4. イクシーズ・オブ・ホロギウム 後編
「おーい、リサ。リサ?」
懐かしい声だ。ほんのひと月前まで毎日のように聞いていたのに、理里はそう感じた。
あの日から、あまりにも求め続けてきた声だったから。
「し……おん? これは、夢……か?」
そう、現実であるはずはない。彼女は星座に戻って、天で俺のことを待っているのだ。ここに、いるはずがないのだ。
ここはどこかの雄大な草原のようだ。果てしなく広がる地平線、高く澄んだ空――全てが言葉では言い表せないほど、美しい場所だ。
……何だ、やっぱり夢か。
「ああ、やっとおきた。大丈夫か?」
どうにか開いた目に映ったのは、やはり彼女の顔だった。
上結びのポニーテールにされたぼさぼさで長い髪も、整った鼻筋も、大きな瞳も――あの日から一日たりとて忘れたことのない、まぎれもない彼女のもの。
彼女――折召紫苑は、生前と変わらぬ姿で、寝転がった理里の傍らに座っていた。
「ちょっと、なにか返事しろよっ」
拗ねたように、紫苑は俺の頬を軽く叩いた。
「ああ、悪いな……まだ頭がちょっとボーっとしてて……」
「まったく、リサはほんとうに寝起きが悪いなあ」
これも懐かしい。彼女が生きていたころは、こんなやり取りをよくしていた。
紫苑は、ひと月前まで俺のクラスメイトだった。付き合ってはいなかったが、お互いに好きである……両想いであることは知っていた。
元々ぼっちだった俺たちは、夏休み明けの席替えで隣の席になってから急速に仲良くなっていき、惹かれあっていった。だが彼女は実は〝英雄〟――しかも地獄と同じ、星座からの転生体だったことが、ある日彼女が暴走したことによって発覚し(彼女自身もそのことを知らなかった)彼女は自分から俺を守るため、自ら命を絶った。
彼女の前世は、ギリシア神話で荒くれ者として有名なオリオンだった。おそらく彼女に前世の記憶がなかったのは、元々の粗暴な気性を神々が嫌っていたため、転生する前に記憶を消されたのだろうと理里は推測しているが、真実は定かではない。
――それにしても、なんていい夢なんだろう。このまま、醒めなければいいのに。
そんな思いに包まれかけていた理里に、紫苑はなおも話を続ける。
「それにしても、リサがこんなに早くこっちに来るなんて思わなかったなぁ。八十年くらいは覚悟してたんだけど……いや、怪物だからもっとか? 五千年とか?」
「ん? 何の話だ?」
俺は、お前といられればそれでいいのに。なんでいきなりわけのわからないことを言い出すんだ。この夢を、なんでただのいい夢のままにさせてくれないんだ。
不快感すら覚えた理里に、彼女は衝撃的な現実を伝えた。
「え? ああ、まだ分かってないのか。リサは、死んだんだよ」
「……はあ? 俺が、死んだだって?」
「覚えてないのか、あのピンク色の髪のやつに斬られたこと。あたしもまだ、気持ちの整理がつかないんだけど」
そうだ。俺はさっき地獄に斬られて……それから……。
「そうだっ! あいつはどこだっ! このままだと、珠飛亜が! ……あっ」
思わず最初に姉の名を口走ってしまい、非常に後悔したが、こうしてはいられない。早く、奴を止めなければ!
「今、リサの体をどっかに運んでる途中だよ。それより、とっさにあの人の名前を呼ぶなんて、やっぱりリサはシスコンなのかあ」
「それは断じて違うけど! そんなこと言ってる場合じゃないんだよ! あいつは、俺にしか止められないんだ! 邪眼に耐性がある、俺にしか!」
「……もう一回言うぞ。リサは、もう死んだんだ。あいつに負けて、殺されたんだ」
「お前、なに意味分かんないこと言ってんだよ! 俺は早くこんな夢なんか終わらせて、あいつを止め……いや……待てよ……嘘だろ……」
理里は、やっと全てを思い出した。地獄に立ち向かうと決意し、俺は走りだして……そしたら、突然目をえぐり取られ、同時に胸・脚・腹・その他諸々を切り裂かれた。
「俺は、死んだのか? あんなに、簡単に、一瞬で……?」
「そうだ」
理里は愕然とすると同時に、憤りを感じ始めた。自分の体とは、こんなにも脆いものなのか。こんなにも容易く、壊れてしまうものなのか。
「ふざけんなっ! 俺は、まだ死ねないんだ! やりたいことも、やらなきゃいけないことも、たくさんあるんだ! なのに、こんなところで死ねるかっ!」
「……そうだよな」
悔しさのあまり、地面を殴りつけた理里に、紫苑は穏やかな口調で語りかける。
「それで、これからどうしたい? あたしと一緒に、ずっとここで幸せに暮らすか?」
「……」
全てが、あまりにも性急すぎた。心の処理能力が全く追いつかなかった。
「俺は、家族を守らなきゃいけないんだ……あいつを倒さなきゃいけないんだ……」
「違う」
「えっ?」
唐突に紫苑は声色を変え、理里の言葉を切り捨てた。
「『守らなきゃいけない』じゃない。『倒さなきゃいけない』じゃない。リサが、どうしたいかなんだ。今はそれだけが、全てを決める」
「俺が、どうしたいか……?」
紫苑にたしなめられ、理里は少し心の整理がついてきた。
俺は死んだ。それは確定事項だ。ならば、俺に残された選択肢は何だ?
……いや、紫苑の言う通り、これは違う。『残された選択肢』などではない、俺の、本当の願望……それは。
「やっぱり俺は、まだ生きたい……『守らなきゃいけない』からじゃない。『倒さなきゃいけない』からじゃない。俺は、家族の――母さんの、希瑠兄さんの、珠飛亜の、吹羅の、綺羅の、笑顔を守りたい。そうして、ずっと笑顔に溢れた家族のなかで生きて、一生を終えたい。おまえとの時を過ごすのは、それからだ」
使命や義務でなく、ただ俺のために守りたい――それがこの俺の、怪原理里の願い。
「うれしいよ、そう言ってくれて」
紫苑は、表情を和らげた。
「実は、ここはまだあの世じゃないんだ。分かりやすく言えば、三途の川の岸辺みたいなものかな……だから今なら、まだ戻れる」
「なにっ! 本当か!?」
「ああ。だって、こんなところで死なれちゃ、あたしが何のために死んだかわかんないじゃないか。そんなの悔しかったから、天を昇っていくリサを、あたしが強引にひきとめたんだ」
「……お前、そんなことして大丈夫だったのか?」
「ほんとはダメだろうけど。ゼウス様が、冥界の王に口添えしてくれたみたいだ」
「あの変態ジジイがか……」
人界でも天界でも無茶苦茶なオヤジだ。でも、おかげで助かった。
「お前にも、そしてゼウスにも、感謝してもしきれないよ。本当にありがとう」
「気にしないでくれ。リサには、あたしの分まで人生を楽しんでもらう約束だからな。――目を閉じて、『帰りたい』って願えば、しばらくすれば元の世界にもどれるよ」
「約束っていうか、遺言だけど……今度会うのは、何年後になるだろうな」
これ以上ない奇跡の再会だ。生きているうちに会うことはもう二度とないだろう。
「さあ、な。何十年、何百年、何千年後かもしれないけど……それでもあたしは、ずっと待ってる。だから、長生きしてね」
珍しく女の子らしい言葉を使い、彼女は微笑んだ。
「ああ、肝に銘じておくよ。
……帰る前に、頼みがある」
「ん? なんだ?」
「俺が帰るまでずっと、抱きしめさせていてほしい」
「えぇえっ!?」
これから気が遠くなるほど長いあいだ、彼女とはもうこうして話すこともできない。彼女のいない世界に帰るまでは、その存在を感じていたい。
「そりゃぁ……うん……そのぅ……っ、分かったよ……」
声も裏返り、顔を赤らめながらも紫苑は承諾した。ボディタッチに極度に照れるところも、死んでも変わっていない。
「じゃあ、な。お前にまた会えて、本当に、本当に、嬉しかった」
名残惜しさは感じながらも、理里は人界への帰還を決意し、紫苑に体を預けようとした……のだが。
「ちょ、ちょっとまてぇっ!」
「何だよ調子狂うな……」
死ぬ直前には自分からキスしてきたくせに、何をこんなに照れているんだこいつは。
呆れる理里の視線をよそに、紫苑は自分の髪をほどき始めた。
「おい、急に何やって」
「これ、もっていけよ」
そう言って紫苑が手渡したのは、いつも彼女が髪をまとめるのに使っている、白地に黒の水玉があしらわれたシュシュだった。
「いいのか? っていうか、あの世の人間の持ち物を、どうやって人界に持って帰るんだ?」
「いいからもってけっ! ……その、毎日あたしに話しかけてくれた、おかえしだ」
恥じらう顔も、生前と変わらず、愛らしい。
――あの呼びかけは、全て紫苑に届いていたのか。困ったな、くだらない話とかも結構しちゃってたな……。
「そういうことなら、一応もらっとくよ。それじゃ、こんどこそ帰るぞ」
「あ、ああ、どんとこいっ!」
最高のおみやげを左の手首にはめた理里は、緊張と気恥ずかしさで固まる紫苑を、優しく包み込む。ひと月前とは違う、消えることのない確かなぬくもりが、そこにはあった。
できることならば、ずっとこうしていたい。だんだんと溶け合って、ひとつになってしまうまで。
でも今は、今帰るべき場所へ帰ろう。いつか胸を張って、ここに戻ってくるために。だから、あえてこう言う。
「行ってきます」
理里は紫苑と唇を重ねた。彼女の心の、身体の、魂の、その全てを確かめるように。心に刻み付けて、再び彼女に会うその時まで、決して忘れないように。
二度と消えることのない暖かさに包まれて、理里の意識は再び途切れた。
☆
町の中心部を流れる神ヶ舛川のほとりにある、一軒の廃屋。
邪眼地獄は自身が所有するそこで、第一の戦果と向き合っていた。
まず、一体だ。残るは奴を含めてあと六体。それで俺の復讐は達成され、あの男が出した条件も満たされる。
にしても、最強の魔神の息子ともあろうものが、あそこまで弱いとは思わなかった。これなら、後の奴らも意外と楽勝かもしれない。
(まあ、たとえそうでないにしても、俺が負けることは有り得んが)
転生する前に、メデューサの首から奪ったこの『眼』。さらにあの男から授かった、この最強の異能。その二つの強大な武器を持つ俺に、もはや敗北はない。
ひとまずの達成感を噛み締め、地獄は立ち上がった。
目の前には、台の上に乗せられた、人型のトカゲの骸がある。
「これから、貴様の身体をばらばらに切断する。そして無残な姿になった貴様を、箱詰めにして家族のもとへ帰す。そうやって恐怖と絶望を味わわせた上で、一人、また一人と同じように葬ってやる……奴に、愛する者を失う痛みを、苦しみを、これ以上ないほど与えてやる」
怨嗟の入り混じった表情で呟き、傍に立てかけたノコギリを手に取る。
「まずは足から、だ。下から少しずつ切り刻んで、ただの細切れの肉片に変えてやる。……無力化して、生きたままやった方が良かったな……次のはそうしよう」
復讐という名の狂気に取り憑かれた彼は、もう誰にも止められない。ひと月前、彼女を失った瞬間から、俺は修羅となった。必ずこいつらに復讐し……それが終わったら、俺は今度こそ、彼女と結ばれるのだ。
死体にノコギリをあてて、一気に足を切――
「誰を、切り刻むだって?」
「!?」
反射的に、地獄は飛び退いた。そして、驚愕した。
「貴様……なぜ! なぜ生きているッ!!」
確かに、確かに息の根が止まっていたはずの理里が、決して開くことはないはずの目を開け、身体を動かそうとしている。
「最も大切だった……いや、これからもずっと大切な人の、おかげだ。そして、同じように最も大切な人達と、最も大切な場所を守るって決意してきた」
たった今眠りから覚めただけかのようにゆっくりと、しかし意識ははっきりとした動きで、台の上から起き上がる。
「お前は、俺が今までに戦ってきた奴らとは何かが違う……言ってみるなら、お前はどことなく『黒い』。お前のその『黒さ』は、計り知れなく強い……でもそれがどれだけの力を持っていようと、俺はお前に負けたくない」
「……『負けたくない』、だと」
驚きなど忘れ、地獄は激昂した。
「舐めているのか! 実力も伴っていないくせに、そんなただの自分の欲望だけで! 俺に勝とうというのか、貴様は!」
「ああ、そうさ。家族を守りたい、お前を倒したい……全部、俺のわがままな欲望だ。けどな、この世の全てを動かすのは、その欲望なんだ」
トカゲ男の姿のまま、理里は続ける。
「お前は、想いなんて無駄だと言った。でも、そんなことはありえないぜ。なぜなら、俺とお前を今戦わせているのも、その想いという名の欲望だからだ。俺がお前に負けたくないという想いと、お前が俺を倒したいという想い……そのぶつかり合いが、この戦いを作りあげているんだ。だから俺が『負けたくない』って強く願い続ければ、その想いがお前を超えるかもしれない」
「バカな! そんなことは断じて実現しない! たとえ人を動かすのは想いでも、その力が物理的に作用することは限られている! その一部が、俺たち英雄や貴様らの異能だ……だが、その力にも限界がある! 力の弱い者は、力の強い者には決して勝てないんだ!」
そう叫ぶ地獄の表情は、どこか悲痛ですらあった。『想いの力』を否定した時と、同じ力がこもっていた。
きっとこいつは、過去に壮絶な敗北を喫したのだろう。何か大切なものを、失ったりもしたのだろう。その過去が、こいつの心を深く傷つけ、『黒さ』を植え付けてしまったのだろう。
ともすれば俺も、こいつのようになっていたかもしれない。紫苑を失い、この世を呪い、後を追って自殺しようかと考えたこともあった。
だが、それでも俺は生きた。俺には家族がいた。家族に悲しい顔をさせるわけにはいかなかった。その義務が、俺を生き延びさせた。俺を『黒さ』から守ってくれた。
だから、今度は俺が!
「誰が何と言おうと! 世界の法則をねじ曲げてでも! 俺はお前を倒す! そして、みんなを守ってみせるッ!!」
叫んだ理里の体に、ひびが入り始める。それこそ脱皮して新たに生まれ変わる、トカゲのように。
「何なんだ……何なんだ貴様は……」
やがてひびは全身に広がり、その裂け目が光を放ち、そして――
「グガゴオオオオオオオおおおおおおおおおおおおおッッッッ!!」
雄叫びと同時に突如、暴風が理里を中心に吹き荒れはじめる。まるで台風のような、一寸先も見えぬようなその竜巻の中で、光に包まれた理里はどんどんと巨大化していき。
嵐舞う中、閃光は止み、そこには一頭の白龍がたたずんでいた。
いや、龍と判断するのは早計か。猛々しい二本の角を冠した頭部と翼はまぎれもなく龍そのものだが、うろこに覆われた身体は筋骨隆々の巨人、そして下半身は大蛇。失われたはずの左眼は暴風にさらわれ地獄の手元から消えて復活し、頭髪が変化したたてがみはその全てが生きた蛇となり蠢いている――ざっと百匹。
身の丈は十メートルほど。月明かりに照らされたその姿は、妖しくも神々しく、信じられないほどに美しい。
しかし地獄を驚かせたのは、それだけではない。
「貴様ぁッ……その、その姿はぁぁッ!!」
ひと月前に、彼から彼の全てを奪い、そして残酷にも彼のみを生かした、憎しみの尽きることなき仇敵。体色や大きさこそ違うものの、それは奴に酷似していた。
「許さない……許さない許さない許さない許さない許さないぃッ!」
白竜の巨体が目に入った瞬間に、地獄の中から『躊躇』という二文字は消え去った。
「貴様にはッ! もはや『死』を感じさせる時間をも与えないッ! 時の狭間の中で、長い長い一瞬のうちに、蹂躙しつくすッ!!!」
喉が壊れるほどの声で叫び、地獄は何もない空間から剣を抜き去る。これが、彼だけの時間の、開始の合図。
「"皇帝"ッッ!!!!!!」
地獄が剣を抜いた刹那、この世の全ては静止した。雲も、風も、太陽も、『世界』さえも。
これこそが時械神クロノスが彼に授けし、時を止める最強の異能――"皇帝"。
聖剣『アルゲニブ』を召喚することで発動するこの能力は、剣にクロノスが与えた祝福が原動力となっているため、正確には地獄の能力ではなく、地獄の剣が持つものである。そのためこの剣を手にすれば誰でも気軽に時を止められるのだが、剣自体も地獄の体の一部であるため、結果的には彼にしか使えない。またこの能力に時間制限はなく、理里のように使用に大きなリスクが伴うということもない――簡単に言えば、弱点がない。まさに伝説の英雄にふさわしい、史上最強の異能なのである。
しかし、彼はこれだけでは終わらない。
「我が魂の欠片を捧げ……燃え尽きる星の残光を、祝福を、我が身に宿さんッ!! 『星贄』、発動ッ!!」
言い放った地獄の胸から、青い光球が出現したかと思うと、即座にそれがひび割れ、霧散したその瞬間。
「お お お お お お お お お お」
地獄の身体に、光球と同じ青い光が迸りはじめる。湧き上がるそのオーラに、ピンク色の長髪は逆立つ。
かつて夜空に住んでいた英雄だけが持つ特殊能力、『星贄』。
星座からの転生体である英雄は、星座だった折に自分を構成していた恒星を、全て体内に保有している。中にはそれを加工して武器を作り出す者もいる(例えば地獄の『アルゲニブ』がそうだ)が、基本的には、それらは英雄たちの体内で彼らの力の源となる。その星を意図的に超新星爆発させ、爆発時の絶大なエネルギーを己のものとするというのが、この技の概要だ。
ただし、これは自らの身体に多大な負担をかけるうえ、保有する星が尽きてしまった場合死んでしまうという大きなリスクがある。
しかしそれでも、地獄はこれを使わなくてはならなかった。たとえ別物であろうと、因縁の宿敵とほぼ同じ姿をしているのだ。命を削ってでも、全身全霊の全力で、叩き潰さなければ気が済まない。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すッ、殺すッ!!」
剣を構え、静止した標的をしかと見据える。
そこで、異変に、気が付いた。
「……何だ……なぜ、風が吹いている……?」
何者も動くことは叶わぬはずの、この俺の時間で、微弱ながらも空気が動いている。そよ風というレベルではあるが、確実に。
そして、その中心は――やはり。
「貴様ッ……一体これ以上、何をしてくるっていうんだ……!」
風はだんだんと強くなる。髪を揺らすほどの風が、次第に低木を揺らし、電線を揺らし、電柱を揺らし、電線が千切れ飛び、ついに電柱がへし折れて風が止んだ時。
風の源――静止していた白き魔神は、動き出した。
「押し入ってやったぞ……おまえの、時間に!!」
「…………きっさっまぁぁぁあああああァッ!!!」
やっと手にした、俺だけの力。この最強の力。こいつから奪った『眼』も今やこの手にはなく、自分の『眼』はもとより効かず、残った唯一のものすらも否定されたようだった。
地獄の中から、理性が吹き飛んだ。
「るおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉおおおぉっ!!」
再び理里に狙いを定め、青いゆらぎを最大限にたぎらせて、地獄は激走した。たてがみの蛇の口から放たれる光線も、全て剣で弾き返し、ただまっすぐこの敵を目がけて走り、ついに刃がその身に届く――
ほど、敵も甘くはない。
「グガゴアァッ!」
しなる尾が、地獄の身体を弾き飛ばした。そのまま地獄はすっ飛んでいき、橋に激突する。
「終わりだぁッ!!」
橋にめり込んだ地獄をめがけ、理里は口から火球を放つ。地獄はなすすべもなくそれを身に受け、木っ端みじんに消し飛ぶ――
ほど、敵も甘くはない。
「ドらああぁッ!」
視認できないほどの速さの剣閃が、理里の脇腹を切り裂いた。巨体が一瞬よろめく。――今だッ!
「オぉラぁあああああぁぁあああぁ!!!」
「グルオああああああああああぁぁぁあああぁああ!!!」
傷を負ってもなお勢いを失わぬ斬撃と、苦し紛れながらも放った拳が閃いた。
打ち込んだ後の体勢で、二人は静止した。
「が、はっ…………………」
「グ、ゴォ…………………」
アルゲニブが、パキンと音をたてて折れた。
鱗をつらぬいて、胸部までもが切り裂かれた。
しかし。
「オラぁああぁッ!」
「グルァぁあぁッ!」
たとえ剣が折れても、どんな深手を負っても、決着がつくまでは。
『『終われない!』』
理里がたてがみの蛇から再び光線を放つ。地獄はそれを横っ跳びにかわし、強引に地面を蹴って、折れた剣で理里に襲い掛かる。
さらにそれをかわされた瞬間の地獄の隙を、理里は見逃さない。
「ぐあぁっ!」
一匹の蛇の光線が、地獄の右腕を貫いた。思わず地獄は剣を取り落とす――
刹那、静止していた世界が、動き出した。
(しまった!)
もともと時間停止は、アルゲニブ自体に備わっている能力なのだ。その剣を操る者がいなくなれば、時もまた動き出す。
「グォオオオオおおぁおおおおおぁああああッッ!!!!!」
三度、理里を中心に嵐が吹き荒れはじめた。それに抗うほどの力は、もう地獄には残っていない。
「"崩戒の鎮魂曲"ッッッ!!!!!!!!!!」
地面も、草木も、水も、橋も、全てが理里の身体の中心へと吸い込まれていく。まるで、ブラックホールにのみこまれてゆくように。
(…………ブラックホール!)
あわや暴嵐に引き込まれんという絶体絶命の時ながら、地獄は進化した理里の引き起こした現象の全てに納得がいった。
ブラックホールは、巨大な恒星が超新星爆発を起こして滅んだ後に発生する、質量が極めて大きい天体である。その強い重力からは光さえも脱出できず、物が吸い込まれる瞬間には、あまりのエネルギーゆえ時が止まったような状態になるという。おそらく奴は、体内に何らかの方法でブラックホールを生成する、もしくは奴自身がブラックホールになることで、時を止めることができたのだろう。いちいち巻き起こる大嵐も、そのせいだ。
理里は、なおも咆哮し続けている。持てる全ての力を出し切って、俺を倒そうとしていることが、伝わってくる。――でも。
「俺はっ…………負けられないんだ…………!」
皮肉にも地獄は、先ほど自分で否定した心理状態にあった。
全身の骨が折れ、常人ならば立つこともままならないような状況にある今の俺が、ここから抜け出すことなどは到底不可能だ。常識的に考えて、間違いなく俺はこのまま奴の身体に飲み込まれて、無残な最期を遂げることだろう。
でも、そんなのはいやだ。愛する人を殺され、復讐を誓ったにもかかわらず、このまま何も為せずに死ぬなんて、いやだ。
「俺は……死ねない……貴様らを皆殺しにして、アンの仇をうつまでは……絶対に……!」
そのわがままな思いに、彼の中の星が応えた。
「お お お お お お お お」
嵐に飲まれたときに消えてしまった青いオーラが、再び蘇った――『星贄』が、再発動した。
「グ オ オ オ オ オ オ オ」
「お お お お お お お お」
身体が耐え切れず、エネルギーがところどころ地獄の肉を破ってあふれだす。理里も全力を振り絞って、そのパワーを上回ろうとする。
ぎりぎりの綱引きの勝者は――
「オラぁッ!!」
地獄だった。ついに理里が力尽き、地獄は地面に投げ出された。
「はぁっ、どうだ……生きて、やったぞ……!」
「この、野郎っ…………!」
悪態をつきながらも、理里も地面に倒れこんだ。もう、立ち上がる力も残っていない。
対する地獄は、かろうじて立ち上がった。
「勝った……俺の、勝利だ……!」
たまたま近くに転がっていたアルゲニブを拾い上げ、一歩、また一歩と、確実に歩みを進め。
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハッ! 俺の、勝ちだぁッ!」
ついに理里の目の前までたどり着き、折れた剣を振りかざし。
「オオオラあああぁああああぁッ!」
念願の、この数十分間追い求め続けたこいつの命を、ついに刈り取ろうとした瞬間――
突如、左足が崩れ落ちた。
「…………な、にィッ………?」
慌てて地についた左手も、その途端に崩れた。そのまま突っ伏したら、胸にひびが入った。
「……こんな……こんな、ことがッ……!」
崩壊してゆく自分の様に呆然となった地獄に向けて、理里は呟いた。
「『神蛟眼』……あと一歩遅かったら、やられていた……」
「なん……だと……?」
「俺自身の覚醒とともに、この左目もまた進化していたんだ……いかなる強制力、例えば『異能を無効化する能力』すら超えて対象を石化させるほどの、強大な力だ……お前には邪眼耐性があったから、効くかどうかは賭けだったが……『星贄』の連続使用で身体が脆くなっていたことが幸いした」
そう説いた理里の左目は、通常の鈍い金色ではなく、さらに禍々しさを増した、紫色の輝きを放っていた。
「……バ……カな……! おれは……まだ……何、も……な」
復讐を誓った黒い英雄は、ついに跡形もなく崩れ去った。
☆
「終わっ、た……」
激闘から数分が経ち、人の姿に戻った理里は、未だ地面に伏したままだった。
辺りには理不尽な破壊の痕跡が痛々しく残っている。土手は無残に抉り取られ、川は部分的に干上がり、コンクリート製の橋も真ん中で崩れていた。一時的、また小規模とはいえブラックホールが発生したのだから、これくらいならまだましと思ったほうがいい。
地獄の推察通り理里は、あのとき、身体そのものがブラックホールへと変化していた。これはおそらく、祖父であるタルタロスの血が覚醒し、俺の真の力が解放されたことで得られた能力だろう。体自体がブラックホール……"奈落"という特徴が、祖父と一致する。姉の珠飛亜も、曾祖父・ポセイドンの能力を既に発現させ、強い感情を近辺の水分に呼応させて、その時の精神状態に応じた『何か』を水によって生成する、という力を手にしていたことから、この結論を導き出すのにそう時間はかからなかった。
「迎えに来て、もらうかな……」
あまりの疲労で、立ち上がる力ものこっていない。とりあえず珠飛亜を呼ぶことにし(できれば呼びたくないのだが、珠飛亜は翼と理里に対する愛の力を持つため、移動速度が一番速い)、ポケットのスマートフォンを探す。
余談だが、怪原一家のように力の強い怪物は、本来の姿に変身する際に、身に着けていたものを粒子化して『魂』のなかに取り込んでしまう力を持つため、どれだけ暴れまわろうとも、事が終われば何食わぬ顔で元の人間社会に戻れる。元来人間と大してサイズが変わらなかった理里はあまり使ったことはなかったが、シンプルに便利な力だと改めて実感した。
おぼつかない手つきでやっと携帯端末を取り出したとき、ふと、地獄の剣が目に入った。本体を失ったため、消えゆく最中だった。
理里は胸騒ぎがした。通常ならば、この手の武器は一分もすれば消えてしまうものだが、やけに時間がかかっている。
――果たして、悪い予感は的中した。
「なっ!?」
剣の周りの空間が、陽炎が渦を巻くように歪みはじめた。そしてその中心から、人間の指らしきものが覗いた。
(――こちら側に、出てこようとしている!?)
身体は動かないが、『眼』なら使える。すぐさま理里は『神蛟眼』を発動させ、『何か』を迎撃するが――
「き、効いてない……!」
もしや地獄が復活したのか、と戦慄する理里をよそに、『何か』はついにその全貌を露わにした。
影、形は、中世ヨーロッパの兜を被った人間の男のように見えるが、明らかにそれではない。というより、それは『影』そのものだった。宇宙空間に存在する光を発しない物質――暗黒物質で、身体の全てが構成されているかのようだ。また、その真っ黒な体には、『耳なし芳一』のように、びっしりとローマ数字が白く刻まれている。
「我は今、霊体のような状態なのだ……貴様の『眼』は、生物の身体を崩壊させる能力であり、この状態の我に届くことはない……しかし、我も貴様に触れることはできない……我が異能を使うこともできない。『魂』を部分的に分け与えることで、力を授けることはできるがな」
"覇気"を感じる声だ。世界を統べる帝王の如き迫力が、溢れんばかりに伝わってくる。
「しかし、よもやペルセウスが敗れるとは思わなかったぞ……あやつには、我の力の中でも最も強い、"皇帝"を与えていたというにな……」
ただ空を見上げて、影は呟いた。
「あやつも哀れな男よ……最愛の者を殺されて、一人この世に残され、復讐も果たせぬまま、仇の息子に殺されて散ってゆくとは……」
「……ちょっと待て! 今、何て言った!」
聞き違いかと思ったが、そんなことはない。こいつは今、『仇の息子に殺され』と言った!
「ほう、ペルセウスに興味があるのか……? ならば、教えてやろう」
『影』はひとときだけ声の調子を上げ、語りはじめた。
「あれは丁度、ひと月前のことだ……あやつは、いいなずけのアンドロメダと共に、この世に生まれた理由……すなわち貴様らの父・テュフォーンについに遭遇し、そして、敗北したのだ……」
「なんだって……? ひと月前に、父さんとあいつが戦ったっていうのか!?」
十五年前のあの日に姿を消し、今日まで戻っていない父さんが、たったひと月前に、〝英雄〟と戦っていた!?
「そうだ……奴は生きている……しかも、貴様らのごく近くでな……」
理里は、体に電流が流れるという感覚を生まれて初めて経験した。父が消えたのは、理里が二歳のときで、顔などおぼろげにしか覚えていないが、それでも衝撃の事実だった。
「奴は、積極的にペルセウスらを殺すつもりはなかった……専守防衛戦というやつだ……しかし、威嚇目的で吐いた炎が、運悪く廃ビルを直撃した……瓦礫の落下先にはペルセウスがいた……が、ペルセウスは死ななかった。アンドロメダが、あやつをかばって、瓦礫の下敷きになったのだ」
「!」
そういえば、オリオン座が天に戻った数時間後に、もう一つ何かの星座も、夜空に帰ってきたという報道があった。あの時は、完全にうつ状態だったから気にも留めていなかったが、まさかそれがアンドロメダで、しかも父によって天に送り帰された者だったとは。
「ペルセウスは、怒りに我を忘れ、テュフォーンに向かっていった。しかしたった一人では敵うはずもなく――どの道、二人であろうと敵わなかったであろうが――あやつは、惨敗した。倒れたあやつに、テュフォーンは言ったそうだ……『お前にはチャンスをやろう。自分の生き方を選ぶチャンスを、な』とな……。が、それで更生する者がどこにいるのか。当然ペルセウスは復讐に燃え、まずはテュフォーンの家族を始末することに決めた。そして我は……二日前に、そんなあやつと出会った」
「……お前は、結局何者なんだ! なぜ、ここに現れた!」
それが一番の疑問だった。最後の言葉から察するに、味方でないことは間違いないが、どう見ても怪物にも人間にも属さない風貌といい、異常なまでの圧迫感といい、謎が多すぎる。
「……そうだな……こうして姿を見せた以上、別に隠す必要もなかろう……我が名はクロノス。時を司る神にして、この世界の真の支配者」
「ッ!」
文字通り全世界で、神々が血眼になって探し回っているお尋ね者が、今、俺の目の前に!
だが、『眼』も効かず体も動かないこの状況で、理里にできることは何もない。
「……話を戻そう。二日前、我はあやつと出会い、この事情を知った。そこで我は、ある提案を持ちかけた。『怪原理里の持つ、"蛇皇眼"を奪って来い。さすれば、アンドロメダを生き返らせてやろう』とな」
「何……? なぜここで、俺の『眼』の話が」
戸惑う理里に、クロノスは首を横に振った。
「貴様は、自分の価値をまるで理解しておらぬ。神ですら抗えぬほど、もとよりその『眼』の力は絶大なのだ。かつてポセイドンがメデューサを強姦した時も、目を見ないように苦労したといわれる。我が革命に大いに役立つ武器となることは間違いない」
「神でさえも……でも、何で俺のなんだ? 地獄だって、この『眼』は持っていたじゃないか」
「確かに。しかし、貴様と同じものではない。あやつのものは、対象を石に変えるのみ……だが貴様のものは、石化させた上で、さらに肉体を粉砕することができる。ここが重要なのだ……ただ石に変えただけでは、一瞬にして元に戻される可能性がある。だが、いくら不死身の神々であろうと、細切れにされれば再生に時間がかかる。その隙に我の『時』に干渉する力が、きゃつらを封じるのだ」
クロノスは、厳かだった声色を唐突に柔らかくした。
「怪原理里……いや、今はラードーンと呼ぶべきか……我と共に、世界を変える気はないか? この腐りきった世界を……生まれ変わらせる聖戦に、参加する気はないか?」
「…………」
ラードーン……覚醒した俺の名だろうか。
正直なところ、今の俺は、世界を滅ぼすことだって容易にできると思う。あらゆる強制力を無視し、その光を浴びた生物を石化して粉砕する『神蛟眼』、自らをブラックホール化する『崩戒の鎮魂曲』、そして時を止める『崩戒の鎮魂曲・超越』……誇張でも何でもなく、俺の力はほぼ神の域に達しているといっていいかもしれない。かつて天を治めた神が、聖戦の一兵としてスカウトしようとしているということからも、それは言える。
だが――
「お断りだ。俺は、この世界に満足している。――確かにこの世界は、腐っているかもしれない。不満がないわけじゃない。でも、お前と共に変えたいとは思わない」
「折召紫苑――だったか?」
……脱獄三日でそこまで知ってるって、本当にこいつは何者なんだ?
「我に協力すれば、彼女を生き返らせてやってもいいのだぞ」
「……その手でくるとは思った……俺も、かなり迷った。でも、それは違う。お前なんかの力で生き返らせられることなんて、あいつはきっと望んじゃいない。……それにお前が欲しかったのは、元々俺の『眼』だけだ。覚醒なんて想定外のことが起きたから、勧誘に方針を変更しただけだろう? 俺自身を求めない君主には、俺はついていきたいとは思わない」
クロノスの表情は、真っ黒に塗りつぶされていて分からない。あるのはただ、闇の上に浮かぶローマ数字だけだ。
「……よかろう……貴様の考えはよく分かった……」
しかしその無機質な声からは、はっきりと怒りが溢れていた。
「ならば、貴様は我の敵だ。いずれ力を取り戻した暁には、憎きゼウスよりも先に、貴様を叩き潰しに来てくれる。その『眼』も、白き奈落も、必ず我がものとしてみせようぞ」
その宣戦布告だけを残し、前触れもなくクロノスは消え去った。
☆
ひと月前に、二人の青年が、愛する者を失った。
一人は復讐の鬼となり、もう一人は何もできず、ただ彼女のいる空を見上げた。
一人は絶望のままに命を落とし、もう一人は希望を得て、新たなステージへと進んだ。
結局、彼女等の生きた意味は何だったのか?
生まれてきた目的がすでに分かっていた彼女等は、それを達成できずに死んだ、可哀想な人間たちなのか?
きっとそれは違うと、理里は思う。彼女等は確かに、天命は果たせなかったかもしれない。だが、彼女等に与えられた天命だの運命だのというものは、よく考えてみれば、あのエロオヤジが定めたものなのだ。そんなものに従って生きる意味はないのだ。
だから彼女等は、ある意味で天命に抗ったといってもいい。彼女等は任務ではなく自分を、自分の愛を貫いた。運命に立ち向かった。
天界の衆生は、彼女等を非難するかもしれない。でも俺だけは、彼女等の理解者でいよう。彼女等を讃えよう。
「それにしてもりーくん、なんかいちだんとかっこよくなったね! おねえちゃん、もう昇天しちゃいそうっ!」
「今すぐにでもぜひ昇天してくれ……」
二枚の白い翼を生やした実の姉にお姫様抱っこされた状態で空輸されるという、いつも通りの屈辱的な構図である。
こいつのせいで、青春という二文字は俺から脱兎のごとく逃げ続けているのだ。この姉という、50メートルの絶壁を乗り越えて進んできた紫苑は、本当に勇気があった……。
「うふふ、りーくんがたくましく成長していくの、おねえちゃんすごくうれしい。……でもね」
「……なんだ?」
急に珠飛亜の声が哀愁を帯び、さすがの理里も戸惑う。
「ちょっとくらい、甘えて。寂しい」
耳元で顔を出したのは、初めて見る、姉の弱気な一面だった。
「知ってるんだよ? 毎晩、あの公園に行ってること。そんなに寂しいなら、悲しいなら、打ち明けてよ。別に、泣いたっていいんだよ。もっと、わたしを頼って」
理里は基本的に、どうしても必要な時以外には人の助けを借りない。勉強で分からない問題も、絶対に自分で解くまでやめず、多少落ち込むことがあっても人に打ち明けたりはしない。自分の問題を他人にも背負わせることはしたくない、というポリシーがある。
そのことに、珠飛亜は疎外感を感じていた。姉弟なのに、どこか遠慮されているように思えて、さみしかった。わたしはこんなにもりーくんのことが好きなのに。ずっと二人で生きていっても構わないのに。
知らないうちに、珠飛亜は涙を流していた。天真爛漫ないつもの態度の裏に隠していた孤独感が、今とめどなく氾濫していた。
「珠飛亜……」
「はは、ごめんね……ほんと、勝手だよね……。ほら、もう、おうちについたよ? きょうの晩ごはん、なにかなぁ」
怪原理里とは、こういう男なのだ。わたしは知っていたはずだ。でも、なんで涙がとまらないの?
「…………」
理里は無言である。やはりこんなこと、打ち明けるべきではなかったのだ。心の内に秘めて、秘めて、秘め続けて、彼の知らないままに一人、ひそかに泣いていればよかったのだ。わたしは、なんて愚かなんだ。
後悔の念も入り混じり、涙は溢れ続ける。しかし彼女はひとつ忘れている。
そうやって秘密にされることこそ、理里が最も悲しむことだということを。
そしてそれを打ち明けてもらえることこそ、理里にとって、最も嬉しいことだということを。
「……おねえちゃんっ!」
「えっ!? ちょっ、りーくん!?」
理里は珠飛亜に抱きついた。珠飛亜の愛に応えるならば、甘えてほしいならば、文字通り甘えることが、一番彼女を幸せにすると思ったのである。
そして付け加えるならば、女性が泣いているという状況で不謹慎ではあるのだけれど、やはり純粋にうれしかった。珠飛亜は俺に遠慮せず、寂しさを打ち明けてくれた。心から俺に甘えてくれたのだ。
今からすることは、珠飛亜への精一杯の謝罪のかわりだということにしておこう。決してこれが俺の素ではない。ただの謝罪だからな、別に思い返して布団の中で悶えたりしないんだからな!
「おねえちゃん、だぁーいすきっ! ずっと、ずーっと、いっしょにいたいなっ♪ ねえねえ、おねえちゃんもそうでしょ?」
「あ、うん……」
知らない。あどけない声でべったべたに甘えながらほおずりをしてくる弟なんて、わたしは知らない。普通ならこのポジション、このキャラクターはわたしのものじゃあなかったのか。
でも……アリだっ! こんなりーくんもぜんぜんありだっ! むしろウェルカム! あああかわいいかわいいかわいすぎる、撫でたい愛でたい舐めて犯して養いたいっ!
「いひひひ、ひゃはははは……」
珠飛亜はもはや、ゆるむ口元をおさえきれずにいた。目尻は垂れさがり、白い肌は紅潮し、完全にビッチの顔になった。あ、よだれがたれた。
「むにゅむにゅ。おねえちゃんのほっぺた、やわらかいなぁ」
「うひひ、ほっぺただけでいいの? あんなとこもこんなとこもそんなとこも、まだまだやわらかいよぉ? ……じゅるり」
先ほどまでの悲しさなど忘れ、珠飛亜はただ弟を求めるだけのケダモノとなっていた。それほど、『Otherside・りーくん』の威力は絶大だった。果たして、ここまでやってよかったのかと、理里は少し後悔したが、たまには抑圧された欲求を解放してやっても悪くないだろう、と即座に納得した。
ただ――理性の吹き飛んだ珠飛亜の行動まで、彼は完全に予測できなかった。
「ひゃひひ……"愛装莫鎖"っ!!」
「ん? おい、珠飛亜!? なんで俺縛られっ」
ピンク色に染まった水の鎖が、珠飛亜の腕の中に、理里を完全に拘束した。
珠飛亜は、ある一定の限度を超えた感情を水に呼応させて、『何か』を生み出す能力を持っている。この場合……その感情とは、『愛』。異常なまでの愛情が、新たなる技・『愛装莫鎖』を生みだしたのである。
って、俺を縛って何をする気だこいつは!
「はぁあ、もう我慢できない……うふふ」
何が我慢できないんだ! 絶対聞きたくないけど!
珠飛亜が目を閉じる。その顔が近づいてくる。待て、俺には紫苑がいるんだ! 止まれ! 止まってくれ! 誰か止めてくれ!
唇が触れ合う残り数センチ。そこで、僥倖は訪れた。
「あれ……ちょっと待て」
「なぁに? 恥ずかしがらなくてもいいんだよ? ……あらま」
二人は異変に気付いた。自宅の真上十数メートルに滞空しているはずなのに、家の屋根がすごいスピードで近づいてきている。下から上への風もやけに強いし……。
要するに、落ちていた。
「きゃあああああああ――――――――――――っ!!!!!!!」
「うわあああああああ――――――――――――っ!!!!!!!」
理里に夢中になるあまり、珠飛亜は羽ばたくのを忘れてしまっていたのである。いや、理由なんぞはどうでもいい。いくら人外であるとはいえ、この高さから落ちれば無傷では済まない!
「時間よ止まれええええ――――――――――っ!!!!!!!!」
残念ながら、疲弊した体では時は止められず(止められていたとしても、その前の段階で周囲が大災害に見舞われるが)、彼らは二人仲よく自宅に突っ込むことになった。
「痛ってえ……」
マンガのように屋根に大穴を開けて突入した代償はかなり大きく、理里の頭には、これまたマンガのように大きなたんこぶが一瞬にして生成された。珠飛亜の頭にも同じものができていたが、彼女はいっこうに目を覚ます様子はない。
「……紫苑、お前が嫉妬したのか?」
ふと、左手首を見る。そこにいつのまにかはめられていた水玉のシュシュは、何も語らなかった。が、何となく殺気を放っているように感じられた。
「ははっ、やっぱり許してくれないよな……お前、体はオトナだけど中身は意外とガキだもんな……いてっ!」
タイミングよく、屋根の破片が頭上に落ちてきて、たんこぶに直撃する。……マジでお前なのか?
そうこうしているうちに、騒ぎを聞きつけた家族がやってきた。
「おお、天界より舞い降りし使徒が、ついに我がもとに!」
「てめえら、何やってんだあ! 俺のガンプラがぁああっ!」
「こ、こわいよぉ……」
「あらあら、派手なお帰りねぇ」
やっと、帰ってきたという実感が湧いた。
そして、理里は今までとは違う、希望に満ちた眼差しで、すでに南中したオリオン座を見上げる。
「これからも、俺はここを守って、ここで生きていく。それが終わったら、また、お前のもとに行ってやるから。そういう約束だろ? だから、ちょっとの家族サービスくらいは許してくれよ。母さんには、孫の顔も見てもらいたいしな……あいてっ!」
またガレキがたんこぶに直撃した。冗談です。冗談ですって。
水玉のシュシュは、相変わらず無言だった。
「おいコラ理里ぉ! おれのRG1/144ウイングガンダムゼロカスタムかっこエンドレスワルツ版かっことじる、どーしてくれんだよ!」
「フッ……空から降ってくるとは、大冒険の予感がするな……」
「リサおにいちゃん、おねえちゃん、だいじょうぶ……?」
「派手なのはいいけど、近所迷惑はダメよ。……それより見てたわ、さっきの。りーくんもついにそこまで到達したのね、感慨深いわ……」
…………本当にそれぞれの個性が爆発した家族だ。こんな場所を守るために死ぬような目に遭った(というか死んだ)のかと思うと、自分がバカみたいに思えてくる。
今日はもう、非日常には飽き飽きだ。だから、あえていつも通りにこう言おう。
「…………ただいま!」
《つづく》




