29. ザ・セカンド・ティタノマキア その⑬
「んん……」
板張りの床の感触に、怪原珠飛亜は目を覚ました。
「ん……あれ? わたし、どうなったんだっけ……ひっ⁉」
起きあがって辺りを見回し。
そして……珠飛亜は、言葉を失った。
そこは、何もかもが黒く染められた、怪原家のリビングだった。四人がけのソファも、綺羅専用のクマのクッションも、兄のロボットのプラモデルも。母が奮発して買った四十インチのデジタルテレビも。食器棚の上の、花瓶に生けられた一本の桜の枝さえも。
だが、珠飛亜がおののいたのはもっと別の事だった。
「うそ……でしょ? みんな……みんな!」
ソファに座る背の低いふたつの影は、きっと吹羅と綺羅だ。台所に立つのは恵奈。テレビの前に寝そべるのは希瑠。
そして。食卓に座る、見おぼえのあるボブカットは、まぎれもなく、珠飛亜。
その全てが真っ黒になって、蝋人形のように動きを止め、その場にとどまっていた。
「あ……あっ……ああ……」
そして、黒い珠飛亜のいる食卓、彼女の右隣の席には。
――これでもかと光り輝く、理里の姿があった。
「りー……くん……?」
談笑しているのか、笑顔のまま固まった理里。他の面々とは違い、一点の黒い染みも彼には無い。ただ、こんなに生き生きとしているのに、時間が止まってしまったかのように、彼が動く気配もまた無かった。
だが、異変の中の異変は、これだけではない。
「だ……れ……? あなたは、だれなの?」
黒い珠飛亜とは逆側、理里の左隣。そこに、いるはずのない七人目が座っていた。
理里以外の家族と同じく、黒く染まった姿。長い髪と華奢な体つきから女性と分かる。理里は、その謎の女に向けて、笑いかけている。
「いや……いやああああああああああああああ!!!!」
駆けだそうとすると、ガツン、とドアにぶつかった。
「痛っ……えっ」
引き戸を動かそうとするが、びくともしない。
「……っ!」
寝転がった希瑠を踏んづけて、今度はベランダに走る。窓ガラスを突き破れば、飛んで外に逃げられる。
しかし。
「きゃあ⁉」
割れない。渾身の力で、怪物の力で体当たりを喰らわせたにもかかわらず、ガラス戸はびくともしない。
「なんでっ! なんでよっ!」
何度も体当たりを繰り返すが、ヒビひとつ入らない。そのうちバカらしくなってきて、その場に座り込んだ。
(……どうしたらいいの。もしかして、一生このまま?)
わたしの家ではないわたしの家。そこに閉じ込められてしまった。引き戸もガラス戸も動かない。壊せない。絶望のままに、外の景色を見ると。
あることに、気づいた。
(……⁉)
それは、街灯。この部屋にいる理里の他に、唯一この暗い世界を照らすその電球のひとつは、ベランダの近くにあった。
その、明かりの中に。
「あれは……りーくん⁉」
理里だった。
丸いガラスの向こう。フィラメントがあるはずのその場所に、理里の笑顔がある。上半身だけを双眼鏡でのぞき見たような感じだ。
他の街灯も、見える範囲で確認すると、確かに何かしらの人影……いや、理里だ。理里が中に映し出されている。そして、それが暖かな輝きを放っている。
(なんなの、これ……。もしかして、夢?)
そうか、夢ならば納得がいくかもしれない。なんだ、夢なら安心じゃないか。にしても趣味の悪い夢を見たものだ。理里以外の全て、自分でさえも闇に染まった世界など。こんな夢さっさと終わらせて、目覚めなくては。
……いや。そうしたいのはやまやまだが、気になることがひとつある。
(じゃあ……アレは、いったい誰なの?)
理里の隣の何者か。それが気になる。
不気味だが、おそるおそる、近づいてみることにした。
「ふう……」
と。行ってみれば、どうということのない距離だった。動かない自分、動かない理里。そして動かない誰かは、もう手の届く近さ。
まずはじっと観察してみる。背丈は珠飛亜より高い。百七十センチくらいか。髪はよく手入れされている。腕も足も細く、スタイルがいい。
「……」
整った鼻筋。シャープな顎のライン。シルエットだけでも、かなりの美人と分かる。でも、何か引っかかる。
「……どこかで見たような……」
芸能人か誰かか? そう何度も見ていないはずだ。見覚えのある、この高い鼻……。
「……ん?」
唸り続けていると。彼女の髪の毛が、一本だけ、まぶたにかかっているのが目に入った。
それは、まばゆいばかりの金色の髪だった。まるで絹のような、繊細なきらめき
「!!!」
珠飛亜の中で、全てが繋がった。
「キミ……キミは……」
同時に、全て思い出した。
先ほどまで、わたしはこの女を説得しようと試みていた。けれどその声は届かず、わたしは黒い泥に飲み込まれた。
そう、飲み込まれたんだ。
泥が当たった瞬間に、泥の中に引き込まれるような感覚があった。そして、いつの間にか気を失っていた。
「そう……そういうこと、なんだね」
わたしは泥に飲み込まれた。そう、黒く染まった金髪の少女が放った泥に。
これは、わたしの夢なんかじゃない。この子が見ている夢……もしくは、この子の『心の中の世界』。『魂の中』だ。
この子は、何者かによって黒く染められた。だからこの子の心の中も真っ暗に、いや、真っ黒になった。そこに、あの泥によってわたしは吸い込まれたんだ。
この子に何があったのかは分からない。どこぞの怪物か、はたまた悪魔か悪神かにでも毒されたのだろう。
「…………」
彼女の隣に目をやる。笑顔のまま固まって、光を放つ理里に。
ここまでされても、彼女の理里への愛は消えていない。いや、理里だけが、彼女の最後の希望だったのかもしれない。
『心の中の世界』とは、きっとその人の理想の世界。すなわち、ここは彼女の理想。この一家団欒の風景に、自分も加わりたい。そんな夢。
「……生意気言ってくれちゃって」
こんなにも完璧に再現された内装。彼女が何をしてここまで知ったのかは想像に難くない。
「ねえ。わたし、キミの名前も知らないけどさ。キミのその執念だけは、すごいなって思ってるんだ」
彼女が座る椅子を回転させ、彼女の正面に立つ。
「なのに。なのにさ。こんなところで何してるわけ。……りーくんのこと、好きなんじゃないの⁉ こんなに、これ見よがしに希望みたいに光らせて! 自分も、他の人も真っ黒にしちゃったくせに! なに一人前に守ってるの! りーくんを守っていいのはわたしだけなの! 他の誰にも渡したくないのに! こんな……こんなの、見せられたら」
知らず知らずのうちに、涙が頬を伝う。
さっきは言えなかった。怖かった。認めてしまうのが。
だけど今なら、勇気を振り絞れる。この子は希望を残した。残せたんだ。だったらわたしだって負けてられない。今度こそ、現実と向き合うんだ。向き合う勇気を出すんだ。
「わたしはっ……どれだけ願っても! 祈っても! りーくんとは結ばれないからっ! だからキミが、わたしのかわりになってよ! こんなところで止まってないでっ! わたしのかわりに、しあわせになってよっ!」
涙が一滴、床に落ちた。瞬間、
「……えっ? な、何……」
珠飛亜の身体が、光り輝き始める。




