22.精神の切り替えとチキンカツ
前世、小野紫として生きていた私。
今までアニスとして生きていたけれど、前世のことを考えている時は無意識に小野紫の精神に切り替わっているのかもしれない。自覚は全く無いけれど。
だから前世にある肉料理のことを考えても嫌悪感は出ないのだろう。
今のこの身体は元々アニスという少女の身体だ。そこに小野紫という意識と記憶と精神が入り込んだ状態が今の私。
私としては小野紫の意識が連続している感覚で、アニスの意識は私の中に無い、と思う。
記憶も精神も小野紫がメインだが、アニスの記憶も精神も存在しているのは間違いない。
精神に関しては融合したような感覚を持っていたのだが、もしかしてそれは間違いだったのか? この身体にある二人分の精神は、コーヒーとクリームのように混ざり合うと分離不可能なものではなく、ラーメンの麺とスープのように、一体感はあるけれど分離可能なものなのかもしれない。
試しに『私は小野紫である』ということを強く意識してみた。年齢25歳、飲食店で働く実家住まいのフリーター。
家族は両親と兄がおり、家族仲は良好。
自分で稼いだお金は漫画やゲームといった趣味に使い、最近のお気に入りは巷で大人気の音ゲー格闘漫画『神速のイヴリガッコ』。私自身腐女子特性もちょっと持ってるので、そっち方面でもイケる。
料理はお母さんの手伝いをするくらいで、得意とは言えない。
容姿は芋顔と言われるくらい平凡なため、彼氏なんていたためしも無し。
私は小野紫である、ということをハッキリと意識したこの状態で、あの森の場面を思い浮かべた。
嫌悪感は湧き上がる。――湧き上がるのだが、パソコンの画面越しのイメージというか、なんというか他人事のような感覚で見ている感じがした。今までと感じ方がまるで違う。
……ん? もしかしてこの精神状態ならお肉食べれるのでは? と思って焼けた肉とニオイを思い出してみたが、吐き気が込み上げてきたのでこれはさすがに無理そうだった。
とはいえ、今までほどではない。
この精神の切り替えは使える……!? そして同時に、状況解決の糸口も見えてきた。
今後、小野紫の精神状態で過ごす、というのは日常生活で絶対にボロが出るのでさすがに論外か。精神の切り替えを食事時におこない、そのうえで一口チキンカツをしばらく食べ続ける。いきなり普通の肉を食べるより一口チキンカツのほうが抵抗感は少ないはずだ。
そうすれば徐々に肉の味にも慣れていき、そのうち精神の切り替え無しに肉も食べれるようになるはず。たぶんだけど。
いや、これで成功しないと死ぬからね私……!!
とりあえず院長に、なんとかなるかもしれないということを説明し、お母さんにチキンカツを作ってもらうよう、院長にレシピと伝言をお願いする。
レシピを渡して戻ってきた院長から、お母さんが「娘のためなら!!」と気合を入れて料理を始めたとのこと。
院長には戻ってくるついでに小さめの薪を一つ持ってきてもらった。小野紫の精神への切り替えをより深くするために、一つ必要な物がある。薪はその材料だ。
院長が帰り、お母さんが料理に奮闘している間、私は薪を風魔法でカットしていく。体力は全然無いが魔法は問題なく使えるので助かった。
カットした薪をある程度形を整えて一応完成させると、私はチキンカツができるまで身体を横たえる。
――ハッ!? 私寝てた!! 料理ができたらすぐに起き上がろうと思ってたのに!!
窓の景色は暗い。いつの間にか日が落ちていた。
肝心の料理はベッド脇のテーブルの上に置いてあった。冷めてるだろうけどまぁ仕方がない。
私はガバッ……と起き上がるのは無理なので、全身にエレキボディをかけてなんとかのそりと起き上がる。そしてそれだけで息切れする。
しばらく呼吸を整えて、一口チキンカツが盛られた木皿を膝の上に乗せた。うん、これに忌避感は抱かない。少なくともアニスの精神では『今までと同じようなお肉』と感じない。知識と記憶では間違いなく肉料理なのだけれど、目の前の物が肉料理と認識できていない。初日に両親へ抱いた矛盾と同じような感じだ。
確認を終えたら、私は小野紫の精神に切り替える。
目の前にあるのは冷めたチキンカツ。これなら、前世で惣菜コーナーから買ってきた物とか、常温の弁当とかで馴染みがある。そういう場面を思い起こしながら、私はさきほど薪から作った物を手に持った。
その名も箸!!
いやぁ、やっぱ日本人なら箸で食べないと。
眠ったのは好都合だったかも。箸を扱う場面を両親に見られるわけにはいかない。もし起きてたら、親が見守る中、箸を使えずに食べる羽目になった可能性もある。
小野紫としての精神をより強くするために作ったのだから、使わなきゃもったいない。
こうなってくるとやはり御飯が恋しいが、無いものをねだっても仕方がない。
「いただきます」
この世界の食前の言葉ではない、日本の食前の言葉を口にする。
そして私は箸を使って、チキンカツを恐る恐る口に持っていく。
噛んだ瞬間、衝撃が走った。
肉とはこんなに美味しいものだったのか!! 噛めば噛むほど、身体がそれを求めるのがわかるというか、欲するというか、五臓六腑に染み渡る、という言葉が理解できる感じがした。
サクサクとした食感も久し振り過ぎて、思わず涙が出た。美味い。美味すぎる。
小野紫としてチキンカツを食べるのは、少なくとも半年以上振りなのだ。美味くないわけがない。
そしてあっという間に完食。これなら毎日食べれるね。普通にお肉を食べれるようになるのもそう遠くないかもしれない。
お腹いっぱいになった私は「ごちそうさま」という言葉とともに木皿をテーブルの上に戻して、箸は見られないように隠し、再び眠りについた。
翌朝、目が覚めてのそりと起き上がる。……ん?
体力はまだ戻ってないけど、ベッドから動けないほどではなくなっていた。栄養になるの早すぎない? まぁいいか。
ちょっと足元がふらつくけど、歩けなくはない。チキンカツが入ってた木皿をダイニングに持っていったら、両親にむちゃくちゃ驚かれた。今までベッドから動けなかった娘の容態が、一晩で改善しているのだ。そりゃ驚くよね。
二人して泣いて喜んでくれたので、こっちももらい泣きしてしまった。
「それじゃあ、このチキンカツっていうのは今までと違って食べれたのね?」
「うん。時間は少しかかるかもだけど、チキンカツで慣らしていけば普通のお肉も食べれるようになるかも」
「良かった……本当に良かった」
お母さんは落ち着いたけど、お父さんがまだ泣き止まない。
「う~ん、できることならアニスのために一口チキンカツをもっと作ってあげたいけれど……油に余裕がないから毎日は無理なのよねぇ」
……しまった!! ウチは貧乏というほどではないけれど、余裕があるほど裕福でもなかったんだった!! 前世の感覚で油は使えない。
とりあえず二~三日は同じ油でチキンカツを作って、以降一~二週間ごとに作るようにすれば今月はギリギリ足りるか? という話で落ち着いた。
「来月以降はブルースに頑張って稼いでもらわないとね」
「あ~、それはもちろん頑張るよ。ただアニス、チキンカツの件でちょっと提案があるんだけど」
いつの間にか泣き止んでいたお父さんが、神妙な顔で私と向き合う。
「あの料理はとても美味しい。お父さんも衝撃を受けたほどだ。そこで、このレシピを王都で贔屓にしてるお店に売りたいと思ってるんだ。この料理は上手くすれば流行る可能性がある。いや、確実に流行る!!」
お父さんが力説しながらググっと顔を近付けてくる。商人魂に火が付いてしまったようだ。目の前の顔を両手で突き放しながら、私は少し考える。
チキンカツが流行って、手軽に食べれるようになるのは私としても願ったり叶ったりだ。レシピを売る、と言っているのだからお金にもなるし、正直私がレシピを独占したところでメリットがない。
そう考えて私は「良いと思うよ」と軽率に了承したのだが、それが後々色々な事態を引き起こすことになるとは、この時は露ほども思い至らなかった。




