「きゃー! モットさんギューッとしてぇぇ!」「ふーんふーん。ななつ先輩なんて知ーらない」
それは、ある日の出来事だった。
「お疲れ様でーす」
退社時間を迎えたななつ先輩は、入れ替わりにやってきたスタッフなどに挨拶をしていた。
穏やかな夕方。本日は特に大変な思いをすることなく、帰ることができる。それだけでななつ先輩の心は躍っていた。
「さてっと」
久々にできた余暇。次の日は仕事がお休みということもあり、ななつ先輩は上機嫌に鼻歌を口ずさみ始める。
溜まっていたゲームをやろうか。本も読みたい。天気がよかったらドライブもいいな。
そんなことを考え、事務室へと向かう。
そこに、思いもしない人物が待っているとは知ることもなく――
「あ、お疲れ様ですぅ」
事務室の扉を開けた瞬間、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。
目を向けるとそこには、ニコニコと笑っている美人な女性がいた。
「お疲れ様です、沢村SV」
SVとは、スーパーバイザーの略称だ。
ななつ先輩が務めるバーガー店には、偉い人が二つも存在する。一つはこのお店を運営している会社、つまりオーナーサイドの方々である。
もう一つはバーガー店の本元、つまり本部で働いている人々だ。SVはこちら側に当たる。
オーナーサイドはいわば直接の上司のため、基本的にはこちらの意向に従う。しかし、緊急時やクレーム対応などは本部側の仕事となる。
どちらかというと本部のほうが立場は上なのだが、現場で働いている者にとってはどっちも無碍にできないと存在だ。
ちなみにななつ先輩はただのパート。立場的には下の下であり、下から数えたほうが早い末端の人間である。
「今日はどうしたんですか?」
「ふふふ。実はね、このお店って来週で開店十五周年を迎えるのです。だからそのお祝いに来たのですよぉ!」
「へぇー、そうだったんですか。そりゃめでたいことですね」
ななつ先輩はそう言って帰り支度を始めていた。
サロンを脱ぎ、キャップを取り、リュックの中へと押し込めていく。
「それでね、モットさんが来ることになったのですよぉ」
「モットさん? ああ、あのおっさんバーガーですか」
「言い方がかわいくないですよ、ななつくん。モットさんは我が会社のマスコットなのですよぉ!」
ななつ先輩がお世話になっているバーガー店。そこには一応マスコットキャラがいる。
バーガーの精霊〈モットさん〉だ。
年齢は人間でいうと四十半ば。濃い眉毛とヒゲ、パッチリとしたお目々、そしてずんぐりむっくりなバーガーらしい姿をしたおっさんマスコットである。
モットさん、いや会社の方針いわく、とびきりのイベントの時にやって来ない設定だ。そのため現れたらレアとも捉えられるマスコットである。
「へぇー、結構すごいことなんですね」
「そりゃそうですよ。だって十五周年ですよ? 普通はその間に、閉店してもおかしくないですからね」
「そうですね。にしても、うちの店って結構長くやっているんだなぁ」
何気ない談笑。ななつ先輩は美人さんとの会話を楽しみ、そのまま帰ろうとしていた。
だが、ななつ先輩は気づいていなかった。
すでにロックオンされているということに――
「ななつ君、それでちょっとお願いがあるんだけど、いいですか?」
「なんでしょうか?」
「実はね、モットさんをやって欲しいなって思っているんです」
「つまりそれって、人形の中に入って欲しいってことですか?」
「そうなのです! 全面的サポートはしますし、それに特別給与も出すのです!」
ななつ先輩は考える。
何かと頑張ってきた四年。その間にはいろいろとあったが、こうやって頼られるのはあまりなかった。
それにマスコットとしての活動ってどんなものなのかちょっと興味がある。
「いいですよ、やりましょう」
その返事をした瞬間、沢村SVの目が輝いた。
本当に嬉しそうな顔をして、ななつ先輩の両手を握る。
「ありがとうです、ななつ君! もういっぱいサポートしますからね!」
その言葉はとても心地良いものだった。
ついつい顔が緩ませていると、沢村SVはある注意を口にする。
「あ、でも当日はタオルとたくさんのスポーツドリンクは持ってきてくださいね。中は結構暑いですから、汗をたくさんかいてしまうのです」
「そうなんですか? わかりました、用意しておきます」
「では、来週末はお願いしますです!」
元気よく駆けて、去っていく沢村SV。ななつ先輩はそんな美人さんを見送り、晴れやかな気分となっていた。
――来週の休日は頑張るぞ。
そう気合を入れる。
だが、ななつ先輩は大きな後悔をすることとなる。
人形の中はどれほどの地獄であるのか。どれだけの水分を失うのか。
想定外の連続が襲いかかることを、この時は知らない。
◆◇◆◇◆◇
やってきた週末。本日は開店十五周年を祝っているのか、青空が一面に広がる快晴である。
風と思える風は吹いておらず、また開店十五周年という記念を広告で告知したためかいつも以上に人でごった返していた。
「うぁ、キツい……」
人がいつも以上にいるということは、お昼ピークの忙しさもいつも以上である。
「えっと、えっと!」
いつもは結構正確にオーダーを打ち込んでいるマオが、パニックに陥っていた。たまに打ち間違いをして、そのたびに対応しなければならない状態だった。
店長ことカァタンも「そっちはいい! 会計を先に済ませろ!」と声を荒げて指示を出している。
そんな中、お鷹様は次々と商品を紙袋に詰めていた。一つもミスはないが、代わりにとても静かであった。
「うあぁぁぁ……」
どうにかこうにかお昼ピークを乗り越え、ななつ先輩はフラフラとしながらも水分補給をしていた。
順番的にはまだ休憩は来ない。だが、その時間がとても待ち遠しい。
そんな風に考えていると、裏口の扉が開いた。
「あ、いたいた」
太陽のごとく、眩しい笑顔を浮かべた沢村SVの登場である。ななつ先輩は「おはようございます」といつもの挨拶をすると、沢村SVはニコッと笑った。
「ごめんなのです。もう少し早く来て、お店のお手伝いをしようと思っていたのですが」
「今日は道路も混んでましたからね。仕方ないですよ」
「申し訳ないです。あ、そうそう。もうすぐモットさんの時間ですけど、いけますか?」
いけるかいけないかと問われれば、正直いける気がしない。
しかし、ななつ先輩は沢村SVを困らせたくないという一心で「大丈夫です」と返事をしてしまった。
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。まだ二十代ですし!」
「じゃあ、準備してくるのです。あ、ななつ君は着替えてきてくださいね」
パタパタと、沢村SVは駆けて去っていった。
ほっこりとしながらななつ先輩は水分を取る。すると誰かから突然、ポンと肩を叩かれた。
「生きて帰ってこいよ」
「お店のことは任せなさい」
振り返るとカァタンと、なぜかお鷹様もいた。二人はとても哀れむような目をしている。
「ハァ……」
「まあ、経験してこい」
「そうね。あれはやらないとわからないわ」
なぜ、この二人が哀れんでいるのか。
どうして、戦場に送り出すような敬礼をしているのか。
ななつ先輩はその意味をもうじき知ることとなる。
◆◇◆◇◆◇
「うぁ……」
モットさん、いやマスコットキャラの構造はとても単純だった。
大きな図体を被るように着て、専用の靴を履くだけだ。
だが、それが大変である。
モットさん自体が大きいため、普通に持ち上げて被ることができない。そのため逆さまにして、穴の中へ身体を入れるという作業となる。
しかし、大変なのはそこからである。身体を中に入れ、そのまま身体を起こす。するととんでもない重量が襲いかかってくるのだ。
「お、重たい……」
ただ重たいだけならまだいい。それに加えて、空気が熱気を帯びて籠もっている。
さらにヤバいことに、視界がほぼ塞がれている。唯一、外の情報が入るのは足元とモットさんのヒゲらしき部分だけだ。
「ななつくん、ヤバかったら言ってくださいですぅ」
「もうヤバいです……」
「じゃあ、先導しますから転ばないように歩いてくださいですぅ」
ななつ先輩は、この時初めて人間の非情さを知る。
有無を言わさず移動させられてしまう。途中、「何あれー?」「きしょいんだけど!」という声は入ってくるが、誰が、いやどんな姿をした人が言葉を発したのか全くわからなかった。
「じゃあ、ここでお客様を喜ばせるのです。あ、いらっしゃいませこんにちはです! モットさんですよぉ!」
事前の打ち合わせ通りに身体を揺らしたり、たまにモットさんの身体(被り物)を持ち上げたりしてアピールをする。
だが、疲れ切った身体に灼熱地帯で、その行動は自殺行為だった。
――キツい、死ぬ!
天気がいいからこそ、モットさんの中はとんでもなく暑い。
風が吹いていないからこそ、熱はどんどんと籠もっていく。
お客様は容赦なくやって来るため、動かなければならない。
ドリンクをモットさんの中に持ち込んでいるとはいえ、そんなもの焼け石に水だ。あっという間に消え去り、ななつ先輩はどんどんと乾いていく。
「ありがとうですぅ」
やっと終わったサービス。ななつ先輩はもうフラフラとしていた。
沢村SVはそんなななつ先輩を見て、さすがにヤバいと判断したのか「ちょっと移動するのですぅ」と声をかけた。
――休憩がもらえる。
そう思った瞬間、思いもしない追い打ちがかけられる。
「きゃー! いたわぁぁ!」
それは、聞き覚えがある声だった。
トタトタと駆けてくる足音が響く。そして突然、前方からギューッとされた。
「ずっと探していたのよ、モットさん!」
ななつ先輩はすぐに誰の声なのか気づく。
この前、マオと派手にケンカをした女の子〈田中ダリアン〉である。
なぜダリアンがここにやってきたのか。そもそもどんな姿をしているのか。
いろいろと謎があるが、今のななつ先輩にとってどうでもよかった。
「あ、ごめんなのです。今モットさんはちょっと――」
「何がちょっと、なの!? 私はやっと、やっとモットさんに会えたのよ!」
ななつ先輩の汗が止まらなかった。
暑さと辛さが主な原因だが、それ以上にダリアンが離してくれないことが恐ろしかった。
「モットさん、せっかくよ。記念撮影をしましょう!」
「えっと、モットさん大丈夫、ですか?」
「大丈夫よね!? だってモットさんだもん!」
大丈夫も何も、頷くしかなかった。
ななつ先輩はとっとと終わらせて、早く休憩に入るという選択をする。
そもそもな話、モットさんの状態では逃げ切ることができない。
「では、写真を撮りますねぇ。はい、チーズ」
ダリアンが持っていたスマートなフォンで写真撮影をする。
ニッコニコとしているダリアン。その顔はとても幸せそうだ。
モットさんはというと、無表情だった。中にいるななつ先輩はというと、どこか悟りを開いていた。
「はい、どうですか?」
「サイッコー! もう家宝にするわ!」
ななつ先輩はもう茹だっていた。蜘蛛の糸を垂らしてくれ、と神様に願っていた。
「じゃあ、最後に。もう一回ギューッと!」
抱きつかれるモットさん。その瞬間、ななつ先輩は魂が飛んだ。
――死ぬ。もう死ぬ。
もはや虫の息であるななつ先輩。だが、思いもしない一言がななつ先輩の意識を繋ぎ止める。
「ふーん」
それは、とても冷めた声だった。
思わず振り返る。しかし、シャットダウンされた視界には映らない。
「ふーんふーん、もう知ーらない」
それは、マオの声だった。しかも明らかに拗ねている。
なぜ、拗ねられたのか。
どうして、そんな言葉を発したのか。
新たに生まれた疑問が、ななつ先輩を繋ぎ止める。
「じゃ、移動するのです」
どうにかこうにかモットさんを脱ぐ。それからは気絶するようにぶっ倒れてしまった。
カァタンいわく、マオがなぜか不機嫌だったということを話される。
この出来事から、ななつ先輩はモットさんが大きなトラウマとなった。
だが、身体の大きさ的に丁度いいということもあり、何かイベントがあるたびにモットさんをやる羽目となる。
ななつ先輩はそのたびに、「もう嫌だ、転職する!」と泣き叫ぶのだった。