18. ザ・セカンド・ティタノマキア その②
翌朝八時。今日も真龍は、自転車に乗り、愛しい人を尾行する。
「はぁ……少し息切れしていらっしゃいますね、怪原くん……尊いですわ……」
勘付かれないギリギリの距離、彼から自転車三台分後方。電柱の陰にぴったりと自分の自転車ごと身を寄せて、彼を眺める。
確かに、「もう少し今を生きてみよう」という心境の変化はあった。だが、理里をこっそりと観察するこの行為は、『彼を自分の心の中に確立させる』という目的を抜きにしても辞めることができなかった。
楽しい。楽しいのだ。バレないように身を隠し続けるスリルが。真龍の前では見せてくれない、無防備な表情がどんどんと露わになる様が。これをずっと楽しめるなら、彼の心なんていらない。自分はただ、陰から彼を見守る事さえできれば、それでいいのだ。
「ほんとーに、いいわけ?」
「ええ、もちろんですわ。だって今わたくし、こんなにも心が躍っているのですから……ひゃんっ⁉」
いつの間にか、隣に何者かが立っていたことに、真龍は全く気付いていなかった。がしゃーん、と音を立てて自転車が倒れる。
「ど、どちらさまですのっ⁉」
「はーん?」
慌てて振り向いた先にいた女性は、けだるそうな声で聞き返す。
真龍とは違って、明らかに地毛ではないブロンドのツインテール。日焼けサロンで焼いたらしい真っ黒な肌。ボタンが三つほど外されたブラウス、だらしなく羽織ったピンクのカーディガン、短すぎる紺のスカート。今どき珍しいルーズソックス、ラメがコーティングされているスニーカー……俗にギャルと呼ばれる人々らしき見た目。背は高く、百七十センチくらいはありそうだ。
これでもかとマスカラが盛られたつけまつげ全開の目をぱちぱちさせ、ニヤニヤと笑いながら彼女は続ける。
「んな事はどーだっていいじゃん。それよりさ、そーんな陰気なことしてて楽しいわけ? ほんとはあの子のこと、手に入れたいんじゃねーの? このまんまだとあいつ、ずっとあの姉貴に捕らわれたままだよ?」
「ど、どうしてそこまで怪原くんの家の事情を知っているのですか! あなたは、いったい誰なんですか!」
「質問に質問では返さなくない? 疑問文には疑問文で答えろって学校では教えてなくない? さ、答えろよ」
挑発的に、どこかの殺人鬼のようなセリフを吐いて、謎のギャルは問いかける。
だが、真龍の答えはもう決まっている。
「当たり前です。そもそも、怪原くんには決まった人がいるのです。その幸せを壊してしまうのは、相手の方にとっても不幸ですし、怪原くんに迷惑をかけることにもなります」
「その相手が……『もう死んでる』って、言ったらどうする?」
「っ⁉」
真龍は目を見開く。
「そんな……シオンは、行方不明のはずでは⁉」
「死んだよ。とっくの昔、あのオリオン座が空に戻ってきた日にな。それも、あんたのだぁーいすきな、りーくんに殺されたんだよぉ?」
「そんな……そんな、まさか」
嘘だ。嘘だ嘘だ、嘘だ。あのシオンが、死、それを怪原くんが、まさか、いやそんなことあるわけが、心中未遂? いや、違う、違う違う違うの、有り得ません、あの怪原くんに限って
「信じられない? じゃ、これ見な」
そう言ってギャルが取り出したのは、一枚の写真。真龍の顔に貼り付けるかのように、文字通り目と鼻の先に差し出されたそこには――
「な……! 嫌あああああああ!!!!」
真龍はその場を駆けだそうとする。しかし、
「⁉」
トン、と、首にガイアの手刀が振り下ろされ、がくんと真龍の身体から力が抜ける。
「よーし、仕込みはこんなもんか」
意識を失った真龍を担ぎあげたギャルが手を地面にかざすと、ふわり、と、ギャルの身体は宙に持ちあがる。そのまま十メートル、二十メートル、三十メートルほど上昇して、
「さて、かーえろ。明日、たのしみだなーっ♪」
空に舞い上がった黒ギャルは、真龍を右肩に乗せたまま、いずこかへと飛び去っていくのだった。
★
「えぇ~と、つまりぃ~、ここが筆者の言いたいことなんですぅ。とゆーわけで、問三の答えは~」
(ね、む、いっ……寝ちゃダメだ、寝ちゃダメだ、寝ちゃダメだ!)
真龍が謎の女に誘拐されてより二時間後、朝の十時ごろ。現在、県立柚葉高校二年四組では、おそらくこの学校内で一番の美貌と催眠能力を持つ女性教師・綾城心による六時限目の現代文の授業が行われている。一列につき七人×六列のこの教室の、右から二番目の列のちょうど真ん中に座る理里の目から見ても、その惨状は明らかだった。
ざっと辺りを見回したとき、意識がはっきりしている生徒は、片手で数えられるほどしかいない。次に、うつらうつらどうにか睡魔と闘っている者が、理里を含めて数名。あとはてごわすぎる敵に敗北した屍の山。一年生のはじめのころは、「美人な先生だから頑張るぜ!」と意気込んでいた男子も多かったのだが、その勇士たちも、今や見る影もなくヨダレを垂らして爆睡している。
「はぁ~い、次は十二ページの四行目ですね~。ここ、赤ペンで線引いてくださ~い」
全ての元凶はこの声だ。なんというか、温かい太陽の光に包まれながら野原で日なたぼっこをしているように感じるというか、母の胸に抱かれる赤子の気分になるというか、不思議な安心感に包まれて、ぽわぽわと睡魔が湧きあがってくるのだ。
普段ならばこの睡魔には負けることがないはずの理里が、今必死でこの甘ったるい声の誘惑と戦っているのは、いつも真後ろの席から向けられているはずの視線が、珍しくそこにないからだ。
本来であれば、彼の後ろには公領真龍が座っている。熱烈な後方からの視線にさらされ、授業に全く集中できない……というのが普段の状況だ。が、その視線には、ある意味で緊張感を与えてくれ、授業中に寝ることはなくなったという、微妙なメリットもあった。
だが、彼女はどういうわけか、今日は学校を休んでいる。いつもなら理里の家の玄関の十メートル南の電柱の裏に彼女はスタンバイしていて、そこから尾行されるのだが、今日はその位置に彼女の気配がなかった。やっと心を入れ替えてくれたか……と、ちょっとした安堵もしたのだが、単なる欠席と分かって、それはそれで残念だ。
「…………」
眠気覚ましに、くるくるとシャーペンをもてあそびながら、左手にはめた、俺にしか見えない、白地に黒の水玉のシュシュを見つめる。
……これを見るたびに、少し切ない気持ちになる。俺たちは、もう結ばれている。彼女がこの世からいなくなる寸前に、俺たちはお互いの思いを確かめ合った。互いが、『好きな人』だと認め合った。そして、彼女は俺の腕の中で、夜空に旅立っていった。
それから四カ月。オリオン座は、もう夕暮れすぐの時間帯にしか見られなくなってきた。夏になれば、サソリに怯えて、夜空にはもう出てきてくれなくなる。
あいつは、『待ってる』って、言ってくれた。だから俺も、いつかこの世界を後にするまで待つしかないんだ。あんなふうに彼女に会えることなんて、きっともう二度とない。俺はただ、夜空を駆けていく彼女を、何億光年の彼方から眺めていることしかできない。彼女に向けて語りかけることはできても、彼女の優しい声は俺に届かない。
そして語りかけることができるのも、冬から春の中ごろまでの間だけだ。もう少しで、俺は彼女の姿を見る事さえ叶わなくなる。
(……くそっ)
笑顔がちらついた。星座の中、どこまでも続く大草原で見た、誰よりもきれいな笑顔。あと数百年、いや下手をすれば数千年、俺はこの笑顔を忘れずにいられるだろうか? そして……どうしても彼女に届かない寂しさに、耐える事ができるだろうか? もう、今でさえ耐えられそうにないのに。
思いが通じ合っているからこそ、それだけ思いは大きくなる。一度伝えてしまったら、何度でも、何度でも言いたくなる――
(……いや、待て。おい、嘘だろ)
そうだ。そういえば俺は、まだ一度も、彼女に「好きだ」って言ってない。『好きな人』とは言ったが、彼女の目を見て、直接愛を語ってない。
(――っ! なんてバカなんだ、俺はっ!)
夜空の彼女に向けて語った言葉を必死で漁る。「会いたい」「寂しい」は何度も口にした。「お前が一番大切だ」くらいは言ったかもしれない。だが、何度探しても、「好きだ」も、「愛してる」も、出てこなかった。
こんなことに、なんで気付かなかったんだ、俺は。もはや前提条件と化していたからか。……バカだ、俺は。それじゃダメだろ。一番大切な言葉を、ここまできてもまだ言ってないなんて。
気付くのが遅すぎた。もう、顔を見て言うことはできない。
――けれど。
まだ、オリオン座は夜空にある。今夜もきっと現れる。その時こそ……この思いを、伝えたい。ずいぶんと遅くなってしまったけれど。これを逃せば、もう冬までおまえに話しかけることはできなくなる。その前に、一年分、いや一生分の『好きだ』を、おまえにぶつけたい。
たとえ答えが返ってこなくても。きっとおまえは微笑んでくれるから。だから……もしかすると制限時間は、あと数日間だけかもしれないけど。存分に、おまえを愛したい――
「は~い、じゃあ~、恋に悩める乙女みたいな顔してる怪原くん。答えて?」
「へぁ⁉」
ゆる~い声が、唐突に俺を指名した。
「え、えっと、その」
「あら~、聞いてなかったかしら? もしかして図星? うふふ、青春ね~」
「っ……そ、そんなことありませんっ!」
女の勘の恐ろしさに震えあがりながら、理里は必死で教科書をめくるのだった。
★
同じころ。柚葉市役所近くの古いカフェ・『プラニスフィア』の窓際の端の席に、一組の男女が、やっとこさという様子で腰を下ろした。
「っはー、結構買ったわね! 心が満たされたわ!」
「そうか……オレの身体はボドボドだがな……」
長い黒髪を年齢錯誤なツインテールにした、気の強そうな背の低い女性。その向かいに座るのは、疲労感に満ちた顔の、背の高い総白髪の男……怪原家の長男、希瑠だった。
彼らのテーブルの下には、たくさんの紙袋が置かれている。全て、この女性――神院優愛が、朝から希瑠を連れまわし、百貨店だのブティックだのをこれでもかと周って買ったものだ。
「……何よ。言いたいことでもあるわけ?」
「いや……お前さ……休みのたびに荷物持ちとしてオレを借り出すの、ホントにやめてくんない……」
「はぁ? いっつも家でゴロゴロ寝ながらゲームしてアニメ見て漫画読んで2ちゃんにコメント書くしか能の無いクソニートに仕事を与えてやってるのよ? しかも報酬は即日現物支給。本来あんたみたいなノミ虫はこんないい条件にはありつけないんだから、ありがたいと思いなさいよ」
「ごはぁ!」
希瑠は吐血しそうになる。この女、黙っていれば多少は美人なのに、その毒舌が全てをブチ壊しにしている。
「て、てめえ……いったいどこからそんな流れるように暴言を吐きだせるんだお前はっ!」
「これだからド低能は困るわね。いい? あんたはこの地球上で最も忌むべき人間のクズなのよ? カースト制度で言えば非人よ? 奴隷より下、マイナス方向に測定不能のランク外よ? そんな汚物に対してこれくらいの蔑みの言葉を投げかけるくらい誰だって造作もないわ」
「ピギィ!」
胸を押さえて頭をのけぞらせる希瑠。
「汚い声で鳴いてるんじゃないわよこの豚が……あっ、豚に失礼ね。じゃあ変態……ううん、変態に失礼だわ。ゴキブリ……ああ、ダメ。ボウフラ……いや、まだ失礼かしら」
「分かりました生きててすいませんでしたもうこれ以上いじめないで! 希瑠のライフはもうゼロよ!」
「ハッ。その分じゃ、『次回 怪原死す』ってところかしらね。……まあいいわ、今はこのくらいにしといてあげる」
希瑠がついに涙目になりはじめたところで、優愛は意地悪く笑い、やっと矛を収めた。
「せめて『今日は』って言ってくれ……」
「羽虫の声なんてきこえませーん。さて、何たのもっかなー」
撃沈した希瑠を気にも留めず、パラパラと優愛はメニューをめくり始める。
優愛の職業はパティシエール。怪原家がある住宅街の、東の隅っこのほうにあるケーキ店、「ディ・モールト」で働いている。その店の定休の毎週月曜日のうち、月の最後の日に、こうして希瑠とどこかに行くのが彼女の習慣となっている。
行くところは様々だ。水族館、ハイキング、時にはお城……だが、その中で最も希瑠にとって厳しいのが、今日のような『ショッピング』の場合である。
基本的に荷物は全て彼が持つことになる。そして、彼女はアホみたいに色々なものを買う。爆買いで話題の中国人ばりに買う。決して金遣いが荒いわけではないが、貯めておいて一気に放出するタイプなのだ。
ただでさえ莫大な荷物を持たされるというのに、加えて無限とも思える暴言まで飛んでくる。これが仕事なら仕事などいらぬ……と、希瑠がニートを続ける決意を日に日に固くしていく程度には、この定期イベントはハードなものだった。
「ちょっと、何抜け殻みたいな顔してんのよ。さっさと注文決めなさい」
「はーい、申し訳ございませーん」
棒読みで返して、メニューを眺めながら、別の事を考える。
優愛とは、高校のときの同級生なのだ。考えてみれば、オレは八年間もこの毒舌を浴びせかけられ続けているわけだ。なかなかにタフだと思う。家に帰れば、珠飛亜からも同じような仕打ちを喰らうわけだし……。
顔を上げると、優愛は全力でメニューとにらめっこしていた。その様子が、なんとも子どもっぽくて、愛らしかった。
別に、こいつに対して恋愛感情は無い。顔はかなりいい方だとは思うが、こんなスルメみたいな身体のチビなんて、オレの女性の好みから完全に外れている。だが、小さいものを愛でる心は、誰にでも具わっているものだ。そういう点を含めて、オレはこいつを「妹のひとり」だと感じている。
「明日」なんていう、来るかどうかも分からないものになんて、これっぽっちの期待もしちゃいない。そんなものはいらないから、最高に面倒で、最高に幸せなこの地獄が、どうか永遠に続いてくれないだろうか――と、思っていたら。
「ナニ見てんのよ変態!」
「ぐぶわっ⁉」
氷水が飛んできた。あれれー、おかしいよー? オレ、ただこいつの顔を眺めてただけなんだけどなあ……いや、他意はないですよ。ほんとに。




