり、と白いマグカップが、目前のカフェテーブルの上に置かれました。私はなにも考えられずに、ただそのカップを手にとって、温かく芳しいその琥珀色の飲み物に口をつけました。
コーヒー、ですね。前世では馴染みぶかい飲み物でしたが、今世の私は生まれて初めて飲むはずです。
……あぁ、こんなに美味しいものだったんですね。
「落ち着いた?」
あ、はい、ありがとうございます。
私は、寝惚けたようなぼんやりとした気分のまま、その声の主を見上げました。ふり仰いで私が見た彼女の笑顔は、かつて鏡のなかに見ていた馴染みぶかい顔、前世の私のものでした。