朝倉姉妹
十月になった。俺の学校では夏服と冬服の併用期間に入った。しかし、暑い日がまだ続いていて、周囲のほとんどは夏服のままだ。
雪奈とは毎朝一緒に電車に乗って話をしている。だいぶ話をするのに慣れてきた。ラッシュの人波を背中で押し返しながら雪奈のための空間を確保するのは体力を使うが、雪奈のためと思えば苦労とも感じない。
電車を降りてから雪奈は友人の方に行ってしまう。帰りも友人と一緒に帰るようだった。しかし俺は別段気にしなかった。何のつながりもなかったころと比べたら、格段の進歩だったからだ。それに家に帰ってから雪奈からメールが来るのだ。相変わらず短い一言だけのメールだったが、そのやり取りだけで俺は十分だった。
「進展のないことだ」
そう言って柚は笑ったが、まあそれが俺らしい。
一方で俺の生活は柚のおかげで家事が半減して楽になっていた。柚は少々考え方が古くて面倒なところもあるが遊び相手にもなってくれるし、良い部下である。そのうえ幽霊相手に無類の強さを誇る。ときどき性質の悪い霊に襲われることがあったが、全て柚が一刀のもとに斬って捨てた。
俺は柚に尋ねた。柚の持つ刀についてだ。
「なぜお前だけが持っていて他の幽霊は武器を持たないのだ?」
柚は自慢気な顔をした。
「それはな。私の持つ怒りの力と幽霊としての経験に寄るのだ」
「どういうことだ?」
「刀は怒りの力によって具現化し、さらに経験によって力を増してきた。自分がなぜ幽霊をしているのかもわからずにいる普通の幽霊たちにはそのようなものはない」
「亡霊としての覚悟の違いか?」
「そういうことだ」
「人間を斬ると血が出るんだよな」
「実体化している時はそうだな」
「していない時は?」
「刺した部分の機能を停めることができる。心臓なら心臓、脳なら脳を停めてしまえる。即死だな」
なかなか物騒な機能が付いている。俺もよくぞ、生き残った。
「幽霊を斬るとどうなる?」
「霊体を斬り裂くから、形を保てなくなって現世にとどまることができなくなるな」
「無敵だな」
いろいろあった末の結果ではあるが、柚を配下に持つことが出来たのはまれな幸運だったようである。俺にしては僥倖といっていい。
俺が毎朝雪奈と一緒らしいと聞きこんだ原田が、疑わしそうに俺に尋ねてきたのが木曜日だった。
「毎日、北村と一緒の電車らしいじゃないか」
「同じ駅から乗るんだから、そういうこともあるさ」
と俺はごまかす。原田は探るような目で言った。
「つきあっているんじゃないよな」
「もちろん違うよ。決まっているだろう」
俺はそう答えたが、内心はかなりいい感じなのではないかと思っていた。
それで金曜日の朝、電車を降りたところで俺は勇気を出して尋ねた。
「週末、天神とか博多駅に一緒に行かない?」
雪奈は階段の端を下りながら少し首をひねった。
「ごめんね。今週末、法事なの」
「土曜日?」
「ううん。土日とも。泊りがけなのよ。大牟田の本家の法事で親戚みんな集まるの」
「そうなんだ。そっか、それは残念」
俺は努めて明るい口調で言った。
「ごめんね。また今度誘って」
階段を下り切った雪奈はそれだけ言うと、「じゃあ」と言って、向こうの方で手を振っている女子の方へと行ってしまった。
俺はすっかり意気消沈した。雪奈の後姿が人ごみにまぎれて見えなくなるのをぼう然と見送った。そうしてとぼとぼと歩きだしたところに、柚が言った。
「天神というのはどういうところだ。私を連れて行け」
「それは励ましてくれているのか?」
「励まされたいのか?」
柚がにやりと笑った。「これしきのことで落ち込むような軟弱なものを励ますつもりなどは毛頭ないのだが」
「言ってくれるね。何をしに行くんだ?」
「そこは賑わっているのであろう? 面白そうではないか」
案外と人の多い場所が好きのようである。人さびしい田舎で四百年以上も幽霊をやってきたせいだろうか。
そういうわけで日曜日、他にすることもなかった俺は、柚を連れて天神に出た。
薄いピンクの和服の裾をからげて白い覆いのついた笠をかぶった柚を連れて、天神地下街の石畳の上を歩く。柚の格好は市女姿というらしい。
柚はすでに興奮状態である。博多駅についた時点からもう興奮していた。地下鉄で天神に出る間も落ち着かない様子だった。
「よい。実によい。華やかではないか。皆、着飾っておるなあ」
そんなことをさっきから繰り返して言っている。
「どこか、行きたいところがあるか、柚?」
小声で尋ねてみると
「デパートというものを見てみたい」
という。インターネットで知識を得たらしい。
俺は地下街から角を曲がって連絡通路に入った。家族連れやカップルが前にいて狭い通路は流れが悪い。が、別に急ぐ用事があるわけではないのでかまわないことにする。柚はじれったそうだ。
ここまでの間、かなりの数の幽霊を見かけたが、まだ襲われてはいない。俺もだいぶ幽霊に慣れてきた。柚の言うように目を合わせなければ、うろついているものでも襲ってくることはなかった。
デパートの地下に入った。ものすごい人ごみである。おいしそうな匂いがあちらこちらからする。食料品売り場だ。手前側にパン、お菓子、ケーキ、奥には惣菜、缶詰、瓶詰、酒類が所狭しと並んでおり、細い通路を人が押し合うように歩いている。
「ほう、うまそうなものが並んでいるではないか」
柚が宙を滑ってあちらこちらと見て回る。「おい、ただで食べ物をふるまっているようだ」
俺はつぶやいてやった。
「それは試食コーナーだ。客に味を試してもらっているんだ。残念だな、お前は味がわからなくて」
柚が飛んできた。
「全く残念なことだ。そこで、相談なのだが、少し身体を貸してくれないだろうか?」
「体を貸す?」
「その体を使って味見をしたいのだ」
「ああ、かまわない」
俺はよくわからないままうなずいた。途端に柚が俺に重なってきた。次の瞬間、自分の体が自分の意思と関係なく動きはじめる。
『おい。何だよ、これ』
『憑依というものだ。しばらく使わせてもらうぞ』
俺の心の声に柚が心で直接答える。
手が試食用のケーキに伸びた。口に運んで噛みしめる。濃厚な生クリームとやわらかなスポンジの食感が口の中に広がった。
『うまいな。このようなものを食べるのは初めてだ』
『それはよかったな。早く体を返してくれ』
『まだだ。もう少し借りるぞ』
その後、柚は俺の体を使って、バームクーヘン、チョコレート、クッキー、フィナンシェ、どら焼き、鶏卵素麺、きんつば、さつま揚げ、コロッケと試食を繰り返した。満足した柚が俺の体から出ていった時には、俺はすっかり満腹になっていた。
「では、次に行くか」
柚がエスカレーターを指した。俺は重たい胃を引きずるように後に続いた。
地下一階は生鮮食料品売り場だ。そのまま上に上がる。一階は女性向けの高級ブランドが各種並んでいる。
「ここは、何を売っている?」
「アクセサリー、小物、香水や化粧品などだな」
「それはよい。少し見てもいいか?」
「いいけど俺はここで座っているからな」
俺はエスカレーター脇のベンチに座った。胃が気持ち悪くて少し休まずにはおれない。
「つきあいが悪いな。まあ、よい。行ってくる」
柚は飛んで行った。
一階の各売り場はよく見ていると熱心に品定めをしている客は多くない。だいたいは上の階へ流れて行く客たちで、たまに何かを思い出したかのように足を止めて見ているものがいるくらいだ。
そんな中であちらこちらでじっと商品を眺める柚の姿は目立った。格好はいつの間にか高級そうなスーツ姿になっている。どこかのブランドのマネキンが着ていたものをまねしたらしい。髪はパーマをかけたようになっている。
しばらくして、俺の胃の中身がこなれたころ柚は戻ってきた。
「化粧品というのは肌がないとわからぬな」
「まさか、俺の体を貸せというなよ」
「いやいや。そのようなことは言わぬ。それよりどうだこれは?」
柚は金のネックレスを見せた。
「お前、とってきたのか?」
「何を言う。写してきただけだ。本物のようであろう?」
どこからどう見ても俺の目には金に見える。しかし俺以外には見えていないのだろう。幽霊とは便利なものだ。
「似合っているとは思う」
実際、柚の日焼けした肌には金は似合っていた。デザインも服に合っている。
「よし、では次だ。上に行くぞ」
「はいはい」
俺は従った。エスカレーターで二階に上がる。婦人服売り場だ。
「服か。しかし、このデザインは歳の行った女性向けのようだな」
「よくわかったな」
俺には女性ファッションブランドという以上の違いがよくわからない。
「ずっと観察してきたからな。それくらいはわかる」
さすがは女性だということだろうか。服装へのチェックが細かい。
「上に行くぞ」
「わかった」
次の階も婦人服の売り場だった。が、柚の反応が違った。
「ほう、ここだ。ついに来たぞ」
どうやら若い女性向けのブランドの売り場らしい。俺は男一人でこんな場所に来てしまっていたたまれない思いだった。
「俺はここで座っているから」
エスカレーター脇のベンチをまた利用することにする。
「わかった。勝手にやらせてもらう」
柚は飛んで行ってしまった。
売り場の間にパーテーションがあって見通しがきかないが、確かに若い女性の客がいる。といっても、客層は二十代くらいで柚よりは上のようだ。考えてみれば俺くらいの年齢の女性がデパートで買い物をするだろうか。よほどのブランド志向でもない限り、もっと別のファッションビルに入っている若い女性向けの店に行くはずだ。後でそういうところにも連れて行ってやるかな、と思っていたら柚が帰ってきた。
「はやかったね」
「今一つ、納得のいくものがなくてな」とはいうものの、嬉しげだ。「しかし、店で見るというのはよい。布の感触や風合いといったものはネットではわからぬからな」
「何かいいのがあったか?」
「そうだな。こういうのはどうだ?」
柚は大きな花をプリントした黄色のワンピース姿に変わって見せた。
「それから、こういうのもある」
一瞬で赤と紫の左右非対称な服に着替える。
「他にはこんなのもあったな」
次はふんわりとしたデザインの白のブラウスに明るいグレーのプリーツスカートだ。
「どれがよいだろうか?」
俺は迷った。どれも似合っているような気がする。しかし、柚の健康的な美しさをそのまま表すものがよいだろう。
「じゃあ、黄色のやつ」
「なるほどな。確かにこれはよさそうだ」
柚が瞬時に黄色のワンピースに着替えた。くるりと回って見せる。それから言った。
「そういえば、こういうものもあったのだが、これはどうだろう」
ぱっと、柚が着替えたものはピンクに黒の模様とレースの飾りのついた下着の上下であった。腹部の肌の白さが、妙になまめかしく感じられる。
「ずいぶん露出の多い服だが、派手で面白い」
「ば、馬鹿」
俺はあわてて目をそらした。
「どうした?」柚が迫ってくる。
「それは下着だ」
「下着?」
「服の下に着るもので、男に見せるものじゃないんだよ」
「なるほどな。それは失礼した」
柚が若干声を上ずらせて黄色のワンピース姿に戻った。
「お前、下着を知らないなんて。ひょっとして今まで下着をつけていなかったのか?」
俺が声を忍ばせて聞くと、柚は真顔で答えた。
「もちろんだ。そんなものがあるとは知らなかったのでな」
「ちゃんとつけておけよ」
「どうしてだ? どうせ見えないのだからなくても問題なかろう」
「いや、俺が気になるから」
「ほう」柚がにやりと笑った。「お前も好きものだな」
「いや、普通だから」
俺が反論すると柚はさっと飛び退いて声を立てて笑ったが、ふと笑うのをやめて耳を澄ませるようなしぐさをした。
「どうした?」
「知っている女の悲鳴だ。助けるぞ」
俺は柚にせかされて立ちあがった。
柚の飛ぶ後をついて、エスカレーターを下り、デパートを出て、通ったこともないビルの地下街を抜け、見知らぬ店が並ぶ通りを横切った。たどり着いたところは、ビルとビルの間の人気のない路地だ。
物陰からうかがうと、明るいブルーのシャツに白のロングスカートの女の子が一人、ガラの悪そうな三人の男に囲まれている。
「朝倉姉妹の片方だな」
柚が断言した。そう言われればポニーテールや背格好など、見おぼえがある気がする。女の子は髪を引っ張られてもがいている。
「行くのか?」
「お前がな」
俺の問いに柚が答えた。
「なぜ、柚が行かない?」
「私の力は人間にはあまり役に立たない」
俺は意味がわからず聴き返した。
「お前には刀があるじゃないか。みねうちにでもすれば……」
「相手によるのだ」
「どういうことだ?」
「幽霊はとりついた相手に影響をすることなら力が振るえるのだ。だが、他の人間には大したことは出来ない。せいぜい、頭の上に小石を落とすくらいだ」
意外な話だ。俺は考えを巡らせた。
「ということは、俺があの中に乗り込んで行って、もし殴られそうになったらお前が力を振るえるということか?」
「そういうことになるが、しかしそれは面倒だ。お前が直にあの子を救ってはどうだ」
俺は柚を見た。
「俺はそんなに強くないぞ」
自慢じゃないが、腕力はからっきしだ。
「使えない男だな」柚はため息をつきながら言った。「ならば、その体を貸せ。私がやってみせる」
「この体で出来るのか?」
俺の問いに柚は力強く請けあった。
「問題ない。それだけのなりをしていれば後は体の使いようだ」
「わかった」
俺は同意した。柚が乗り移ってきた。身体が俺の意思に反して動き出す。身体を乗っ取った柚は駆けだした。
「そこの男ども! 寄ってたかって女に手を出すとは卑怯であろう」
「何だ、お前は!」
「てめえは何のつもりだ」
「何を格好つけてやがる」
男たちが口々に怒鳴る。柚は男たちと女の子の間に割って入った。
「俺たちはこの女がなめた真似をしたから、間違いを正すために教育してやってたんだ」
男の一人がいうが柚は取り合わない。
「下賤なものの言いそうなことだ」
「なんだと!」
一番長身の男が殴りかかってきた。柚は少し身体を沈めてカウンター気味にこぶしを放り込む。こぶしは相手のあごに命中した。男がひざから崩れ落ちる。
「てめえ!」
固太りの男がつかみかかってくる。左右に身体を素早くひねってかわした後、柚は一歩踏み込んで相手の胸の中央に手のひらで打撃を与えた。男の体が宙に上がった。そのまま背中から壁に叩きつけられて倒れる。
「ちくしょう!」
最後に残った背の低い男が飛び込んでくる。腰をつかまれた。柚は相手の腕をつかんで脚を踏み込み、態勢を崩させると、相手を腰の上に乗せて体をひねった。男は腰からコンクリートの上に落ちた。声のない悲鳴を上げる。
柚は三人が動きを停めたのを見て取ると、青いシャツの女の子の手をつかんだ。
「走るぞ」
柚が乗り移った俺は女の子の手を引いて駆けだした。最短ルートで人通りの多い通りまで出る。
『追っては来ないか』
柚が心の中でつぶやいた。
『他人の体で、無茶しやがって』
『文句を言うな。身体を返すぞ』
柚が俺から離れた。途端に身体の疲労感や使い慣れない筋肉を使った痛みが俺の意識に流れ込んできた。俺は女の子の手を放して、両手で膝に手をついて肩で息をした。
「大丈夫ですか?」
女の子が尋ねてくる。息も乱していない。さすがリレーで選手になるだけのことはある。こっちはみっともないことこの上ない。
「お姉ちゃん!」
助けた女の子とよく似た声が別方向からした。声の方を見ると同じデザインで赤色のシャツに白のロングスカートでポニーテールにした女の子がいる。卵型の顔に若干つり上がった目、歯並びのよい白い歯に綺麗な鼻筋と、隣にいる女の子とそっくりだ。
俺の頭の上に浮いていた柚が二人を見較べてから言った。
「助けたほうが姉の麻知で、今来た方が妹の未知ということのようだな」
未知が麻知に話しかける。
「お姉ちゃん、大丈夫だったの? 変な人たちに連れて行かれたって聞いたから心配して探してたんだよ」
「大丈夫よ。この人に助けてもらったの」
「そうなんだ。あの、姉が危ないところを助けていただきありがとうございました」
未知が頭を下げる。
「ほら、お姉ちゃんも」
「ありがとうございました」
「いや、大したことしてないよ」
俺は手を振った。実際助けたのは俺じゃない。柚に体を貸しただけだ。
「お礼しなきゃ、お姉ちゃん」
「でも、どうしよう」
「いいよ。お礼なんて」
「そんなことできません」
断わろうとする俺に未知が食い下がる。柚がささやいた。
「茶でも飲ませてもらってはどうだ?」
「じゃあ、お茶でもおごってくれないかな」
俺は近くのコーヒーショップを見ながら言った。
「それでいいんですか?」
姉妹の声がハーモニーを奏でた。こうして俺は美人の誉れ高い朝倉姉妹とコーヒーショップでお茶を飲むことになった。
俺は抹茶ラテをおごってもらい、麻知はマンゴーのフラペチーノを未知はチョコレートチップのフラペチーノを購入して、三人で窓に近い席に座った。汗をかいた体にエアコンの風が心地いい。
「本当にありがとうございました」
麻知が改めて礼を言う。
「どうして、あんなことになったの?」
「私が服を見てる間にお姉ちゃんがいなくなったんです」
と未知が言って麻知を見る。
「未知を見失ってしまって、歩いていたらあの人たちにぶつかったんです。そうしたら、きちんと謝ってくれないと困ると言われて無理に連れて行かれてしまって」
「お姉ちゃん、走って逃げたらいいじゃない」
「だって、ぶつかったのは事実だから謝らないと」
「そんなところで変な責任を感じないでよ」
喧嘩になりそうだったので、俺は口をはさんだ。
「いや、悪いのは連中だからね。どうせ向こうからわざとぶつかってきたんだろうし、気にすることないよ」
「そうですよね。全くお姉ちゃんは流されやすいんだから」
「ごめんね」
未知に麻知が頭を下げる。
「気をつけてよね、お姉ちゃん」
そう言った未知は俺の方を向いてきいてきた。「あの、お名前聞いてもいいですか?」
まぶしいような笑顔に俺は心臓を高鳴らせながら言葉を発した。
「二又瀬高校二年の水上夏樹だ」
「二又瀬高校! じゃあ、先輩じゃないですか」
「私たち二又瀬高校一年の朝倉です。私が麻知でこっちが未知」
二人は一気に打ち解けてきた。
「今日はお買い物ですか?」
妹の未知がきいてくる。
「ちょっと街をぶらぶらとね」
柚がにやにやと笑ってこちらを見ているが、そうとしか答えようがない。
「それで、お姉ちゃんが連れて行かれるのを見て助けてくれたんですね」
「まあ、そんなところかな」
きらきらとした瞳で言われて、適当に同意する。これ以上聞かれても困るので、こちらからも尋ねてみることした。
「二人は今日は買い物?」
「模擬試験の帰りです」
「模擬試験?」
俺はオウム返しにきいた。まだ一年生なのに何の模擬試験だというのだろう。
「K大学の模擬試験を受けてみたんです」
麻知が恥ずかしそうに答えた。
「K大って。すごいねえ」
日本の大学の最難関だ。
「模試を受けただけです。すごくないです」
「私もお姉ちゃんも十分の一も分からなくて完敗でした」
二人は手をひらひらと振って、肩を落とした。そんなところまで息がぴったりだ。
「K大に行きたいの?」
「はい」
「お姉ちゃんは外交官になりたいんです」
「未知、言わないでよ」
「だって本当のことじゃない」
「未知は財務官僚になりたいんです」
「すごいなあ」
俺は心の底からそう思った。まだ俺は将来のことどころか、進学先すらはっきり決めていない。成りたいものを見極めてそれにむかって歩き出している年下の二人が自分より大人に見える。
「なぜ外交官と財務官僚なの?」
「この国を外側と内側から何とかしたいと思ったんです。だから、二人で力を合わせて頑張ろうって決めたんです」
「それで、二人で早く帰っては予備校に行って勉強してるんです」
あの日見た朝倉姉妹のダッシュはそういうことだったのか。成績優秀というのは与えられた才能ではなく努力の結果なのかもしれない、と俺は思った。
未知が時計を見た。
「そろそろ帰らないと」
妹の方が話したり決定したりする役を担っているらしい。二人は席を立った。俺も立ちあがった。
「大丈夫かい? まだやつらがいるんじゃ」
「そうですね」
「送って行くよ」
「じゃあ、地下鉄までお願いしていいですか?」
赤い服の未知が答える。
「いいよ」
俺はうなずいた。柚がフラペチーノを味見したそうな顔をしていたが、それは無視することにした。
地下街を三人で歩いて駅に向かった。俺の右隣が麻知でその右が未知だ。ついでにいえば未知の頭の上付近に腕組みをした柚が浮かんでいる。主に未知が俺に話しかけてきた。雑踏の中で未知の声はよく通る。
「西野先生って知ってます? 国語の先生なんですけど」とか「校長先生って、無駄に元気じゃないですか」とか「生活指導部の先生って怖いですよね」とか、次々に話題を持ち出してくる。
俺は「その先生は担当になったことがないからあまりよく知らないな」とか「確かに校長はいつも手を動かしながら話をするよね」とか「厳しいのが仕事なんだろうね」とか言って話を受け止めた。こちらから話を振る元気はない。実は立ち回りで痛めた筋肉がまだあちこち悲鳴を上げており、それを我慢して平気な顔を装っているのである。
地下鉄天神駅の近くの広いところに来た。そこで未知が急に
「私、ちょっと雑誌が出てないか本屋さんで見てきます」
と言い出した。
「一緒に行こうか?」
と言ったのだが、
「大丈夫です。お姉ちゃんとここで待っていてください」
と言い残して足早に行ってしまった。
「すみません。妹が甘えたことを言って」
麻知が頭を下げる。
「いえ、いいんですよ。俺はヒマだから」
そう答えながら俺は未知が歩いて行った方を眺めた。人波にまぎれてしまって姿はもう見えない。そこに柚が叫んだ。
「おい。後方に北村雪奈だ!」
驚いて振り向くがわからない。俺が戸惑っていると柚が飛んで行って空中に止まって指を指した。指の先に確かに制服姿で改札を出てくる雪奈がいた。隣に黒い服を着た年配の女性がいる。母親だろうか。
雪奈はすぐに俺を見つけたようだった。それから俺の隣にいる麻知の方を見る。そのまま雪奈と母親は近づいてきた。声をかけたものか、でも相手は一人ではないし、と思い悩むうちに距離が縮まる。雪奈は俺たちから視線をそらした。
そして、そのまま歩き去ってしまった。
「何をしておるのだ」
柚があきれた声を出す。
「お知り合いの方でしたか?」
麻知が尋ねてきた。
「幼なじみというやつかな」少し気の抜けた声で答える。
「そうでしたか」
そこに未知が帰ってきた。
「お待たせしました。まだ発売になってないみたいで」
「未知、ネットで買えばいいじゃない」
「だってえ。……あ、何かありました?」
未知が俺の顔を見て尋ねてきたが、俺は何と言っていいのか困った。
朝倉姉妹を改札で見送ってから、俺は駅の壁に寄りかかって携帯電話を取り出し、雪奈にメールを打った。
『さっきは偶然だったね。ちょっと後輩とあって話してた。もう帰ってきてたの?』
しかし、しばらく待っても返事は来なかった。あんな場面で雪奈にあうなんてと、俺は不運を嘆いてみたが、しかしどうにもならない。
柚を連れて近くのファッションビルに移動した。ベンチを見つけては体を休めつつ、柚のファッションショーにつきあう。無理をさせた筋肉の痛みがおさまるまで、しばらく休まないと家に帰ることもできない。その間もメールの新着をチェックする。新着はない。
柚はネイビーブルーのカットソーやビビッドな赤のミニスカート、黒のホットパンツ、ピンクのキャミソール、ボーダーのTシャツなどを試した。それから、どこで見つけたのか純白のウェディングドレスをまとって現れた。
「なかなか派手な衣装だが、これはどういうものなのだ?」
「それは花嫁の着るものだ」
「ほう、これが当世風の花嫁装束か」
「お前は何を着ても似合うな」
「嬉しいことを言ってくれる。お前があの女に振られても、私がいつでもこの装束を着てやるから、気を落とすな」
「縁起でもないことを言うなよ」
「何だ。私では不足か?」
俺は幽霊に結婚を迫られているのだろうか。悪い冗談だが、露骨に嫌な顔も出来ない。
「そういうわけじゃないけど」
と、ごまかした。
「ならば、よいではないか」
柚はからからと笑った。
夕方になって帰宅し、食事をして風呂から出たところで、ようやく待ち望んでいた返信が届いた。慌ててメールを開く。
『大牟田からの帰りに買い物をしに天神に寄ったの。そうだったの? 綺麗な子だね。おやすみなさい』
俺は唸った。取りつくしまのないメールである。
「やれやれ、誤解を受けているようだな。早く返事をせぬか」
柚が画面をのぞきこみながら指示をしてくるが、どう返事をしていいか、わからない。
『そうだったんだ。あの子とは偶然会ったんだよ』
悩んだ末にそう書いて送信してみたが、返信は来なかった。
「お前は運がないな。しかし、雪奈とやらはあまりいい女ではないな、いっそ諦めたらどうだ?」
柚が分別顔でいう。俺は反論した。
「せっかく仲良くなったんだ。しかも相手は学校で人気の北村雪奈なんだぞ」
「人気などで自分の相手を決めるのか? 人生とはそういうものではないだろう」
「いや、でも、美人だから人気があるんだし」
「それでいうなら、あの朝倉という姉妹も美人で人気なのであろう? いっそのこと、そっちに乗りかえてはどうだ?」
「乗りかえるって、そんな……」
「お前は美人であれば誰でもよいのではないのか?」
「そういうわけじゃ」俺は力なく言った。「それに、朝倉姉妹が俺のことをどう思っているかもわからないし」
「感じは悪くないと思うがな」
柚が請け合った。
「そうなのか」
「まあ、ダメであっても、私がいる」
笑顔で迫ってくる。
「お前は幽霊だろうが」
俺は顔をそらした。
「幽霊だが実体化できる。悪くはないと思うぞ」
そう言って俺の正面に回り込んだ。いつの間にか黒のタンクトップと赤のミニスカートに着替えている。柚はスカートの裾をつまんでみせた。俺はあわてた。
「なにをしている」
「心配するな。下着ならつけておる。美人のスカートの中身に興味はないか?」
「い、今はそんな話をしているんじゃない!」
驚きの展開に舌がもつれてしまう。
「しかし、お前は美人に興味があるのだろう?」
「一体、どういう脈絡だよ」
「お前は私を美人と呼んだではないか。忘れてはおらんぞ」
最初の日のことを言っているらしい。確かにあのとき俺は美人と呼んだ。
「あれは言葉のあやだ」
「あやでも美人なのだぞ。お前にとっての条件は満たしているのではないのか?」
「人間と幽霊なんて、おかしいだろう」
「そうでもない。幽霊と恋仲になる人間の話は珍しくないからな」
そういうものなのか、と俺は驚いた。しかし、
「俺はお前の仇なんだろう。なんで恋仲になろうとするんだ?」
と、距離をとる。
「お前は面白いからな。それに頭も悪くない。どうせ殺せないのなら恋仲になるのも悪くないと思ったのさ」
「そんなこと言われても……」
くっくっと柚が笑った。
「まあ、よい。考えておけ。私はいつでもかまわんぞ」
そう言い残して壁の中に消える。俺はぐったりと疲れてベッドに倒れ込んだ。筋肉がひどく傷むのを感じた。
翌朝、いつもの時間に駅のホームに行ったが雪奈はいなかった。柚にホームの端から端まで探してもらったが姿が見えない。気落ちして学校に行くと、雪奈がすでに自分のクラスにいるのを柚が見つけた。どうやら、早い電車で学校に来たらしかった。
「避けられているようだな」
柚に言われて俺はますます気落ちした。
「何がいけなかったというんだ?」
「複雑な乙女心を傷つけてしまったのだろうな」
含み笑いをしながらそんなことを言う柚をつれて、力なく教室に入ったところで原田が駆け寄ってきた。
「おい。お前、朝倉姉妹とお茶をしたんだってな」
「なんだ、いきなり」
俺は驚いて顔を上げた。と、教室の男子の視線がこちらに集中しているのに気付く。
「いきなりじゃねえよ。昨日の晩から噂でもちきりだ」
「噂?」
「SNSやメールで流れてるんだよ。朝倉姉妹と楽しくお茶を飲んだやつがいるって。それで添付されていた写真を見たらお前じゃないか。俺は驚いたよ」
知らない間にとんでもないことになっていたようだ。
「いや、あれはたまたま朝倉姉を助けて、それでお礼にお茶をおごってもらったというだけのことだよ」
俺は言い訳をするようにぼそぼそと話した。
「本当にそれだけか?」
原田はしつこい。
「それだけ、だって」
「なんで、お前ばかり学校のアイドルと縁があるんだ」
「知らないよ」
俺は縁を結んだ原因が制服姿で笑みを浮かべて宙を漂うのを見ながら答えた。「たぶん、運だよ」
「お前、運が悪いんじゃなかったか?」
「運が回ってきたんだろうよ」
俺は投げやりに言った。
「ちくしょう。俺もそんな運に恵まれたいよ」
「俺だって、たまたま、あの日、そうだったというだけだよ」
そう言って原田をかわして席についたが、昼休みになって驚くことになった。
授業が終わって一息ついてから朝自分で詰めた弁当を取り出して、ぼんやり箸でつついていると、入り口の方が騒がしくなったのだ。
「水上ーっ。客だぞ」
呼ばれて目をやると朝倉姉妹が立っている。俺はあわてて戸口まで走った。
「どうしたんだ。二人とも」
「こんにちは、先輩」
同じ卵型の顔に同じポニーテールの二人が同じタイミングで挨拶をする。全く見分けがつかない。唯一の違いは髪留めの色だ。
「お姉ちゃんがクッキーを焼いたんです」
赤い髪留めの方がにっこり笑って話しかけてくる。どうやらこっちが妹の未知らしい。
「未知も一緒に焼いたじゃない」
青い髪留めの方があたふたと言う。こちらが姉の麻知だ。
「でも、お礼なんだから、お姉ちゃん」
未知が言うので俺は「いやいや」と言った。
「お礼は昨日してもらったから、もう……」
「そんなこと言わないでください。昨日のことお姉ちゃんから詳しくきいたんですけど、先輩、すごかったらしいじゃないですか。お茶一杯くらいじゃ足りないですよ」
お茶くらいというけど君たちとのお茶一杯はすごく価値があるんだよ、と俺は思いながら背後を振り向いた。案の定、クラス中の男子が俺をにらんでいる。
「そういうわけで、これ受け取ってください」
麻知から小さな紙包みを受け取る。
「ありがとう」
小さな声で感謝の言葉を言った。
「いえいえ、先輩。感謝しているのはこっちですから」
「そうかい?」
未知の言葉に、自分がしたことでもないのにまんざらでもない気分になる。
「はい」未知が答えた。それから二人で頭を下げる。「ありがとうございました」
「また来ますね」
未知はそう言うと麻知を連れて階段の方に去って行った。俺は馬鹿のように立ちつくして二つのポニーテールを見送った。それで、ふと目を横に滑らせたときに雪白の顔の女子に気がついた。
雪奈だ。
俺ははっとした。なにか声をかけようと思ったが、雪奈が俺の手のものを見ているのに気がついた。クッキーが入っているという紙包みだ。何となく紙包みを後ろに隠す。その間に雪奈は向きを変えて歩き去ってしまった。
柚が天井からふんわりと下りてくる。
「お前は本当に間が悪いな」
俺は自分の運のなさに力が抜けるのを感じた。
「おい、何をもらったんだよ」
原田に肩をつかまれたが、「うう」と答えるので精一杯だった。
結局クッキーは家に持って帰った。ベッドに座って紙包みを開くと、バニラとココアの香りのするクッキーが五枚ずつ入っていた。才色兼備の姉妹の手作りの品物を味わう幸せな気分と、気になる女性に徹底的に誤解された失意と、二つが混じった複雑な気持ちでポリポリとクッキーを食べていると柚が将棋盤と駒を持ってきた。
「おい、これをしないか?」
と言う。将棋盤を見たのは久しぶりだ。
「よく見つけたな、こんなもの」
「居間の棚の奥に入っていたぞ。私は見通すのが得意だからな」
「お前、将棋やったことあるのか?」
「これでも館に仕えていた時には一番強かったのだ。お前こそ出来るのか」
「小学校の時にクラスで流行ってね。少しは強かった。でも、柚の時とルールが違っているんじゃないのか?」
「その辺は抜かりがない」
柚は『将棋入門』という本を手にしていた。俺が昔、母に買ってもらった本だ。とっくになくしたと思っていた。
「どこにあった、その本?」
「本棚の後ろに落ちていたぞ」
本当に柚の能力には驚かされる。
「わかった。相手をしよう」
「そう、来なくてはな」
将棋盤に駒を並べて振り駒で先手を決める。先手は俺だ。
7六歩、3四歩と互いに角道を開けてから2六歩と飛車先の歩を動かすと、柚は4四歩と角道を止めた。
「振り飛車か?」
「そうだ。この本に載っていた。面白そうだからな」
2五歩に3三角で、俺は3八銀と上がった。棒銀を選択する。柚は3二銀と応じた。2七銀、4三銀、2六銀、2二飛、1六歩、3二金、1五銀。
「ところで、夏樹」
柚がいきなり俺の名前を呼んだので驚いた。
「なんだ」
「お前、少し体を鍛えたらどうだ?」
柚は6二王と守りを固める。
「いきなりだね」
「昨日、お前の体を使わせてもらって暴れたが、どうにも使いづらかった。しかもお前は筋肉痛になる始末だ。少し身体を動かしておいた方がいい」
「そんな、ケンカをいつもするわけじゃないから鍛える必要ないよ」
俺は戦端を開いた。2四歩と突く。
「将棋では攻撃的な戦い方をするのにか」
柚が皮肉を言った。同歩と取る。
「そうだ。リアルでは俺は平和主義者だからね」
俺は同銀と取り返した。柚が同角と応じる。
「どうでも構わないが、少々気になることがあるのだ」
「なんだ、それは?」
同飛と走った。
「はっきりとはわからないが、よくないものがこのあたりに来ているような気がする」
柚が同飛と返す。
「よくないもの?」
俺は1五角と打った。
「悪霊の類だと思うのだが」
柚が2九飛成と飛び込んできた。
「悪霊と言うのはなんだ? 前の柚のように人をとり殺すのか?」
俺は考え込みながら言った。まずい手を指してしまった。次の一手が思いつかない。
「私のようなのは特定の人物に対して怨念をぶつけるので、怨霊と言うのだ。悪霊と言うのは触れる者すべてに災いをもたらす」
「そんなものが来ているというのか?」
「そういう心持ちがする」
「心持ちって何だよ。頼りないなあ」
柚がムッとした。
「仕方なかろう。悪霊のふりまくぞわぞわとした悪意のかけらしか見当たらないのだからな」
「ということは、痕跡だけはあるのか?」
「そういうことだ」
「悪霊は具体的に何をするんだ?」
「そうだな。見境なく人にとりついて悪行をなす。例えば、死ぬような様子のないものが突然自殺をするとか、日ごろ穏やかなものが突然刃物を振り回すとか、そういったことをしでかすな」
「そんなやつと俺に戦えというのか?」
「やりたくないか? 身近な人が被害に遭うかもわからんぞ」
「しかし、体を鍛えるというのが」
俺はとにかく守ることにした。5八金左と動かす。
「難しいことはない。私に一日三十分ほど体を貸せばよいのだ。私がお前の体で鍛錬をする。お前も身体の動かし方がわかるだろうし、身体は鍛えられるというわけだ」
柚が3八に銀を打つ。
「いや、ちょっと待て。鍛錬をすると俺の体は筋肉痛にならないか?」
4八金寄で守る。
「慣れるまでは痛むだろうな」
4九銀成が来た。王手だ。同金と取ると2八飛と打ちこまれた。次の4九竜からの即詰みが見えている。
「痛むって、軽く言うなよ」
5八銀と打つが4八金と打たれてしびれた。6八玉と逃げる。5八金に同金で5九銀と王手の連続だ。逃げるしかない。7七玉とすると5八飛成と来る。7八金と頑張ってみたがこれもよくない手だったようだ。6五桂の王手が来る。結局上段に誘い出されて歩と銀と金に追い回された挙句、7八の金を抜かれて、その金で詰まされてしまった。
「弱いな、お前は」
「悪かったな」
「まあ、私に任せろ。いろいろと鍛えてやる」
柚は笑った。
その日から、俺は柚に体を鍛えてもらうことにした。柚の鍛錬はきつく、数日は節々が痛んだが、やがて慣れた。慣れると充実感を感じるようになった。鍛錬の後、柚が動かしたように自分で身体を動かしてみて型の練習をしたりもした。攻撃の技も防御の態勢も動きは確実に身についていった。
学校の方は中間試験になった。柚は俺の勉強の監督役を買って出て試験期間中、一切遊ばせてくれなかった。おかげで手ごたえはかなりよかった。
朝倉姉妹とは廊下などで顔を合わせると話をするようになっていた。教室の位置の関係で、よく顔を合わせるのは青い髪留めの麻知のほうだが、積極的に話を振ってくるのは赤い髪留めの未知のほうだ。話の内容は、情報の先生が娘の写真を自慢することとか、数学の先生が結婚することとか、大した内容ではなかったが、原田を代表とする男子たちの反感を買うには十分な程度には親しく話した。おかげで少しクラスから浮いた存在になったが、それはどうでもいい。
雪奈はあれ以来、メールをくれなかった。朝も会えなくなったし、廊下で見かけても俺のことを避けて行ってしまう。思い切ってこちらからメールをしてみたこともあったが、返事はなかった。完全に行き詰ってしまっていた。
そうして週末になった。俺はまた柚を連れて街に出てみたりしたが、あまり気分は晴れなかった。