終章"The Transformation of Things."(1)
夢を見ている――と気づいた時、人はもうその世界に留まれないものである。だが、今のリヨンは違った。これは夢である。知りながらそこに留まっている。明晰夢であろうか。そうであろうと感じる反面、自分の意のままにしかならない世界には決して存在し得ない漠然とした不安に、リヨンはかえって安堵した。
見たこともない美女――というものにも、リヨンは毎晩出会うことができる。それが彼の人生における、いわば癒しの果実のようなものだ。時々、他の全てが塵芥に思えることがある。
ふと、「見たこともない美女」の中に何処かで見たような顔を見つける。薄布一枚で手を差し伸べるその人の名を、リヨンは知っている。
「やあ、無事に山を下りられたかい、エア?」
よく見れば、傍らにはフェレーネの姿もある。エアは妖艶な笑みでリヨンを誘うが、どうにも今はその気になれない。
やがて少し離れた場所で、腰掛の上で涼む女の姿があった。アレリンである。
女は傍らに少年のムゥを抱いていた。少年は幸せそうにはにかみながら寝入っている。アレリンはその柔らかな頬を撫でて、小さく笑った。
リヨンは気づかれないように二人に近づいてそれを見ていたが、まどろみにとろけそうな女の視線がにわかに自分の方を向いた。
「……アレリン、君は悪い夢を見ていたんだ。勘違いをした。騙された。雲の上に憧れ過ぎた」
何となしにそんなことを言うと、女の目が涙で潤んだ。
「泣いてもしょうがない。ここは夢の中だ。たっぷり眠るがいいさ」
二人の元から離れた後、リヨンはしばらくの間、この心地よい場所を歩き続けた。
(ここの人達は、心が雲の上にある)
そんな言葉が浮かんでくると、何故だかわからないが、涙が滂沱のように溢れてきた。
目を覚ましたくないと思った。このままこの場所に数千年いても、それでいいと思った。
ふとあたりを見回すと、誰もいなくなっていた。辺りにはただ数頭の蝶がひらひらと舞っていた。
自分も眠れば蝶になろう――とまどろんだ矢先、一人佇む女の姿が見えた。この場に似つかわしくない、凛々しい風が吹いた。その女を見たとき――
(この人は……?)
どこかで見た後姿である。記憶を探ろうと思った時、目を開けられぬほどの眩い光が周囲を覆った。
(これは――)
荒涼たる大地。いや、最初からそうだったわけではなさそうである。周囲を見やる。サボテンにも似た植物が枯れている。すぐ近くに白い建築物が見えた。人もいる。宇宙開拓史の教本で見るような、古式の宇宙服を着ている。人々は何やら言い争っているようである。
その中に、つい先ほど佇んでいた女がいた。
「君は――」
女に近づいて声をかけようとした瞬間、世界がねじ切れるように歪んだ。風で本がパラパラとめくれるように、あらゆる景色がリヨンの網膜に飛び込んできた。
人々は争っていた。何かを奪い合っているようにも見える。
(水だ……)
貯水池を囲むようにある集落を、武装した黒服の集団が囲み攻撃している。目を背けたくなるような惨たらしい光景が眼前に広がっていた。
(治水に失敗したんだ)
今見ているのは恐らくこの星の歴史である――とリヨンは直感した。脳内にインポートした映像記録が何かのきっかけで再生されているのだろうか。
人々は水を巡って争い、そして自滅した。彼らが愚かだとは思わなかった。しかし憐れであった。やがて、風景は一つの場面へとたどり着いた。
(子供……?)
多い。百人以上いる。何処かの施設の一室で、彼らは外の様子など知らぬように遊び回っていた。中には先程貯水池を攻撃していた集団と同じ黒服を来た子も多くいた。
(子供だけは守ったのか……)
極限状態にありながら、この星の開拓者達は人としての最後の矜持を護った上で自滅したのだろうか。
「あっ」
いた。先ほどの女である。よく見ると、頭にムゥのような角が見える。子供たちはその女によくなついているようで、我先にと駆け寄り、遊んでくれとせがむ。
気づけば、リヨンはその女に向かって歩き出していた。
会わなければ。何故なら――
「僕は――」
女はリヨンの気配に気づいたようであるが、振り返る素振りは見せない。
「会いに来たんだ、僕は。君に会いに来たんだ」
リヨンの言葉を制するように、女は起ち上がり、何かを呟いた。同時に周囲の景色が先程と同じような眩い光に包まれた。
「えっ、何を? 聞こえな――」
光の中に消えゆく女は、最後に少しだけ微笑んだように見えた。




