3. イクシーズ・オブ・ホロギウム 前編
「待てえッ! 待て、この野郎ッ!」
瓦礫の散らばった裏路地で、青年はピンク色の長髪を振り乱して叫んでいた。
否、叫ぶことしかできなかった。
右腕は氷でできた鎖、左腕は炎の縄、右足は巨大な木の根、左足は雷の網で縛られ、地面から起き上がることはおろか、腕を数センチ持ち上げることすらままならない。また身体に刻まれたいくつもの傷も、彼の動きを阻害している。
無様な敗者の姿を、男は一瞥した。
「やめろ。見苦しい」
「黙れっ! 絶対、絶対生きて帰すものかっ!」
「それは根本的に不可能だな。俺は、死なない」
少しため息をつくように、男は呟いた。
「俺は不死身だ。死ねないんだ。お前たちがどうあがこうと、俺を完全に滅ぼすことなどできない。そんな情報もないのか」
「そんなこと関係ねえっ! 不死身だろうが、絶対に殺す! よくも、よくもアンをっ!」
青年の後ろには、ひときわ大きな瓦礫があった。そしてその下には、つい先ほどまで人の体内を流れていた血が散乱していた。。
「……お前たちが生まれてきた時点で、これは逃れられない宿命だったんだ。お前があと千人いようが、決して俺には勝てなかった。だから言っているだろう、もう俺を追うのはやめろと。そうすれば全て終わるんだ」
「だまれ、だまれだまれだまれえっ!」
「聞く耳持たずか……ならば俺も、容赦はしない。いつかお前たちを一人残らず夜空に戻すまで、俺は戦いつづける」
男は再び青年に背を向けた。
「お前にはチャンスをやろう。自分の生き方を選ぶチャンスを、な。
それでもこの先、俺に向かってくるというのなら……その時は、お前も夜空に送り返す」
「待て! 待てよぉっ!」
青年から数歩離れると、男は忽然と、最初からそこに何もいなかったかのように姿を消した。
青年は意識が途切れるその時までずっと、叫び続けていた。
☆
「なあ、紫苑。そっちじゃ元気でやってるのか」
お正月気分もだんだんと冷め、七草粥すら懐かしく感じ始める一月下旬。怪原理里は、ひと月前に他のいくつかの星座に先駆けて天へと戻ってきたオリオン座に、夜の公園で語りかけていた。
彼女がこの世を去って、はや一ヶ月。しかし彼の心の傷は未だ癒えてはいない。彼女の笑顔、ぬくもり、最初で最後の唇の感触、そして広がっていく血だまり――それら全てを、一日たりとて忘れることはできなかった。
「――会いたい、よ……」
年の割にあどけなさの残る涙声で、何度口にしたかわからない願いを呟く。それが、叶わない願いだとも知りながら。
☆
「おっかえりーっ、りーくん! 今日もおそくまで勉強してたの?」
理里を迎えたのは、いつもの天真爛漫な声。
誰あろう、姉である。
「ただいま、珠飛亜。ちょっと数Ⅱでわからないところがあったんだ」
半分嘘で、半分本当だ。大して実績もないくせに進学校を気取り、一年生のうちから数Ⅱを勉強させる県立柚葉高校は宿題の量が暴力的なので、毎日学校に残って勉強し、日が暮れる前に上がって彼女と話すという生活サイクルがここのところは続く。
「えらいねりーくん、ごほうびにおねえちゃんがなでなでしてあげる!」
ご褒美なのになぜお前のほうが嬉しそうなんだ……。
「ったくしょうがねえな、頭だけだぞ」
『待て』と命じられた飼い犬のように餌を心待ちにしている二つ年上の姉のもとへと、理里は無防備に歩み寄った。
――途端、それを後悔した。
「んふふふ~、遠慮しなくていいんだよぉ♪」
「なっ、ちょっ、待っむぐうっ!」
珠飛亜は突然理里を抱きしめると、頭蓋骨が破砕されんばかりのパワーで彼の顔を自分のそれなりに豊かな胸(86センチ)に押しつけた。
「りーくん、今日もよくがんばったねっ!」
「むっ、むぐっ、むぐぐぐっ」
だんだんと二重の意味で危険な絵面が玄関先に広がる。当然、それをそのまま続けさせることを天は許さない。
「お前らそんなとこでなにやってんだ……」
苦虫を噛み潰すような顔で現れたのは、長男の希瑠。まだ二十五歳にも関わらず真っ白に染まった髪と、百八十一センチという高身長は人の目をひきつけるものの、骸のような生気を感じさせない瞳が人の目を速効で引き離すという力のつりあいの公式を一人で証明している男だ。風呂から上がってきたところらしく、腰にタオルを巻いただけの姿である。
「ける兄さん、あまりわたしたちの邪魔しないほうがいいよ。八つ裂きにされたくなかったら今すぐ視界から消えろ目が腐る」
「何で! 何でそこまで言われなきゃいけないんだ! 今のは明らかに止めなきゃいけない絵面だっただろ!」
「まあまあ、二人とも落ち着けよ。それより今日の晩ご飯なんだ?」
「わ・た・し♪」
恐るべき身の変わりようを見せ、珠飛亜はキメ顔でウインクする。だが、こんなものに惑わされる理里ではない。
「いや、そういうのいいからさっさとメニュー教えてくれ」
いくら美人であるといえど、実の姉である。氷のハートで冷酷に切り捨てられ、その前提にも気づかぬ珠飛亜もさすがに落ち込んだ。
「りーくんはたまにオンナゴコロわかってくれないよねぇ……」
「ぷーくすくす、すひあさんどんまーい」
後方で希瑠が嘲笑うのが聞こえる。……珠飛亜のデス○ートに、今新たな名前が追加された。。
「ぎょーざ、ごはん、みそしる、ぽてとさらだ……」
「ありがとう」
珠飛亜の方は見向きもせず、理里は自分の部屋へと階段を上っていった。
「さて、兄さん。まだ一分経ってないけど、心臓止めてもいいよね?」
「申し訳ございませんでしたぁあ―――――――っっ!!!!!!」
☆
「ようやく帰ったな、我が好敵手よ。待ちかねたぞ」
リビングに降りてきた理里を待っていたのは、胸焼けのするようなセリフだった。
「吹羅、頼む。あと一週間くらい口を閉じていてもらえるか」
「フッ、はぐらかすでない。貴様との戦いのために餃子の最後の一個をとっておいたのだ、決闘!」
「いや別に闇のゲーム始めたくないし……俺の分は母さんがとっといてくれてるし……」
三つ編みをそれぞれ頭の逆側の側面にもってきて留めるという珍妙な髪型で、左目には黒い星のペインティング。百人に聞けば百人が末期の厨二病患者と診断するであろうこの上の妹は、驚愕に目を見開いた。
「な、何ぃ――ッ!? スペアを用意していただとぉ―――っ!?」
大げさに叫び、十四歳の割に大きい胸を抑えて倒れる。
こいつを見ていると、若かりし頃の己の過ちを思い出さずにはいられない。誰ともつながっていないケータイに任務の報告をし、『踏み外したらマグマに落ちる』道路の白い線の上を走破し、挙句の果てには医療用の眼帯をつけて『ああ、左目が疼く』と忘れろ忘れろ
「ひゅら、だいじょうぶ……?」
心配そうに駆けつけてきたのは、瓜二つの顔だ。
「大丈夫だよ、綺羅。そりゃ演技だから」
「よ、よかったぁ……」
耳にかかる部分だけがこの家にしては珍しく平たい胸までのび、あとはショートカットというこれもまた変哲な髪型だ。この双子、髪型と胸元以外は瓜二つだというのに、中身はなぜこうも対照的なのだろう。
「ちょっと、ひゅーちゃん。何やってるの? お風呂まで丸聞こえよ」
呆れた声は、母の恵奈である。希瑠の後に風呂に入っていたらしいが、ちょうど上がってきたのだろう。
「か、母さんも人のこと言えないぞ! なんて格好してるんだ!」
「えっ? 何かおかしいかしら?」
恵奈は、裸体の上にバスタオルを巻いただけの姿だった。まあ風呂上がりの格好としては普通だ。普通なのだが。
「母さんは自分のDYNAMITEなBODYの力を把握しきれてないぜ……」
なぜか傷だらけの希瑠が全裸で部屋に倒れこんできてぽつりと呟く。というかまだ服着てなかったのか。しかしその言い分には賛同できるものがある。
「そう、そうなんだよ! 一体スリーサイズいくらだと思ってんだ!」
「B108・W67・H101ね」
もう、驚異だとかそういうレベルのお話ではない。何せオーバーハンドレッドが二つである。それに標準サイズのバスタオルを巻いたところで、逆にアレさが増すしいろいろ透けてるしもうまったくもって意味がない。
しかも、一応42歳のはずなのに、明らかに30代前半にしか見えないほど母は若々しい。まつげが長くエッジの効いた目元もいっそうセクシーさを演出し、今にも撮影会が始まりそうここから先は自主規制。
「あら、もしかしてわたしをそういう目でみちゃってるわけ? やだぁ、思春期ねえ」
「いや、息子たちの言うとおりじゃ。全くもって、けしからんカラダよ」
ここで口を開いたのは父……ではなく。
ソファに突然現れたスーツ姿の男だった。
「って誰だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!」
「ふしんしゃだよ、ふしんしゃ!警察よばないと!」
「フッ……とうとう、この時がきてしまったか……」
「た、たすけてえええっ」
「誰かァァァァァ! こいつを取り押さえろォォォォォォ!」
いつの間にか戻っていた珠飛亜も加わり、阿鼻叫喚の構図が一瞬にして完成する。しかしこの混沌の中でも、冷静な人物が一人いた。
「みんな落ち着きなさい! 本当に、本当に悔しいんだけど……母さんの知り合いよ」
「おいおいなんじゃその扱いは。お前とわしの仲じゃないか、ん?」
異邦人めいた壮年の男は、どうも恵奈と旧知の仲のようである。だが、衝撃はこれで終わらなかった。
「どうでもいいから早く帰りなさいよ、ゼウス。警察呼ぶわよ」
「固いこと言うんじゃあないエキドナ。二人愛を語り合った日々を忘れたとは言わせんぞ」
度重なる爆弾発言に、ついに一人の我慢が限界に達した。
「ゼ! ウ! ス! 母なる豊穣の女神レアより生まれし数多の神々の一員にして、全てを統治する全能神! 幼き日に父の腹の中に囚われた兄弟たちを救うため、時械神クロノスと壮絶な戦いを行っ」
「吹羅、一旦落ち着け……それより母さんをその名で呼ぶとは、あなたはただ者ではないようだが。〝ゼウス〟とか、愛を語りあった、とか……本当なのか?」
「りーくん、騙されないでちょうだい! 絶対にこんな男と愛を語り合ったりなんてしていないから! 一方的なナンパだから!」
暴走する厨二を制して理里が皆の疑問を代弁し、恵奈がその一部を否定する。
残る疑問には、男自身が答えた。
「ああ、いかにも。わしこそが母なる豊穣の女神レアより生まれし数多の神々の一員にして、全てを統治する全」
「はい、そういうことです。というわけで帰って」
「せめて最後まで言わせんかぁ!」
せっかくの見せ場をばっさりと恵奈に切り捨てられ、ゼウスは悲嘆の叫び声をあげる。しかしさすがは全能神、起きあがりこぼしの如くすぐに立ち直り、別人のように真面目なトーンで話し始めた。
「今日はちゃんとした用事でここへ来たんじゃ。……何せ、世界を揺るがしかねん大事件が起こったのじゃからな」
『!』
神をして「世界を揺るがしかねん」と言わしめる事件の発生である。理里たちはもちろん、さしもの恵奈ですら息をのむ。
「実はのう……」
☆
「三日前、クロノスが脱獄した」
「何ですって!?」
恵奈は度肝を抜かれた。クロノスといえば、先に吹羅が言ったようにゼウスの父であり、彼の一代前に天を支配していた時を司る神。
後にゼウスと戦って敗れ、理里たちの父方の祖父である暗黒神タルタロスの体内に幽閉されたというのは有名だ。
「タルタロス……おじいちゃんは、体そのものが際限のない奈落だから、牢獄に使われたりもしているんだよな。そんな所から一体どうやって……」
昔中学二年生特有疾患にかかったということもあって、神話への造詣が深い理里も、驚きを隠せない。また希瑠や吹羅も同じような理由から言葉を失っていた。
「詳しいことはいま調査中じゃが、大方自らの能力で『重力の時間』を逆流させたのではないかと考えられておる。そんなことより、早急に奴を見つけねばならんのじゃ! 天界と冥界はわしらの目が行き届いておることは奴も知っているじゃろうから、この人界に逃げ込んでおるということはほぼ間違いないとみていい。そこで、もう分かっていることじゃろうが――奴の捜索に、協力してほしい」
先程までとは打って変わった、真剣な説明をゼウスが終えたところで、珠飛亜と綺羅から疑問が挙がった。
「あの……おじさんはなんで、わたしたちにそれを頼みにきたの?」
「き、きらも、そうおもう……えいゆうさんたちに、たのんだほうがいいんじゃ……」
〝英雄〟とは、簡単に言えば、生まれつき俺たち怪物と同じ能力を持った人間の総称である。その前世から英雄だったという場合が多く、ほとんどは十五年前に天界を襲撃して敗走した理里たちの父・テュフォーンを追って転生した者たちで構成されているらしい。
また、自らの使命に支障が出ないよう、基本的に彼らは転生以前の記憶を持っている。そのため天の長であったゼウスが協力を頼めば、即座にそれに答えてくれるはずだ。
「わしもそうしたいのは山々なんじゃが、ここのところ彼らは数が減ってきておってのう。現在人界にいる彼らだけでは、奴に対抗する勢力としては心許ないのじゃよ。それでこうして、あらゆるところに協力を求めているんじゃ」
「…………。」
ゼウス以外の全員が、バツの悪そうな顔になった。
父を探す過程で、英雄が現在の怪原家の誰かにたどり着き、戦いになるということはよくある。その結果俺たちは英雄の減少に一役買っているわけだが、それがこんな形で影響してくるとは誰も考えていなかった。
だが、そうだとしても。
「悪いが、協力はできない」
「なぜじゃ!」
「あなたは、自分の立場が分かっていないみたいだな。十五年前、父さんは天界に襲撃をかけた。その撃退を指揮したのは、天界の長であるあなたのはずだ。そして現在父さんを追っている英雄たちを指揮しているのもな。その英雄たちが、俺たちにどれだけの不安をもたらしているか、知らないとは言わせない」
父さんが追われるのは仕方ないことだ。あの人はその覚悟でこの家を出て行ったと聞いたし、見つかってもどうせ簡単に撃退するだろう。でも、俺達にまで危険が及ぶのは許せない。
「……それについては、誠に申し訳ないことじゃと思っておる。じゃがな、わしは、あやつやそなたらのことを敵視はしておらん。天界を襲ったのも、やむにやまれぬ事情あってのことだと聞いておる。おとなしくしていてくれるのならば、今更追いかけたりはしたくないというのが本音なのじゃが……何も処置をせぬと、アレスだとかアテナだとかがうるさくてのう」
「そのためなら、俺たちの命が危険にさらされてもいいと?」
「こればかりは、わしも手出しのできんことなのじゃ。天の長の称号を持ってはいるが、他の神々とは正直、力の差はさほどない。わしが下手なことをして天界の力の均衡が崩れれば、十五年前の事件にも匹敵する大戦争が起きるじゃろう。そうなれば、人界への影響も、ないとはいえん」
神妙な表情で、ゼウスは長い弁明を終えた。しかし理里は、まだ納得がいかない様子だ。
「りーくん、もうそれくらいにしてあげて。私たちの社会生活には、この男の覇権の安定も少しは関わっているのよ」
「……母さんがそう言うなら……。」
恵奈がたしなめ、ようやく理里は引き下がった。
「クロノスの件、協力させてもらうわ。知り合いにも頼んでみる」
「恩に着る」
ゼウスは深々と頭を下げた。
よく見ると、ネクタイをしていないカッターシャツから覗く彼の肌には、いくつもの傷跡が見える。今の立場にのし上がるまでに、またのし上がってからも、相当な苦労をしてきたのだろう。
そろそろ帰るような素振りを見せたゼウスは、思い出したように顔をあげた。
「ああ、そういえばエキドナ。まだわしの愛人にはなってくれんのかのお」
『ぶふっ!』
なにを口に含んでいたわけでもないのに、全員が吹き出した。
「何言ってんだあんたは! 母さんには父さんという人が……いや、行方不明か……あれ、母さんって結局今独身なの?」
希瑠は相変わらず全裸のままツッコミを入れるも、途中で自壊してゆく。いいかげんさっさと服を着ろ。カゼひくぞ。
「あの戦いの前に父さんは死亡届を出していったから、一応は独身よ。でもあなた、まだ諦めてなかったのね……」
「あたりまえじゃ! わしは目をつけた女はオトすまで絶対にあきらめん!」
少年のように得意げに、一切誇れない信念を誇るゼウス。だんだんとそれを相手にする恵奈の表情にも疲れが見え始めた。
「わたしの何がいいっていうのよ……ただの怪物でしょう……」
「そこじゃ!」
「はぁ?」
「普通の女などもうつまらん! わしはもっと新しい刺激が欲しいのじゃ! そこで現れたのがエキドナ、そなたよ……半人半獣のモンスター娘、略してモン娘のそなたとなら、きっと新しい世界が開けよう!」
クズだ……この変態オヤジ、本気でクズだ……!
難色を示した理里と同じく、女性陣もドン引きした。
が、ここに一人、その趣味に諸手を挙げて賛同する者がいた。
「わかってんじゃねえかおっさん! やっぱり普通の人間の女なんてもう古いぜ!時代はモン娘だっ!」
「おう若いの、気が合うのう!」
全裸の青年(の姿をした怪物)とスーツ姿の全能神がモン娘について意気投合しているという、異常な光景がそこにはあった。兄さんはまだ自分も人外だからいいとしても……いや、ゼウスも人外か。
「とりあえず、あなたがどうしようもないド変態だってことは分かったわ……嫌悪感を禁じ得ないから今すぐ帰って」
「おおう、エキドナに『ド変態』と罵られるこの感覚……素晴らしい……」
「同感だぜ……俺も新しい世界を開けそうだ……」
残念ながら、ゼウス(とついでに希瑠)はドMだった。
不快感が頂点に達した理里は、もう黙ってはいられなかった。
「ゼウスさん。粉にされたくなかったら今すぐ出て行け」
理里の左目が鈍い金色に輝き始め、これにはさすがのゼウスもたじろぐ。
「わ、わかった、帰るから! クロノスの件、頼むぞー!」
そう言い残し、来た時と同じように唐突にゼウスは消え去った。後には全裸の希瑠が残される。
「けるくん、そろそろ服着ないと本当に風邪ひくわよ」
「おっといけねえ、忘れてたぜ」
そうして第二の変態もこの場を離れてゆく。
「なあ母さん。母さんも、いつまでもバスタオル姿のままだと風邪引くと思うんだけど。それとも、息子にそんな格好を眺め回されるのが趣味だっていうのか」
「あら、すっかり忘れていたわ。それと、そんなに嫌いじゃないわよ♪」
「……やめてくれ、寒気がする」
先に出て行った長男と同じようなやり取り(デジャヴっていうのか?)。パチリとウインクを決める様は、珠飛亜によく似ていた。
☆
翌日。学校が終わった理里は、今日もいつもの公園へと向かう。
既に空にはオリオン座が出ている。しかしあの場所以外では、彼女に話しかけることは何となく躊躇われた。
「特に、思い入れがあるってわけでもないんだけどな……」
彼女と出会ったのは、高校に入ってからだ。だから思い出の場所といえば、教室と、毎日一緒に帰った通学路と、その道中にあるこの公園くらいしかない。その公園にしても、時々自販機で適当に飲み物を買って休んだだけだ。しかし、彼女と一緒に過ごした大切な記憶と、人目の多い場所で変な真似をしたくないという意識が、この場所に俺を誘うのだろう。
そんなことを考えているうちに、いつものベンチに到着した。だが、そこで異彩を放つ人影が、いつもの場所をいつもの場所でない場所にしていた。
「待っていたぞ、怪原理里」
挑発的な口調の言葉と共に立ち上がったその美青年は、奇妙としか言えない格好をしていた。
腰まで伸びた長髪は、目が眩むようなピンク色。黒いジャケットは、胸の部分が大きくスペード型に抜かれて、素肌があらわになっており、ズボンと靴はそれとは逆に白地で、黒の粗い網目があしらわれている。
またそれらの上から、無地の白いマントを羽織っていた。
「誰だか知らないが、また今度にしてくれないか。この時間は誰にも邪魔されたくないんだ」
「そう言われて、引き返す相手だと思うのか」
青年は凄まじい殺気を放っている。……間違いない、〝英雄〟だ。
「ならば力ずくでも、邪魔はさせない――『蛇皇眼』!」
与えたチャンスを蹴られた理里の決断は早かった。左目が鈍い金色に輝き始め、青年は一瞬にして石像と化し粉砕――
されない。
「っ!? 何でだっ!!」
「残念だが、俺にはその左目は通用しない」
慌てふためく理里に、青年は冷ややかに告げた。
「俺の名は邪眼 地獄――もとい、ペルセウス。貴様と、同質であり異なる『眼』を持つ者」
そう言った青年の左目も、鈍い金色に輝いていた。
ペルセウスといえば、ギリシア神話ではヘラクレスと並んで代表的な英雄で、十五年前に消えた星座のひとつである。人々を恐怖のどん底に叩き落としていた怪物・メデューサ(理里の曾祖母でもある)を倒した伝説はあまりにも有名だ。
「ペルセウス……ってことは、その『眼』はひいばあさんから奪ったものなのか? でも、ひいばあさんは自分の目の光を鏡で跳ね返されて死んだはずだ! なのになぜお前は石化しない!」
「……これだから、無能な怪物は困るな。俺が奴を打ち負かしたあと、俺はどうやってあの海獣を殺した?」
「!」
確かに、神話上でペルセウスはメデューサを葬ったあと、その首を使って巨大な海の獣などの数々の怪物を倒している。もしも『眼』の力が失われていたとすれば、それらの伝説は説明がつかない。
「元々、この『眼』には自らの力に対する耐性が備わっているらしい……といっても、眼球にだけだがな。だからメデューサは石化した。だが一度星座となった俺は、その時にこの『眼』と一体化したことで、耐性を自分の体全体にも広げることができた……」
「バカな!そんなことがっ」
「あるんだな。だが、貴様が石化しないのには驚いた。おそらくは遺伝的な何かで、貴様も耐性を身につけたようだな」
自分が石化されなかったことを喜ぶ余裕もないほど、理里は打ちのめされていた。これまでほぼ全ての敵をこの『眼』で葬り去ってきたが、まさかその眼が効かない敵が存在するなど、考えたこともなかった。
しかも相手は、英雄の中でも最強の部類とされる、星座からの転生体である。『眼』を除けば怪物としては偏差値52ほどの理里が、同じ基準で偏差値80にも届くような相手と戦って勝てる見込みは、ほぼない。
「嘘、だ……」
理里はなす術もなく崩れ落ちた。その様子を、地獄は冷酷な眼差しで見下す。
「無様だな。所詮貴様など、『眼』さえ使えなければただのトカゲ男。その現実を、今さら思い知ったところでもう遅い」
「…………」
返す言葉もなかった。この不幸な星の下に生まれたことを、心底憎んだ。
……いや、ちょっと待てよ。
「何で……」
「何だ、何か言い残すことでもあるのか?」
地獄は苛立ちも顕に顔をしかめた。貴様などに時間を取られるのが煩わしいとでも言うように。
その反応は、くすぶり始めた理里の心に火をつけた。
「何で、この『眼』が効かないくらいで俺がくじけなくっちゃあならない! それくらいのハンデで、なぜ俺はお前に勝てないと言い切れるんだ! 確かに、この『眼』は俺の大きな武器だ。でもそれが無効化されたからといって、俺がお前に勝てないかどうかは、やってみなくちゃわかんないだろ! 俺には、守らなきゃいけない家族がいるんだ……そして俺は、あいつの分まで、生きなきゃいけないんだ!」
それが、あいつが願ったことだった。だから俺は、こんなところで負けるわけにはいかない!
『眼』の力の代償である極度の疲労も近づく中、理里はそれすらも乗り越える覚悟で、本来の姿を顕現させた。
「グルオオオオおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!!」
全身が黄緑色の鱗で覆われ、爪は日本刀を逆刃にしたような刃へと変化し、頭髪は変わらないが、顔は完全にトカゲそのものへと形を変える。
雄叫びをあげて走り出した理里を睨む地獄の眼差しは、やはり冷たかった。
「虫唾が走るな……気合いだとか、想いの力だとか……そんな非現実的なモノで俺に勝てるとでも思っているのか、ゴミクズが」
五本の爪刃が、地獄に届かんとした、瞬間。
突如、片側の視界が消えた。
「グオオァァッ!?」
理里は、全く状況が理解できなかった。激痛を伴う左目の簒奪と同時に、胸、腹、脚、その他数か所にも、大きな傷が刻まれていた。しかし彼は、その過程を見ることはおろか、全ての感覚において感知することすらできなかった。
「なんだ……いま、のは……ぜんぶが、同時、にっ……」
「理解したか? 世界とは、こうも非情なのだ。貴様がどうあがこうが、俺との実力差は埋まらない。いくら覚悟しようが、貴様の真の力が覚醒するわけでもないし、俺が気圧されるわけもない。想いなど、無駄だ」
そう断言した地獄の声には、妙に力がこもっている気がした。だが、それに言い返す余力は、理里にはもうなかった。
「この左目は頂く。それがあの男が望むものであり、彼女を救う唯一の道であり……俺の、復讐だ」
地獄の言葉は、もはやおぼろげにしか聞こえてこない。体の力がどんどん抜けてゆく。
だが、死の間際に立たされたこの状況で、理里の心に浮かんだのは、家族への申し訳なさでも、彼女のもとへやっと行けるという喜びでもなかった。
(あまりにも、全部が……同時すぎる……同時……同時……! こいつ、まさか!)
それを最後に、理里の意識は途切れた。
(つづく)




