嫌われ姫たち
「うわあぁあああ!!」
悲鳴。痛切に胸に響いてくる。この声を聞いてすでに数分が経っていた。
背格好も清楚さもハンと瓜二つであるマリは、風になびく髪も着物も枝に引っかけることなく、木々の合間を優雅に飛び続け、やっとのことで悲鳴のする現場に到着した。
到着した時にはすでに、地面が赤い色を吸い、黒ずんでいた。
魔物。ここ二、三日多い。なぜ現れるのか。狼の形をしているのに群れをなさず、時期を選ばず山奥からやってくるので得体の知れないもの、魔のもの、だから魔物と呼ばれている。この山に出没するのが常識となってしまったが、その出現の原因は今だに分からない。
血生臭さに整いきった顔が歪む。魔物に襲われている青年は歪むだけではすんでいない。
マリはすぐに村人と魔物の間に滑り込んだ。
「お、お前はっ」
村人にとってはどちらも会いたくない対象だろう。しかしここは我慢してもらうしかなかった。
「じっとしていて下さいね」
優しい気遣い。ハンとはまた正反対な、容姿に見合う温和さをマリは備えている。
魔物に対してはしかし、真剣に。
正視した。魔物はマリを睨みつけ、様子を窺っている。
マリはゆっくりと手に持った鞠をつき始めた。地面には凹凸が見られるのに、鞠は淡々と地面を垂直に上がり、マリの手に戻り、また垂直に下がり、地面を触って上がり、を繰り返し、一定のリズムを刻む。
ハンと同様、空間が静けさに沈んだ。ハンが絶対零度の威圧を含むなら、こちらは水の穏やかな流れを想像させる膜のような、氷の凍てつきだった。
甘さではない。これは魔物を落ち着かせる効果をもたらす方法だった。その証拠に、低く唸っていた魔物は鞠の不思議なリズムに惹かれ、首を動かして追うまでになっている。
「いい子です」
マリが穏やかに笑いかけ、鞠を遠くへ投げた。それを嬉しそうに追い、魔物は森の奥へと姿を消す。一緒に消えたはずの鞠は、すでにマリの手に戻っていた。まるで手品だ。鞠の化身というのはだてではない。
終わって、背後にいる村人に顔を向ける。村人の恐怖は魔物を追い払っただけで収まらないのは分かっていた。
「今、手当てを……」
と近づいた村人の背後から、もう一匹の黒獣が飛び出した。
「危ない!」
マリは村人を救うべく、咄嗟に身を挺す。
その時、不自然な風がマリの頬を撫でた。背筋を凍らすにはまだ遠い、だが冷たい風。
それを感じる間に魔物の勢いが失われ、マリの足元にどさりと倒れた。動かない。
魔物の腹には刃物で切られたような傷がある。
辺りを見回しても、マリと村人以外誰もいない。
(……いったい)
マリはその疑問を頭の隅に追いやり、とにかく村人の手当てに向かった。
「大丈夫ですか?」
そうでないことは一目瞭然だったが、一応優しく声をかける。
その声に触発されて、村人は尻餅をついたまま後退しようとした。
「く、来るなっ」
いつものように拒まれる。マリは穏やかさ含んだ優しさを壊さないよう苦笑して、傷の具合を確かめた。
「少し沁みると思いますが、我慢してくださいね」
と言って懐から取り出したのは草色の液体。
「や、やめろ」
布を取り出して染み込ませ、振り払われようとも無理矢理傷口に貼ってやる。
傷に沁みるのだろう。村人の呻きを痛ましく思いながら、適切な処置を施していく。
血にまみれた村人の脚が、数分後には手当てを受けて綺麗になった。
「これは応急処置ですから、村に帰ってちゃんと診てもらってくださいね」
マリの笑顔で、村人の震えは少し落ち着いたようだ。怯えの色が完全に消え去ることは難しいが。
「おーい、マリ姫ー」
遠くの方から明るく気のいい女声が聞こえてきた。この声は。
「ナツキ」
ナツキが走ってくる傍らに、着物の裾を揺らしながら一歩一歩を大きく跳ぶように走ってくるハンの姿もある。
「マリ姫、大丈夫だった?」
「ええ、私は。それよりこの人が」
側に同じ村人がいるというのに、二人そろった姫たちを見て村人はまた怯えを露呈した。恐怖に満ちた顔で、ただただ二人を凝視することしか頭にない。
「シンタさん……」
ナツキが見かねて視界に入ってやる。かがむと、シンタはナツキにやっと気がついた。
「ナツキった、助けてくれ。こいつら早く追っ払ってくれっ」
「シンタさん、落ち着いて。姫たちは何もしないよ」
「何も? 何言ってるっ、もうされたんだ。早く医者に診せないと大変なことになるんだよぉ」
この反応、分かっていることとはいえ、マリは少し俯く。
代わりにハンが怒号した。
「お前こそ何言ってんだよ!お前マリに助けられたんだぞっ!なのに礼の一つもなく……!」
「来るなあ!」
乗り出したハンに、シンタは怖気づいてナツキにすがりついた。
「てめぇ」
「ハン」
すがりつくシンタを宥めるように抱きとめながら、真摯にハンを見るナツキ。
「ここは私に任せてくれないかな。……シンタさん送ってくるよ」
興奮気味のシンタを落ち着かせてから、彼に肩を貸す。
「ナツキ……」
「マリ、手当てしてくれてありがとね」
マリの心配顔に明るく笑顔を返し。
「後よろしく」
それだけ言うと、シンタの歩調に合わせてながら、ナツキは山を下り始めた。
「シンタさん」
シンタの愚痴が一通り終わって静かになってから、ナツキはようやく二人になった目的を果たそうと行動に出た。
「どうして姫たちのこと、怖がるんですか?」
村で姫たちの話をするのは父の目もあって控えてきたが、ずっと誰かに訊きたいことだった。今訊く分には不自然ではないはず。
深刻なナツキに対し、シンタはさっきの態度同様に愚痴の続きを吐き始める。
「そんなの当たり前だろ。あんな得体の知れないものに恐怖するなって方が無理な話だ。人間の形をした化け物なんだ、あいつらは」
「でも、彼女たちが危害を加えてきたことはないですよね? なのにどうして初めから邪険にしたりするんですか?」
シンタは露骨に眉根を寄せた。
「危害を加えたことがない?何言ってる。この山を訪れた奴はみんな言ってる。あいつらが魔物を使って村を襲ってるってな。現に今さっき俺はあいつが魔物を操るのを見たんだ。そんな奴ら受け入れられるか!」
魔物が出始めた時期と姫たちが現れた時期は二、三年のずれがあるにも関わらず、そんなことまで言われている。たぶん言い出したのは父、ハルキ。
「でもマリ姫はシンタさんの脚の手当てをしてくれましたよね?危害を加える人がそんなことするでしょうか?」
ちらっとシンタの様子を窺うナツキ。少しは今の言葉に動揺してくれると思ったのだが。
「何やったか分かったもんじゃないだろ!何かされたんだ。だから村に帰ったらすぐ医者に診せて、そんで全部やり直してもらう……っ!?」
突然支えを失って、シンタが豪快に倒れた。ナツキの手がシンタの腕から放れている。
「ふーん、そーですか。なんとか歩けるまでに手当てしてもらって、感謝の気持ちもないと?」
恨みがましく相手を見下した後、ナツキは額に青筋を残しながらニコっと笑った。
「じゃ、もう平気ですよね、脚?」
「え?」
そしてあからさまにシンタから離れる。
「あとは一人で行ってください。私、用事を思い出したので失礼します」
「え、ちょっとナツキちゃんっ」
「心配しなくても、この先を真っ直ぐ行けば村はすぐですよ」
「そうじゃなくて!また魔物が襲ってきたらどうするんだっ」
「それこそ、魔物を操れる姫たちに頼んだらいいじゃないですか。さっきみたいにきっと助けてくれますよ」
実際、助けてくれるのだから見殺しにすることにはならない。ナツキはただ、分かってもらいたいのと、ちょっと頭にきたのとで、姫たちのありがたみを思い知らせたくなったのだ。
まだ助けを求めるシンタを無視して、ナツキは横道に逸れていった。
「あのような態度をとって大丈夫なのですか?」
シンタと離れたのでマリが姿を現した。シンタはハンに任せたようだ。
「ごめんね、またマリ姫たちの印象台無しに……しちゃったかも」
「違います。私が訊いているのは、ナツキのことです」
歩みを止めて後ろに返ると、マリはその容姿さながらの気配を漂わせて、真剣にナツキを正視していた。ナツキの意表をつかれた顔を見て、マリはさらに真剣味を帯びる。
「あなたは大丈夫なのですか? 私たちを庇ってしまったら、あなたは村人に嫌な目で見られてしまうのではありませんか?」
「あー……」
今やっと気づいたとでもいうように、ナツキは視線を上向けて考える。
「たぶん平気。だって仮にも私、村長の娘だもん。追い出すなんてできないはずだから」
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。もう、マリ姫は心配性だなぁ」
「これくらいが丁度いいんです。ハンがああですから、つり合いが取れているでしょう?」
「あ、本当だね」
「それから、私もハンと同じくマリと呼んでくださいね、ナツキ」
肩をすくめて、ナツキは返事をしながら舌を出した。その時ふと脳裏に過った父との会話。今度は本気で勘当するぞ、とそう睨んできた父親を、ナツキは初めて見た気がする。本当に怖い顔をしていた。
だから少し不安なのだが、たぶん、実の娘を追い出すことはしないだろう。
ナツキはそう自分に言い聞かせて不安を取り除くのに努めた。




