第一章「火急の用」(4)
リヨンは若い恋人達に謝してその女の方に足を向けた。
(ここいらで終わりにするか)
必要な情報は先の男女から得られただろう。ティイは親切なムゥだったが、主の無知が原因で横死したのは不幸としか言いようがない。
一歩進むと上着がツンと張る。振り返れば、パエがリヨンの上着の裾をつかんだまま、うなだれたように力無く歩いている。
(善い子だ)
先はパエの手癖の悪さに面食らったリヨンだったが、この小ムゥのまとう空気に清々しいものを感じてもいた。
(無意味だ)
これ以上、ティイに肩入れすることが――である。詳細を知ってもどうしようもない。出来ることといえば、彼女の遺体を見つけ出して弔うことくらいだが、モース王国にムゥを弔う風習は無い。
不思議である。自分では嫌々これを行っているとわかっているのに、襤褸の女に向かう時に力強く足を踏み出したのが、リヨンの不思議なのだ。まるでそうあるべきであると、自分の中の何かが自らの肢体を強烈に動かすようでもある。己れの中に別の動力――いや、これは本来自分の中で動き続けていたものだ――を見つけたような、そんな奇妙な感覚がリヨンを支配した。
「そのままでお待ちを――」
リヨンが声をかけようかどうかという距離で、襤褸の女は先に声を上げた。
「話は聞こえておりました。今、占っております故、しばしお待ちを――」
どうやら占い師のようである。だが商売道具のようなものは一切見当たらない。女はひたすらリヨンの足元を視ている。
「北へ――」
首を傾げるリヨンの様子など微塵も気にかけない様子で、女は喋り出した。
「北へ行かれませ。探し物――いえ、尋ね人はそこに在るでしょう。美を愛しなさいませ。すぐさま手放せるように愛しなさいませ。貴方が見つけたものに意味は無く、名前はつけられないでしょう。信じれば騙され、疑えば殺されるでしょう。猫の尾を踏み、貴方はそれに苛まれるでしょう。骸を持ち帰り、なおかつ笑うでしょう」
果たして占いとは何だろうか――とリヨンは瞠目した。あるいは、これは予言だろう。
「初めまして、リヨン様。わたくしはヘイ。影を占って生計を立てている者です」
リヨンはまたもや驚かねばならなかった。
「何故、名前を?」
「死んだムゥがそう申しておりました。ティイという名のムゥです」
ヘイと名乗った女は、頭まで隠した襤褸の隙間から、金色の長い髪を覗かせていた。その艶の良さから、彼女が容姿より遥かに若い女であることが窺える。いや、よく見れば人間とは思えぬ張りが感じられてどこか人形のようでもある。
「さっきのはどういう意味かな?」
「言葉が何を暗示するかはわたくしにはわかりません。影を視たところ、そういう卦が出たのです。とりわけ、貴方が北へ行かれるというのは間違いないかと思います。必ずそうなさるでしょうし、今はその気が無くとも、そうしなければならない理由が生じるでしょう。この卦が最も強く出ておりました。そうなる未来が近いということです」
「そうか。いくらだ?」
「お代は……そうですね。一ポン頂戴致しましょうか」
「一ポン? やけに高いな。一〇クンだとダメか?」
一ポンは大体二五クンであるから、リヨンは半額以上値切ったことになる。ポンの上にはユンツという単位があり、一ユンツ=二〇〇ポン=五〇〇〇クンである。一ユンツは都市部で最も平均的な収入を得られる市民図書館の司書の給料ひと月分と考えれば大きな間違いはない。
「かまいませんよ」
どうやらこのヘイという占い師は、金をせびる気など毛頭無かったらしい。「いくらだ?」と聞いてしまった時点でリヨンの負けである。
(この女……)
リヨンは懐から銅貨を十枚取り出すと、占い師の手に渡した。皺の無い手であった。
「……雲が厚いな」
銅貨を仕舞い込んだヘイが再びリヨンを見ると、男はにわかに黄土色の空を見上げ、睨んでいた。
「はあ、そういう日もあります」
会話の途中で突然、天気の話をされれば、誰でも要領を得ないだろう。
「ティイについて、何か知っていることがあれば――」
また、にわかに話が変わる。ヘイが一呼吸置いたのは、もったいぶったというよりリヨンという人間を理解しかねたからだろう。
「憐れなムゥでした。あの娘は、語れば死ぬとわかっていても、主のために全てをなげうったのですよ」
「彼女には何か予言を?」
「予言ではなく、占いですよ。ですが聞いてはもらえませんでした」
「何か凶兆があったのか?」
「吉凶は意味をもちません。凶は必ず吉に転じ、吉は必ず凶へと変じます。容易く変わりゆくものを言葉に留めるのは無意味です」
「ティイは死ぬほどのことをしたのか? ムゥでなければ死ななかったか?」
「いいえ、ムゥであれ、誰であれ、必ず死にます」
「よし、それを詳しく――」
そう言ったところで、ふと西の空が燃えるような赤さに染まっているのが見えた。
「リヨン、そろそろ時間だよ」
今まで黙っていたパエが急に袖を引っ張ってきた。ティイのことを誰よりも気にかけていたのはこの小ムゥではないのか――と、リヨンの中に小さな怒気が走ったが、パエの言葉に一切の虚飾が感じられなかったことを考えると、むしろ何故パエが自分を急かすのか不思議になった。
「パエ。ティイのことを知りたくないのか?」
振り返ってリヨンが問うと、パエは先ほどまでと変わらぬ、どこかおっとりとした声で――しかし聞きようによっては限りなく冷たい言葉を放った。
「むぅ……その人の言っていることに何の意味があるの?」
「君には意味がわからないかも知れないけど僕にはなぁ――」
ヘイがわずかに目を細めたのを、リヨンは見ていなかった。
「あのムゥが大衆に向けて暴露したタルタ総督の罪はいくつかありますが、裁定の不正、納税の不正、収賄の他にまだあったようです」
「それは?」
「皮と肉を、屠らずして売った」
「どういう意味だ?」
「わかりません。ティイがそう言った途端に、それまで静観していた警吏が押しかけてきて彼女を打擲したのです」
(皮と肉……まさか――)
ヘイは、にわかに眉を上げたリヨンの顔を覗き込むように言った。
「あら、リヨン様。北へ行かれますね。顔に書いてあります」
「そこは『影に』と言うべきじゃないか?」
そう言うと、ヘイは微笑しつつ一礼した。話はこれで終わりということだろう。
「待ってくれ。ティイの遺体は何処に?」
「彼女のことを少しでも美しいと思ったのなら、あえて見に行くものではありませんよ」
リヨンはヘイに別れを告げると、王宮へと足を向けた。
時間が押しているせいか、小走りで駆けるリヨンを追っていたパエは、突然立ち尽くした彼の背中に激突した。
「むぅ!」
微かに打ったのか、鼻をさすって血が出ていないことを確認する。
「いや、すまん。何か思い出したような気がしたが、気のせいだった」
しばらくの間、何やら考え込んでいたリヨンだったが、特に何を思いつくわけでもなかったらしく、頭の中のもやを振り切るように歩を速めた。




