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「その『針』の字は―――こちらの『鍼』の字と書いていただけると、嬉しいです」

 頬撫でる風が甘く、ぬるい季節を届ける。

 霞草は名残雪を称えるように(そよ)ぎ、邸内に春空を見上げる緑の黒髪は季を纏う。

 天つ神の寿ぐ季において、陰鬱の相を持つ者は一人と無し。

 大内裏のうち、式部厨で奔る筆が立ち止る。

 背の方よりの声かけに振り返った土師(はじ)高遠(たかとお)は、それと同時に顔を綻ばせた。

「これはこれは、薬袋殿で御座いましたか」

「久方ぶりです、土師殿。お勤めのほどは?」

「順調ですよ。忙しさと言ったら、年の暮れほどですが」

 そう言うと彼は人差し指で、目の周りにくすむ隈を示す。

「肩も鉛のようでして―――重ねてこの季節、どれだけの紙を無駄にしたか。『春眠暁を覚えず』ではありませんが、春は麗らか―――瞼も独りでに落ちるものです」

 おそらくは眠気にやられて墨をぶちまけてしまったのだろう、良い具合に墨染になった巻物が、文台の傍にいくつも転がっている。

 欠伸をしながら苦笑する友人を見て、薬袋実資(みないさねすけ)は生来の糸のような目をさらに細くして、ゆっくりと人が良さそうに微笑んだ。

「もしよろしければ、この後にでも、打ちましょうか?」

「良いのですか?」

 土師の表情がぱっと明るくなる。

「かまいませんよ」

「是非」

 頷く実資。それから少し申し訳なさそうな表情をして、続ける。

「代わりと言ってはなんですが―――」

「ああ、はいはい」

 遮る土師。今度は彼が優しく微笑みながら、実資を見る。

「しかし拘りますな、薬袋博士」

 実資はその言葉が照れくさいのか頭を掻いて、それからずれた冠を正すと、右手に持った木笏(もくしゃく)を遊ばせながら柔らげに言う。

「これでも鍼医でございますゆえ」

                 *

(よもぎ)、蓬はどこですかー?」

 簀の子を声を張り上げながら進む先生。どうやら私を探しているらしく、庭の池で大きな鯉が跳ねたのを目にも気にも留めず、こちらへ近付いてきます。返事を求められますが、大きな声を発することを得意としない私は、こうしていつも妻戸の陰に隠れて、見つけてもらえるのを待っているのです。常の些細な楽しみであったりもします。


「あれ。昨日は縁の下に居たのに…どこですかー、蓬ー」

 ふふ…やっぱり少しだけ楽しいです。

 見つかるのも時間の問題ですが、ことさら何かしでかしたと言うわけではないので、私はここを動きません。ただここに、先生を心待ちにするだけなのです。

 春と言う季は心地よく、啓蟄(けいちつ)も過ぎればちょうちょうがはらはらと舞います。頬の傍を過ぎゆくときなどは少しだけくすぐったいですが、またそれも愛らしくあります。先生は私を見て霞草と仰いますが、大納言の先生は紋白ちょうと(たと)えてくださいます。どちらともとても嬉しいのですが、それと同じくらい畏れ多く思います。

 そういえば大納言の先生は、最近いらっしゃいません。

 お忙しいのでしょうか?

「あー、居た居た。探しましたよ」

「お、おかえりなさい、…先生」

「ただいまかえりました、ありがとうございます。蓬、返事はせずとも良いですが、捜しているのに気付いたならばそちらから寄ってきて良いのですよ?」

 先生は私を見つけると、同時に中腰になってから私と同じ目線を保って、私の白い頭を優しく撫でてくださりながら、そうおっしゃいました。ただ顔つきは憤りのあるそれで無く、苦笑の入り混じった優しげで、すべてを知っているうえで抱擁するような表情です。

「は、はい!…あの、こ、心得ております…」

 私は人と話すのがあまり得意ではありません。もう三年も衣食住を養っていただいている先生に対しても、この有様です。

 しかし先生はそれも百の承知でいらっしゃるので、私を追撃することは無く、

「ならば良いのですよ」

 と、優しく撫でてくださいます。

 これが私の甘えの元であったりもして、それであるからこそ、いっこうに治りません。

 ですが、それでもいいと思っています。

「蓬、今日は早かったのですね」

 先生の言う「早かった」というのは、典薬寮での鍼灸術講義のことです。

 普段、先生は宮内省(くないしょう)(てん)薬寮(やくりょう)(はりの)博士(はかせ)として私やほかの針生に講義をしてくださっていますが、近ごろはお忙しいようで、別な針師の方々に代役に立ってもらっているのです。

「…はい」

 私は頷きます。先生もそれに応えて、

「うんうん」

 と、頷きます。糸のように細い目が、さらに細くなります。

 それから先生は姿勢を戻して、私を見下ろしました。

「ときに蓬、頼みがあります。土師殿と約束をしたのです。もしよければ手を貸してもらえると心強いのですが?」

「―――!」

 突然のお誘いに胸が躍ります。幾度も頭を縦に振る私を見て、先生は

「これこれ、(くび)を痛めますよ」

 と、優しく諭してくださいました。

 私が素直にそれに従い、出立までに何を備えておけばよろしいでしょうか、と尋ねようとしたその時です。

「だ、旦那様!」

 邸内に女性の高い声が響きます。そしてこちらに、棟門の方角から簀の子を駆けてくるのは女中の双葉さんです。

「如何しました?」

 目を丸くする先生。何事かと、若干身構えています。

 少し慌てたさまの双葉さんは、軽く息を切らして肩で息をしながら、口を開きます。

「門前に、若い(おのこ)と奇抜な風体の者の二人連れが『鍼博士殿はいらっしゃるか』と参っております。検非違使と名乗りましたがどうにも、連れの下郎が怪しげにございます。お二方とも、太刀を携えておりますゆえ、ご用心くださいまし」

 不安の色に眼を染める双葉さんの言葉が絶えると、先生は悩ましげに顎を撫でます。

 鬚勝ちぎみの大納言の先生とは違い、青白くてふと不健康にも見える先生は、次に苦笑いを浮かべました。

「双葉さん」

「はい?」

昨日(さくじつ)の宵、夜廻りにいらっしゃった谷島(やじま)少尉(しょうじょう)の言伝を受けたのは、どなたでありましたかな?」

 谷島様は、この辺りを管轄として検非違使庁にてお勤めしていらっしゃる偉いお方です。私が先生に引き取られることになった際、着物や簪をたくさんくださいました。先生の御爺(おひい)様も私はまことの御爺様のように思いますが、谷島様はもっとまことの御爺様に近いお方のように思えて、かの時よりお慕いしているのです。

 そして確かに谷島様は、昨日の生暖かい宵にこの邸を訪ねてきました。しっかりと覚えています。同時に、私は先生の言わんとしていることが何となく推し量られました。

 しかし双葉さんはまだきょとんとしています。まるで蛙のようです。

「いらしたのはおぼろげにも記憶にありますが…私が?」

「ええ、双葉さんでしたよ。ね、蓬?」

「・・・はい」

 私が頷くと、先生は苦笑とともに深く溜息を吐きながら、双葉さんの横を通り過ぎていきます。すれ違いざま、先生は申し訳なさそうに俯く双葉さんの頬をそっと人差し指で突いて、

「気に掛けるほどの失態ではありませんよ」

 と声をかけてから、とろとろと簀の子を進んで行かれました。

                     



検非違使庁(けびいしちょう)少志(しょうさかん)上坂四郎景(こうさかしろうかげ)(きよ)と申します。本日付にてこの辺りの夜廻職を預かりました。宮内省(くないしょう)(てん)薬寮(やくりょう)(じゅ)七位上針博士薬袋実資(しちいじょうはりのはかせみないさねすけ)殿、以後お見知りおきくだされ」

 先生が棟門の(かんぬき)を外して扉を開くと、顔をのぞかせた若い男性がまくしたてました。彼は双葉さんの仰っていたことから想像していた様よりも若く思われ、少々驚きました。

 その方の背の方、少し離れた所には摺衣を着崩した背の高い中年の男性が、あらぬ方向を眺めて立っています。

 先生は「これはこれは」と笑顔で頷くと、邸内に入るように促します。

 上坂さんは軽く頷いて、「いえ、ここで事足りますゆえ、どうぞお構いなく」と断ると、次に振り返りました。

「おい、根切丸。そなたも挨拶をしないか」

 私がふと視線を戻すと、先ほどのところにあの男性はいませんでした。

「おい!根切丸!」

 上坂さんは声を荒げます。私は突然のことに驚いて、思わず先生の衣の裾を掴んでしまいました。先生は困ったような顔をしています。

 少しして、鬚面でお世辞にも整った風体ではない男性が顔を出しました。

「お呼びで?」

「『お呼びで?』じゃない。そなた、何をしていた」

「聞くだけ野暮じゃあないですかね、へっへ」

「身の程をわきまえよ」

「へいへい」

 男性は少し右足を引きずりながら、こちらに近づいてきます。

「・・・う」

「どうしました?蓬?」

「い、いえ。何も・・・」

 なんとなくです。なんとなくですが、彼からは少し嫌な感じがしました。

 もう覚えていないくらい――遥か昔に感じた嫌悪感です。

 上坂さんに並んだその人は、背丈のほどは先生よりも大分に大きくて妙な威圧感がありましたが、やせやせとしていてまるで枯れ木のようで、精気が無いようにも見えました。

「検非違使庁放免の根切丸って者ですぅ」

 根切丸と言う人は、左手を懐手にしながら、ふんぞり返ってそう言います。

 放免というのは、悪いことをして検非違使に捕まった人が、検非違使として働くことになった際の職名です。いつだったか、谷島様が教えてくださいました。

 先生は軽く頷きます。それから、続けて口を開きました。

「お二方ご足労痛み入ります。ご存じであるようですが、私は薬袋実資と申します。それとこちらが―――蓬と言います」

「ふぇっ?・・・いや、う・・・し、針生の蓬です…」

 なんで急に振るんですか!と文句を言いたくもなりましたが、自分から自己紹介なんてできた性ではありませんのでむしろ助け舟だと思い、その場をなんとかやり過ごそうとしました。いつものように先生の後ろで小さくなってはいますが。

 しかし、そううまくは行きませんでした。

 たまたまです。たまたまだったのですが、上坂さまと目があってしまったのです。

「!・・・」

 彼はすぐに、気まずそうに顔を背けました。平生似たような態度をとってしまう私が言えたことではないのですが、齢が近いだけあって少し悲しかったです。

「ふふ・・・」

 私が赤子のようにしがみ付いていた先生が、袂を口元に押し当てて小さく笑います。

「な、なにを笑いまする!」

 なぜかわかりませんが、上坂さんが頬を桃のような薄っすらとした赤に染め、大音声でわめきます。なにがあったのでしょう?

 私が見上げると先生は必死に笑みを殺しながら、

「いえ、わかりやすいものだなぁと思いまして」

 と言ってちらりと上坂さんを見ます。私もそれに釣られて彼を見ますが、拗ねたような表情でそっぽを向いていました。

「へえ、かわいらしい女子(おんなご)だ。夜の相手にゃまだ早ぇか?」

 不意に―――頭の上の方から、そんな声が聞こえました。はっとして見上げると、見るに堪えない乱れた無精鬚が私を見下ろしています。

「・・・っ!」

 目があった時、彼はニタリと笑いました。

同時に私の背は逆なでされたときのように、ぞくりと凍えます。

図らずも、先生の衣を頼っていた手に力が籠りました。

「御戯れを」

 先生は即座にいつもより低い声色でそう言うと、根切丸の視線の先を遮るようにして腕を広げ、私を覆います。心なしか、眼の開き具合がいつもより大きい気もしました。

「―――わざわざいらしていただいたところかたじけないですが、そろそろ御引取願えますか?私もこの子も、所用がございますゆえ」

 先刻に双葉さんとのやりとりにあった穏やかさは見られず、先生はむしろ刺さるような恐ろしさを孕んだ語気でそう言います。

 上坂さんは侮蔑の相を含んだ顔つきで根切丸を睨むと、深く頭を下げて

「実資殿、部下の不敬、どうかお許しくだされ」

 と申し訳なさそうに言いました。その姿は、とても私と同じほどの齢には思えませんでした。変に大人びているとも言えます。

「お気になさらず。お勤め頑張ってください。谷島少尉にもどうぞよろしく」

そんな彼に先生も表情を和らげ、励ましの言葉をかけます。

 上坂さんは軽く会釈をすると、翻って通りの方へ歩んで行かれました。

                       *

 奥の(まがき)から、雛が顔を出しています。大きく口を広げて、高い音で啼いています。

 簀の子の高欄には同じような間隔で数本の筆が寝かせられていて、滴る雫が土を打つのはなんとも風情があって、いつまでも眺めていたくなります。

「蓬、始めますよ」

 背後で、先生の呼ぶ声がしました。振り返ると円座(わろうだ)に座って腕まくりをしている先生と、同じように円座で服をはだけさせ、背を露わにした土師さんが目に入りました。

「それではお願いします。薬袋殿、蓬殿」

 土師さんがそう言うと、先生はゆっくりと頷きました。





「蓬、(つの)(だらい)に湯を満たしておいてくれましたか?」

「は、はい!…これに」

「有難うございます。鍼の用意は?」

「えと・・・(ざん)(しん)()(しん)(ほう)(しん)が破点用に。(ごう)(しん)長鍼(ちょうしん)(いん)()(しん)大鍼(だいしん)が刺入用。(てい)(しん)(えん)(しん)を圧迫用に揃えてきました」

「上出来です、よくできました」

 先生は土師さんの背の方々(ほうぼう)を優しく指で押し、具合を確かめています。触診と言い、鍼を打つ前には絶対に欠かすことのできない過程です。ただし他の針師さんが言うには、先生は通例とはやや違った方式をとっているそうですが。

「―――しかし、蓬殿は大分に頼もしくなられましたね」

 背を向けていた土師さまが急にそんなことを言いました。

「え、いえ、そんなこと・・・ないです」

 俯く私。嬉しいですが、同時に恥ずかしいのです。

「いやいや蓬、あなたはもうほとんど一人前ですよ。鍼医としてはね」

「ええ!?いえ!そんな!先生までそんな・・・」

「何もそれほどまでに謙遜せずとも良いのに」

 土師さまに乗じて、先生も私を誉めてくださいました。

 でも本当にそんなことないのです。買い被りなのです。私なんてまだ針生だし…

 縮こまる私を横目に見た土師さまは楽しそうに微笑んでいます。

 そして彼がすぐにまた口を開くや否や、私は赤面せざるを得ませんでした。

「顔かたちもそれとなく大人びてきているし・・・髪の色は雪のように美しいですし、顔立ちは評判であられる姫君の面々にも負けず劣らずなのではないでしょうか?」

「―――!?そ、そんな、畏れ多い・・・うぅ」

「私も割と、周りには自慢の娘だったりします」

 後を追うように先生がそう言われたのがもう限界で。

「お、御戯れを・・・!お湯!お湯を変えてきますぅ・・・」

 私は角盥を抱えて、逃げるようにしてそこを離れました。

 しばらく簀の子を駆けましたが、その時のことはもう嬉しいやら気恥ずかしいやらでくらくらしていて、今はあまり記憶にありません。いつか思い出せたら楽しいな、と思います。

 私が湯を角盥に張って、苦心しながらそれを持ってくると、既に先生は鍼を打ち始めていました。

「おや、蓬姫、お帰りですか?」

 土師さまが少し悪戯っぽくおっしゃいます。

 頬を膨らまして必死に抵抗しますが、どうしたって口元が緩んでしまいます。

 誉められて伸びる子なのです、といいわけすることにしましょう。

「ありがとう、蓬。そこに置いておいてください。それから―――こちらへ」

 先生は感謝の言葉と一緒に、私を傍らへ呼び寄せました。

 私が隣に腰を下ろして、なんでしょう?ときょとんとしていると、打ち付けにこんなことを言いだしました。

「土師殿はここ数年―――特に式部省の事務官になられたあたりからもう永い間、肩や腰痛みを訴えています。そうですよね?」

 不意に同意を求められ、土師さまは慌て気味に頷きます。

「え・・・ええ。錆びついたように動きが悪くなり、それと痛むのですよ。蹴鞠などをした後はそうでもないのですが、お勤めの後なんかは悲惨なことになります」

 私は土師さんの言ったことに、なんとはなしに思うところがありました。

 それを察したのか、先生は私の眼を見つめて、「言ってごらんなさい」と促しました。

「は、はい・・・恐らくですが、土師さまは・・・その・・・か、肩のあたりやこしのあたりの血の流れが、滞っているのではないでしょうか」

「血の流れ、とな?」 

 今度は土師さまが、きょとんとしています。

「私もただ一介の文官ながら、唐の文書は一通り嗜んでいますが・・・少なくとも『黄帝内経』では気の巡りなるものの滞りが元とされていませなんだか」

「い、いえ・・・それは過ちではございません」

「はて?」

「土師殿。正式にはそうでございますが、あくまで前代の踏襲でございます。鍼術も医の術も、二百四十年の月日を経れば―――観念や方法など、幾度にも変わるものです」

 直後、先生は数本の鍼を手に取り、先ほど触診をしてあらかじめ確認しておいた肩から腰にかけての個所へ、鍼先を向けました。そして「いきますよ」と呟くや否や、土師さまの背に数本の鍼を打ち込みます。鮮やかな手つきで迷いなく、あまりに一瞬の出来事でしたから、刺された方の土師さまにいたっては「まだですか?」というようなことを仰る次第でした。

 角盥に満たした熱湯は大分に冷めており、先生が手を浸しますがそれをただれさせることはありませんでした。 

「肩外兪、肩井、肩中兪、その他幾つかに刺入しました。いずれも肩の異常を治す剄です。これでしばらく放っておき、抜いてやれば肩に関しては問題ないかと。腰痛の件ですが、腰は私の施術より按摩師の方々のそれのほうが幾分も優っておりますゆえ、そちらを紹介させていただきます」

 にっこりとほほ笑んで先生がそう言いました。

 それに対して、土師さまは

「いやはや、かたじけませぬ。蓬殿も、ありがとう。しかし、本当にお早いですな。さすが鍼博士」

 と、満面の笑みで嬉々としておっしゃいました。

 先生は「そんなことはありませんよ」と、謙遜します。

「何を仰られるか。後にも先にも、二十四という齢で教授する側になる者など薬袋殿だけですよ。亡くなった基尚様も、さぞかしお喜びでしょうな」

 基尚さんとは、先生の御父上です。私が先生の御屋敷に養っていただくことになった時には、既に流行り病で亡くなっておられました。

「・・・」

 先生は緩んだ口元を袂で隠し、角盥を抱えると、「湯を捨ててまいります」と言って簀の子駆けていかれました。

 二人きりになると、土師さまは私を見て言いました。

「まったく、師も弟子も、そっくりですね」

                   *

「あ、先生。椎茸食べなきゃ駄目ですよ」

「・・・」

「・・・大きくなれませんよ?」

「もうなりませんよ」

 土師さまの施術は何事もなく終わり、すっかり黄昏刻になっていた市中を急いで帰った私と先生は、双葉さんの用意してくださっていた晩御飯を食べています。

「・・・先生ばっかりずるいです」

「蓬はまだ子どもでしょう?大きくならなくてはいけませんから、豆を食べなさい」

 先生は椎茸が苦手です。双葉さんが言うには、もう童のころから一切口にしないそうです。それなのに食卓に出すあたり、双葉さんはやはりどこか抜けています。

 私はと言うと豆が苦手で、いつも器の端に避けているのですが、先生見つかってしぶしぶ食べることになっています。

 私は伏し目がちのまま、ちらりと先生の方を見ました。先生は箸で芋の煮物を摘まむのに苦心していました。それでも背筋を張り、美しい姿勢です。

「蓬、どうしました?」

 ばれていまいた。

「・・・ふぇ!?・・・ふぉ、ふぉうでふ!ふぇんふぇ、ふぇいふぃふぃでふぁい、っふぇふぉうふぃうふぃふぃでふふぁ!」

 無理やり理由を取り付けた上に、全く何を言っているかわからない・・・きっと口の中に椎茸が詰まっているせいです。

 先生は「おちつきなさい」と苦笑いを浮かべながら、私を見ます。私は口の中の椎茸をゆっくり噛んで飲み込むと、先生にもう一度たずねました。

「先生、土師さまの屋敷で、先生のやり方は正式と違う、みたいにおっしゃっていましたよね?」

「はい。何が違うのか、ですか?」

 私は頷きます。

 先生は箸をおいて白湯をすすると、おもむろに語り始めました。

「蓬や他の針生は寮で、『黄帝内経』や『神農本草経』を習っているでしょう?あれらは由緒正しい書物で、昔からあれを基にして針師は勉強をしてきました。しかし、薬袋家はまたちょっと違うんですよ」

「違う?」

「しばし待っていてくださいね」

 先生は円座から立ち上がると、どこかへ行ってしまいました。

「・・・」

 目の前に居た人がいなくなると、夜はなんとも寂しいものです。

例えそれが春の夜でも、心細くあります。

灯台からのおぼつかない灯りが、芯の焼ける音と一緒にゆらゆらと揺れます。揺らぐ影が一度こちらを振り返ったような気がして、体が震えました。

着いていけばよかったなあ、と、後後になって思いました。

 しばらく経って、先生が八冊の本を抱えて戻ってきました。

「・・・蓬」

「はい?」

「・・・私の豆が増えているのですが?」

 ばれてしまいました。



「ことは私の五代前の薬袋家当主薬袋孝房が、延暦二年の第十八回遣唐使に同伴したのが始まりです。この回には著名な弘法大師や伝教大師、三筆の橘逸勢が乗っていただけあって、若干目立ってはいませなんだが、しっかり鍼博士として派遣されたのですよ。その際、唐のやや南方、三国時代で言う沛国譙県に向かい、孝房は一人の医師と親交を持ちました。切っ掛けは、辺鄙なところへ来てしまった孝房が酒場で地元人に愚痴を語り始めたのがそれだそうです」

 古書を片手に、先生は語ります。双葉さんにご膳を下げてもらい、私は簀の子で、胡坐をかいた先生の上に座っています。こうしていると、やはり春の夜は良いもののように思えてきます。

「で、孝房はその懇意になった医師と三十と五年の間、衣食住をともにしました」

「?」

「どうしました?」

「い、いえ・・・確か第十八回の遣唐使は翌々年に帰還したはずでは?」

「ええ、そうです」

 私の疑問に、先生はにこにことほほ笑んで答えます。

「実は孝房、死んだと思われていたんですよ」

「へ?」

「唐の都長安と、そことはかなりの距離があります。それに治安が良いとは言えませんから、亡くなったとしてもおかしくありませんしね。で、第十八回の遣唐使帰還に置いていかれた孝房は、それから三十三年後の第十九回遣唐使の帰還に随行したそうです。そして―――その際持ち帰ったのが、この八冊です」

 先生は私の左右から囲むように腕を回し、広げて見せてくれました。中は全て漢字で、形が崩れているため、ちっとも読めませんでした。ただ、お世辞にも美しい字だとは言えないものだということは、なんとなくわかりました。ところどころにある何かの図は、あまりに粗末で何を書いているのかわかりませんでした。

「これを書いた、そして孝房が出会った医師の名を華柁(かだ)と言い、その地域一帯では割と知られた名医だったそうです」

 先生はぱたりとその日記を閉じ、傍らに置きました。

「私や父上、爺様や曽祖父様は、代々これを読んで鍼術を学んできました。お陰様で、代々わが家は針博士を継ぎ続けています。もちろん『黄帝内経』や『神農本草経』も学びましたけどね、やはりこれが一番ですよ」

「なにゆえにこれを、公の物にせぬのですか?」

 私は、ふと疑問に思ったことを口に出しました。ここにそんなよい書物があるのにどうしてみんなに教えてあげないのか、そう思ったからです。

 先生は少し苦々しい顔をします。

「私もこの話を聞いたばかりの幼いころは、同じことを尋ねましたよ。ですが、読んでみてわかりました」

 先生はもう一度それを手に取り、広げます。

「『遠方ヨリ故人キタリ。長居ヲ勧メルヲ言聞カズ。終ニハ吾巵酒ヲ以テ留メリ。三日過ギタルノチ、芯、憤シテ此処ヲ去ル。明クル日山人ニ聞クニ「雪ニ埋マリテ死スル者アリ。」ト。言聞カザルハカク為ルベシ、憐レミヲ覚エズ』―――『遠くから友人が来た。長くここに留まるように勧めたが言うことを聞かない。しかたがないので私はお酒で酔わせて友人をここに引き留めた。三日すぎてから芯淡は怒ってここを去ってしまった。次の日樵によると、「雪に埋まって死んでいる人が居るよ」とのこと。話を聞かないからこうなるのだ。ざまあみろ』」

「・・・?なんですか、それ」

 私は先生を見上げます。なにゆえ急にそんなことを言いだしたのかわからなかったからです。先生は笑うと、私の頭にぽんと手を置きました。

「今のは『人日ヨリ七日ノコト』と題された、この本の一部です―――実を言うとこれは指南書でもなんでもなく、日記なのですよ」

「え!・・・先生のご先祖様は、唐の方の日記を読んで学んだのですか?」

「そうです。日記です。ゆえにあまり好ましくないようなことも書かれているのです。公文書にできるものじゃありません」

 先生は再び、本を置きます。

 私はそれからしばらく、この日記についてのあれこれを聞いていました。

 山菜取りに行った山の中で怪しに遭ったこと、魚を貰ったが腹に玉が入っていて儲かったこと、治療している中途に患者がどこを触られても気付かなくなったこと―――その日記の中には、見知らぬ時代の見知らぬ場所の見知らぬ出来事が記されていました。

 先生とひとしきり笑い、夜も深まってきた頃です。

庭の奥、築地の際の辺りで―――大きな音が。何かが降り立った音がしました。


「旦那様!」

「ええ、わかっています」

 先生の目が、大きく見開かれます。太刀を取るには少し時間がかかるからか、先生は懐から長め七寸ばかりの鍼を―――長鍼でしょうか、それを握ります。

 何に使おうとしているかは、いうまでもありません。

 先刻の唐の治安の話ではありませんが、決してこの都の風紀も良いものではありません。

 連日にわたって盗みやかどわかし、人が殺められた話を聞きます。

 ゆえにこの家も―――決して例外ではないのです。

「・・・!」

 砂利を踏みしめ、こちらに近づく音がします。双葉さんが柱に抱き付き、先生は生唾を呑みます。私はぐっと、先生の背の当帯を握りました。

「・・・誰だ」

 しばらくして

 闇の中から

 灯台の幽けき光を浴びながら姿を現したのは―――

「おや、揃ってお出迎えか。久方ぶりだの、針資。それから、蓬と双葉殿」

「―――はぁー、なんだ・・・大納言殿でしたか。まったく、脅かさないでくださいよ」

 小野(おのの)宮家権(みやけごん)大納言(だいなごん)右大将藤原実資(うだいしょうふじわらのさねすけ)様でした。

               *

「なにゆえにあんなところから入ってこられたのですか、右資(みぎすけ)殿」

「なにゆえって針資(はりすけ)、儂はこれでも権大納言なのだ。お忍びで来ねばならぬ」

「むしろ目立っておりましたぞ」

「それはそれでよい」

 大納言の先生は、先刻の先生のように私を胡坐の上に乗せて、自分の顎を撫でています。

「あ、右資様、御鬚を剃られたのですか?」

 ふと目に入った大納言の先生の顎に、立派な鬚が無くなっているのに気付きました。

 大納言の先生は「おお!」と言ってにっこり笑うと、私を強く抱きしめました。

「よく気付いたのぉ、蓬!本当に愛い奴じゃ!もう小野宮家の(むすめ)になってしまえ」

「何言ってるんですか。もうできあがっていやしませんか?右資殿」

「何を。儂は素面じゃ」

「酔うている者ほどそう仰いますよ」

 先生の位階は従七位上。対して大納言の先生は正三位、宮中に立ち入ることのできる殿上人です。身分としては途方もなくかけ離れたお二人ですが、こうしてお二人で会うときはたいそう親しくなさっております。なんでも十数年の仲だそうで、切っ掛けは(しん)の臓腑の病を大納言の先生が患ったときに、先生の御父上である基尚様に助けていただいたことからだそうです。そのうえお二人とも実資という同名だっただけあって、二十も齢が離れていらっしゃいますのに、その差を感じさせない間柄です。

 ちなみに、先生が大納言の先生を右資殿とお呼びするのは、「『右』大将の実『資』殿」から。大納言の先生が先生を針資とお呼びするのは「『針』博士の実『資』」から、なんですよ。

「いや本当に、儂は子がなかなかできぬからな・・・空言でなくとも、御主を連れて帰りたいわ」

 大納言の先生は、私の髪を指で梳いていきます。その手つきは優しく、日ごろから宮中で激務をこなす殿方とは思えません。

「なあ、どうじゃ、蓬。来ぬか?旨い菓子もあるゆえ」

「へ?・・・い、いや、その・・・」

「右資殿、蓬を困らせ召されるな」

「はははは!愛い奴愛い奴!」

 先生は苦笑い、大納言の先生は嬉々としておられます。この三人でこうするのも、なかなかどうして久しぶりのことです。渋い顔こそしている先生ですが、やはりどこか楽し気です。

 大納言の先生は土器(かわらけ)に満たした酒をくっと呑むと、私の頭に顎をのせました。

「最近忙しゅうてな。ここに来るのも敵わぬ。できることならば蓬の生いゆく姿を毎日のように見たいものじゃが―――敵わぬ敵わぬ」

「私達は右資殿が老いゆく姿を毎日みたいとは思いませぬ」

「なんじゃ、おぬし怒ってる?」

「戯言にございます」

「・・・ふふふ」

 思わず笑みがこぼれてしまいました。なにゆえか知りませぬが、このお二人の会話はいつもこのような雰囲気なのです。私は大納言の先生を見上げます。座っているのでより強く感じますが、やはり大納言の先生は先生より背丈が大きく、少しがっしりとしています。

 私が見上げたことに気付き、大納言の先生も視線を下げて目を合わせます。

「なんじゃー?蓬」

 不意に脇がこそばゆくなり、思わず身をよじってしまいます。次いで笑い声が出てしまい、図らずも大きな声で笑ってしまいました。

「あはははは!くすぐらないでください!あはははは!」

「ほれほれー」

「あはははは、蓬、楽しそうですね」

「せんせぇ、助けてくださいよ!・・・あはははは!」

 必死にもがいて、なんとか抜け出します。

 荒れた息を整えながらも()いて駆け、先生の背後に身を隠しました。

「あははははは、蓬、悪かった!すまぬから戻って来い!」

「・・・嫌でございます!」

「あーあ、嫌われましたね」

 向こうでは大納言の先生がにこにこと笑っておられ、先生は先生で、袂で口元を隠しています。なんですか一体!人が苦しくて仕方がなかったというのに!

「でも・・・」

「?何か言いましたか?蓬」

「いえ、何も言っておりませんよー」

 皆笑っていられるなら、それでいいと思います。

 それがいいと――思うのです。

「だ、旦那さまー!」

 ・・・誰かが簀の子を駆けてきます。

「旦那様!」

「またですか」


「げ、谷島」

「『げ』とは何でございますか?大納言殿」

 検非違使の夜廻りです。門を開けるや否や、私を見た谷島様は「本日も麗しゅう」と言って、皺だらけの手で頭を撫でてくださいました。後ろには、今朝居た上坂さんもいらっしゃいます。会釈をすると、あちらも返してくださいました。

「なにゆえこのような御時分、この場所にいらっしゃるのでしょう?」

「夜廻りじゃ」

「御戯れを」

「・・・ほれ、勤めを続けぬか」

「邸まで送りまする」

「ぐぬ・・・」

 谷島様と大納言の先生が、なにやら言い合っています。

「・・・先生、喧嘩で御座いますか?」

 心配になったので尋ねてみると、

「おとなの遣り取りですよ」

 と、少し微笑みがちに返されました。

 しばらくすると、大納言の先生に呼ばれた先生が溜息を吐きながらあちらに加わってしまい、私は一人でぽつねんとすることに―――いえ、御一方いらっしゃいました。

「よ、蓬殿と・・・申されましたか?」

 躊躇いがちに、上坂さんは私に問います。先生たちと遊んだりお喋りをしたおかげで、少し気持ちが高まっていた私は、彼の目をしっかり見据えてから頷くことができました。

 上坂さんはそれからすぐにそっぽを向いてしまいます。

 少し寂しく思って、騒がしい方を見ることにしました。

「針資よ、なにか言ってやってくれ」

「谷島少尉、お勤めお疲れ様でございます」

「違う。そういうことではない」

「ありがとうございます、薬袋殿。今朝は下の者が失礼いたしました」

 楽しそうだなあ―――と眺めていると

「蓬殿」

 と、再び上坂さんから声をかけられました。

「・・・なんでございますか?」

 私が首を傾げると、ほんのりと頬を染めた彼は決して目を合わせようとはせずにあらぬ方を向きながら言います。

「その・・・御髪の白いのは、生まれついてのものでございますか」

 ―――胸が苦しくなりました。

 寮の中、針生の中にも私の白い髪を気味悪がって笑う者はいます。私は齢も十三と低い方ですから、それだけで虐げられたりはします。 

 ですからここでくらい―――気にせずいたかったものです。

「その・・・」

 私の気も知らない――私の気も知らない上坂さんは、二の句を告げようと口を開きます。

 耳をふさぎたい気分でした。

「美しい―――ですね」

「・・・へ?」

「御美しいと―――思いますよ」

 胸の締め付けが先刻とは異質なものに変わります。

動悸も相まって、途端に面が熱くなります。

なんでしょう?―――これはなんでしょうか?

病なのでしょうか。

「って、何か妙に静かです」

「そういえば―――!?」

 おとなの三人がこちらを凝視していました。

「ほら、ばれてしまったではありませんか右資殿」

「儂の所為にするな糸目」

「いやはや、若いとは良いですなあ」

「・・・」

くらくらしました。

                     *

「これはこれは、針博士殿か」

 大内裏。一般的な方法で入る場合、朱雀門からである。

 朱雀門を潜ると八省院を目の前に開けた空間がある。そこは式部省と兵部省に挟まれており、低官高官の者が進み乱れる。ゆえに、このような邂逅も生まれるのだ。

「お久しぶりでございます、左大臣殿。では」

「冷たいのう。小野宮殿とは懇意にしておると聞くが?」

「個人間の付き合いにまで口を出す権限がおありですか道長さま。素晴らしいですな、高官というのは」

 表情はいつもと変わらぬながら、口に出す言葉は決して柔らかいものではない。

 藤原道長はにたりと笑うと、口元を笏で隠す。

「相も変わらず、鋭い言じゃのう。針師は口から出るものも尖っておるのかえ?あな恐ろしや、恐ろしや・・・くっくくく」

 二つの糸目の間の眉間に、深いしわが刻まれる。

 立ち去ろうと半身になっていた実資は、溜息を吐いてから道長に向き直る。

「なにか御用でございますか?左大臣殿」

 放たれた言葉に対して、道長は笏を下げ、一歩二歩と実資へ近付いてゆく。

 後ずさりをせず堂々と構えた実資は、その行動の一部始終をしっかりと睨み据えている。

「用がなければ声をかけてはならなかったかな?」

「私は毎日のように歌会を開くような暇はおろか、立ち話などをしている余裕もございませんゆえ」

「ああ、そうであるか。そういえばおぬしが参内しているのを見たことが無いのぉ・・・あ、官位も足らねば歌の才も足らなんだな。失敬失敬」

 不敵に笑う道長と、一周回って眉間の皺すら失せた実資は向かい合う。

 金魚の糞のように、道長の後に付いていた数人の武士が声を上げて嗤い、取り巻きの貴族は袂で醜い笑みを覆う。

 実資は深く呼吸をし、本来向かうべき方へと額を向けた。

「これ、針師よ」

「・・・なにか」

「最後じゃ、一つ言うておく。よく聞けい」

「はあ」

 既に授業を済ませているであろう霞草のような愛らしい少女を慮るが、最後と言われたがために立ち止まり、道長に向かって半身になる実資。

 傘を傾けられ、面に影が刻まれる権力者をはしもぶくれの顎をゆっくりと動かす。

「虎の威を、いつまでも借りていられるものだと思うなよ。虎のあらぬ狐など、所詮は畜生の最下位に過ぎぬ。よくよく覚えておくよう」

「・・・」

 無言で翻す実資。

背後からの忍び嗤いに握り締めた拳は軋み、噛みしめる唇からは僅かな血が流れている。しかし、このような形相をしていては、と自省し、再びいつものような穏やかな面持ちに

戻った。

そして朱雀門に差し掛かったあたりである。

「せ、先生!」

 息を切らした蓬が、彼の側へと駆け寄った。

「落ち着きなさい、どうしたのです」

 荒れる呼吸をなだめてやろうと、実資は少女の背をさすり、膝を折って目線を合わせる。

 やがて痛々しい呼吸の音が比較的安らかになったとき―――少女が口を開いた。

「や、谷島様と・・・右資様・・・右資様が・・・!」

「・・・谷島少尉と右資殿がどうしたというのです?」

「・・・さ、昨晩、あの後何者かに襲われて・・・!とにかく行きましょう先生!」

 実資はもう一度、拳を握りしめた。

                *

「谷島少尉は左手を失くされて・・・昏睡状態である、と」

「ええ。ですが、このまま私達に任せていただければ、命を落とすことは無い傷に思われます・・・しかし―――」

「小野宮殿は?」

「なんとか意識はあるのですが―――運悪く、矢が右鎖骨部に深々と刺さっております。そのうえ傷口が化膿を初め、膿が止まりませぬ。鏃を抜こうにも、小野宮様は以前に心の臓腑の病をして以来心の臓が負担に弱いため、『痛みを与えることまかり通らぬ、何か術を探せ』との、医博士様の仰せです。ただ、このまま放っておけば確実に亡くなるかと」

 お二方が運び込まれた邸に着くや否や、先生は先にいらしていた医師の方にことの次第を窺っています。

他の医師の方々は角盥に湯を注いで、行ったり来たりしています。

熱湯が手にかかってさぞかし熱いでしょうに、それをものともせず駆けてゆく彼らが、状況の逼迫具合を暗に示していました。

「下手人は?」

「未だ捕まっておりません。先ほど谷島殿の下の・・・」

「上坂四郎景潔」

「そうです、そのお方です。その上坂殿が尋ねてきましたが、すぐに出ていってしまいました。現在、検非違使を総動員してことにあたっているそうです・・・そんなことより薬袋様、ご助力願いたいのですが」

「ええ、喜んで。蓬、付いてきなさい」

 かまどの火加減の手伝いをしていた私は「はい」と頷くと、いつものようにおっとりとした歩幅ではない、切迫した足取りの先生の後を付いていきました。


「・・・右資殿」

「・・・おお、針資か。よく来てくれたな」

 横たわる大納言の先生の面は、昨晩大声で笑っていたその面影はなく、頬がこけて見るからにやつれていました。投げ出された腕に力はなく、視線もややおぼろげです。未だ矢が刺さっている右の鎖骨部は、膿んでいる証拠に赤く色を持ち、熱を持っていることまで推測されました。

 その奥で眼を瞼で覆い、微動だにしないでいる谷島様は、血が滲んだ絹で包まれた痛々しい左肩を露わにしておりました。

「・・・うぅ」

 私はそんなお二方を見た途端に、涙がこぼれ落ちてきました。

 それはお二人の死を恐れた、と言う意味でもありましたが、なによりもお慕い申し上げる方々が傷つけられたことが悲しくて仕方なかったのです。

「大丈夫ですよ、蓬」

 そんな私の頭を撫で、優しく抱きしめてくれる先生。

それからすぐに、懐から針を取り出しました。

「御免」

 呟くや否や、先生は大納言の先生の受けた傷の周辺、膿んだ部位に針を刺入します。

 大納言の先生は「うっ」と呻き、苦しそうに左手で、敷かれている布団を握ります。

 先生が手早く針を抜くと、膿が噴出してきました。

「蓬!布を医師の方からお借りして、右資殿の患部から出る膿を拭き取りなさい。良いですね?」

「は、はい!」

 私は駆けだしました。

一刻も早く、お二方を救って差し上げねば―――!

私達のような針医は、どんな症状であれ治療することが可能なはず。

「絶対に助けますから・・・!」

 


「・・・正直どうしようもない」

「へ・・・?」

 布を引き提げて戻った私に突き付けられた現実は、残酷なものでした。

「私達ができるのは、せいぜい膿のたまった患部に針を刺入して瀉膿させてやることくらいです。あとは医師に任せ、無理やりに鏃を引き抜く様子を、神を拝みながら横で眺めるしかありません」

「そんな・・・」

 私の手から、はらりと白布が落ちていきます。

 意気消沈―――自分の力量不足の口惜しさが心を侵して来ます。

「なにか・・・なにかできることは」 

 先生も憤しているのか、先ほどから妙に落ち着きがなく、そこかしこを歩きまわっています。ずっと鍼を握ったままです。

 私も先生に倣って、意識が落ちかけた大納言の先生の傍らを立ち上がり、歩きまわって策を練ろうとしたとき―――ふと口から言葉が突いてでました。

「刺激が―――なくなれば」

「!?蓬、今なんと言いましたか?」

 先生が悔い食い気味に、私に問い寄ります。

「し、刺激を!心の臓に与える刺激を失くすことができればな・・・と」

 先生はその案を受け取ると、腕を組んで俯きます。

 そしてしばらく経って、首を横に振りました。

「駄目です。人の痛覚諸々を停止させる薬の製法は確かに知ってはいますが、危険が大きすぎる―――一歩間違えれば即死です」

 残念そうな顔をして、先生は天井を仰ぎ見ます。

 それは途方に暮れた様子であり、また、訪れかねない、旧知の友人との別れを惜しんでいるようにも思えました。

 私は焦る様子を隠さず、先生に問いつめます。

「なれば他にないのですか!?先生!」

 頭を抱える先生は、歯を食いしばり、悲痛な声で―――

しかし。

言葉の端には若干の希望が見えていました。

「―――聞いたことも見たことも・・・いや・・・いや!」

「あるのですか!?」

 目を僅かに見開いた先生は、強く頷きました。

                    


「昨晩に蓬、あなたに見せた日記があるでしょう?あの中に一冊だけ、非常に興味深い話があったことを、さわりだけですがあなたに話したのを覚えていますか?・・・そうです、『患者が体を触られたことに気付かなくなった』話です。あれが記載された日記は確か群青色の表紙がかけられていたはず・・・蓬、今すぐ邸へ駆け、『群青色の表紙の日記』を、持ってきてください!もしかすると、それで右資殿を救えるやもしれませぬ!」

 我が家に駆け込み、例の日記を手にした私は、復路を駆けます。

 人を掻き分け、牛を追い越し、何度も転びそうになりながら駆けてゆきます。

 周囲の方々が奇異の目でこちらを見ます。近づくと悲鳴を上げる方もいます。

 とても恥ずかしくて、悔しくて、涙がこぼれそうになりつつも、私は先生の必死な表情と、痛々しいあのお二方を脳裏でよみがえらせてそれを力の源に駆けつづけました。

(もう少し・・・あと少し・・・九町も無い・・・!)

 風を切る私は、横合いからの妨害に―――気付くことができませんでした。

「きゃっ!」

 誰かに蹴飛ばされ、私は家と家の間、細い路地に身を打ち、削ります。

 体は無事なものの、頬が擦り切れて擦過傷ができてしまいました。

 そして―――私の顔に、私を蹴った者の影がかかります。

「―――よぉ、お嬢ちゃん。ごめんね、蹴ったりして」

 私を見下ろしていたのは―――あの根切丸でした。

「あ・・・あ・・・」

「まあ、お嬢ちゃんに瑕がついたら困るのは俺なんだけど~ひっひひひ。売れないからさ」

 ぞくり―――と、あの時感じた悪寒が背を這いまわります。

「あーあー顔に傷とかありえないわ。もういいや、売らなくて。そうだな―――犯して殺して川にでも捨てるとするか?見せ物として売り飛ばすのも良いな!それなら傷ついてても問題無えや!あっひゃひゃひゃ!」

「・・・い、いや・・!」

 根切丸は私の衣の後ろ襟を掴み、そのまま引きずります。

 なんとか踏みとどまろうとしますが、先ほどの転倒の際に足首をひねったようで、立つことすらままなりません。

 気道がたくし上げられる着物の衿で締まり、まともな呼吸さえも許しません。

 ただただ、涙がこぼれます。それは恐怖と悔恨からのものでした。

 そしてそのうち――――私は抵抗することを止めました。

 引き戸の開く音がして、室内に投げ入れられます。

 塵芥が舞い、思わず咳き込む私の咳は、それだけでなく嗚咽も混じっていました。

 目の前で逆光のなか、根切丸が小袴を脱ごうと腰に手をやります―――


その刹那。


「蓬殿―――!今、助けます!」

 そんな声と雄々しい雄叫びと共に――拳に打ち据えられた根切丸が、光の外へと倒れていきました。

 私には、その声の主が誰か、初めはわかりませんでした。

 そのあまりにも強く勇壮な音を、私は彼の口から聞いたことが無かったからです。

「検非違使庁小志、上坂唯道が四男上坂景潔である!婦女暴行、金銭強盗、民の殺害!これらが所業、悪辣非道なり!よって捕縛のこととする!神妙にせよ!」

 太刀を抜いて鬼の形相で構えるのは、他でもないあの青年でした。

「上坂・・・さん・・?」

 そう呼びかける私に気付いた彼は、初めて私に微笑みながら、こう言いました。

「御心配召されるな。あなたは必ず―――俺が護ります」

                    *

「蓬、やっと来ましたか・・・って、どうしたのですか、この傷は!?」

「は、話すと・・・長くなります」

「それに足も腫れて!・・・ん?ここまで腫れていたら走ることはおろか歩くこともままならないはず・・・」

 私は、戸の向こう側で隠れていた上坂さんを呼びます。

「上坂殿・・・なるほど、貴方が・・・!かたじけない・・ありがとうごさいます!」

 先生は震える手で上坂さんの両手を握り、感謝の言葉を連ねました。

 その光景は、上坂さんに

「良いです。もう、頭を上げてください」

 と言わせるまで続きました。

 頭を上げた先生は私から本を受け取ると、軽く私を抱え上げて運び、大納言の先生の枕元に座らせました。そして私の足に何本か鍼を打ち、

「よくがんばりました。そこでゆっくりしていなさい」

 と言って頭を撫でてくださりました。

 不意に―――涙がぼろぼろと零れてきました。

 これが安心したことに由来するというのは、心の底から嬉しかったです。

「――――よし」

 先生が長めの布を額に巻きます。そして、鍼を手にしました。

 先生の背中は、この時ばかりはいつもよりずっと大きく見えました。

「蓬―――それから、上坂殿」

 おもむろに、背を向けて、語ります。

「あなた方はまだお若い。これから時代の改変を直接目の当たりにする機が、確実に訪れます。それは権力形態の変化、戦乱による下剋上、唐のような近隣諸国との衝突であったりするでしょう。まるで自分の手には負えないようなものに見えるやもしれません。しかし」

「しかし―――それは自分を低く見すぎです。どんな行動が時代の転機に繋がっているかはわかりませんし、繋がっていないかもわかりません。ただ一つ言えることは―――

 最初(はな)から無駄だと決まっていることは、この世には何ひとつないということです」

「藤原実資―――普段、私や蓬の見ているこの御方は、ただの陽気な中年です。しかし――権勢を振るい、殿上を統べるしもぶくれを抑えることができるのは、この男だけ。不思議な因果ですよ、まったく・・・。私はこの男が、時代の転機を作ることができると、そこまでは買い被っていません。ですが、なにもなしえない男では決してない。ですから、諸々の可能性をかけて――私はただこの一刺に。」

「この尖点に―――明暗(じだい)を分かちたいと思います」

                 *

「そんな下種―――余は知らぬ」

 苦々しげにそう呟く左大臣藤原道長公は、大量の汗を滴らせる。

 かの事件の詮議は五日後、清涼殿にて密に行われていた。

 なにゆえこのような高貴な場で行われているかは、関係者がことに高官の者であることから自ずと読み取れるであろう。しかし、被害をこうむった谷島直真と藤原実資の両名は顔を出していない。代わりに顔を連ねるのは、薬袋実資、上坂景潔、蓬の三名である。

 詮議は順調に進み、初めこそ道長の権力威光に気圧されて劣勢に立っていた三名であったが、ある出来事で流れが一変する。

「下手人」根切丸の証言である。

 このころは当然、尋問の中に拷問が含まれているのは当たり前で、ことに一度放免として「非人」という被差別階級に堕とされたこの男への拷問は苛烈極まったと言っても良い。

 当然これまでの数々の所業から、彼は詮議の後処刑されることはわかりきっていた。ゆえに、どうせ死ぬなら巻き込んでしまえと言わんばかりに、彼は洗いざらい全てを話したのだった。

「知らぬと申されましても・・・当人の言うことで御座いますが?」

「こ、これは陰謀じゃ!余は謀られたのじゃ!」

 詮議を進める官人と道長の不毛なやりとりはこれからしばらく続いた。さらに流れが強くなったのは、根切丸が詮議の場に連れてこられた機である。

「・・・こいつじゃねえよ」

 根切丸は、道長の顔を見てそう言ったのだ。

「ほれ言うたじゃろう。儂ではないのだ!儂では!」

 と騒ぐ道長を横目に、根切丸は顎で―――本物を示した。

「あいつだよ」 

 その人物は、道長の右隣―――蒼い顔で目が泳いでいた藤原顕信その人であった。

 下手人の証言を認め、項垂れる顕信。しばらく放心していた道長だったが、詮議の終了を目前にして、権力行使に打って出ようとする。

 しかしそこへ―――藤原実資が、ある人物を連れて参内する。

 万全の体調でいながらも詮議に現れなかったことを指摘して有利を得ようとする道長だったが、実資が連れる人物を見て敗亡を悟る。

 その人物とは、たった二年で退位した帝であり、後の花山源氏の源流の源流――

「花山法皇」その人である。

 花山法皇は一〇〇八年、悪性腫瘍によって亡くなったとされている。

 ゆえにこのころの参内は、どうとらえても無理を押してのもの。

 如何に在位時代に蔵人頭に任命した藤原実資を可愛がっていたかがわかるできごとであり、さらに起訴側と被告弁護側の権力図が一瞬で切り替わった機であった。

 直後、谷島直真と土師高遠が参内。文官である土師の調べによる、顕信が購入した太刀の銘と根切丸が所有する太刀の銘が同一という事実によって、詮議の結果は決定した。

 ただし、被害者側の谷島直真と藤原実資の二人が藤原顕信への恩赦を乞ったことによって、顕信の配流の刑は免除されることになった。しかしこれから九年の間は慎ましくを務め、十年後の冬、彼は出家を決めることとなる。

 この事件が原因かどうかは、誰も知らない。

                  *

「あ、蓬殿。お久しぶりです」

 詮議より三日の後、私は朱雀門の内裏側で、先生をお待ちしておりました。

すると、最早聴きなれた声であいさつをされました。

「あ、上坂さん・・・こんにちは。そ、その節は、本当にありがとうございました」

 根切丸捕縛の功績により少志から大志に昇進した彼は、服装こそ変わっていないというのに以前よりもどこか頼もしく見えました。

 相変わらず、頬を朱に染めて、私と目を合わせてくれません。

「いえ、そんな・・・お気になさらず」

 それでも、以前よりはずっと打ち解けるようになりました。

「・・・」

「?・・・どうなされました?上坂さん」

「・・・いや、今日もお美しいな、と。そう―――思っただけです」

「―――!」

 またです。

 またあの病が発症しました。

 いつだってそうなのです。上坂さんが目の前に居るときだけに出る病。

 とんだ曲者です。とんだ曲者ですが―――そんなに悪いものには思えません。

 ああ・・・顔が熱い。

「あ、ありがとうございます・・・」

「い、いえ・・・。あ、それと、これを」

 上坂さんは懐から何かを取り出して、私の手に握らせました。

 恐る恐る、指一ずつ開いてゆくと、私の掌には、紅い梅の飾りがついた髪飾りが乗っていました。

「・・・これ、いただけるんですか?」

「・・・はい。蓬殿に似あうだろうな、と思いまして」

「ありがとうございます!・・・嬉しいな」

 私は早速、つけてみることにしました。恐る恐る、落とさないようにつけてから、上坂さんに声をかけます。顔を上げた上坂さんは、目を丸くしてから、すぐ俯いてしまいました。

「あの・・・似合っていませんでしたか?」

 不安になった私が尋ねます。上坂さんはしばらく黙っていましたが、不意に小さな声で

「とても―――お綺麗です」

 と言ってくださいました。

 春風が頬を撫で、髪が舞い上がったのと同時に、二人は視線を交わしました。

 そして私は初めてここで―――彼の笑顔を見ることができました。

「で、では、俺はそろそろ・・・」

 上坂さんは巡回の続きに入ろうと、私に背を向けます。

 大路を南に進もうとする背中―――私は無意識に、彼の衣の当帯をつまんでいました。

 振り向こうとする上坂さん。

私はそれより先に、彼が振り向くより先に、彼にしか聞こえないくらいの小さな声で、独り言を言いました。

「・・・ね、子の刻には、双葉さんも先生も眠っております。それから、東の築地が一番低いです。・・・三日月の夜、私は何時も、東廂で月を眺めています。ただそれだけ・・・それだけです」

 彼は振り返らずに、そのまま大路を南へと歩んで行かれました。

 その歩調は、なんとなくいつもより軽快だった気もします。

 感慨にふけり、しばらくぽーっとしていたら、大事なことを思い出しました。

「それにしても先生遅いなあ―――!?」

 よく見ると―――朱雀門の陰から大人が数人顔を出しています。

「あ、ばれてしまいましたよ」

「そのようですな」

「あーあ、また右資殿が欲張るから」

「また儂の所為にするのか」

 下から順に、土師さま、谷島様、先生、大納言の先生、というように、器用に顔だけこちらを見ています。感心すると同時に、私は彼らの行動の真意を悟りました。

「・・・も、もしかして今の全部」

「散開!」

「あ・・・!」

 大納言の先生の鶴の一声で、先生を残した他の大人は雲散霧消してしまいました。

「・・・」

 先生は、にこにこしながら顎を撫でています。

 私は小さく溜息を吐くと、先生の狩衣の袂を引っ張ります。

「先生、帰りましょう」

「わかりました―――では、どうぞ」

 先生は腰を下ろし、私に背を向けます。

あの時からだいぶよくはなったのですが、先生曰く足首をひねった時は治りかけが一番危険だそうで、ここ最近は先生におぶってもらって典薬寮に通い、それから家に帰っています。

三年前、ここに来たころは自分からせがんだりもしましたが、今は少し気恥ずかしいです。

 揺れる視点。温かい背中。馨しい香の香り―――久しぶりの感覚に、少し感動を覚えました。

風に乗った私の髪が、先生の頬を撫でます。

先生は何も言わずに、進んでゆきます。

「三日月の夜は―――私は早くに寝ないといけませんね」

「き・・・聞いてたんですかぁ!」

「そりゃもう、ばっちりと」

 先生珍しく、カラカラと笑います。

 それからしばらくは沈黙でしたが、あるところで急に立ち止ると、先生は寂しそうな顔をして呟きました。

「あなたも大きくなりましたね」

「―――はい」

 先生はきっと、自分の知らない私ができるのが、怖いのだと思います。

 大納言の先生への私、土師さまへの私、谷島様への私、双葉さんへの私―――この四人の私を、先生はくまなくもれなく知っています。ずっと隣で見てきたからです。

 でも、私と上坂さんの間の私は、知ることができません。

正確に言えばできぬわけではないのですが、先生はそれをよしとしないでしょう。

要するに、良い人なのです。

「蓬」

 不意に先生が、私を呼びました。

和歌(うた)が一首できました。聞いてもらえますか?」

 


 藤原実資四十四歳(一〇〇二年の時点で)は、これから四十六年の後、四人の息子(養子)と最愛の娘「千古」に看取られて、この世を去る。最後まで政界に残って国のために尽くそうとせんがため、熱心な仏教徒でありながらも出家せずに死亡する。享年九十歳。『賢人右府』と呼ばれ、さらに蹴鞠も『当世の名人』とされた彼は、常にニュートラルな立ち位置を持ってして、政界を渡り歩いた。


谷島直実五十五歳。事件から二年後、既に元服を済ませた長男に家督を譲り、自身は隠居を始める。隻腕でありながらもで死ぬまで決して剣術修行を欠かさず、その腕は『寛弘一の剣士』とも仇名されるようになる。しかし十六年後、肺炎を患って命を落とす。享年七十三歳。


土師高遠二十歳。例の事件の後、姓を菅原に改める。文章博士や蔵人頭を歴任したりと素晴らしい昇進を遂げるが、無難な人間だった為に失脚させられるようなこともなく、七十八歳で亡くなるまで、妻と幸せに暮らした。


上坂景潔十六歳。三年後に薬袋家の養子、蓬と結納を結ぶ。一度は検非違使の最高峰の別当にもなったが、まじめな性格ゆえに不正を掘り出しすぎて失脚させられる。三十後半ごろからはとある一地方で武士をまとめ、上坂家という武家の祖となった。享年八十五歳。

薬袋実資二十四歳。三年後に養子の蓬が家を出たことに次いで、藤原実資二十三歳の頃のの落胤である一般市民女性と結納。四子を設け、六十八歳で針博士を辞任。九十一歳で亡くなるまで、鍼医として活躍し、本来は藤原実資と彼との間の呼称であった「針資」というのも、民間に浸透していった。辞世の歌として次のものが残るが、これは最愛の養子、蓬に宛てたものと考えられる。


         ()()せる

            

           わが(ほほ)()でよ

             

                かすみ(そう)

               

                  (かお)()ともに

  

                     永久(とわ)にありたし








             【尖点に明暗を分かつ・・・完】

 

 


 

 

 


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