1.アウェイキング・リザードマン
西暦二〇〇一年十二月二十四日、二十二時三十分、突如として全天からギリシャ神話の英雄たちの星座が消滅した。世界の終わりの前兆かとも噂されたが、結局は何も起こらなかった。天文学界は揺れに揺れ、何人もの学者が原因究明を試みたが、十四年が経った今なお、その答えは出されていない。
………………☆……………
七月中旬、そろそろ羽毛ぶとんとはお別れをする季節の朝。
怪原理里を襲ったのは、二種類の熱気であった。
一つは、まとわりつくような真夏の熱気。
もう一つは、彼に物理的にまとわりついた年中無休の熱気。
誰あろう、姉である。
「珠飛亜、起きてるんだろ」
「…~ん、あと五年…」
どこの神竜の巫女だ、お前は。
「頼むから、この灼熱の鎖から俺を早く解き放ってくれ」
「…~ん、~ん…」
灼熱の鎖という名の彼女の長い腕と脚は、一向に離れる気配はない。むしろどんどんきつくなってきている。このままでは朝っぱらから熱中症で病院送りだ。気は進まないが、奥の手を使うしかない。
そう考えた理里は、彼史上最高のいい声で話し始める。
「この世で最も麗しく愛しいお姉様、どうかお寝坊さんな私めを起こしてくださいませ」
「はぁ…もう一回言って」
「だめだ」
「ちぇっ、りーくんのいじわる」
そう言いながら素直に放してくれるのはありがたいが、このブラコンっぷりはどうにかならないものだろうか。姉と一緒に寝ている(寝させられている)高校一年生など俺くらいのものだろう。しかも、さっきのセリフに対するあの恍惚とした表情。まったく勘弁してくれ。
ショートボブのはずの姉の艶やかな髪が伸びて引き止めている気がして、理里は体を軽く払い早急にベッドを離れた。
………………☆……………
「りーくん、早く早く!」
「はいはい」
家を出て乗ろうとした自転車の後ろには、当然のように珠飛亜の姿があった。二人乗りは違法であることを伝えるのはとうに諦めた。心の中でため息をつき、理里は二キロ先の彼らの学校へと走り出そうとした。
しかし、
「怪原くん、二人乗りは犯罪です。先輩も、率先して弟を悪の道へ引きずり込まないでください」
「うげ、手塩くん…。別に悪の道に引きずり込んでるわけじゃないよ! 私はりーくんといっしょに、かつ早く学校にいきたいだけなの!」
「だったら自分の自転車に乗ればいいでしょう」
天然パーマの長髪を後ろでまとめたこの長身の二年生――手塩御雷は、姉弟の天敵であった。毎朝毎朝狙ったかのように理里達が自転車に乗った瞬間にどこからともなく現れては注意してくる。彼のせいで遅刻しかかったことは最早数え切れない。
「自転車が邪魔でりーくんと密着できないでしょ!」
いや、別に密着しなくてもいいんだがと心底言いたかったが、この二人の口喧嘩に参入するとかなりの体力を使う。どちらかが引き下がるか、遅刻がかかってくる時間まで聴覚をシャットアウトするのが理里の定石である。
「怪原君も怪原君です。なぜこのような非論理的な人間を野放しにしているのですか。一度きつくお仕置きするのが家族の責任というものでしょう」
ギャー! 飛び火してきたー!
「そんな…りーくんからお仕置きだなんて…ぽっ」
お前も反応してんじゃねーこの超絶ブラコン姉! と叫びたいところだが、人目もあるのでぐっと堪える。俺までこいつらと同類とみられては敵わない。
「いえ、俺は何度も注意しているんですがね、この姉は全く聞かないんですよ」
「それはあなたの努力が足りないだけです。大体いつまで姉弟でそんな恋愛ごっこなど続けているのですか。二人とももう少し高校生としての自覚を持つべきではないのですか?姉弟とは家族として敬うべき存在であって、決して恋愛対象ではないのですが」
「冗談もほどほどにしてくださいよ…こんな姉恋愛対象になんてなりませんよ」
まあ、見た目だけならスーパー美少女なんだけど…
「ではなぜ一緒にいるときは常に手をつないでいるのですか? なぜ実の姉を呼び捨てにしているのですか? なぜ――」
「決まってるでしょ! 好きだからじゃん!」
あああこの姉はまた余計なことを…こんなんで何で二人とも生徒会役員なんてやってるんだ…。
「ほら、当人もこう言っているではありませんか。全く、破廉恥な」
「弟が好きでなにが悪いの!」
絶望の中理里が目をやった腕時計には、さらに絶望的な数字が映し出されていた。
「あの、ヒートアップしているところ悪いんですが…」
「何!」
「何ですか」
「いや、もう始業まで十分しかないんですけど…」
「…。」
「…。」
通行人の話し声がちらほら聞こえていたはずだが、今この場は完全に静まりかえっていた。
気づけば手塩の姿は既になかった。
「…どうする、珠飛亜」
「仕方ないね、あれ使おっか」
そう言うと、珠飛亜は徐に背中の二つのボタンを外した。
突然、珠飛亜の背に羽毛で覆われた突起が出現した。突起はみるみる大きくなり、瞬く間に二枚の美しい羽となった。
「はい、りーくん」
姉の促すまま、理里は彼女の腕の中へと向かう。
「今日は安全運転で頼むぜ…つっても無理だな」
お姫様だっこの体勢で、半ばため息をつくように呟く。
「全速力でぶっとばすよ!」
その掛け声と共に、二人は一瞬にして空へと飛び上がった。
………………☆……………
怪原理里は、いや怪原家の者は全て、人間ではない。
母はメデューサの孫にして「怪物の母」の異名を持つ半人半蛇の怪物エキドナ。
長男は「地獄の番犬」として有名なケルベロス。
長女は女の顔と翼を持ったライオン、スフィンクス。
次女で双子の姉の方は、九つの頭を持つ毒蛇・ヒュドラ。
三女で双子の妹の方は、ヤギの下半身と蛇の尾を持つライオン、キマイラ。
そして長女と双子の間に位置する次男・理里の正体は――
リザードマン。
この圧倒的怪物オールスターズ一家の中にあって、唯一の下っ端。
しかし、彼は人間の知るリザードマンとは少し違って、他の兄妹姉妹のような怪物を凌駕する力を持つ(といってもリザードマンを知っている人間はそんなにいないが)。身体能力の高さに加え、ひとつだけ武器を持っている。曾祖母や十四年前に行方不明になった、家族にすら決して正体を顕さなかった父も持っていたというその武器は、彼らを知る他の多くの怪物から危険視されている。
また、彼らは本来の姿を表しても、人間には気づかれない。霊的な存在となるため、同類もしくは霊感のある人間にしか見えないのだ。よって、彼らは人界でも自分のために大いに力を使うことができている。
………………☆……………
「全く、今日はついてねえな――」
珠飛亜の翼と自分自身の超人的な脚力でどうにか遅刻を免れた理里は、再び全力で走らされる羽目に遭っていた。あろうことか、体操服を忘れてしまったのである。無論十分間の休憩時間で二キロを往復することは彼の脚力でも不可能なため、今は姉の教室に向かって走っていた。
しかし、そこで思わぬものを目にした。
「あれ、手塩先輩……?」
窓から見える姉の教室の中。そこで手塩が何やら姉と話している。と思ったら、二言三言話しただけで出て行ったようだ。生徒会の用事か何かだろうか、と考えているうちに理里は姉の席に着いていた。
「珠飛亜」
「あっ、りーくん! わざわざお姉ちゃんの顔をみにこんなところまできてくれたの⁉ もう、ほんとおねえちゃんのことだいすきなんだから♪」
「いや、そういうのいいからマジで」
先輩方からの視線が痛い。ストレイト、ドキドキする視線はまるでレーザービームだ。この姉貴、顔とスタイルだけは無駄にいいために、多くの男子から人気を博している。
「体操服貸してくんない?」
「朝のあれ言ってくれたらいいよぉ」
「OK、取りに帰るわ」
「あーもうわかったよ!貸すよ!まったくつれないんだからぁ」
あんなもんこの場で言ったら虹色のデスビームが心にシュワリと突き刺さるだけでは済まない。
「はいよ」
「サンキュー」
要件は済んだ。しかし、まだ気になることが残っている。
「さっき、手塩先輩と何話してたんだ?」
「あらぁ、見てたのぉ?」
蠱惑的な態度がかなり鼻についたので帰ってやろうかと思ったが、ここで引き下がっては答えは得られない。
「ここに来る直前、ちらっとな。まともに話してるのなんて珍しいと思って」
「うふふ、実はね…」
と、突然珠飛亜が顔を近づけてくる。先輩方からの視線はレーザービームを通り越して、最早波動砲の域だ。
「『放課後、お話があります。体育館裏まで来てください』だ~って」
えーーーー。嘘ですやーん。いつもあんな調子なのに実は……って感じだったのか。まあ、この姉ならいつものように「私は弟が好きなんで無理です」とか言って断るのだろう。頭が痛い。
「しかし、意外だな」
「なーに嫉妬ぉ? りーくんったらそんなにおねえちゃんのこと愛してくれてたのね♪ うれしい! 安心してね、ちゃんと断るよ」
「頼むからこれ以上暴走しないでいい人見つけてくれ……」
でないと俺にも全く女子が寄り付かない。入学式の日からリア充と思われて男子からは敬遠され、真相を知る女子からはシスコンとして蔑視されている俺の気持ちがあんたに分かるかー。おかげでいまだに友達いないんだぞおれはー。もうおれには姉ルートしかのこってないのかー。
「それはそうとりーくん、だいじょうぶ? もうあと一分で授業はじまっちゃうよ」
「何」
自分の将来と可哀想な手塩に対する心の痛みを記憶の海の彼方へと吹き飛ばし、理里は三度全速力で走り出した。
………………☆……………
しかし、可哀想とはいえ、幾度となく姉と自分を遅刻寸前に追いやってきた男である。慰めるのはフラれるのをみて嘲笑ってやってからでも遅くはないと考えた理里は、体育館裏の柱の陰で二人を密かに見ていた。
「で、話って何かな?」
うわーこいつ何すっとぼけてやがる。悪魔だ。完全なる悪魔だ。
「単刀直入に言います」
武士の情けで目を背けてやろうかと考えていた理里は、結局ドS精神を発揮し最後まで見届けることを決めた。しかし手塩の口から出てきたのは、思いがけない言葉だった。
「――先輩。あなた怪物ですよね」
理里の背筋に戦慄が走った。それは珠飛亜も同じようだった。
「……何を言ってるのかな」
「とぼけても無駄です。幾多の怪物と戦ってきた私の目はごまかせません」
珠飛亜の顔つきが険しくなってきた。さっきまでの余裕の表情はもうどこにもない。
「君、いったい何者なの」
「そうですね、どうせここで死んでいただくのでお教えしても構わないでしょう。私の真の名はテセウス――かの有名なクレタ島のラビリンスにて、怪物ミノタウロスを討伐した者です」
珠飛亜の目が驚愕に見開かれる。当たり前だ。数千年前の人間がこの世に存在しているわけがない。しかし私達の正体を見抜いた。本当に一体何者なのだ。
「信じられないのも無理はありませんね。私は三千年前に死んだはずの人間ですから。唐突ですが、十四年前のクリスマス・イヴの話は知っていますね?」
「ギリシア神話の英雄たちの星座が突然消滅した…」
「そう、あの日、あの晩、それは突然神々の世界を再び襲いました」
テセウスは静かに語り始めた。
「その圧倒的な強さは神々が束になっても敵わないもので、冥界や人界から多くの英雄たちが討伐軍として呼び寄せられました。しかしそれでも奴には勝てず、神々はついに星座の英雄たちを呼び戻す決断をしたのです。それでようやく奴を撃退しました。ですがまだ完全に倒したわけではありません。人界に逃げのびた奴を追うため、英雄たちは人界のあらゆる場所、あらゆる時代に転生し、神々ですら居場所がわからない奴を追う任務を授かりました。私はその一人です」
「だったら、君はそいつを探すべきでしょ! 何で私に接触してきたの!?」
「あなたに関係があるからに決まっているでしょう」
「だから、何の関係が――」
テセウスは声に苛立ちを顕にしはじめた。
「物分かりの悪い方ですね。あなたの家にはいるでしょう、十四年前に行方不明になった人間が」
「……まさか……そんな」
珠飛亜の目が、再び驚きの色に染まる。
「二度に渡って神界を恐怖のどん底に叩き落とした、史上最強にして最悪の魔神。その名はテュフォーン。怪原手本、あなたの父親です」
ついに力なく座り込んでしまった珠飛亜を気にするような素振りも見せず、テセウスは話を続ける。
「ようやく奴のこの世界での名前と家族までたどり着きましたが……何も知らない者に用はありません。ですが、あなた達が世に害をなす怪物であることに変わりはない。先輩。そしてそこに隠れている不埒者。あなたがたにはやはりここで消えていただきましょう、この世界の異端者ども」
「やっぱりバレてたか。さすがに鋭いですね」
理里はついに柱の陰から姿を現した。しかし、姉とは違い冷静なようだ。
「りーくん、知ってたの」
珠飛亜がか細い声で問いかける。
「ああ」
「ほう、意外ですね。奴は家族の前で決して正体を顕さなかったと聞きましたが」
「俺も知ったのは最近です。何年か前に先輩と同じような輩が俺のもとに現れた。そいつに聞いたんです」
「なるほど、そういうことでしたか。だが、知っていようがいまいが最早どうでもいいこと。どうせここで消えるのですから」
そう言ったテセウスの手に、二メートル弱の棍棒が出現する。
「まずはあなたからです、怪原理里」
テセウスは闘気を放ちながら、理里のもとへと歩み寄ってくる。
否、歩み寄ろうとした。
「っ! これは!」
テセウスの足が、突然動かなくなった。見た目には何をされている様子もない。しかし、彼の足はまるで石のように動かなかった。
ふいに胸騒ぎがし、テセウスは顔をあげる。そして、さらなる衝撃に包まれた。
「貴様、何だ、その、ひだ、り、め、は…」
理里の左目が、禍々しい金色の光を放っていた。しかしテセウスが感じ取れたのは、そこまでだった。
「俺たちの日常を邪魔する奴は、誰であろうと許しはしない。消えろ、この世界から」
その瞬間、テセウスの体は真っ白な彫像となった。
それは、怪原家で「最弱」のはずの怪物が、一家「最強」である所以。
曾祖母から受け継いだ、彼の唯一の特殊能力。
視認した生物を石へと変える魔眼、「蛇皇眼――通称、蛇皇眼」である。
………………☆……………
それから数十秒後、かつてテセウスだった彫像は崩れ落ちた。理里の「蛇皇眼」は、オリジナルである曾祖母ほどの力はないため、対象が完全には石化せず、強度が足りなくなって自然崩壊してしまうのである。
「なんで、おしえてくれなかったの」
珠飛亜はいつの間にか立ち上がっていた。
「珠飛亜を危険にさらしたくなかった」
「わたし、お姉ちゃんだよ? りーくんより二年も長く生きてるし、その『眼』を除いた力だけなら、私のほうが強い……あんな奴になんか負けないよ。父さんのことはちょっとショックだったけど、いつかみんな知ることでしょ?」
「父さんのことは、俺の口から伝えるべきことじゃないと思ったんだ。それに戦ったら怪我だってするし、周囲に被害も出る。それよりは俺の『蛇皇眼』で――いや、こんなのはただの建前だな…。戦って傷ついて、どんなひどい怪我をしても、きっと珠飛亜は俺たちに心配かけないように無理するだろ?そうしたら傷ついていることにすらきっと俺は気づかないだろう。俺はそういうのがたまらなく嫌なんだよ。珠飛亜が傷ついているのに、声すらもかけられないなんてな。俺は珠飛亜に笑っていてほしい。珠飛亜はずっと、俺のたったひとりの姉ちゃんだから――隠していたのはただの俺のわがままだ。ごめん」
理里は深々と頭を下げた。珠飛亜もどうやら落ち着いたようだ。
――いや、正確には落ち着いてはいなかった。
「りーくん……」
うっとりとした声。理里は自分の失態に気づいた。
「本気でそんなにおねえちゃんのこと思ってくれてたんだね! ああ、やっぱりわたしとりーくんは運命の相手なんだよ! 赤い糸で永遠にむすばれてるの!」
「もしもーし? 珠飛亜さーん? 大丈夫?」
「この音源も一生大切にするね♪」
は? 音源?
珠飛亜はポケットから徐にICレコーダーを取り出し、再生ボタンを押す。
『俺は珠飛亜に笑っていてほしい。珠飛亜はずっと、俺のたったひとりの姉ちゃんだから』
「い、い、い、…………」
理里の体から殺気が迸る。
「いっまっすっぐっ消せえええええええええええええええええーーーーーー!」
「だ〜め♪ いまからケータイに転送って着ボイスにするんだもん♪」
時既に遅し、理里が走り出す頃には珠飛亜は翼を広げ、大空へと舞い上がっていた。
「あああお願いです、お願いです珠飛亜さま、お願いですから今すぐ消してえええ…………」
理里の叫びも虚しく、珠飛亜は光の速さで家に飛び去ってゆく。
と、突然理里を強烈な眠気が襲った。
「あ、副作用か」
『蛇皇眼』には一つだけ弱点がある。理里がリザードマンという基本スペックからしてみれば正直弱い怪物であるため、一度使うと体力の大半をもっていかれるのだ。そのため、使用後は三時間は眠らなくてはならない。
「まったく、明日からはもっと生き地獄だな……」
これからの絶望的で、しかし最高に楽しい姉との毎日を思いながら、この世界の異端者はひとときの眠りについた。