第三章「澄むべき美しさ」(3)
「なるほど、こりゃ酷い臭いだ……おえっ!」
リヨンは脱ぎ捨てた自分の服を手に取り嗅いだ後、にわかにむせ返った。
瑪瑙色をした大きな浴槽に湯気が立ち込めている。張られた湯には花弁が浮いていて、芳しいことこの上ない。
湯に足を付けたとき、甘い花の匂いが弾けた。リヨンはそのまま一気に肩までつかると、ふぅ――と疲れを含んだ息を吐いた。
「風呂はいい。風呂は――」
モース王国を訪れてからというもの、不便な思いばかりしたが、この花風呂は天からの恵みという他ない。
しばらく湯に浸かった後、汚れを落とそうと浴槽から出たところで、ぞろぞろとムウ達が入ってきた。薄布一枚を羽織っただけの肢体は、いずれも弾けるほどの美貌と若さに溢れている。
(やれやれ……)
リヨンは苦笑したが、ムゥ達には、彼が無言で奉仕を拒絶したことがどうやら伝わらなかったらしい。その内の一人がリヨンの手をとった。
「どうぞ、こちらへ――」
垢すりを手にした一人が、リヨンを寝台に誘う。うつ伏せに寝ると、垢すりが背中の上を走り始める。
「エアと申します、リヨン様。タルタは初めてですか?」
清流のように澄んだ声に、リヨンは思わず首を回してムゥの方を見た。
波のかかった長く鮮やかな銀の髪、淡い小麦色の肌、小さな口と鼻、つぶらな瞳、細い手足、抱けば折れてしまいそうな腰――ティイは全てが美しかったが、このエアという名のムゥはそれを遥かに凌駕している。いや、タルタ総督邸のムゥは皆、規格外に美しいが、今リヨンの垢を擦るエアはそれらと比べても冠絶している。
「危うく、目を潰して間抜けな観光客と笑われるところだったよ」
このムゥがクスリと笑う仕草に魅了されない男はいないだろう。
「千花都からいらっしゃった方は皆驚かれます。学者様もそうなのですね」
「観ると聞くとは大違いというのはあるな」
リヨンは自分が口を滑らせたことに気づいた。些細なことだが、飽くまで今の自分の肩書きは学者なのである。
「ここでは千花都は楽園のように云われております」
「それも大違いだろうなぁ」
他愛のないことを話しながら、リヨンはタルタ総督ゴディクスが不機嫌な理由を考えていたが、垢すりの気持ちよさに体を預けるうちに寝入ってしまった。
「浴槽に香草を足しておきました」
エアの溶けるような声に目を覚ましたリヨンは、夢見心地で浴槽に足を運んだ。他のムゥ達もそれに続き、リヨンの肩を揉んでほぐし始めた。中々上手く揉めない様子だったが、リヨンにはどうてもよいことだった。
心地よい。体の芯から暖まるのを感じる。
そのまま恍惚となって宙を見つめていると、なんとなく今の自分が馬鹿馬鹿しくなった。
「いい湯だ。ティイのことなんてどうでもよくなってきた」
「ティイ? お知り合いですか?」
リヨンは、またもや迂闊に口を滑らせた自分にハッとなった。そして同時にエアの言葉を不思議がった。
「知らないのか? 少し前までここに居ただろう?」
まるで返答を拒むように、エアの手が、すっとリヨンの股間に伸びてきた。
「それよりリヨン様。もし貴方がお望みならですけど――わたくし、今宵リヨン様のお世話をするように仰せつかっておりますの」
マシュマロを押し付けたようなえも知れぬ感触が背なに広がり、エアの細い指が、得物を絡め取るように蠢いた。
「お、おい――」
と、その時――
「むぅ~~! おっ風呂~~!」
元気な声と共に、パエが浴場に闖入した。
エアが驚いている隙に、リヨンはこの妖艶に過ぎるムゥから離れた。
「パエ、君は後で入れと言っただろう? 滑って怪我をするなよ」
リヨンは立ち上がり、浴槽から出た。そしてすれ違ったパエが浴槽に飛び込む瞬間、瞠目した。
この小ムゥの裸体に目に行ってしまったのは不可抗力だろう。だがリヨンの戸惑いはそういうところにはなかった。
「パエ、お前――」
「むぅ?」
パエは立ったまま振り返る。平たい胸がリヨンの目に留まり、細い腰、そして――
「男……なのか?」
あえて確認せずとも、明らかにそうである。ムゥ種は全て雌性体ではなかったか。監視ステーションの長官レイスから渡された資料では、疑う余地のない事実としてそう書かれていたではないか。
リヨンは周囲のムゥの反応を見た。明らかに動揺している。皆、無言でパエの体を凝視している。
「むぅ? そうだよ」
明らかな事実の前では全く参考にならない返答である。
リヨンの驚きを他所に、パエはムゥの一人に近寄り、どういうつもりか話しかけた。
「むぅ……君、名前は?」
「は、はい……エアと申します」
「えへへぇ~~、綺麗な名前」
ここでもまた、リヨンは当惑した。
他のムゥは至福と言うべき表情を浮かべているのに対して、エアだけは身を震わせるほどに引きつっている。恐れ慄いていると言っていい。
(パエ、お前はいったい何なんだ?)
千花都でも、パエは不思議なムゥであった。彼女――いや、彼は常に不思議をリヨンにもたらした。
夢見心地が一瞬で吹き飛んだリヨンは、「ありえる――いや、ありえない」などと呟きながら浴槽から出た。他のムゥ達は立ち尽くしたまま、エアだけが衣服を着せるために彼の後を追った。




