18.カリエンデルブ
周りを警戒しながら、慎重に森の中を進む。程なくして一本の木の裏から、グルリ、と毛むくじゃらの魔物、カリエンデルブが姿を表した。
私はその異様な光景と動きに絶句した。
巨体で樹上生活が非常識? そんなものは非常識のうちに入らない。私の考えはまだ常識から抜けておらず、そして完全に勘違いをしていた。
こいつは木の幹に足を着け、『地面に対し水平に立っていた』。まるで木の幹に重力があるかのように。
そして非常識な動き方。こいつは木の幹に立ったまま、木の裏側から一歩歩いて姿を表した。たった一歩だが、木の幹を軸にして体全体が90°程度動いたことになる。動きが変則的過ぎる。
あまりの異様さにたじろいでいると、奥の木々に無数のギョロ目が見えて私は絶望した。こいつらも全て、木に立っている。普通なら折れるであろう枝に『ぶら下がるように立っている』奴、私達を『見上げるように』木の幹に立っている奴、木の幹に足をつけてはいるが、長い腕を伸ばして別の木の幹を掴んでそちらに移動し、そしてその木にもまるで重力があるように平然と歩く奴など。
地面に降りている奴もいるが、ほとんどの奴は木に足をつけている。斜めに張り出した枝だろうが、盛り上がった木の根だろうが、そんなものは何も関係ない。こいつらにとって足が触れた場所は重力があるのだ。
院長の言葉通りこいつらは『木々を非常識に渡り歩く』。ここまで非常識とは、誰が予想できるだろうか。
そして私は同時に理解もした。ミジクの森というのは固有名詞ではなく、私の中ですでに翻訳された名称だったのだ。正確には『未軸』なのだ。こいつらにとって軸とは定まっていないもの。未設定。未定。故に『未軸の森』。
恐慌状態に陥った私は、バッと振り返る。もしかして後ろにも魔物がいるのではないかと思ったのだが、見えるのは森の入口の光だけだった。左右を見ても魔物はいない。いるのは正面だけだ。
そのことに安堵して少しだけ落ち着く。魔物は多数いるが、まだ手は出してこない。パラデシアもこの数に手を出すのはマズイと感じているのか、膠着状態が続いている。
しばらくその状態が続いたが、奥の魔物はこちらに向かうことなく森の中へと去っていった。残ったのは最初に見付けた一匹のみ。……私達の相手は一匹で十分、ということなのだろうか。
左右から微かに戦闘音が聞こえる。他のグループが戦い始めたのだろう。
私はまた震えだした体をなんとか動かし、パラデシアの後ろから魔物を見据え続ける。自分の心臓の音がバクバクと聞こえる。恐怖と緊張で吐きそう。
でも弱音を吐くわけにはいかない。死にたくないし、人を死なせたくもない。その覚悟だけは無くさないように自分を奮い立たせ、私は私にできることをやるのだ。
パラデシアは私を魔物からかばうようにしながら、魔物との間合いを詰める。しかし詰めすぎてはいけない。魔物の身長が2メートルを越えているなら、長い腕を伸ばせば3メートルには余裕で達するだろう。魔法で遠距離から攻撃できるのでこちらが有利、と単純にはいかない。魔法であれ射撃であれ、距離が近ければ近いほど命中率も当然高くなる。相手の攻撃が届かず、こちらの命中率を可能な限り高めて仕留められるギリギリの間合い取り。それを見極められるかが命運を分ける。
膠着状態を破ったのはパラデシアだった。
睨み合っている最中に、いつの間にか杖の先端を地面に刺しており、刺した先端を勢いよく振り上げる。枯れ葉や木の枝、そして捲れ上がった土が魔物の視界を覆う。
初手で目潰し!?
振り上げた勢いを利用してそのまま杖を一回転、杖の宝石側を魔物に向け、続けて「シュナイデン!」と魔法を放つ。放たれた魔法は正面の木々を3本ほど切り倒すが、そこに魔物の姿は無い。
パラデシアはすぐに索敵。左前方からコッ! コッ! と音がするので、おそらく魔物が手足を使って木々を移動しているのだろう。
音の方に注意を向けていると、突然右前方の木が揺れた。
予想外の方向に、意識をそちらに向ける。
――それが間違いだった。
「左です!!」
気付いた私は瞬時に叫ぶ。揺れた木の近くには大きめの石が転がっていた。私達の注意を逸らすために魔物が投げたのだ。
パラデシアは咄嗟に杖を両手に持ち、防御態勢を取る。そしてパラデシアが再び左に頭を向けた時には、魔物の手が目の前に迫っていた。
パラデシアが吹き飛ぶ。魔物の攻撃は、バンザイの状態で木の幹を歩くという、聞くだけなら単純なもの。しかし軸は木の幹だ。一歩歩くだけで90°ほども動くのだから、遠心力により先端のスピードは凄まじいものになる。デカイ図体に長いリーチ、そこに遠心力が加われば、人間なんて簡単に吹き飛ぶ。
吹き飛んだパラデシアの左肩が木にぶつかり、短いうめき声とともに地面をゴロゴロと転がり、そして止まる。杖は魔物の攻撃で完全に折れており、パラデシアが動く気配はない。
……パラデシアが為す術もなくあっさりとやられた。急いで駆け付けたいけれど、私を見つめる魔物の目がそれを許さない。私は完全に恐怖に支配された。
魔法で攻撃する、ということにすら思い至らない。もし思い至っても、この精神状態ではまともに魔法も放てない。
魔物が木から降りて地面を歩いてくる。次の獲物は私であるというのを無言で語るかのように、私に向けて歩みを進めてくる。
次は私がやられる。
無感情の目が私の足を縫い付ける。
私の覚悟は簡単に砕けた。
死ぬ。嫌だ。死にたくない。怖い。生きたい。恐ろしい。また殺される。どうしたら。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
ごちゃごちゃの感情を吐き出すように、私は声にならない叫び声を上げた。
どれくらい時間が経ったのだろうか? 一瞬なのか結構な時間が経過しているのか、私はギュッと瞑っていた目を開ける。私はまだ森の中にいて座り込んでおり、そして生きていることを徐々に実感する。
ゆっくりと顔を上げ辺りを見回すと、周りの木々が燻っており一部に火が付いていた。右の方にはパラデシアがこちらに顔を向け、私に向かって片腕で這っているのが見えた。生きていた。良かった。私もパラデシアの方に向かいたいが、足が動かない。腰が抜けている。
正面の方に顔を戻すと、おぞましい物が見えた。
千切れ飛んだ毛むくじゃらの腕、焼けた肉片、内臓。下半身だけが原型を留め、内臓が地面にぶちまけられ、そして地面がキラキラしていた。
視認すると同時に感じる、木の匂いと土の匂い、燻る木のにおい、焼けた肉のニオイ、飛び散った血ノニオイ、コミアゲルスッパイニオイ――。
そして私の意識はブツリと途切れた。