17. ザ・セカンド・ティタノマキア その①
※注意※
この最終章には第5章「ブライダリー・ダークソーン」および外伝の内容は一切反映されていません。それを踏まえたうえでお読みいただけると幸いであります。
「それではおやすみなさいませ、お嬢様」
「ええ。おやすみなさい」
葉桜が目立ち、気の早い鯉がそろそろ空を泳ぎ始める四月下旬。数多の使用人の中でも古参の一人が一礼するのに、上品に返して、公領真龍は自分の部屋の扉を開けた。
明日は金曜日。その一日を終えてやってくる週末には何をしようか……特にすることもないので、ゆったりと勉強でもして過ごそうか。それとも……
(怪原くんを観察しに外に出るのも、いいかもしれませんわね)
課題などはすぐに片づけられる。それよりも、人生の課題に取り組む事の方がよほど重要だ。
怪原理里という人間を、自分の世界の中に、より精緻に再構築し、永遠に彼と共に生きること。それこそが真龍の人生の目的。……だったのだが、
(でも……このところ、怪原くんを実際に見ていないと、なんだか物足りないですわ……)
そう。そうなのだ。現実など低俗、心象風景こそ人間がたどり着くべき高次元の世界……というのが真龍の信条だったはずなのに、このところ、彼を想像するだけでは満足できなくなってきているのだ。彼のことを考えるだけで心が疼く。『胸がチクチクする』というありきたりな表現の意味を、身を持って知り始めていた。
『それが人間の正しい姿なのだよ、マロン』
心の中に響く、男性の渋い声。もちろん、真龍の中の理里のものではない。彼はこんなに低い声じゃない。
「……おじさま」
物心ついた時から真龍の心の中に住んでいる、おじさまの声だ。
「そうでしょうか? やはりわたくしには、心の中の世界の方が真理であるように思えますわ。何でも思い通りになりますし、これほど美しい世界はございません」
『それはそうかもしれないが……それは、真理とは別のものだよ。いいかい、マロン。この世には大きく分けて四つの世界がある。魂が生まれてくる精霊界、この人界、死者が行く冥界、神々の住まう天界の四つだ。死して肉体を離れた魂が心象世界として独立するというのは、この理から外れたことなんだ』
「でしたら……わたくしは、心の中という天国には、たどり着けないというのですか⁉ それは……」
それは、あまりにも残酷です。わたくしが行きたいのは、凡俗の魂が集まる冥界などではないのです。全てがわたくしによって選ばれた、わたくしの理想だけが存在する世界だというのに。
『ああ、それは不可能だ……と、言いたいのだが』
「?」
真龍の慟哭を他所に、彼は言葉を濁した。
「もしかして……行けるのですか? わたくしの理想の世界で、永遠に過ごすことができるのですか?」
『いや。もしかするとできるかもしれない、というレベルだが。
前にも言ったと思うが、君の心象世界は桁違いだ。想像力豊かな小説家や漫画家でも、これほどの絶景は持ち合わせていない。完全に、魂の中に存在するひとつの世界として確立してしまっているんだ。
君は、異能力者である可能性が高い。「自分の中に完全な世界がある」という、ひとつの異能だよ。本来、心象風景というのは、いくつかのものが泡沫的に生まれたり消えたりして、確実な一つというものはあまり存在していない。あったにしてもせいぜい「風景」が限界だ。だが、君のものは「世界」だ。あまりにも大きすぎるんだよ。生まれたり消えたりすることもない。全てが一つの世界の中で起こっているんだ。これは、驚くべきことなんだよ。もし君が望むなら、「この世界に存在する別の世界」として、君が存続し続けて、その中に君の意識が永遠に生き続けることも、不可能ではないだろう。魂とは『絶対にして永遠』なのだから』
「本当ですか⁉ それならば、わたくしの幸せは確定したも同然ですわね! ……いや、そうではなくて……」
そうそう、今悩んでいるのは、『現実の理里くんが欲しくて仕方ない』ということでした。心象風景こそ至高であるのに、なぜ現実を求めてしまうのか。
それを問うと、彼は答えてくれた。
『その問いは、実に嬉しい限りだよ。たとえ君がひとつの世界として確立できるとしても、今君が生きているのは、人界に他ならないのだからね。彼岸に全てを求めてはいけない。大事なのは此岸で、いかに生きるかなのだよ。この日この時に、この世界で幸せになることが重要なんだ。ほら、君も薄々勘付いているんじゃないかな? ひとりで空想にふける時間は、確かに楽しいものだけれど、なんとなく普通の楽しみから外れているんじゃないかって』
「それは…………」
否定はできなかった。この楽しみは、誰とも分かち合えるものじゃない。自分だけしか幸せになれない。それは……それは、なんとなく寂しいな、とも。
『君は、今この世界で、理里くんと幸せになりなさい。たとえその後ひとりになるとしても、ひとつの世界になってしまうとしても、その記憶が、きっと君の世界をもっと豊かにするだろう。
……それじゃ、おやすみ』
それきり、彼は黙ってしまった。
(この日この時に、この世界で幸せになる……ですか)
そう……確かにそうですわ。準備期間としては、この人生は長すぎると思っていました。でも、今この瞬間も、わたくしという人間の歴史の一ページだということを、すっかり忘れていました。
歴史というのは、多くの人間が全力を注いで、命を賭けて紡いできたものです。自分の歴史を紡ぐのには、何よりも全力を賭して向かわなければならないではないですか。わたくしが、そんな重要なことを、これほど長い間失念していたとは。
もちろん、心象世界に行きたいという理想は変わりませんが。
(もう少し、今を生きてみてもいいかもしれませんわね♪)
公領真龍の中で、何かが変わった、一夜のことだった。
★
(ふう……もう、寝付いたか)
真龍の中に住む男は、その世界にある森に建てた、小さな小屋で、ひとり達成感に笑顔がこぼれる。
きっと、自分の子どもたちとも、こんな会話をする機会があったのかもしれない。真龍は自分の子と同じようなものだと考えているが、彼女には彼女の両親がいる。やはり、自分の子どもを、再び可愛がりたいという気持ちもある。
それが果たして許されることなのかは分からない。でも……いつの日か、そんな瞬間が訪れるのを待って、男は生きるのだ。
(……にしても)
彼女に、『異能力者である』と伝えたのは、少し早計だったかもしれない。彼女の異能は、私の目から見ても、あまりに強すぎる。
『自分の中に完全な世界を持っている』というのは嘘じゃない。だが、彼女の異能はそれだけではない。
あれは、その世界の中にあるものを、現世に取り出す力。生命の創造だって不可能じゃない。人の身には過ぎる、禁断の異能だ。
使い方を誤れば、彼女はとてつもない外道に堕落してしまう。もっと人の何たるかを、あるべき姿を学んでからでなければ、あの異能を使わせるわけにはいかない。そのために私が異能を制御している面もある。彼女がそれを使うに値する人間になるその時まで、この異能は封印しておかなくてはならない。
……といっても、
(それほど、暇なことをできる立場でもいられなくなってきたな)
現界直後のクロノスを倒そうとしたが、思わぬ邪魔が入って奴は逃げおおせてしまった。それから四カ月。ついに、恐れていた事が、いやそれ以上のことが起きてしまった。
"始原の五神"のうち二柱の出現。加えて、魔王の加勢。クロノスが何らかの勢力を形成することは読んでいたが、まさかここまでの巨大勢力を味方につけていようとは。
革命の日は近い。奴らが大戦争を……第二次巨神大戦を起こしてしまったなら、世界は目も当てられない事態に陥ることになる。それだけは、絶対に避けなくてはならない。
「止められるのは、俺だけだ」
俺がこの世界に姿を現せば、それは即座にヘルメスの『全智の書』に記され、追っ手どもが押し寄せてくることだろう。だが、そんなことは関係ない。雑兵の百匹や千匹を潰すことなど造作もない。俺は俺のやるべきことをやるだけだ。
マロン。また、少し留守にするよ。今度こそ、もう戻って来られないかもしれない。
君には本当に世話になった。強引に住まわせてもらっていたが、君の世界は心地よかったよ。君の事は、本当に娘のように思っていた。お別れの挨拶はできないが、君はきっと素敵なレディになるだろう。
自分の心の中にメッセージをまとめて、男は右手を宙にかざす。すると、その先の空間が渦を巻き、歪み、そしてひとつの孔が生まれた。
男はその孔を両手で広げ、ぐいっと押し通る。
その先にあったのは、豪奢な調度品に彩られた、真っ暗な部屋――真龍の自室だ。
「よっ、と」
音を立てずにベッドから飛び降りると、『出入り口』が閉じる。そして、可憐な少女の寝顔。
「……さよなら、マロン」
男は、新たに生み出した空間の孔に消えていった。




