第三章「澄むべき美しさ」(1)
州都タルタから見える景色と言えば、モース高原の最高峰マーウェル山である。ともあれ、標高約五万一千メートルの高原に立つリヨンが見たのは、三千メートル級の高山に過ぎない。傾斜が恐ろしく急で、モース高原に生えた角のようなものだろう。見上げる者の視界に鋭利に突き刺さる威容である。
神域と呼ばれる開拓者の遺跡は州都からは見えず、山の反対側に存在している。しかしモース人が神域の存在を知っているということは、かつての偉大な文明を忘れ去った後でも、彼らがこの険峰を制覇したことがあるという証だろう。
州都タルタの景色は、無骨で棘の様に鋭いマーウェル山に近い。
モース人に対して抱いた「心が雲の上にある」という感想はリヨンの中で揺るがなかったが、街の様子はそれとはかけ離れていた。
「むぅ……兵隊さんがいっぱい」
パエが言ったように、街の何処に行っても武装した兵が目に入る。
モース兵の兵装は実にモース文明らしさに溢れている。最も特徴的なのはムゥの角をつけた冑だろう。当然のように、雄大な角を付けたムゥは高値で取引される。
街の武ばった雰囲気は、それがそのままタルタを囲う環境を意味している。数年前まで、モース王はこの都を拠点に北伐を行っていたのである。戦役が終わった今でも北方の部族との衝突が少なくなく、タルタは平時には異様と言えるほどの兵力を保持している。彼らを統括するのがタルタ総督である。
「今や世界に敵なんていないだろうに――」
リヨンはモース王の飽くなき征服心を笑った。北伐を断念したモース王にしてみれば心外だろう。
街に入ってすぐに気づいたことだが、タルタの建造物は王都とかなり異なっている。
まず造りが頑健である。煉瓦がよく用いられていて、木造のものは一つもない。第二に、戸締りが厳重だ。というより、窓のある建物がほとんどない。必ず壁に出っ張りがあり、下向きに窓が付けられている。
「はは……。砂漠か、ここは――」
高原の中でも更に高地であるにしろ、紫外線避けにしては如何にも厳重である。
そして稀に見かけるのが、街角で襤褸を纏って座る物乞いである。それも一様に目を布で覆っていて、盲目ではなく、何かの外傷か、宗教的な儀式なのではと疑いたくもなる。そしてその中にムゥがひとりもいないことに気づいた時、リヨンは小さくため息をついた。
ふと、物乞いに話しかける人影に気づいた。それ自体が都を訪れたばかりの旅人にとって、あまりにも異様な光景であった。
「ん?」
小汚い襤褸で顔を隠しているが、確かに見覚えのある容姿であった。女が物乞いに銅貨を恵んだところ、風が吹いた。
女の口元が見えた時、リヨンは思わず呟いていた。
「ヘイ? あれ、あの占い師か?」
千花都で出会った不思議な占い師――自分が今見ているのはその女に違いない。
リヨンの驚きも当然だろう。彼は千花都からのんびりと旅してきたわけではない。駅舎を使い、最速の竜を何度も乗り換えてタルタまでやってきたのだ。それこそヘイがリヨンと別れた後で、名竜に鞭打ち強行軍でもしなければ、彼女が自分より先に州都に着いていることはありえない。
ヘイの傍らにはムゥらしき女が立っている。「らしき」というのは、黒いフードで頭を隠しているからだ。肌の色で辛うじてそう思ったわけなのだが、長身で頬に傷がなく、ムゥにしては凛々しい顔つきをしている。ムゥらしき女は、ヘイが銅貨を与えた時に彼女に向かって何かを囁いた。
「あっ、ちょっと――」
声をかけようとしたところで、背後から袖を引っ張られた。リヨンにこんなことをするのは一人しかいない。
「戻ろう、リヨン」
パエの表情は、リヨンが驚くほどに真剣であった。張りつめていると言っても良い。
リヨンが振り返ると、ヘイらしき女はいなくなっていた。
「ねぇ、戻ろう? 海が荒れる」
「海?」
モース大高原には大きな湖がいくつかあるが、海はない。モース文明の人が海と言えば、それは高原の下に広がる雲海のことである。
「パエ、お前何言ってるんだ?」
「むぅ……。おめめがね、じゅわぁーー!」
「は?」
パエが目の横でわしゃわしゃと指を動かす様を見て噴き出しそうになったリヨンだったが、突然背後の家屋で物音がしたので思わず振り返った。
扉が閉まっている。
(まさか――)
うすら寒い想像がリヨンの脳裏に浮かんだ。
見れば、周囲の人々が次々と屋内へ入っていく。いや、これはもう避難と呼んでいい。
「いやいやいや……待てよ、おい」
声が震えてきた。リヨンは走り回りながら扉の開いている家屋を探す。
「あんた何やってんだよ。〈大怪魚の眼〉に焼かれたいのか? ほら、さっさと入んな!」
突然、誰かに手を引かれた。見ればよく焼けた肌の少年が近くの民家から顔を出している。
リヨンはパエの首根っこをつかむようにして真っ暗な屋内に飛び込んだ。
「フギャッ!」
足元から赤子がぐずるのにも似た声が聞こえた。見やると、どうやら飼い猫の尾っぽを踏んでしまったらしい。
「あ、すまん」
「馬鹿! 早く扉を閉めろ!」
少年がそう言ってリヨンを押しのける。その際、ほんの一瞬だが、分厚い雲に大きな穴が開くのが見えた。
(〈へそ〉だ……。大気の〈へそ〉……)
瞬間、細長い虫が首から背にかけて這い回るように、ぞっと怖気が走った。
「何だ……あれは……?」
これは自然現象だ。上昇気流に伴いあく天空の穴。そう聞いていた。だが、リヨンが見たのは、分厚い黄土色の雲の中を蠢く黒く巨大な影だった。
――〈大怪魚〉。
確かにそれを見た。あまりにも巨大。イサが一目見て気絶したという伝説の名を冠するに相応しい怪異。あれほどの物質量を宙に浮かせる技術がこの星にあるのだろうか。それとも本当に空を覆うほどの化け魚が天空にあるとでもいうのか。
扉が閉まる。瞬時に、密閉したはずそれから閃光が漏れ出た。
「見るな。目が潰れるぞ。まったく、これだから花っ子は――」
花っ子というのは、恐らく千花都出身者に対する蔑称であろう。リヨンはどうやら端から見るに明らかな外者だったようである。つまりはそれほどに、この異様な状況がタルタにおける日常茶飯事だったのだろう。
(何だ……今のは……)
恐ろしいものを見た。いや、何かの見間違いではないか。そう思うしかない。あんな巨大なものが空にあるはずがない。あればとうの昔に監視ステーションの知るところである。
少しずつ扉の端から漏れ出る光が弱まっていく。
(あの目――焼かれたんだ……)
リヨンは、先程路上で見かけた物乞いのことを思い出した。そしてそれより前、宿から出てくる時にローイは確かに「日に焼かれる前に帰って来い」という風なことを言っていた。まさか読んで字の如くであったとは夢にも思わなかった。
(ウェイフの野郎、こんな大事なことを黙っていたのか?)
リヨンの怒りの矛先は、ローイよりも相棒に向いた。先日、王都の書庫で得た情報は全てウェイフに送ったが、その時にタルタに関する物も少なからずあったはずである。周到なウェイフがそれに気づかないはずがない。
そう思って彼から渡された電子資料をチェックする。そしてリヨンにとって腹立たしいことに、それはあった。確かにこの異常現象についての記述があるのである。
思えば、ウェイフが〈へそ〉について説明した折に、彼の中ではリヨンがこの現象を想定したことになっていたのだろう。今のリヨンが考えても、確かに予測は可能だ。ウェイフは直接口にはしなかったが、説明した気分ではあったろう。気付かないリヨンも相当のものである。ともあれ、ウェイフの仕事はリヨンのバックアップなのだから、彼に責任が無いということはありえない。
さて次回の定時連絡でどうやってウェイフに文句を言ったものかと考えながら、リヨンは脳内で資料をめくった。
(雲上の大怪魚?)
確か、前任者のベラが書き残したレポートに、これに近い言葉があった。どうやらタルタ地方の人はこの現象をそう呼んでいるらしい。タルタへの旅上、昼のある時間になると、北の空が異常に明るくなることがあったが、これがそうだろう。
この星の人々にとって、太陽は馴染みのある天体ではない。何故なら年中分厚い雲が空を覆っているのだ。彼らはこの分厚い雲の先に神性を見出した。〈雲上の大怪魚〉がそれである。雲の向こうには世界を覆うほどに巨大な怪魚が泳いでおり、時折、雲間から地上を見下ろしては眩い光で地上を焼こうとする。彼らの神話によれば、主神モースが分厚い雲を作り、人間と化物を別々の世界に分けたということになる。
不思議なのは渡された資料に空を覆う巨大な影のことは全く書かれていないことだ。あれは一体何だったのだろうか。
ものの一分でこの現象は収まった。これなら外の連中も死にはしないだろう。もっとも、最近は頻度が増してきているという〈雲上の大怪魚〉に何度も焼かれるのならば、何年も生きられないだろうが。
光が収まってほっと胸を撫で下ろしたところで、少年がリヨンを怒鳴りつけた。
「おい、あんた。どうしてくれんだよ。うちの可愛いクンの尻尾が折れちゃったじゃないか!」
怒声に驚いたパエが「むっ!」と肩を震わせる。
少年が指差す先を見ると、先程の猫がせわしなくくの字に曲がってしまった尾っぽを舐めている。舐めながら「にゃぁ……」と力無く鳴いた。
――猫の尾を踏み、貴方はそれに苛まれるでしょう。
耳元で誰かに囁かれたような気がした。
(嘘だろ?)
ヘイの予言はまたもや的中した。もしかするとあの女は占い師として本物かも知れない――と一瞬思ったのは、リヨンの人の好さだろう。
「すまない。本当に驚いたんだ。謝るよ。償わせてくれ」
リヨンがあまりにも素直に言い放ったので、少年の方が面食らってしまった。
「へぇ……」
物珍しそうにリヨンの顔をまじまじと見つめながら、少年は言った。
「あんた、もしかして花っ子じゃないの? 例えばさ、その猫の尻尾は最初から折れていて、あんたが偶然それを踏んだのをいいことに金を巻き上げようと思いついたとかさ、考えないわけ?」
「そうなのか?」
「そんなわけない。クンはうちの守り神さ。そんなことしたら天罰が下る!」
クン――という猫の名前は貨幣の単位と同じであるから、金を呼び込むようにという意味からつけたのだろう。
「じゃあ、償おう。渡せるものは金しかないが、いいか?」
「金でもいいけどさ、あんたうちに泊まらないか? うち旅館やってんだ。他に連れいる?」
言われて、リヨンが屋内を見渡す。外観からはよくわからなかったが奥行きがあり、寝台がいくつか並んでいる。個室は奥に二室ある。
「悪いが宿はもう取ってしまった」
「そうか、残念。じゃあ二十クンくれよな」
銅貨を取り出すリヨンの手が止まった。
「どうしたんだい? まけたりはしないよ」
リヨンは亡霊を見ていた。彼の視線の先には、千花都で横死したはずのムゥの姿があった。




