第一章「火急の用」(1)
「ここの人々は、心が雲の上にある」
黄土色に濁った空を見上げていると、そんな言葉が口をついて出たが、すぐに自分の呟きの不思議に気づいた。
(ああ、空が澄めば皆死ぬのか……)
鈍い日光しか届かぬこの地では生まれ得ない表現を、自分が知らずに選んだことが、リヨンには少しおかしかった。
視線を下ろした時、リヨンは自分が彼らの心のありようを何故、この広い大地に例えなかったのかとまたもや首を傾げた。だが、その理由はすぐにわかった。
荒涼たる大地である。草木はほとんどない。とても人間の不思議をこれに例える気分にはなれない。
その漠々とした荒野を、壮観としか言いようのない大道が貫く。竜車二十乗が横並びで走れるほどの広さだ。その端を、リヨンは竜の背に乗ったままふらふらと行く。
光るような黒髪である。髪質は素直なように見えるが、前髪が右にしか流れない妙な癖があり、ただでさえ顎の細い彼の顔から威を殺いでいる。背は高くも低くもなく、他の人々と居並んで立つと、影のように消えてしまいそうである。
若い――が、少年のような外見に反して、彼と対話した人はまずその落ち着いた低い声に驚く。ただしそれにもどこか澄みがあり、特に年増の女にとっては愛嬌を感じさせるようだ。彼が今乗っている竜も、前の街で自分を気に入ってくれた女から安く仕入れたものだった。
竜は二本の後ろ足でのそのそと歩く。前足は短く、白い腹の前で折りたたまれている。どこか蜥蜴のようでもあるが、蜥蜴と違い、魚のような鱗がある。リヨンの乗る竜は他の騎乗用のそれと比べて小さく、鱗もところどころはがれている。
「遅い!」
現実に立ち返ったリヨンは、竜を叱るように言った。確かに前の街の女は親切だったが、年老いた鈍間な竜――駑竜とでもいうべきか――を売りつけられてはたまらない。リヨンは路銀を惜しんだその時の自分を恨みたくなった。
旅を楽しむコツは、時間の制約をなるべく無くすことかもしれない。その意味で、リヨンのそれは楽しいものではなかった。一日も時間を無駄に出来ない中で、人生の峠を過ぎたような老竜に乗り続ける苦痛は、彼が空想遊びに逃げ込むには十分すぎるほどであった。
先の妙なつぶやきは、「この老いぼれ竜に羽が生えて飛んでゆければいいのに」といった愚痴にも似たものを言おうとしたのかも知れない。
ふと、土臭い風が舞いあがった。
振り返ると、後方で砂塵が上がっていた。目を凝らしてわかる程度には薄く、大勢であるとは思えなかった。
一乗の竜車が、大道を爆走していた。一個の点であったそれはみるみるうちに大きくなり、ついにはリヨンに並び、快速でもって追い越そうとしていた。
馭者席には女の姿があった。一瞬、目が合ったが、女は一瞥しただけでリヨンのことを気にも留めないようだった。しかしながら竜車に誰も乗っていないことを目ざとく確認したリヨンは、自分に土埃を叩きつけるように疾駆する者に向かって声をかけた。
「おぉーい!」
竜車は少しの間そのまま走っていたが、どうやらリヨンの呼びかけは聞こえていたようで、にわかに止まった。リヨンは老竜の遅さに苛立ったのか、竜を下りて手綱を引きながら走った。
「急に呼び止めてすまないね。王都へ行くのかい?」
女は馭者席の上からリヨンを見下ろすことをせずに、すぐさま降りて大地に膝をついた。
「はい」
日によく焼けた褐色の肌である。髪の色は銀、頭に野牛のような二つの角が生えている。目鼻立ちは整っていて、水着程度にしか肌を覆っていない皮の衣服は、そのまま女の豊満な肉体をリヨンの網膜に向かって強烈に焼き付けていた。そして玉に瑕というべきか、このムゥは口元から耳にかけて大きな切り傷があった。
(あっ、ムゥ種かぁ)
美しいムゥであると思ったが、ムゥとは皆美しいものだろう――と、リヨンは心に起こった小波を嘲笑った。
「如何なされました?」
「できればでいいんだが、王都まで乗せて行ってもらえないだろうか? 急ぎなんだが、この老いぼれだとひと月はかかりそうだ。何、相応の路銀は出す」
リヨンがそう言った時、ムゥはリヨンではなく彼が引く老竜を見た。
「その竜は元々からして健脚です。どれほど重い荷を背負わせておられたのか存じませんが、足が潰れかけております。恐らく、同じ条件下であれば、私が駆る竜も潰れましょう」
ムゥが不思議そうに言ったのは、リヨンの引く老竜の背にそれらしい荷物が見当たらないからだろう。だが、彼女は竜を観る目には自信があるらしい口ぶりである。
「あ、そういうことか」
と、リヨンが一人で納得してしまったのだから、ムゥは首を傾げた。
「二頭繋いでも無理か?」
「火急の用にて――」
「わかった。呼び止めたりして悪かったよ。ああ、君。名前は何ていうんだ? 僕はリヨン。僕も王都へ行くから、何かの縁があったらまた会うかも知れないよ」
「ティイと申します。タルタ総督の御息女フェレーネ様に仕えております」
そう言って竜車に乗ったムゥは、王都へと続く街道を再び爆走した。
「使いを観れば主の器量がわかるというが――」
リヨンはムゥの丁重な態度を誉める気分にはなれなかった。ムゥならば誰でもそうするからである。だが、素性のわからぬ旅人から呼び止められた彼女が少し進んでから竜車を止めたのは、その距離自体が葛藤の現れだろう。小心であり、しかしながら誠実であるというのは、彼女がフェレーネという名を口にした時にわずかに誇らしい顔をしたことから想像できなくはなかった。同時に、口の端で悲しみを噛んだような顔に見えたのは、彼女の言う「火急の用」に関係があるのだろう――と。
そして、リヨンにはあのムゥにほんの少しだけ感謝の気持ちがあった。自分は前の街で悪い竜を買わされたと嘆いていたが、それは誤りであったことを、ムゥは――彼女自身はそのことを知らないながらも――教えてくれたのだ。リヨンは別れ間際に気の利いたことを言ったが、思い込みで人の善意を疑う者の言葉であれば、それも軽かろう。