第二章「特別監察官」(2)
レイスに謝した後、リヨンは椅子に座ったまま目を閉じた。脳内に転送された電子資料をめくっていると、ある監察官の調査記録が目についた。
惑星バハムート3は惑星環境操作の模範的な成功例であったが、大気の分厚さから、宇宙との交信が容易ではなかった。いくつか基地局を設けて通信を試みた痕跡があるが、当時の技術では限界があったのだろう。これもこの惑星がガラパゴス化した要因の一つに違いない。
モース文明圏には移民たちの住んだ遺跡がいくつかある。彼らの文明が何故滅び、現在のモース王国に受け継がれなかったのかは不明だが、それらはモース王国の遺跡そのものと混じりあうように点在している。
前任者であるベラという名の監察官は、ムゥの生態に興味を持ち、彼らに関するレポートを残している。
『モース王国におけるムゥは家畜である。ムゥは例外なく女系であり、女しか生まない。故に、彼らは常に人間との交合によって種を維持している。彼らが生みだされた時に、何かの遺伝子操作が行われたのかもしれない。恐らくそれは、モース人から見れば太古のことである。我々は、〈人類宣言〉以前の野蛮な時代――特に開拓時代初期と重なる時代の科学水準を過小評価しがちであるが、遺伝子操作に関しては紀元二十世紀の昔から行われてきた歴史がある。
モース人にとってムゥとは、第一に労働力であり、第二に性欲処理の対象である。若い男がムゥで童貞を捨てるのは常識であり、多くの人間の女たちが男の性処理から解放されている。ただし、ムゥを妻に迎えることは禁忌とされ、権力者や大富豪などは彼らを側室のように置いていることはあるものの、社会的な地位は極めて低い。
質の高いムゥは古の娼婦にも似て、交合する相手を選ぶ権利がある。実際にはそのようなものは存在しないが、男たちの競争の結果、彼らの方に選択権が移ることがある。ただし、その場合も、ムゥが服従すべき主人を選ぶという意味では変わりない。
情婦として価値の無いムゥは、人間が忌避する最も過酷な労働を任される。年老いたムゥにとって、この世は地獄である。
ムゥの妊娠率は、恐らく極めて低い。彼らは種の存続のために、人間とは桁違いの数の交合に挑まねばならない。人間の男にしてみればこれほど好都合な生物はいないだろうが、繁殖力の低さに反比例するように、ムゥは運動能力、知能を含むあらゆる面において人間を凌駕している。
ムゥは生まれた時に人間と間違えられないように顔に傷をつけられる。これは人間の女が嫉妬心から始めた風習だと云われているが、古風を残している地方では数字を象った傷を付けており、単に管理の面から行われるようになったと思われる。傷ではなく入れ墨を彫る場合もある。
この世にムゥを縛る法は存在しない。全ての法は監督者たる人間のためにある。そしてムゥは人間に絶対服従する』
他にも興味深いレポートが多い。監察官というよりは、学者のフィールドワークに近い印象があった。だとすればこれほど不真面目な役人もいまい。それは「余暇を使って」研究論文をしたためたというレイスも同じだろうか。
「おや、これは?」
熱心な記録を辿っていくと、突然、断章があった。
――〈雲の上のバハムート〉だ。全てはそこにある。
直前の記録は飛び飛びで、突然この文章だけがあった。恐らく推敲する暇もなかったのだろう。
バハムートと言えば、古文書に出てくる途方もなく巨大な魚の怪物のことだ。何故、雲の上に魚がいるのか。
奇妙に思って監察官ベラのデータを読み込む。すると更に奇妙な記録に出会った。
「死んだのか。この星で――」
異民族同士の衝突に巻き込まれて行方不明になったとある。いくらこの星より千年先を行く技術を持っているとはいえ、生身の人間であるなら不思議なことではない。
レイスに問うと、彼は興味深いことを言った。
「ああ、もう何年前になりますか。二度、捜索隊が派遣されましたが、何せ電波がろくに通じない星でして、難儀したようです。半年ほどで死亡と認定されました。その人はですねぇ。ムゥの生態に関して興味津々だったようですね」
リヨンの心に微かな不安がよぎる。
『ウェイフ、どう思う?』
『さて、どうだろうね。君の前のベラという人も、君と同じ任務を与えられたのかも知れない。ただ、何か危険があるなら局長から一言あってもよさそうなものだけど――』
心のどこかにしこりを覚えつつ、リヨンはファイルを閉じた。
「むぅ? むぅ~~~?」
先程から、パエはしきりに首を捻っている。
この小ムゥの戸惑いも無理はない。朝から書庫をうろうろするリヨンを見れば、誰でも同じ感想を持つだろう。
「これも違うか。これは――おやおや戦時徴税の記録だな。燃やしちまえば市民が喜ぶか。関係ないだろうが、一応送っとくよ」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、ムゥ紙の山に手をかざしただけで、書を開きもせずに次へ向かう。先程からそれを繰り返すばかりで、昨晩言っていた「記録を見る」とは何だったのか、パエは訊いてみたのだが、「すまない。邪魔をしないでくれ」と無下にされた。
「こんなものか」
リヨンが呟くと、彼の頭の中で別の男の声が響く。
『ザザ……ザ…のようだね。…ザ……オン』
耳元で紙をしわくちゃに潰す様な音である。リヨンは思わず顔をしかめた。
『おい、ウェイフ。さっきからノイズが酷いぞ』
『ザザ……悪いね。どうにもこの星の通信状況は酷いよ。昨日だってまともに繋がらなかったし』
『そう言えば、昨日妙な女に会ったよ。占い師だか予言者だかわからん女だった。君の意見が聞きたかったが、大事な時に繋がらないね』
『へえ、何て言われたんだい?』
『北へ行けってさ。いや、行くに違いないだって』
『その占い師、いい腕をしているじゃないか』
『おいまさか……』
リヨンは妙な気分になった。予言が当たるというのは元より気持ちのいいものではない。
『リヨン、タルタ州だ。州都から北に国境を超えたところに手つかずの〈神域〉があるようだ』
「タルタだって?」
突然声を上げたリヨンに、パエは肩をびくつかせる。
『おや、もう知ってるのかい?』
『いや、続けてくれ』
『場所もいい。時々、大気の小さな〈へそ〉が見える』
『へそ?』
『嵐の目とでも言おうか。上昇気流が渦を巻いて大気に穴が開いている』
『土星型惑星の大赤班のようなものか?』
『さあ? この星にはまだ謎が多いからね。ところでこの施設、何かの拠点だったんじゃないかな。衛星からのだけど映像もあったよ。送るから見てくれ』
リヨンの網膜に、瞬時に衛星写真が映し出される。
黄土色の濃い大気が、見る者が微かな恐怖を感じるほど巨大に広がっている。その中で針の穴ほどの小さな点を、アイコンが強調している。リヨンがアイコンを注視すると、画像が拡大され、穴を直上から覗き込んだ光景が見える。
そこに映し出されたのは、赤茶色の土に生えた丸く白い構造物だった。
『通信施設に見えるが――』
リヨンは衛星写真だけでは判断が付かないとでも言いたげだ。
『確かに、他にも似たようなものがいくつか発見されてはいるね。でもそこにあるのだけ時々雲から顔を覗かせているようなんだ。自然現象ならばこの〈へそ〉は他の場所でも起こるはずなんだが、そんなことがあったとすればこの星の文明はとうに滅んでいただろうね』
『おい待て、まさかまだ機能してるって意味か、それ?』
『そうでなければ、地上からサリア博士の名で通信なんて入るわけないだろう? あと誤解なきよう。繊細かつ高頻度のメンテナンスを必要とするものは、テラ・フォーミングとして不完全だ。この星は生命居住可能領域の域外にあるが、モース人達が住まう高原は実に生存に適している。開拓当時はテラ・フォーミングといってもお粗末なものだっただろうが、この惑星のモース高原はそれに耐えた。彼らにとって最大の敵は、大気が時折気まぐれのように作り出す針の穴――〈へそ〉だったはずだ。これは、その監視と研究のための施設だったんじゃないかな。そしてこの星に降り立ったばかりの開拓民の間では、〈へそ〉の監視以上に重要な仕事は無かったに違いない』
『何故そんなことを?』
『簡単だ。将来の人口爆発に備えて、高度五万メートルの大高原からより広い低地へ移民する可能性を模索するのは当然だろう。今のモース人達にとってすら、彼らが大陸と呼ぶモース大高原は窮屈になり始めている。なにせ直径二千キロメートルに満たない高原地帯だ。すぐに人で埋め尽くされる』
『そこにサリア博士の手がかりがあるという根拠は?』
『君が世界一の頭脳としてこの星のテラ・フォーミングに関わったと仮定してみたまえ』
リヨンは、むぅ――と、あるいはパエのように口をとがらせて考え込んでしまった。既に着陸から数えて九日目である。残り日数を考えると、最初から無茶な仕事であったことを馬鹿馬鹿しいくらい思い知らされる。
『他に候補は?』
『無い。発見時の政府の調査と、モース人の記録と、私の予想を信じればね。それに付け足しておくと、ここ一、二年はタルタと呼ばれる地方での〈へそ〉の観測が異常に増えている。何かが起こっていると私は睨むね』
『よし、良いだろう。行こう』
レイスに意見を求めてはどうか――とは、リヨンは言わなかった。彼の肩書は飽くまで監察官である。本来ならばレイスこそ監察の対象だからだ。
夕方に再びモース王と謁見したリヨンは、タルタ州へ出向く旨を伝えた。
「そうか。昨日の件は既に手を打っておいた」
さすがに行動が速い――と、リヨンは密かに自分の決断に満足した。
「道中、何かと不便があろう。一人つけるから好きに使うが良い」
モース王が手元の鈴を鳴らすと、痩身の男が一人入室した。
「ローイと申します。タルタまでは竜を乗り継げば七日の旅程です」
黒い短髪に茶色の瞳、すらりと鼻筋の伸びた美男である。歳は三十代の中頃だろう。
「陛下、御厚意は有難いのですが――」
言い終わらぬうちに、モース王が口を開く。
「リヨン殿、旅路は危険だ。そういう遠慮はするものではない」
物言いは柔らかいが、要は連れて行けということらしい。
タルタ州の遠さを考えると、往復で半月近く浪費することになる。調査のための時間はほとんど残されていない。今ここでモース王と面会していることすらある意味時間の無駄である。
「わかりました」
すんなり折れたのはリヨンの焦りからだろう。