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遥か雲上の大怪魚  作者: 風雷
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第一章「火急の用」(2)

 リヨンがモース王国の首都ベフに到着したのは、ムゥ種の女ティイと別れてから五日後のことだった。

 千花都と別称されるように、道々に季節の花が植えられていて、四季といわずに日によって同じ通りも全く違う景色を見せる。今は夏の盛りであり、視界を包み込むような緑が街を潤していたが、木蓮ばかりが植えられた通りでは甘い香りに恍惚となる。

 千花都ベフは、モース文明における最大の商業都市でもある。人口は五十万とも百万ともいわれ、昼間であればどの通りもすれ違う人と肩をぶつけずに歩くのは困難である。

 夏のベフに咲く花は、少なくとも数百の色で観る人を魅了するが、街行く人もまたそこに彩りを加えている。

 地方からあらゆる民族が集まり、なおかつ密に混血したせいで、市民の顔ぶれにはあまり違いは見られない。時々、金髪碧眼の商人や、黒い肌と分厚い唇の印象的な異邦の貴族の姿が見えるが、数は多くない。

 そして、彼ら以上に市民との対比として映える色を持つ者達がいた。野牛のように天に反った角、小麦のような色の肌、白銀よりも美麗な銀髪、淡い炎を湛えるような真紅の瞳――すなわちムゥ種である。


(ムゥかぁ……)


 リヨンは、一目で気に入ってしまった鮮やかな街並みを眺めながら、小さく溜め息をついた。

 ムゥという種が嫌いなわけではない。むしろ、例外なく美女であるという彼ら(・・)を見ると恍惚となることが少なくない。ムゥ種を見るたびにリヨンの心に影がかかるのは、あるいは戸惑いと言ってもいいものだった。

 街の北側に象牙を立てて置いたような王宮がそびえ立っている。南には東から西に向かって流れる河があり、街の中央には街を南北に区切る大水路がある。

 王宮を眼前に見たということは、リヨンの目的がここにあるということだ。リヨンは正門を守る衛兵二人に声をかけた。


「王宮特別監察官のリヨンだ。陛下にお目通り願いたい」


 そう言って、リヨンはムゥ紙と呼ばれる革製の巻物を懐から取り出し、衛兵に向かって広げて見せた。


「特別監察官?」


 衛兵たちは顔を見合わせる。そのような役職、聞いたこともないとでも言いたげだ。猜疑の色も見えるが、直ちに叩き伏せられないのは、ムゥ紙にされているのが王印であると彼らが判断したからだろう。


「君たちの仕事は、これを報告して上司の指示を仰ぐことじゃないのか?」


 リヨンは時間の浪費を嫌うように言った。衛兵の一人が小門の向こうへと駆けて行った。


「そのムゥの身元は?」


 残った方の衛兵が不思議なことを言った。彼の視線が自分よりやや右下に向いているので、リヨンがそれを追おうとしたところ、何者かに右手の袖を引っ張られた。


「ねぇ、ちょっと――」


 視線を下げると、自分の肩にぶつかるくらいのところから内向きに曲がった一対の角が生えていた。銀色の長い前髪の隙間から妖艶な真紅の瞳が見えた時、リヨンは思わず瞠目した。


(何だ、このムゥは?)

「いや、知り合いじゃあ――」


 と、リヨンが口を開いたところ、小さなムゥは頭を傾げながら奇妙なことを言った。


「ティイのところに行かないの?」


 幼いが、しっかりとした声である。


「ティイ?」

「うん、ティイ」


 思い出すまでもなく、リヨンは先日旅路で出会ったムゥのことであると思い至った。


(Their)……いや、彼女(Her)の知り合いかな? ティイがどうしたって?」


 リヨンの問いに、そのムゥはかぶりを振る。


「むぅ……わかんない」


 この小ムゥの言っていることの意味が、リヨンにはわからない。


「わかんないの。昨日まではわかったんだけど――」


 ますますわからない。これがムゥなのだろうか――とでも思わなければ、飲み込めそうにない。二人の会話は衛兵にも聞こえているようで、訝しげにこちらを見ている。リヨンは「この小ムゥは自分の連れではない」と目語した。


「君、名前は?」

「パエ」

「ティイとはどんな関係?」

「昨日、初めて会った」

「その、昨日初めて会ったばかりのティイが――何か困っているのかな?」

「そう、とても。でももうんでしまったのかも。それでも行ってあげて」

「パエ、君の主は?」

「むぅ……あるじ?」


 この小ムゥはいったい何なのだろう――と、リヨンは何度も自問した。一言で表せば、変人である。


「君は、どうして会ったばかりのティイを助けようとしているのかな?」

「困ってたから。とても――」


 パエがそう言った時、リヨンの頭の中に、黄土色の雲海と、そこを突き抜けた先にある大空が広がった。


――雲の上の……


 湖底の泥をすくうようにして、予期せぬ言葉が頭の中に浮かんだ。リヨン自身、それが不思議で仕方なかった。だがそれは心に吹く清風そのものであった。

 この小ムゥは、なんと清々しいことを言うのだろう。リヨンはパエの瞳を覗き込んだ。そこには澄みと輝きはなく、鈍い妖しさだけがあった。パエが目を輝かせて「困ってたから助けたい」などと言えば、リヨンは眉をひそめただろう。だが、この小ムゥの瞳はどこか暗かった。そこに小ムゥの葛藤を見て褒めちぎるほど、リヨンは傲慢ではない。ただ、一時の気の迷いほど輝かしく見えるものであると、彼の経験が語っていた。

 先の衛兵が戻ってきた。どうやらモース王は政務に忙しく、すぐに謁見できる状態ではないという。宮殿内に一室を設けてあるので、夕刻までそこで待つようにとの指示があった。

 リヨンはパエを見た。癖毛なのか、腰まで伸びた長い銀髪が風もないのに揺らめいて見えた。


――何かの縁があったらまた会うかも知れないよ。


 ほんの数日前、自らがティイに向かって放った言葉だ。


「わかった。ティイに会いに行こう。ただし日没前には必ずここに戻る」


 衛兵に事情を説明すると、リヨンはパエと共に宮殿を離れた。衛兵が怪訝そうに二人を見送ったのは言うまでもない。


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