19. ザ・セカンド・ティタノマキア その③
その日の夕方。帰宅した理里は、手洗いうがいを超特急で済ませ、珠飛亜を部屋から閉め出して制服を脱ぎすて、急いで部屋着に着替える。
窓の外を見る。空は少し暗くなり始めていて、宵の明星がまたたいていた。
だが、目当ての星座はまだ見えない。今の季節にもなれば、もう少し暗くなった頃にオリオン座は西に見えるはずだ。まだ、空が明るすぎるだけだろう。
「ねえー! りーくん、もうはいってもいい?」
「ん……ああ、ごめん、忘れてた。もういいぞ」
理里が許可を出すと、珠飛亜は無遠慮にガチャリとドアを開けて、部屋に入ってきた。
「まったく、りーくんも意外とシャイだよねー。わたしは別に、りーくんに着替え見られても何とも思わな」
「そこまでにしといてくれ……頭痛が……」
理里はこめかみを押さえる。そもそも部屋が共通であるという時点でかなり精神にキているのに……これ以上醜態を晒さないでほしい……。
「んふふふ♪」
「……」
と、言っているそばから右腕に抱きついてきた。言っても無駄だと悟り、好きにさせておくことにした。
先ほど見たばかりだというのに、空が気になって仕方ない。もう彼女は現れただろうか。もう一度、外が見たい――
「えーいっ♪」
「っ⁉」
窓の外に注意を向けた途端に、首に抱きつかれ、床に座らされた……というか、半分寝かされた。珠飛亜を背もたれにして、足を投げ出すような形だ。ちょうど、柔らかい胸が枕になって、落ちつく。はやっていた感情が、だんだんと穏やかになっていくのを感じる。
「……ふう」
理里は一息ついた。普段は迷惑このうえない珠飛亜の愛情だが……こういうときは、自分をクールダウンさせてくれる。
「どう? おねえちゃんのからだ、あったかい?」
「……そうだな。すごく、あったかい」
密着する珠飛亜の身体は温かかった。物理的な温かさというのももちろんある。だが、それとは違った何か……もっと別の、感性的なところで感じられる温度が、理里を包んだ。
その体温に蕩かされ、理里がリラックスしきったころ、珠飛亜は、彼の頭を優しく撫でて問いかけた。
「……それで? 今日は、どんなお悩み?」
「っ……どうして、それを」
「だって、りーくんがあんなにスピード出すときは、だいたい何かよくないことがあったときだから」
「ハッ。珠飛亜には、かなわないな」
この姉は、俺の事に関してはなんでもお見通しだ。きっと普通の「姉」という存在よりは、良くも悪くも、弟のことをしっかりと観察してくれている。度が過ぎるのが玉に瑕だが。
「そうだなあ……できれば、あんまり言いたくないんだけどなあ……」
「だぁ~め。りーくん、約束してくれたでしょ? さみしいときは、かなしいときは、おねえちゃんに甘えてくれるって」
「……そう、だな……」
あれは、三か月前のこと。ペルセウスを倒したあと、力尽きた俺を迎えに来てくれた珠飛亜は、涙を流して俺に言った。
ちょっとくらい、甘えてほしい。もっとわたしを頼ってほしい。苦しみも、悲しみも分かち合いたい。
ニュアンスとしてはこんなところだったが……正直、いつも明るくて能天気な珠飛亜が、そこまで悩んでいるとは思わなかった。今まで「珠飛亜に心配をかけない」ことを目標としていた俺からすれば、目からウロコが落ちる思いだった。
そして、自分の間違った指針を恥じた。痛みをひとりで抱え込んではいけなかったのだ。それは自分を案じてくれるヒトに対して失礼なことだった。
だから、珠飛亜が俺に甘えてくれるように、俺も精いっぱい珠飛亜に甘えよう……と、考えを改めたのだった。
ならば今も、俺は甘えなくてはなるまい。世界にたったひとりの、愛しい姉に。
「実は、さ。紫苑のことなんだけど」
「……ああ」
珠飛亜の声がにわかに低くなる。後ろから抱きつかれているので顔は見えないが、きっと眉間に恐ろしいほどの皺が寄っていることだろう。だから話したくなかったんだ……。
でも、ここで言わなきゃ男がすたる。
「俺さ。あいつに、まだ一回も、『好きだ』って、言ってなかったんだ」
「ふうん……それで?」
先ほどまでとは一転、あからさまに珠飛亜は機嫌が悪い。まあ、生前の紫苑との仲は最悪だったから、当然と言えば当然のことだ。弟をとられるのが嫌だったのか、単に馬が合わなかったのか、真相は定かではないが。
少し委縮しながらも、理里は続ける。
「俺……あいつのこと、ほんとに大好きなのにさ。お互いに、『好きな人だ』って、認めあったのにさ。それだけで、ちゃんと気持ちを言葉にできてないんだ。だから……今はもう、会えないけど。せめて、夜空のあいつに、伝えたくて」
「……ふーん」
無感情な声色が返ってくる。
「だから、なんつーか、その……それで、今日は急いでました。それだけ」
「ふーん」
「……あのさ。せめて、何かコメントくれないか」
「わたしはあの女とは永遠に分かりあえないもん。できることなら、絶対にあんなのにりーくんを渡したくないよ。
でも、りーくんは、すきなんでしょ? わたしがりーくんのことをだいだいだいだいだいだいだいだいだぁーいすきなくらいに、すきなんでしょう?」
「まあ……そう、だな」
理里が顔を赤らめながら認めると、珠飛亜は、もう一度理里の頭を撫でた。
「だったら、どうしようもないよ。誰かをすきな気持ちをがまんするのって、いちばんつらいから。わたしのせいで、りーくんがつらいおもいをするのは、あの女とりーくんが結ばれるより、ずっといやだよ」
「珠飛亜……」
附に落ちなさそうな声だった。でも、その言葉の裏に込められた愛は、本物だった。
「珠飛亜。大好きだよ」
「うふふ。おねえちゃんもだよーっ、んーっ♪」
ぎゅーっ、と、珠飛亜は理里を再び強く抱きしめる。
ちょっと常識が無くて、ちょっと愛情表現が激しすぎるけど……明るくて、いつも元気で、優しい姉。普段は邪険にしたりもするが、本当のところは、理里も彼女の事を愛しているのだった。
「……あ。そろそろ、星も見えるころじゃないかな」
ふと窓の外を見た珠飛亜が、思い出したように告げた。
そして、
「じゃ、がんばって。あのゴリラ女が昼寝してなきゃいいけどね」
辛辣な皮肉と共に、その両腕を理里の身体から離した。
「ゴリラはないだろ……まあ、確かにあいつ筋肉ガッチガチのスタ○ドみたいなの出せるけどさ……」
少々の反論を残して立ち上がり、窓を開けて、わずかに身を乗り出す。いつものように、雲ひとつない西の空を眺めて――
そこで、気がついた。
「……え?」
「なぁに? どうしたの……えっ」
理里の不穏な様子が気になった珠飛亜も、顔だけ窓から出して、辺りの空を見まわし、
そして、目を見開いた。
「おい……ウソだろ……そんなっ……そんな、まさか」
自分の目を疑った理里は、もう一度、見えうる限りの全天を見まわした。
だが。そこには、ただ一つの星座も浮かんでいなかった。
「き……昨日までは、確かに、あったのにっ」
八十八星座の内、現在までに夜空に戻っているものはたったの三つ。ペルセウス座、アンドロメダ座、そしてオリオン座だけだ。
多少田舎であるためにまずまず星がきれいなこの柚葉市で、この時間帯に西の空に見えるのは、金星及びオリオン座。しかし、今、唯一見えるはずの星座は、そこにない。
「待って……待ってくれよっ……まだ……まだ言いたいことがあるんだよっ……紫苑……っ!」
「⁉ りーくんっ!?」
理里は、その場から逃げるように走りだす。乱暴に部屋のドアを開け、三階建てのこの家の最上階から、階段を駆け下りていく。
こんな……こんなことが、あっていいわけがない。何の疑いもなく、今日もその姿が見られると信じていたのに。なぜ、なぜ今日に限ってっ!
「りーくん? どうしたの?」
二階を過ぎたあたりで、母さんの声が聞こえた。でも、今はかまってなんかいられない。
玄関のドアが見えてきた。ドリフトをかけるように靴箱の前で急停止して、スリッパを蹴飛ばして、急いでスニーカーに履き換える。
「我、帰還せり! ……? 兄上、どうかなさいましたか?」
ちょうど足に靴がフィットした頃に、ドアが開いた。不思議そうな顔で、次女の吹羅と三女の綺羅が見つめていた。
「――っ!」
無視して、ドアを跳ね飛ばすように家を出る。幸い、ふたりには当たらなかった。
駆けだした。目指すのはあの公園。紫苑と、ときどき学校帰りに寄ってひとやすみした、そして三か月前にペルセウスに敗北した、あの公園。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
人目もはばからず、近所迷惑も気にしない。叫んだ。
なんで。なんで今。やっと俺が自分の過ちに気付いた今、おまえは姿を消すんだ。ただでさえ、人間の姿で会うことはできないというのに。おまえが夜空から姿を消すのはもう間もないことは知っていた。でも、せめて、せめて今日だけは、会いたかったのに。
涙をこらえながら、やっと公園に着いた。だが、まだ止まらない。
小さなグラウンドを突っ切ろうと、セメントの石段に足をかけようとして――
「っ⁉」
つまづいた。
時速八十キロで、身体が前方に投げ出される。
「がっ、ぐあっ、ごほっ……ぐぁっ!」
砂の上を転がって、ブランコの鉄の囲いに打ちつけられた。血を吐く。
「はあっ、はあっ、はあっ」
白龍の身体は、こんなことで死にやしない。しかし、痛いものは痛い。
力が抜けた。
「……ハハッ」
もう、何も考えられない。「なんで?」だけが頭の中でずっとリフレインしていて、身体はとても痛くて、何が何だか分からない。
「ははっ。ははは。ははははは。あははははは、あはははははははははははは!!」
何もかもおかしくなってきて、笑いだした。いつだって俺は愚かだ。ああそうさ、全部俺が悪い。だから罰があたったんだ。なんて貧弱で、なんて自己中心的で、なんて怠惰な、この俺――
「……は?」
見上げた、星ひとつない夜空。その中を駆けてゆく、巨大な輝きに、理里は目を奪われた。
太陽が西の空から戻ってきたかのような、黄金の輝きを放つ彗星……いや、隕石に近い。とにかく信じられないほど大きな輝きが、南西、市内屈指の大きなグラウンドがある公園の方へと向かっている。
「なんだ、ありゃ……」
とてもまともな状態ではなかった理里の心が、一瞬空白になる。
「……いや、どうでもいいか」
しかし、結局、そんな超常現象さえ気にならないほどに、彼の精神は深く傷ついていた。
座り込んで眺めた、街灯の光に照らされた時計は、ちょうど午後六時を告げたところだった。




