第四章「ハンタン・ドリーム」(1)
ひらひらと――ひらひらと宙を舞う。
どこか、ぼんやりとしている。すると突然、鮮やかな色が視界に飛び込む。
赤、黄、青、白――近づくにつれ鮮明に、それはそれであることを僕に告げる。
良い匂いだ。僕は迷わず中心の赤にかぶりつく。甘い蜜の味。腹が満たされ、節々まで潤う。
ふと、醒める。
僕は誰か。何であったか。
今は蝶である。果たしてそうであったか。かつて蝶ではなかったか。いや、これはそもそも蝶であるか。もっと巨大な何かではないか。翼を広げれば空の全てを覆い隠すほどの、巨大な何かではないか。
『ザザ……ヨン……応答を……ザ……』
名を呼ばれた。夢を見ているのか。
醒めなければ――蝶である自分に戻らなければ――
『起きろ、リヨン!』
「うわっ――!」
跳ね起きた弾みで、リヨンの額が何かに激突する。次いでそれが寝台から転げ落ちるのが見えた。
「むぅ……。痛い。酷いよぉ、リヨン……」
床に落ちたパエが痛そうに額をさすっている。
「お、おい。パエ? お前何して――いや、悪い……」
パエの目から大粒の涙が零れ落ちるのを見て、リヨンの脳内に浮かんだあらゆる疑問が後回しにされた。
「悪い、悪い。大丈夫か?」
「むぅ~~! 魘されてたから起こしてあげようと思ったのにぃ!」
どうやら少し怒っているようである。と、その時――
『ようやく起きたかい?』
ウェイフからの通信である。どうやら先程リヨンを夢から醒ましたのはこれであったようだ。
『定時連絡には早くないか?』
『それもそうだけどね。日中の方が大気が薄くて通じやすいんだ。誤差の範囲内だろうけど』
リヨンは網膜に映る時計を見た。午前七時を示している。昨晩は通信状況が悪く、通信を断念した。
『寝覚めが悪そうだ』
『あと五分、通信が遅ければよかったんだがな』
『また、ハンタン・ドリームかい? 体に毒だよ、あれは――』
『余計な御世話だ。どうも調子が悪いらしい。人間以外になる夢なんて初めてだよ』
『まさか「荘子」みたいに夢で蝶になっただなんて言うまいね?』
リヨンが黙りこくってしまったので、ウェイフは冗談が的中してしまったことを面白く思ったのか、突然、『荘子』の一節を諳んじ始めた。
『ある日のこと、荘周は夢で蝶になった。
ひらひらと飛ぶ様は蝶そのものであった。
思うがまま楽しみ、自分が荘周であるとは夢にも思わなかった。
ところが、にわかに目覚めたところ、自分は荘周に他ならなかった。
荘周が夢の中で蝶となったのか、それとも蝶が荘周の夢を見ているのか。
だが荘周と蝶とは、確かに区別がある。
これを物化という』
『君は夢から醒めたかい?』などと付け加えて来たので、リヨンは「もういい、もういい!」と不愉快に声を荒げた。
『別に君がバタフライ・ドリーマーであるとからかうつもりはないよ。夢遊びに違法な時間を費やしていなければね。悪夢はリミッターに引っかかったせいではないのかい?』
ハンタン・ドリームとは、中枢神経をバーチャル空間に接続してそこで娯楽などに浸るバーチャル・レジャーの総称で、一般にはバーチャル・セックスとして認識される。意識を高速化して一晩を何日にも感じる等という遊び方が主流なのだが、加速は連邦法にて厳しく制限されており、最大二十倍の加速で自動的にリミッターがかかるようになっている。
リヨンやウェイフが『荘子』の一節を知っていたのは、別に彼らが物知りだからではなく、ハンタン・ドリーマーへの警句として、この一節が連邦政府のガイドラインに採用されたからである。
ちなみにバタフライ・ドリーマーとは、ハンタン・ドリームにおける一切の制限を解除したものを楽しむ、いわば中毒者を意味する言葉である。現実とバーチャルの区別がつかなくなり、日常生活に多大な支障をきたすことから厳しく罰せられる。
『うるさいなぁ。仕事の話をしろよ』
『やれやれ、わかったよ。君の方で何か変わりはあるかい?』
『報告書を送るから読んでくれ』
ウェイフからの返答は早い。リヨンが回線を閉じて待つまでもなく、ものの数秒である。
『どうやら無事に調査できそうで何よりだ。わかってはいると思うが、もし異民族に襲われたりしたら一目散に逃げることだ。戦闘許可はまず下りないと思ってもらいたい』
『……わかってるよ。あとちょっと気になったんだが――』
リヨンは〈雲上の大怪魚〉が起こる際、遥か天空に見えた巨大な影のことを話した。
『こちらからはそんな影は観測できていない。ステーションの資料にも無いな。第一、そんな大質量の物体が空中に現れたらこちらからも観測できるはずだ。分厚い雲の影を化け物と見間違えたんじゃないのかい?』
『そうか。うーん……』
宇宙から観測できなかったのであれば、リヨンとしても見間違いと思うほかない。だが、あの威容は見間違いというにはあまりにも巨大だった。
『寝不足じゃないのかい? しっかり睡眠はとるようにね。あとこちらからひとつ。諜報部からの情報だけど、半月近く前にこの宙域に正体不明の船が確認された』
『正体不明? 星警は何をしてるんだ?』
『追跡したところ、ワープインで振り切られたらしい。時空波が異様に小さく、ワープアウト先の予測も超空洞だったそうだ』
『密輸船が追い詰められてやぶれかぶれになったか?』
バハムート星系には資源惑星が多い。自然と密輸といった犯罪が多発している。それにこの星系付近には超空洞と呼ばれるワープアウト危険宙域が密集しており、航行の自由を制限している。
『私も最初そう思ったが、諜報部はブロッサム姉妹の関与を疑っている』
『ブロッサム姉妹って、あのブロッサム姉妹? どうしてそうなる?』
『観測された時空波の周波数が諜報部の保持しているブロッサム姉妹の情報と一致したらしい。私も星系連邦警察を煙に巻くような連中といえば、真っ先に思い浮かぶのがブロッサム姉妹だし――』
ブロッサム姉妹とは、現在バハムート星系を含む多数の星系を荒らしまわっている犯罪集団である。リヨンはこの仕事に就いてから何度か、彼女らの犯罪の片鱗に触れたことがある。主に役人の汚職という形でだが。
『バハムート3と関係あるか、それ?』
『発見された宙域から言って、十分あり得るだろう。それに惑星そのものが手つかずの状態というのは犯罪者にとってみれば宝の山だろうね。今のところ監視ステーションの網には引っかかっていないが、着陸している可能性もある』
『まさか僕たちの仕事とバッティングしているなんて言わないだろうな? 金の臭いなんて全くしない腐れ仕事だぞ』
『そうとも言い切れない』
ウェイフの歯切れが悪い。
『どういうことだ?』
『昨日の話、憶えてるかな?』
『昨日の? ああ、サリア博士について何か言いかけてたな。何の関係が?』
『まあ、まずは聞いてくれたまえ。宇宙航空学で有名なサリア博士なんだがね、どうやら遺伝子工学の出らしい』
『それはまた随分と畑が違うな』
『私も驚いたよ。当時はそういうことが多かったのかはよくわからない。とにかく彼はそこで培ったノウハウを宇宙航空学に活かそうとしたんだろうね。考えてみればペースト理論は生体のテレポートを目標としているところがあるから、不思議ではないのかも知れないね』
ウェイフはこういった話が大好きで、時々聞き手を置いたまま突っ走ってしまうことがある。リヨンにしてみれば先に結論を言って欲しいところである。
『ああ、何故こんなことを調べたかなんだがね。ペースト理論の理論矛盾について調べたらぶちあたったわけさ』
『理論矛盾か。なんかそんなことを言っていたな』
『かいつまんで話すと、ペースト理論の矛盾点は<意識の主権>にある。量子情報のカット&ペーストによる長距離ジャンプ時に事故が起き、複数ペーストされた場合にどれがオリジナルになるのか、魂――つまり〈意識の主権〉は誰にあるのかといった思考実験だよ。〈同期〉、〈淘汰〉、〈消滅〉の三つの結果までは、彼は説明した。だけど四つ目の結果〈混合〉に関しては答えを出せなかった。それを試行錯誤する内に、ペースト理論を全否定するワームホールを見つけてしまったわけさ』
『〈混合〉って何?』
『複数の生命体が転送に成功した時に何かの要因で〈混合〉して一つあるいは複数の生命体となった場合、〈意識の主権〉はどうなるのかということ。ビスケットを細かく割って行けばどこかの時点でビスケットではなくなる。そうして突き詰めて考えると物の区別が付かなくなる。彼はこの問題を<バタフライ・ドリーム>と名付けた』
『嫌な名前だ』
眉間にしわが寄るリヨンを隣で見ていたパエが首をかしげる。
『……というか、もう宇宙航空学じゃないだろう、それ?』
『そうかな? ワープ理論だってワームホール内を生命体が通った場合にどのような影響があるかくらいは研究していたから不思議なことじゃない』
『それが金になるのか?』
『君はレイス長官が飼っていたバイオノイドが本当にバイオノイドだと思うかい?』
『おいおい、あんな大っぴらに見せといてそれは無いだろう。いや、まさか――』
『ほらね。金の臭いがしてきただろう? ブロッサム姉妹の専門は〈盗み〉と〈運び〉だ。黙殺するにはちと不安に過ぎる。それに、地上に外部の物品が出回っているのは怪しいという他ないよ』
(まさか――な……)
リヨンは、千花都で占い師ヘイが言っていたあることを思い出した。しかしそれをウェイフに報告するのは躊躇われる。あまりにも想像に頼り過ぎるし、何よりウェイフに無用な先入観を与えてしまう。
『一応、諜報部からブロッサム姉妹の情報を受け取っているから、転送しておくよ。ああそれと頼みがあるんだけど、ムゥの生体情報が欲しい。髪の毛でもなんでもいいから――そうだな。二、三体分くらいをスキャンしてこちらに送ってくれないか?』
寝台の上を見た。明らかに自分のものではない髪の毛が落ちている。
『わかった。今、送るよ。運よくムゥの雄性体のサンプルもある』
『それは驚いた。突然変異だろうが、興味が尽きないね』
『あと一つだけ。レイスのために弁護しておこう。僕の見立てでは、彼はただのロマンチストだ』




