第一章「火急の用」(3)
リヨンはまず、パエがティイと出会ったという場所に案内を請うた。
「噴水があるところだったよ。とても大きな噴水」
「中央区の噴水かな?」
頭の中で王都の地図を開いたリヨンは、宮殿からすぐ南へと向かう。途中、いくつかの小さな市があったが、その内の一つを見た時、リヨンの表情が明らかに強張ったのをパエは見逃さなかった。
店頭に並べられた品を見ると、鉄で造られたとおぼしき妙な小物が複数並べられている。
「むっ……? あれは何?」
パエは先を急ごうとするリヨンの袖を引いた。
「あってはならないものだ」
思いのほかリヨンが険しく吐き捨てたので、パエは驚いた。「あってはならないもの」とは、一体何であろう。
「どういうこと?」
「ティイを助けたいんだろ? なら、無駄話はやめよう」
明らかに、リヨンはこの話題を避けたいようである。その証拠に、口を滑らしたことを後悔するかのようにわずかに渋面をつくった。それがかえってパエの好奇心を刺激する。
「ねぇ、リヨン。特別監察官って何?」
「悪いけど、子供には関係のないことだよ」
監察官というからには官僚を監察するのが仕事なのだろう。それを名乗る男が不愉快そうにしているということは、先の鉄細工は不正に流通している品に違いない。
パエの好奇心は尽きない。この小ムゥはあろうことか店先に並べられた鉄細工の一つを、通り過ぎる間際に掠め盗ってみせた。
「ただの鉄の塊にしか見えないけどなぁ」
手に取ったそれをいじりながら首を傾げるパエを見て、リヨンがあっけにとられたのも無理はない。
「お前、それ――盗ったのか?」
咎めるようなリヨンの声にパエはかぶりを振った。
「むぅ~~ッ! もらったの!」
「そんなわけが――」
そこでリヨンは少し冷静になった。パエは元々持っていたものを今取り出したに過ぎないのかも知れない。だが、その可能性もすぐに消えた。つい先ほど通り過ぎたばかりの店の商人が、焦ったように品揃えを確認している。
「ひとつ、足りなくはないか?」
商人が同じく店番をしていたムゥに話しかけると、ムゥは無言でリヨン達の方を見てきた。
(これはまずい……)
リヨンは迷った。正直に話してもあの店主はパエを――正確には共にいるリヨンを――許そうとはしないだろう。最悪、パエの身柄を要求される。ムゥとはそういうものである。
あの商人には悪いがやり過ごすしかない。そう思ったということは、リヨンはモース王国の法制に反感を持っているということだ。とにかく、リヨンはパエの袖を引いて走り去ろうとした。
その時、パエはあろうことか、後ろを振り返り、先の商店からこちらに視線を投げかけるムゥの方を見たのだ。パエは右手にその店の品を持っており、盗んだことは一目瞭然である。
そのムゥはパエと目が合った時、にこりと微笑んで、軽く会釈したのである。リヨンはわけがわからぬまま立ちつくし、今度は彼の方がパエに袖を引かれることになった。
(本当にもらったのか……?)
漠然とそう思ったが、確かめる気にはならなかった。
「あのムゥに返してくるんだ。店主に見つからないようにね」
時間を惜しみながらも、リヨンはパエに向かって強く言い含めた。パエは多少は不服そうだったが、「むぅ、はーい」と飲んだ。
中央区の噴水は五方に尖った形をしており、近くの丘から見下ろせば躑躅の花を象っているのがわかる。勿論、丘の上からではなく、街道を歩いて来たリヨン達には噴水の優雅なる全容を観ることはできない。
「むぅ! 何これ、何これ?」
石畳に小さな穴が開いているのが珍しかったのか、パエは地面に屈みそれを覗き込んだ。
(おのぼりさんかぁ)
長く観察せずとも、パエが王都のムゥではないことはわかる。
(何処かから逃げて来たんだろうか?)
ムゥ種は人間に隷属している。そうしなければ種そのものが生きられないからである。果たしてパエが主の元から逃げ出したとて、この世にこの小ムゥの居場所など無いだろう。
「なになに~~?」
リヨンの視線に問うようなものがあったせいか、パエが走り寄って来る。
(いや、そうでもないかも知れない)
こちらに無邪気な笑顔を向けてくる小ムゥを見ながら、リヨンはそんなことを思った。
「パエ、お前、綺麗な顔をしているな」
「むぅ~~ッ! ホントホント? パエ美人さん?」
「いや、そういう意味じゃない」
そう言いつつも、リヨンはパエの顔をじっと見つめている。
(顔に傷が無い)
「おっ?」
反射的に、リヨンは飛びのいていた。わけも分からぬまま彼に続こうとしたパエの顔に、勢いよく水の塊がぶちあたった。
「んむッ! むぅ~~~~ッ! むぅッ! ケホッ! ゲホォ!」
調度、時計が五時を回ったらしく、地下から水が一斉に噴き出した。それを顔面にかぶったパエは一瞬でびしょ濡れになった。
むせる小ムゥの手を引いて噴水から離れると、近くのベンチに座っていた恋人らしき若い男女が小さな笑声を立てた。
「やあ、千花都は初めてかい?」
まだむせるパエの背を叩くリヨンに男の方が声をかけた。
「勝手がわからなくて困っているよ」
「はは、ベフは広いからね。何かお探しかな?」
なんとも人の好さそうな市民である。彼らに頼るのも悪くない――とリヨンが思った頃、女の方が近づいてきて、手ぬぐいをパエに差し出した。パエがそれで顔を拭く様は女の琴線に触れたらしく、
「まあ、可愛らしいムゥだこと。どうかしら、あの子と交換しません?」
などと言ってきた。彼女が指差した先――ベンチから二十歩ほど離れたところに竜車が停めてあり、そこに馭者らしい一人のムゥが立っていた。
リヨンが優しくかぶりを振ると、女は多少の未練を見せるも、不機嫌にはならなかった。
どうやら二人はいつもこの場所に来て愛を語らっているという。羨ましいものである。
「ティイという名のムゥを探している。数日前に王都に着いた、あるいは帰ったばかりのはずで、昨日から行方が知れない。このあたりにいるという話を聞いて来たんだが、心当たりがあったら教えて欲しい」
途端に、二人の顔つきが変わった。口元が引き締まり、微かな緊張が見える。それは警戒と言ってもいいものだった。
「あなた、あのムゥのお知り合い?」
「一度会っただけの仲だよ。王都で難儀していると聞いてね」
女は恋人に問うような視線を投げかけた。リヨンの視線がそれを追う。
「残念だけど、遅かったね。あのムゥならもう澄んでしまったよ」
男の答えに、一瞬、リヨンは男が何を言っているのか理解できなかった。
「詳しく――」
リヨンの声色が変わった。男が彼の肩書を知っていたなら、それを思い出すに違いない声だった。
この国ではムゥが死んだ時、
――澄んだ。
と言う。「空が澄む」という死を婉曲する言葉が古典にあり、それが俗化してこのように用いられるようになったと云われている。
つまり、「ティイは死んだ」ということである。
「神は、あれの皮も肉も晩餐のために御取りにならなかった。我々にも与えては下さらなかった」
若い男はそう言って、彼の知る顛末を語った。
千花都ベフから遥か北にタルタと呼ばれる属州がある。モース王からタルタ地方の行政を一任されている者がタルタ総督であり、ティイはその娘フェレーネの所有するムゥである。
ここまでは――というより、リヨンはティイについてこれしか知らない。
ベフの市門を潜ったティイは、彼女がリヨンに告げた「火急の用」のために、そのまま王宮に直行してモース王への謁見を請うた。ともあれ総督令嬢の使者が何ら準備もなく会えるほどモース王は暇ではない。
「ムゥを寄越したのは、総督令嬢の知恵の浅さからだろう」
男はあえて自分の意見を付け足した。
リヨンが首を傾げると、男は、
「ほら、北は田舎だから、古臭い風習とかがまだ残ってるんだ」
と、微笑してみせた。北ではムゥが使者として通用するという意味だろう。
とにかく、モース王に謁見できないと知ったティイは、何を思ったか中央区の噴水前で座り込みを始めた。そして、モース王にだけ話すはずだった「火急の用」の内容を、噴水近くを通る全ての市民に向けて開陳したのである。
その内容がまた酷い。
「タルタ総督がいくつかの裁判を不正に処理したとか、彼がどれくらいの税金をちょろまかしたとか、賄賂を積まれて娘の望まぬ結婚を無理にすすめようとしたとか」
男はかなり端折った風だったが、実際はまるで親の仇について語るような口調だったらしい。
これはもはや直訴というより弾劾である。しかもティイは、主の父の非をベフ市民に向けて暴露したのだ。
「不思議に、ムゥの言っていることが嘘だとは、私は思わなかった。でも、これは許されることではないよ。総督令嬢は人選を誤った」
どこか悔やむような口調なのは、男がティイというよりは総督令嬢フェレーネに同情しているかららしかった。後で巷間の噂を拾ったところ、フェレーネの美貌は王都でも有名で、憧れぬ男女はいないという。
――澄むべき美しさ。
と、人々は口を揃えて言う。「澄む」という言葉はムゥに対してしか用いられないから、「ムゥのような美しさ」ということだろう。あるいは「死ぬほど美しい」ということだろうか。
ティイの不幸は、やはりムゥ単身で王都に来たことだったが、それ以上にタルタ総督の弾劾は暴挙の極みであった。総督を弾劾する権利は、実は市民にある。だが彼女はタルタ州の市民でなくムゥであり、しかも弾劾の法的手順を一切踏まずにそれを行ったことで、弾劾の矛先が、タルタ総督を任命したモース王にまで及んだことに全く気付いていなかった。
「そのムゥは直截に言うことはなかったが、あれを聞いた人は皆、総督が謀反を企んでいるという主張に聞こえただろうね」
数日経たずして、王都の警吏隊が彼女を捕縛しようと駆け付けた。その際に激しく抵抗したティイは散々に打擲された。ついに動かなくなった彼女は、ムゥの死体処理場に捨てられたという。
「勝手を知らないというだけで、ああなる」
男はそう締めくくった。
「……晩餐なんてもんじゃねぇ。神様は居眠りしなすってる」
それが、リヨンが持った感想らしい感想だった。
「私は最初からあれを観ていたわけではないよ。もっと詳しい話を聞きたければ、彼女に訊いてみるといい。彼女はずっとここで観ていた」
男が指差した先には、小汚い襤褸を纏った露天商のようにも見える女が座っていた。