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始まり side N.S

まるで自分の身体を擦り抜けるように過ぎて行く時間は、ただただ退屈なものでしかなかった。代わり映えしない日常の端っこに佇む非現実的な出来事など当たり前だがこちらに歩み寄ることもなく、俺の知らない何処か遠くで"それ"は事件として起こり、誰もが意識する前に遥か昔の記憶となってしまう。俺の日常はいつも同じだ。在り来たりで平凡で、退屈。「それが一番だ」なんて言われても、このまま時間だけがどんどんと流れてしまうのだと思うと将来と言うものにあまり良い期待など出来なかった。だけどこの時の俺はまだ子供で、甘い。当たり前の日常なんて、ほんの少しの些細なタイミングのズレで崩れ去ってしまうものなんだ。





side N.S

#01 2015年 夏


「ん………」


頬に冷んやりと冷たい感覚が触れて、引っ張り上げられるように瞼を薄く開いた。てっぺんを丁度越えた辺りの太陽が眩しいくらいに輝いていたが、しかしその数秒後には大きな雲に吸い込まれるように隠れてしまう。背中に触れるコンクリートの無機質な冷たさはもう完全に体温に溶けきってしまっていて、薄いワイシャツ一枚を隔てただけの背中にはやんわりと汗を滲ませているだろう。覚醒しきらない脳を起こすようにガシガシと少し乱暴に瞼を手で擦ると、ぼんやりと曖昧だった視界も幾分かはっきりとした。


「なーつーきー、もう昼休みだぞ」

「…あ?……千尋?」

「お前また物理サボったろ、喜一呆れてたぞ」

「うるっせーなぁ…つーかお前、何しに来たんだよ」

「別に。ここに来たら、たまたまお前が居ただけ」


歪んだ世界の中、太陽に反射した黒い影が頭上を覆った。揺れた焦点が静かに捉えたのは、同じクラスの篠崎千尋。少し気怠そうに、困ったように眉間にしわを寄せた彼は、手に持ったポカリスウェットのペットボトルをフラフラと揺らして見せた。先程感じた頬の冷感は、これか。硬いコンクリートに背中を預けて寝ていたために、起き上がるには少し背中が悲鳴を上げた。自制内に留まった痛みに気を取られる暇もなく、ぐにゃりと背中を丸めてその場に胡座をかいた俺の隣に千尋は座った。


「て言うかホラ、委員長が捜してたぜ。夏生また何かしたのかよ」

「またって何だよ、またって。別に何もしてねーし、」

「じゃあ何の用だろうな」

「あーたぶん、進路希望の紙。出すの忘れてたわ、」

「あ、なるほどね」


千尋のその言葉に、今朝委員長にも同じ注意を受けた事を思い出す。そして突き付けられるように渡された進路表の紙の存在も。ガサツに右ポケットに押し込んだ、四つ折りのA4用紙を取り出せば、端々がしわくちゃになってしまったその真新しい紙が白紙のままに目の前に現れた。瀬尾夏生、と名前だけが印字されたその紙を見下ろせば、自然と溜息が零れ落ちる。高校2年生の夏。高校生になって、初めての進路希望調査が実施される事となったのだ。だけどまだ1年以上も先の進路を今問われたところで、なりたいものがあるわけでもなければ進みたい道も、極めたい何かがあるわけではない俺が第3希望までもを埋めるのは正直なところ不可能な事であり、結局期限として決められていた先週の金曜日なんてあっさりと過ぎ去ってしまったのだ。


「千尋はちゃんと書いて出したのかよ」

「出した出した。模索中って書いて、」

「おま、…俺より酷くね」

「んなもん期限守ってりゃ文句言われねえよ」

「あー、まあ、そうかよ」

「て言うか、昼休み。飯食わねーの、」

「あ、購買部行ってくっか」

「俺いちごミルクで」

「ハァ?自分で行けよ、」

「ついでだろ、つーいーで。そんじゃ行ってらっしゃい夏生クン」


半ば強引に背中を押されて立ち上がる。夏の低い空が、また一段と近くなったような気がした。気付けば太陽は分厚い雲の隙間を縫うように姿を現して、ジリジリとコンクリートの床を焦がす。空気を纏った背中が、やけに涼しく感じた。


瀬尾夏生、16歳。俺は高校に入って、二回目の夏を迎えようとしていた。





「瀬尾くんー」

「あ?…相川、なに」

「図書室の鍵、今週瀬尾くん当番に名前上がってたから」

「え、図書室?」


6限の数学は教科担当が学年主任であったため、真面目に出席したのはいいものの結局睡眠学習となってしまった。窓側後ろから2番目。条件の良いこの席で、窓から吹き込むほどよい風に前髪を掻き分けられ、遮光目的に引いたカーテン越しの陽射しの暖かさに瞼は徐々に引き下げられ、頬杖をついたままにいつの間にか暗闇の世界へと身を投じてしまっていたようだ。チャイムの音に呼び起こされるように目を覚ました俺は、いつも通りに友人である千尋と凛太朗の2人と帰ろうと教室の後ろの扉へと向かって歩く。次々と帰宅する者や部活へと向かう者が行き交い賑やかになる教室の中、あまり会話を交わしたことのないクラスメートの1人、相川に俺は呼び止められた。


「え…って、瀬尾くん図書委員だよ」

「あ、あー…そうだっけ」

「夏生忘れてたのかよ」

「つーかまず活動してたんだ、図書委員って」

「古賀くんは興味ないだろうし知らなかっただろうけど、ちゃーんと図書室管理してるんだからね」

「あー…で、俺なにしたらいいの」

「6時まで図書室のカウンターに居て、過ぎたら鍵閉めて帰っていいよ。鍵は今週一杯は瀬尾くんが管理してね、」

「え、えー…6時?まじかよ、」

「夏生ドンマイ、俺ら帰るわ」

「図書委員ファイトー」

「あ、お前ら!」

「じゃあわたしも帰るね。よろしく瀬尾くん、」


ジャラリ、と鍵を掌に落とされ、そのまま相川はさっさと教室を出て行ってしまう。千尋と凛太朗の姿ももちろんそこにはなく、ただ呆然と扉に向かって立ち尽くす俺の肩に掛かったスクールバッグが、ずるりとズレ落ちるのだけがわかった。





「誰も来ねえじゃん、図書室」


東棟校舎3階、一番奥。図書室とプレートの掛かったそこは、入学以来ほとんど訪れたことのない場所だった。言われた通りカウンターに入り、古ぼけたパイプ椅子に座る。それでちょうど、カウンターから肩と顔が出る高さ。少しだけ高いそれに顔を伏せるように両手を乗せ、顎を引っ掛けた。目の前には壁掛け時計がぶら下がっている。時刻は午後4時半。図書室に入ってから10分程経つが、未だに誰かが訪れる気配はまるでなかった。元々美術室や音楽室など、選択授業に使われる教室の多いこの東棟校舎は人の出入りも少ない。静か過ぎるその空間に、時計の秒針の音はやけに大きく響いた。


「あと1時間…長え、」


それから30分。相変わらず誰も訪れることなく時間が過ぎた。うつらうつらと睡魔も押し寄せてきて、このままここで寝て過ごしてしまおうと顔を伏せた、その時だった。


ーーーー ガタッ


自分以外の誰もいないはずの図書室の中に、誰かが椅子を引く音が響いたのだ。思わず顔を上げ、頭を振って辺りを見渡した。日没の近い太陽が痛いくらいに差し込む窓辺、一番奥の席。長机にきちんと収められていたはずの椅子が、少しだけ引かれているのに運が良いのか悪いのか、俺は気が付いてしまった。


「………誰か、居んの」


ぽつり、ぽつり。零すように発したその言葉は、静かな空間に虚しく響く。やけに秒針の音が、耳について離れない。


「…おい、誰か居んのかよって」


少しの沈黙後、もう一度。何もない空間に放り出されたその言葉たちは、静かに消えた。霊や怪奇現象と言った類いに興味はないし信じてはいないが、この教室には俺しかいなかったはず。何もなしにあの椅子が勝手に動くものなのだろうか。そんな考えが頭の中をひたすらぐるぐると回り続けて、思わず俺はその場に立ち上がっていた。カウンターに手をついて、パイプ椅子を引く。荒い床の木目が悲鳴を上げた。カウンターを出て、本棚と本棚の間を覗き込むように進み、辿り着いたのは先程の席。ほんの少し引っ張られたように出ている椅子に手を掛けて、ゆっくりと引いた。途端、少し強めの風が窓を通り抜け俺の前髪を揺らす。煽られたカーテンが、バサリと音を立てた。


「……なんだこれ」


覗き込んだその机の中には、一冊の無地のノートが置いてあるだけだった。淡いピンク色の表紙には一言『ハナ』と書かれている。そのノートに手を掛け引き出し、机の上に少し雑に置く。いつの間にこれを入れられたのか、いや寧ろ俺が来る前から入れられていたのか。それは定かではないが、ハナと言う名前に特に心当たりはない。返そうにも学年もクラスも書かれていない。どうしたものかと俺は困り、その椅子に腰掛けノートを開いた。そこには細いB線に沿うように、細く丸い文字が綴られていた。


『ノートを見付けてくれた人へ』


そう始まった文章は、そのままつらつらと見付けてくれた者への感謝が繋げられている。そしてここにノートを置いた理由も。


「あまり人の寄り付かないこの図書室なら、大勢に晒されることなく1人の人と話せると思ったから、…ねえ」


どうやらこのハナと言う子はあまり友達を作るのが上手くはないらしい。特に虐められているわけでも、仲間外れになっているわけでもないようだが、ようは集団行動が好きではないとのこと。その点俺と何処か通じる者があるように思えて、俺はそのままそのノートを読み進める。そして辿り着いた文章の最後。あえて数行空けて書いたであろうその言葉に、俺はどうにも強く惹かれたらしい。


『よかったら、お返事くれませんか?』


細くて丸いそんな文字は、その一言で終わったいた。所謂交換ノートか。なんて頭の中で考えながら、俺は思わず自身の鞄まで歩み寄っていた。取り出した筆箱から引き抜いたボールペン片手に、再び同じ席へと戻った俺は、ハナと言う謎の少女へ、返事を書くことにしたのだ。


午後6時、夕暮れを知らせるチャイムの音が、何故か遠くに響くような気がする。足元に長く濃い影が伸びる。小さく聴こえた、何処かの部活の試合開始の笛の音。夏の始まりを感じた。




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