幽霊のいる日常
こうして俺は幽霊に守られることになった。
最初、俺は柚のことを疑った。俺を騙して油断させ、おみくじの効力が切れたところを斬りかかるのではないかと思ったのだ。そこで、家に帰った俺は、おみくじを机の上に置いて離れてみて試した。だんだんおみくじから距離をとり、しまいにはおみくじを置いて外に出てみた。だが、柚は全く俺を攻撃する素振りを見せなかった。
「名前というのはそんなに大切なのか?」
俺が問うと、柚は何を当然なことをと言う顔で答えた。
「古来、名前には力があるとされてきた」
「お前が自分の名前を名乗らなかったのもそのせいか?」
「生前の名前を知られたからといって私が縛られることはない」
「どういうことだ?」
「幽霊が恨みを晴らす相手はたいていは知り合いだ。命を狙われる方も相手の顔を見れば名前はわかるだろう」
「それはそうだね」
本名を知っている相手に恨みが晴らせないのでは意味がないわけだ。
「それなら、なぜ柚は本名を名乗らない?」
「私の持つ真の名前を知られる可能性があるからだ」
「真の名前? それを知られるとどうなる?」
「真の名前を唱えられると幽霊や妖怪はこの世から消え失せなくてはならない」
完全に退治されてしまうわけか。なるほどそれは一大事だ。
「真の名前と生前の名前とはどういう関係なのだ?」
「真の名前は生前の名前にいくつかの言葉をつけくわえることで成り立つ」
「なるほどな」
「どうした。真の名前を聞かないのか? お前の命令とあれば私は答えなくてはならないのだぞ」
柚は試すような目で俺を見る。
「しかし、それを答えればお前は消えてしまわなくてはいけないのだろう」
「そうだ」
「止めておくよ。お前には当面そばにいて欲しいからな」
俺は自分の命を狙った手ごわい相手をこのまま消してしまうのはもったいないという気持ちになっていた。それは、せっかくこの美しい少女が自分の部下になったのを手放すのは惜しいという部分もあった。
「正気か? 私はお前の祖先を呪い殺した仇だぞ」
確かのその通りだ。だが、どうにもそれはピンとこない。はるか昔のことなのだ。それに柚の側にも呪い殺す理由があってのことだ。
「当分役に立ってもらって、その上でもしお前に復讐したくなったら、そのときに真の名前を尋ねるよ、柚」
俺の言葉に柚は首を横に振ってため息を漏らした。
「やれやれ、お前は思っていたより度量のあるやつらしいな」
それはちょっと違うんだけど、と俺は心の中で答えた。
俺は柚に着替えとトイレと風呂はのぞかないように言った。風呂をのぞく気はないと言っていたし裸も着替えも見られてしまっているので今更のことではあったが、しかし女性に見られているかもしれないと思うだけで気持ちが落ち着かない。少しはのんびりできる空間が欲しい。
それで何もさせずにうろつかせているのも無駄なので、家事を手伝ってもらうことにした。
姉さんかぶりにたすき掛けの柚に、まずは掃除機を持たせてみる。
「これは何をするものだ?」
「掃除だよ。このボタンを押すとゴミを吸い取ってくれる」
「どのような仕組みなのだ?」
「電気でこの中のモーターが回って空気を吸うんだよ」
「電気? モーター?」
どうやら電気から説明が必要なようだ。俺は壁のスイッチを押して電灯をつけたり消したりした。
「これが電気だ。遠くから送られてきていろいろな仕事をさせることができる」
「なるほどな。押すだけで明るくなるから、不思議だと思っておったのだ。あの風呂を沸かすものも電気なのか?」
「あれは、電気で指示をしてガスで火を燃やし、水道から送られてくる水を温めて流しているんだよ」
「ガスに水道とな。便利なものだな」
こいつは前に起きたのは一体いつだったのだろう。
「とにかく掃除機を使ってみなよ」
俺は掃除機のスイッチを入れて見せた。柚は初め、音に驚いていたが、ほこりが吸い取られるのを見ると喜んだ。
「これはよいものだな。掃除が楽に出来る」
柚に掃除機を任せたところで、昼ご飯にカップ麺を食べることにする。ところがカップ麺を見て柚が寄ってきた。
「それはなんだ?」
「即席麺だ」
「即席? すぐに出来るという意味か?」
「そうだ。ふたを開けてお湯を注ぐと……」
電気ポットからお湯を注ごうとすると柚が質問を重ねてくる。
「それは何故湯が出てくるのだ? 昨日から疑問に思っていた」
そういえば、昨晩お茶を淹れている時に変な顔をしていた。
「電気で温めて湯を常に沸かしているんだよ」
「ほう。それも電気なのか」
柚が納得したところでお湯を注いで、ふたをする。
「これでしばらく待つと食べられるようになる」
「なるほどな」
「お前は食事は必要ないのか?」
ふと気になって柚に尋ねてみると
「ああ、まあ。あったほうがよいのだが」
と、あいまいな返事が帰ってきた。
「どういうことだ?」
「実は人間の精気をもらうことで減って行く力を増すことができる」
「どうするんだ?」
「やってみてかまわないか?」
「ああ、いいとも」
柚は俺の背中に手を置いた。手を置かれた場所から何かが抜け出る感覚がする。
「これで十分だ」
「それだけなのか。それで俺には何が起こる?」
俺が尋ねると柚は
「少し空腹が増すだろうな」
と言って笑った。
昼食後は柚に洗い物を任せることにした。昼食はカップ麺だから洗い物は箸くらいだったが、朝食の洗い物が残っていたのである。水道と洗剤とスポンジの使い方を教えて、実際にやって見せる。
「ほう、湯が出るのか」「スポンジとは便利なものだな」「洗剤とはすばらしい」と感嘆の声を上げていたが、すぐに作業に没頭し始めた。なかなかいい同居人だ。
俺は放っておいた鞄から問題集やプリントを取り出して宿題を始めた。週末になると生徒を遊ばせまいとして宿題が大量に出るのだ。
しばらくすると洗い物を片付けた柚がやってきた。
「何をしている?」
「宿題だ」
「ほう、熱心なことだな」
宿題という言葉はわかるらしい。
「柚は前に起きたのはいつなんだ?」
「よくは知らんが、煙を吐く機関車というものが走っていたな」
「それは五十年以上は前かな」
「そうなのか」
「今のは電車と言って電気で走るからね」
「何でも電気なのだな」
「便利なんだよ、電気は。ところで、お前学校は知っているのか?」
「ああ、前にとりついた相手は教師だったからな」
可哀そうに、と俺はその教師に同情した。そんな昔ではおみくじの自販機もなかっただろうから、守るすべも持たずに柚に殺されたに違いない。
「柚が死んだのはいつだったっけ。確か天文とかいう年号だったね」
「天文二十一年だ」
「それはいつだ? 何時代だ?」
「時代とはなんだ?」
そう聞き返されて気がついた。歴史を時代に分けるという考え方がないのだろう。
「天皇とか将軍の名前はわからないか?」
「先の帝の諡は後柏原で、将軍職は足利義輝様だ」
足利幕府なのか。それは古い。確かにそういえば昨日調べた歴史のブログの記述も戦国時代らしい感じがした。
「ちょっと待て」
俺はパソコンを起動して天文二十一年を検索した。
結果は直ぐに出た。西暦千五百五十二年、時はまさに戦国時代真っ只中である。といっても、信長や秀吉が天下に躍り出るのよりは少し前のようだ。
「お前、四百六十年も前の人間なんだな」
「そうなのか。その画面というのは本当になんでもわかるらしいな」
「お前も何か調べてみるか?」
「そうだな、使い方を教えてくれ」
俺は柚にパソコンの使い方を教えた。ローマ字を教えるのが面倒でキーボードはかな入力モードにする。柚はマウスとキーボードをおっかなびっくり動かしながら歴史について調べ始めた。
「何を調べるつもりだ?」
「私たちの生きた意味というものが知りたいのだ」
それはなかなか難しいだろうと思ったが、真剣な目をする柚にそれを言い出せず、俺は宿題に戻った。
夕方になって宿題が終えて振りかえると、柚が伸びをした。幽霊のくせに疲れたように肩をもんでいる。
「なにかわかったのか?」
声をかけてみた。
「大したことはわからぬな。わかったのは結局この地方が豊臣秀吉の支配下にはいって主家の領地が全て召し上げられ、小早川隆景のものになったということだけだ」
「なるほど」
そんなことだろうと思った、と言いそうになって口を閉じる。柚なりに初めての道具で必死にやったのだ。
「インターネットというのか、これはいろんなことがわかるが、量が多すぎて読むのに時間がとられる。その上、人によって言うことが違うので真贋がはっきりせん」
「それはあるね。昔のことなんてちゃんとした記録がないことが多いから」
俺の言葉に柚が首を横に振る。
「記録自体はあっただろうがな。私も日記をつけていたのだが、殺された後に館ごと燃やされてしまったのだ」
「燃やされたって?」
「私たちが殺され姫様たちが亡くなった後に、館にも火がかけられた。死んだあとに知った話だがな」
「なぜそんなことを?」
「あの男は高千代丸様が正式な血統ではないとの偽の噂を流して自分が領主におさまった。だからそれを打ち消すような証拠が出てこぬように徹底して後始末をしたのだろうな」
「陰惨な話だね」
「何にしてもわからぬというのは業腹だ。他に調べる方法はないのか?」
「他にか。しかしお前、俺が仇の子孫だということはどうやって調べたんだ?」
疑問だったことを聞いてみる。
「それか。それは血の匂いでわかるのだ」
「血の匂い?」
「そうだ。私くらいの力の持ち主になると血の匂いをかぎわけるのは造作もない」
「匂いねえ」
さすがは幽霊というべきか俺は悩んだ。
「それより調べる方法を知らぬか?」
「うーん。図書館に行って古い資料を見るという手があるよ。インターネットには上がっていない情報も多いらしい」
「ほう」
柚が目を輝かせる。「そのようなものがあるのか」
「明日、連れて行ってやるよ」
俺は約束した。しかし、その前に今日の夕食だ。
「夕食を作るぞ。柚、手伝ってくれ」
声をかけると柚は「わかった」と言って立ち上がった。
日曜日の図書館は人間であふれていた。
図書館は自然に囲まれた多目的施設の中にあり、施設全体で利用者が多いのだが、図書館はその中でも人が集中していた。明るい室内には親子連れや、連れ立って遊びに来たらしい小学生たちや、熱心に本を読むお年寄りなどで混雑しており、歩き回るのも大変だ。幽霊も数体いたが、どれもそれぞれにとりつく相手がいて俺の方へは来なかった。
柚は周囲におかしな気配のないことを確かめると、資料室の方へ飛んで行った。俺が資料の閲覧をしなくてはならないかと思っていたのだが、柚はページを開かずとも紙に書かれた中身を読み取ることのできる能力があるとかで、それには及ばないと言われてしまった。じゃあ、なんで写真集は開いて読むのかと聞いたら、絵は開かないとわからないのだという。
そういうわけで柚が調べ物をするのを、なんとか見つけたベンチの隙間に座って、俺は待つことにした。昔親しんだ冒険小説を久しぶりに開いて読む。手にするのは小学校以来だがつい懐かしくて選んだ。最初は時間つぶしのつもりだったが、これがなかなか面白い。こういうのを名作というのだろう。俺はいつの間にか引き込まれていた。物語が佳境に差しかかったころだった。
「あれ、水上君?」
声がしたので顔を上げると、ボブカットに雪白の肌の女性が俺を意外そうな顔で見ていた。北村雪奈である。淡いグリーンのワンピースを着てバッグを提げている。俺はあわてて立ち上がった。
「北村さん」
声が裏返りそうになる。
「どうしたの、こんなところで」
「いや、ちょっと懐かしくて」
幽霊について来たなどとは言えない。
「そう」
「北村さんは?」
「家がちょっとうるさくて勉強をしに」
あまりここも勉強に適しているとは思えないのだが。そこに柚が現れた。俺の会話を聞きつけたのだろうか。雪奈の頭の上に浮いて、にやにや笑っている。
「どうしたの?」
雪奈は俺の視線を見て頭の上を見た。が、もちろんダークグレーのパンツスーツを着た幽霊が雪奈の目に見えるわけはない。
「何でもないんだ。虫かなと思ったら、見間違いだったみたいだ」
俺は適当なことを言った。
「そうなんだ。あの、おとといはごめんね」
「え、何のこと?」
いきなり謝られて戸惑う。
「私、ロクに話もしないで別れちゃって。あの塚のところで水上君が何かの声を聞いたような素振りをしたから、私怖くなっちゃって」
「ああ、そのこと。別にいいよ」
雪奈が気に病むことではない。いきなり声をかけてきた柚が悪い。
「あの、大丈夫だった?」
「あ、うん」
いろいろあったけれど、と心の中でつけ加える。
「呪いとかじゃないよね」
雪奈がおずおずと「呪い」という言葉を口にする。よほど怖いらしい。
「大丈夫だよ。幽霊なんて出てきたら退治してやるから」
そこは実績があるだけに自信を持って答えることができる。
「よかった。水上君は頼りになるね」
雪奈は笑った。それから続ける。「ね。連絡先交換しない? 何かあった時のために。お互い知り合いに連絡が取れると心強いじゃない?」
「え?」
俺はあまりにも嬉しい提案に無様にも聞き返してしまった。長年染み付いた不幸体質がそうさせたのだ。そんな俺の耳元で柚が叫んだ。
「何をぼんやりしておる。すぐに承知せぬか!」
「あ、いや、もちろんいいよ」
俺はポケットから携帯電話を取り出した。雪奈も携帯電話を出す。通信機能で雪奈の携帯電話から連絡先が流れ込んでくる。
連絡先を交換すると雪奈は笑顔で別れを告げて歩いて行った。
「ほう。あの女、お前に気があるようだ」
隣で柚が、面白いものを見たという顔で浮いている。俺は本を棚に戻すと、図書館を出て施設内の人が少なそうな場所をさがした。階段の下の隅まで行く。ここならだれもいない。
「柚、あまり適当なことを言うなよ」
ついてきた柚に文句を言った。
「何か問題があったか?」
「何って。相手は学校でも五本の指に入るくらいの人気があるんだぞ。なんで俺に気があるんだよ」
「さてな。そういうふうに見えたのだが」
「やめてくれ。そんなわけないだろう」
「まあ、お前がそう言うのならそうなのだろう」
「それと、他人の前で俺に話しかけるなよ」
「なぜだ?」
「お前の姿は他の人に見えていないんだから、反応すると俺が変に思われる」
「望みとあれば他人に姿が見えるようになってやってもよいのだが」
「そんなことができるのか?」
「ただ、体が透けてしまって、向こうが見えてしまうな」
それでは怪談によく出てくる幽霊そのものじゃないか。
「駄目だ。それじゃ、周りが驚くどころの騒ぎじゃなくなってしまう」
「だろうな」
柚は、うむとうなずいた。「お前が変に思われなければいいのだろう。努力する」
「頼むよ」
俺は頭を下げた。これではどっちが部下だかわからない。
「了解した。では、帰るか」
「調べ物はすんだのか、柚」
「ああ、だいたい見てみた。あまり参考になりそうなものはないな」
「ここにないとすると、他には資料がありそうな場所を思いつかないぞ」
「やはり年月というものは大きいな。積み重なってしまうと分厚い壁となって時の向こうのことは一切わからなくなる」
「そうだな。でも、そのうちまた資料が見つかるかもしれないよ」
俺は気休めを言った。
「お前は面白い奴だな」
柚はフッと笑った。「幽霊の私のことをなぜ気遣うのだ?」
「さあ」
それは俺にもわからなかった。何となく役に立ちたいという気持ちがしたのだ。
「私に惚れたか?」
「幽霊に惚れるかよ」
「だろうな」
俺たちは顔を見合せて笑った。
「じゃあ、帰るか」
ひとしきり笑ってから俺は言った。気持ちが浮き立つ。それは雪奈とアドレスの交換をしたからだろうか。たぶん、そういうことだろうと思った。
柚の順応ぶりは目を見張るものがあった。台所に立って二日目にしてガスコンロの扱いも電子レンジの操作も全く危なげない。さらに、包丁さばきは生前母親に厳しく仕込まれたということで、素晴らしい手並みだった。
「すごいな。俺が作るよりいいものが出来るんじゃないのか」
「褒めても何も出ぬぞ」
「いや、本当だ」
「私はこの時代の料理というものを知らぬ。お前の口に会うようなものはつくれぬよ」
「レシピならいくらでもインターネットで見たらいいよ。俺もそうした」
「やれやれ、何でもインターネットの時代なのだな」
苦笑いをしながら柚は味噌入れを俺に手渡してきた。
「私は幽霊だからな。味見が出来ぬ。最後はお前が味付けをしてくれ」
綺麗な顔でちょっと上目遣いにそう言われて、つい気持ちが高ぶってしまう。
「お、おう」
つくづく男というのは簡単な生き物だ。俺は雪奈を気にしているはずなのに。
「どうした?」
「なんでもない」
味噌を匙ですくい味噌越しに入れて鍋につけ、みそ汁にする。これで今日の夕食は出来あがりだ。
鶏ももの照り焼きとキャベツの千切りとトマトに、麩とニラの味噌汁。ご飯は今朝タイマーをセットしたものが炊き上がっている。
「いただきます」
俺が食べ始めると柚は目の前に座って、のぞきこんできた。
「うまいのか?」
「ああ、うまい」
「それはよかったな。幽霊になってつまらないのは食事ができぬことだ」
柚は心底うらやましそうに言った。
俺は食事をしながら柚の過ごした時代の話を聞いた。柚は自分の聞いた話とこの二日で調べた話をうまくまぜて話した。戸次道雪だとか高橋紹運だとか知らない武将ばかり登場したが、彼らの活躍は聞いていて飽きることがなかった。
食事の後の片づけはもはや柚に任せてまったく問題ない。手際良く茶碗を洗い、鍋を磨き、布巾でテーブルを拭く。
俺はその間、湯ぶねを洗ってから、明日の学校の準備をした。
柚が台所仕事を終えてからは風呂が沸くまで柚と対戦ゲームで遊んだ。柚はここでも飲みこみが早かった。難しい必殺技のコマンドをすぐに覚えて次々に放つ。「どういう幽霊だよ、お前は」と言うと、「見くびってもらっては困る!」と高笑いしながら攻めてくる。俺は防戦一方だ。対戦成績が一勝三敗になったところで風呂が沸いたので、ゲームは終了ということにした。
風呂に入ると一人になる。柚が来ないからだ。気持ちがほぐれてのびのびとする。いろいろとしてもらっていてどうかと思うが柚といるとちょっと気が張ってしまうようだ。たぶん、今まで一人で過ごす時間が多かったので、生活の中に他人がいるということがなれないのだろう。しかも相手は幽霊で女の子である。いや、別に柚がいないほうがいいというのではない。あくまで、そういうのに慣れないだけだ。
俺は湯ぶねの中で伸びをした。
そういえば今日は雪奈の連絡先を手に入れたのだった。これはかなり素晴らしい出来事だ。クラスの男子たちに自慢できるだろう。まあ、そんなことはしないけれど。しかし貰ったはいいが、どうしたらいいのだろう。こちらからメールをするべきだろうか。それはなかなかハードルが高い。なによりもまず適当な話題が思いつかない。今の俺が出来そうな話題といえば幽霊の話くらいだが、怖い話が大の苦手の雪奈にそんな話をするわけにいかない。メールですら、こう悩むくらいなのだから、ましてや電話なんてとてもそんな勇気が出ない。
不幸が似合う俺には無用の幸運だったか。ため息をついて湯からあがり体を洗った。
部屋に戻ってみると柚がパソコンを起動していて、ヘッドホンをつけて動画サイトを見ていた。いつの間にそんなことまで修得したのだろう。
俺が戻ったのに気配で気づいて振り返って言った。
「戻ったか。それが鳴っていたぞ」
机の上の携帯電話を指している。
「ああ、ありがとう」
見てみると、なんと雪奈からのメールだった。『こんばんは』というタイトルで
『本当に一昨日はごめんね。まだちゃんと生きてるよね』
という本文が書かれている。
「ほう、何だそれは? 手紙のようなものか」
肩越しに柚がのぞきこんできた。
「覗くなよ。これは電波という電気が空気中に起こす波を使って遠くの相手に文章を瞬間的に送る装置だ」
「よくわからないが、便利な文というわけか。女からつけ文が来るとはお前もすみに置けぬではないか」
柚が含み笑いをする。
「読むなよ」
「手紙を見るなとは言われなかったのでな」
「じゃあ、今後は禁止だ」
「その命令は受けかねるな。お前の動向を知っておくのも部下の役目のうちだ」
「なんだと」
柚をつかまえようとすると、浮かび上がって天井に張りついた。そのまま天井に逆さに寝そべる。さすがは幽霊だ。
「それは図書館で連絡先を交換した女であろう? なかなか積極的ではないか。すぐに返事をしてやってはどうだ。待っておるだろうからな」
「余計な御世話だ」
俺は椅子に座ってしばらく考えた挙句、次のようにメールした。
『風呂に入っていた。謝らないでいいよ。心配してくれてありがとう。大丈夫だ』
「ずいぶんと色気のない返信だな」
いつの間にか柚が後ろに回っていた。
「だから見るなよ」
「ほっほっほっ。おや、返事が来たようだ」
ほんとに返事が来ていた。早い。
『よかった。私もそろそろお風呂なの。おやすみなさい』
「ほれ、早く返事をせぬか」
柚が顔の横で逆さまになって俺をせかす。俺は急いで返事をしなくてはと焦って簡単な文を送った。
『じゃあ、おやすみ』
「なんだ、それは。そこは『今日は会えてうれしかった。また明日』くらいは書かなくてどうする」
柚は俺の耳にかみつかんばかりだ。
「俺はそういうのは苦手なんだ」
「ほう。ここは私が指導するべきかな」
柚が年上ぶった口調で言う。
「ずいぶんと経験があるような言い方だけど、柚はいくつなんだ?」
「死んだのは数えで十八の時だな」
「数え年か」
俺はネットで数え年と満年齢の関係を調べた。
「誕生日の前では数えから二を引けば満年齢で、誕生日の後では数えから一引けば満年齢になるんだな。誕生日はいつだ」
「八月の二十二日だな」
「へえ。俺も八月だ。十九日なんだ」
ということは。
「もしかして、どっちも十七歳で同い年か?」
「そういうことになるな」
「しかも三日、俺の方が生まれが早いじゃないか」
「暦が違うから、正確には比較できんぞ」
「あ、それがあるか」
なかなかチェックが細かい。
「それに、あいだに四百六十年という時間があることを忘れるなよ」
「つまりはババアというわけか」
「なんだと!」
「まあ、そういきり立つなよ、柚ばあさん」
「くっ。この男は。あの時始末しておくのだった」
攻撃ができなくて柚は空中で悔しそうに歯がみをしている。そこに玄関の開く音がした。母の帰宅だ。このやり取りはそこで終わった。
幽霊は夜も寝ることはない。そして、一旦眠ってしまえば数十年起きないのだという。
柚は俺がベッドに入ると屋根の上に出て、俺が寝ているあいだずっと見張りをしていてくれる。何もしないでいるのも暇だというので、俺の本を貸すことにした。柚はページを開かずとも本の中身を読めるので暗闇でも問題ない。いちどにいくつか持って上がるので、すぐに俺の蔵書は読み切ってしまうだろう。
実は柚の感覚は鋭いので、別に屋根の上に上がらなくとも見張りは出来る。俺がすぐそばに人がいると眠れないので柚に部屋を出てもらっているのだ。そのうち柚の存在になれたら、屋根に上がってもらわなくてもよくなるだろう。でも、柚はその時に部屋で何をするのだろうか。
月曜日の朝が来た。
いつも通りの時間に目覚まし時計のベルにたたき起され、伸びをして右足からベッドをおりる。台所からは母が朝食をつくる音が聞こえてくる。
天井から人間が生えてきた。柚だ。松葉模様の和服を着て、つややかな黒髪を腰まで伸ばしている。髪は重力を無視して上に向かって垂れていた。
「ようやく起きたか」
「お、おはよう」
朝から威圧的な物言いで圧倒される。
「その機械は騒がしいな。時間が来ると鳴るのか」
目覚まし時計のことのようだ。
「あ、ああ、これか。これは目覚まし時計というもので、機能としては……」
「起きるべき時間に鳴って、起こしてくれる、というわけだな」
柚に先回りされた。それでちょっとカチンときておかげで眠気が吹き飛ぶ。俺は柚に命令した。
「着替えるから、部屋を出てくれ」
「わかった」
柚が壁に消える。俺は手早く制服に着替え、部屋を出て顔を洗った。玄関のところで母に会う。母は今日、登校指導で早めに学校に行かないといけないらしい。
見送る俺の隣にいつの間にか柚が立っていた。ドアが閉まると尋ねてくる。
「今日は休みではないのだろう。お前は仕事に行かなくていいのか?」
「俺は学校だよ」
「学校だけなのか。悠長なことだな。私はお館で学びつつ働いておったぞ」
「お前の時代と一緒にするなよ」
俺は食卓に向かった。ご飯に味噌汁、焼き魚、いつもの朝食だ。
「ご母堂は私になじみの深い食事を作られる」
あとをついてきた柚が、感想を漏らす。
「柚の時代でもこんな朝食だったのか?」
「そうだな。あまり違いがない」
「変わらないものだね」
俺は急いで朝食をとった。朝は気ぜわしい。
食べ終わると洗い物は柚に任せた。ありがたいことだ。俺は弁当箱にご飯を詰め、冷蔵庫から適当に残り物のおかずを見つくろって弁当をつくった。それから歯を磨き、身だしなみを整える。
時計を見るといつもの一本前の電車に乗れるくらい余裕がある。柚が洗い物をしてくれたおかげだ。
玄関に行くと洗い物を済ませた柚が文字通り飛んでくる。一緒に家を出た。幽霊はとりついた相手からあまり離れることができないらしい。それで俺が行くところにはどこでもついて行かざるを得ないのだ。
駅まで早足で歩く俺の上を柚は気持ちよさそうに飛んでいく。駅の改札も軽々と上空を通過し、混雑するホームでも宙に立ってあたりを見回していた。
周囲を見ると明らかに幽霊とわかるのが四体ほどいたが、どれもこちらに関心をしめさなかった。他にも人間と区別のつかない幽霊がそれなりにいるのだろうけれど、柚が見張ってくれているのだから大丈夫だろう。
電車が来た。かなり混雑する。当然座れない。
駅に停まるたびに人が増えついに満員になった。人に押しつぶされる俺を柚は棚の上に寝そべって悠然と見下ろす。幽霊とは気楽なものだ、と俺は半ばうらやましく思った。吉塚駅に着いた。何とか電車の中から体をひっぱりだす。柚は電車の天井を抜けて俺の脇に立った。
「お前と一緒の格好をした人間がたくさんいるな」
柚が感心したように言う。確かに、数百の人間が制服という同じ格好をして歩いているのだから壮観ではあるのだが、これは約束違反だ。人前で話しかけないという約束だったはずだ。俺は柚をにらんだ。柚は、ああという顔をして言った。
「すまぬ。失念しておった」
その言葉に免じて、俺はつぶやくように小さな声で教えてやった。感覚の鋭い柚ならこれでも十分聞こえるはずだ。
「制服だよ。教師を襲った時に学校で見なかったのか?」
「いや、子供たちはそういうのを着ていなかったな」
相手は小学校の教師だったのだろうか、そんなことを考えていると隣を滑ってついてくる柚が姿を変えた。女子の制服である。
「ふむ、これでどうだ」
なかなか似合っている。元が美人だからなんでも似合うのだろう。俺は小声で言った。
「いいんじゃないか」
改札を出てごった返す構内を歩いていると知った声が飛んできた。
「あ、水上君」
振り向くと雪奈だ。群衆をすり抜けて寄ってくる。
「水上君もこの電車なの?」
思わぬ幸運に驚いて一瞬足が止まる。後ろを歩いていたサラリーマンが俺にぶつかった。よろけてしまう。サラリーマンは無言で俺をにらんで歩き去った。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
俺は雪奈のペースに合わせて歩いた。駅の外に出る。
「この電車だったの? いつもは見ないけど」
「うん。今日はちょっと早く家を出ることができたから一本早いのに乗ったんだ」
「そうなの。いつもはもう一つ遅いのね。あの電車だとぎりぎりだから、遅刻しそうじゃない? 私、心配性だから、あれに乗る勇気ないわ」
「そうなんだ」
柚が雪奈の後ろで盛んに雪奈を指しながら何か合図を送ってくる。しかし、何がいいたのかわからない。
「でも、水上君が無事でよかった」
「なんで、そんなこと」まだ、呪いのことを言っているらしい。
「だってやっぱり何かあったらって、気になるじゃない。私がお願いして一緒に行ってもらったわけだし」
「呪いの言葉なんて迷信だよ」
そう言いながら俺は呪いの言葉の正体が雪奈の隣を漂うのを見ていた。
「そうよね。そんなことあるわけないよね」
「そうだよ」
会話が途切れた。しばらく黙々と歩いていると交差点で信号待ちをしていた女子たちが雪奈を呼んだ。仲の良い友達のようだ。
「じゃあ、水上君。またね」
「じゃあ、また」
雪奈は手を振ってそちらの方に行ってしまった。
「お前は何をやっているのだ」
柚が腕組みをして俺を見下ろしている。約束を守る気はすでにないようだ。
「何を、ってどういうことだよ」
俺は他の人に聞こえないように言った。
「先ほど、合図をしたときに『君もいつもこの電車なのかい』と聞けばよかったのだ。それから私の話題が出た時には『メールありがとう。嬉しかったよ』などと言ってやるべきだ。そうすることで次の展開が期待できる」
「わかったよ。この次はそうする」
「次があるといいがな」
柚はガードレールの上に立って首を振っている。
信号が青になった。流れが動き出す。車道を横断し、歩道を埋め尽くして生徒の一団が進んでいく。数人を間にはさんで雪奈の後姿を見ながら歩いていると、道の端にぼろぼろの衣服を着て立ちすくんでいる女がいた。明らかに様子が変だったが、つい見てしまった。女と目が合う。次の瞬間、女は俺に飛びかかってきた。
幽霊だ。俺は息をのんだ。すっと、目の前に柚が割って入った。刀を一文字に振るう。幽霊は消えうせた。
「全く、目を合わせぬように言ったではないか」
柚は軽く息を吐きながら、文句を言った。
学校でもちらほらと幽霊を見かけたが、襲ってくる者はいなかった。教室に入る。どうやらここに幽霊は、柚以外いないようだ。
自分の席に座ると、クラスの隅で話をしていた男子の一人が俺の方に歩いてきた。原田だ。大柄でちょっとガサツな所があるが、気はいい奴だ。
「お前、今日北村と一緒に歩いていたらしいな」
見られていたらしい。
「たまたまだよ」
「たまたまか。しかし、ずいぶんと親しそうに見えたというがな」
「それはまあ、小学校から一緒だったからな」
「幼なじみか。いいなあ」
うらやましそうな顔をしている。こいつも雪奈のファンのようだ。
「まあな」俺はちょっと自慢顔だ。
「つきあったりしているのか?」
「まさか」
残念なことではあるが、そこは強く否定せざるをえない。
「つきあっているやついるのかな」
「どうだろうな」
なんとなくいないような気もするが、憶測なのでどうとも言えない。
「北村って、昔どういう感じだった?」
「そうだな。小学校の頃は活発なイメージだったかな」
「へえ、意外だな」
「男に交じってソフトボールをしてい、……」
目の前に逆さになった柚の顔が割り込んできた。睨みつけてくる。
「どうした?」
原田が柚の向こうから尋ねてくる。
「いや、なんでもない。そろそろ授業だし、また後で話してやるよ」
「そうか? じゃあ、またな」
原田が行ってしまうと俺は柚に小声で尋ねた。
「なんのつもりだ?」
柚は逆さに浮いたまま腕組みをしている。長い髪とスカートは重力に完全に逆らっているのだが、なぜか窓からの風受けてなびいていた。
「女の噂を本人のいないところで聞かれるままに話すなど、男の風上にも置けぬぞ」
「いつの時代の考え方だよ」
「時代など関係ないな」
そこに前の席の女子が後ろを向いた。
「なに?」
俺の声が聞こえてしまったらしい。
「いや、ごめん。独り言だ」
言い訳をすると、女子は変な顔をして前を向いた。柚はくっくっと笑っている。にらんでみたが平気な顔だ。
「学校生活とやら、せいぜい楽しませてもらうか」
柚は俺が反論できないのをいいことに宣言した。
授業中、柚は落ち着いてはいなかった。スカートをひるがえしながら教室内をうろついてクラスメートたちのノートをのぞきこんで回る。そのうちふっと姿を消したかと思うと、しばらくしていきなり黒板を抜けて現れた。隣のクラスに遠征していたらしい。
そばまで来ると俺のノートに文句をつけ始めた。
「お前の文字は汚いな。それに書き方が整理されていない。もっと余裕を持って大きな文字を書け。それから、段の変え方や書き出しの位置を工夫して見やすく書いてはどうだ。いろいろと見てみたが、うまい書き方をしているものは項目ごとに位置を整えてあって、見やすくする工夫をしておったぞ。学業をものにするには、頭の中を整理する必要がある。書きとり方の工夫はそのための第一歩だと思うぞ」
こちらが言い返せないのをいいことに説教をする。
「図が汚いな。綺麗な線が引けぬなら何故道具使わない。それでは後で何を書いたかわからないであろう」
指導が細かい。
「しかし、教える方にも問題があるようだな。もう少し大きな声でわかりやすく説明が出来んのか」
ついには先生にまで文句をつけ始める。
「二つ向こうの部屋でも同じことを教えていたが、ずっとわかりやすかったぞ。向こうに移動したほうがいいのではないか?」
俺はノートに『そういう仕組みになってない』と書いて見せた。
「仕組みとあれば致し方ない。こういうものからでも学べることはあるのだから、全力を尽くさねばな」
そんなわけで、始終柚が隣で指導をしてくるので、俺は授業をいつも以上に真面目に受けることになった。おかげで一日の授業が終わるころにはへとへとだった。
帰りは原田と一緒になった。
「別に俺と一緒に帰ったからって、北村と会えるわけじゃないぞ」
運が悪いことには自信があるので、そう牽制してみたのだが原田が
「まあ、そう言うな。途中まで一緒に行こう」
と言ってついてきたのだ。
「それで、北村は中学の時、どんなだったんだ?」
「どうといわれても」
頭の上の柚が気になる。汗をぬぐいながら言葉を濁した。
「もててたのか? 彼氏とかいたか?」
流れる汗を気にする様子もなく、原田は質問を重ねてくる。
「どうだろうなあ。同じクラスじゃなかったから、よくは知らないよ」
これは事実だ。中学の時は三年間同じクラスになることはなかった。これも俺の不幸パワーのせいだろうか。
「じゃあ、何が好きとか嫌いとかはわかるか?」
「小学校の頃のことなら……」言いかけて柚ににらまれた。
「いや、あまり覚えていないな」とごまかす。
なんで、俺が配下の柚に遠慮して口をつぐまないといけないのだ、と思うが、どうにも柚の迫力が怖い。
「北村って、どういうのがタイプなんだろうな。やっぱりスポーツをしているような奴かな」
「わからないな」
これも事実だ。小学校の時の記憶を掘り返してみても、雪奈が誰かを好きだという話を聞いたことがない。
それでようやくあきらめたのか、原田は今日出た数学の宿題の話をし始める。俺は日陰を選びながら歩いた。
ひとしきり話をしたところで駅までの途中のバス停で、原田は足をとめた。
「バス通学なんだよ」
と原田が言うので別れようとしたところに、俺たちの両脇をすごい勢いで女子が二人走り抜けて行った。そろいのポニーテールを激しく揺らして、よく似た後姿がみるみる遠ざかっていく。
「なんだ、あれは?」
俺があきれた声を出すと、原田が
「知らないのか? 朝倉姉妹だよ」
と教えてくれた。
「ああ、あれが、朝倉姉妹か」
聞いたことがある。学校での男子の人気が五本の指に入るとされているうちの二人。一年生の美人双子姉妹。成績優秀でスポーツ万能だという噂だ。
「このあいだの体育祭のグループ対抗リレー、見なかったか。凄かったぞ、あの姉妹の走りは」
「グループ対抗リレーなら、俺、怪我して保健室に行っていたから」
「なんだ。盛り上がったのに」
俺は応援スタンドを駆けおりたときにつまづいて転んで怪我をしたのだ。大した怪我でもなかったのだが、薬が不足していて救護テントから保健室に回されてしまった。それで大事な場面を見逃すとは、まったく不幸なことだ。
「何があったんだ?」
「あの二人はそれぞれのグループの一年生女子の代表だったんだ。姉の麻知さんが赤、妹の未知さんが白で、第一走者として出場した」
「へえ、それで何が盛り上がったんだ?」
「速さだ。スタートダッシュで他の女子を置き去りにして、二人でデッドヒートを繰り広げたんだ。同じ顔の美人がお互い譲らずトップを争ったんだ。これが盛り上がらずにいられるか?」
「まあ、盛り上がるだろうね。それでどっちが勝ったんだ?」
「ほぼ同時に第二走者にバトンタッチしたな。結局リレーは最終ランナー勝負で、赤が一着になったが」
「同着か。さすが双子だね」
「二人して成績も学年トップクラスだというし、天から二つも三つも贈り物を与えられているような人間っているもんだな」
「全くだ」
俺なんて天から不運を背負わされているというのに、何とも不公平な話だ。
そんな話をしている所にバスが来た。
「じゃあな」
俺は原田と別れた。
吉塚駅まで容赦のない日差しを浴びながら柚を連れて歩く。駅でまた雪奈に会えることをひそかに期待していたが、やはり会えなかった。そうそう幸運は続かないらしい。俺は蒸し暑いホームで七分待って、快速電車に乗った。
家に帰って着替えるとスーパーに出かけた。週末いろいろとあって買い物に出なかったので、食料の買い置きが限界だ。
「買い物か。どのようなところに行くのだ?」
柚は相変わらずな物言いだが、少し楽しそうだ。買い物が好きなのかもしれない。
「スーパーだ」
「スーパーとはなんだ?」
「食べ物を中心に何でも置いている店だよ」
「ほう。何でもあるのか。いいではないか」
歩いている俺の頭の隣を、かすり模様の和服を着た柚が漂いながら言う。
「それに安いんだよ」
「なるほど、それはよい」
柚は大きくうなずいた。
スーパーは家から歩いて十分ほどのところにある。スーパーにつくと柚は驚いた顔をして立ちつくした。
「ほう、確かにいろいろとある。これが全部一つの店なのか」
店内に入ると興奮を隠せなくなった。
「何なのだ、この色は? これも食べ物か」
とバナナに驚き、
「この白いかたまりはなんだ。野菜なのか?」
とカリフラワーに感嘆の声を上げ、
「これが全部納豆なのか。どう違うというのだ?」
と、納豆の種類に愕然とした顔をした。
俺はそんな柚に小声で答えながら、キャベツ、レタス、もやし、牛乳、卵、豆腐とカゴに入れて行く。
「これも食べ物なのか?」
柚が差していたのは積み上げられた缶詰だった。
「そうだ。中に調理済みの食べ物が入っている。腐らないように閉じ込めてあるんだ。何年でも保存できる」
柚は唸った。
「それはすごいが、鉄で覆ってしまうなど、ずいぶんと大げさなことをするのだな。手間も金もかかるだろうに」
「いや、そういうものの方が今では安いくらいだ」
「では、お前はなぜ選ばんのだ?」
「好みの問題かな。味付けが俺はあまり好きではない」
「わからん世の中だな」
柚がさらに唸る。俺は精肉売り場で豚コマと鶏ムネ肉を値段と鮮度を見較べてカゴに入れた。それから鮮魚売り場でアジの開きを選ぶ。
「おい、これはなんだ? 冷気が出ているが」
柚がまた引っかかった。そこには畳一枚分ほどの商品ケースが二つ縦に並べられており、中に凍った商品が整然と並んでいる。
「冷凍食品売り場だな」
「冷凍食品?」
「調理済みの食べ物を凍らせて売っているんだ」
「また大げさな話だな。そんなものが四割引きだと書いてあるぞ」
「いつでもそれくらい値引きをしているんだよ」
「ほう」
柚が大きな目を見開いた。俺はかまわずレジに向かった。レジのおばさんは幽霊もちだった。小さな子供の幽霊が頭の上で遊んでいる。
「千二百五十二円です」
レジのおばさんの言葉に柚は首をひねった。
「高いのか安いのかわからんな」
現代の金銭感覚がないと価格が安いのかどうかはわからないだろう。俺はICカードを端末にタッチして決済した。
「ありがとうございました」
カゴを持って移動し、袋づめをする。
「支払いはどうした?」
柚が不思議そうにする。
「カードで払ったんだよ」
「カードというのはさっきの小さな板のことか?」
「そう。その中にお金の情報が入っていて、それで支払いができるんだ」
「おかしな世の中になったものだな」
柚は嘆息した。ICカード自体は自動改札で見ているはずだが、あの場面では支払いが起きているという事実がわからなかったのだろう。
俺はしきりに首をひねる柚を連れて家に帰った。
夕食後、洗い物を柚に任せてのんびりゲームをしているとメールが着信した。見ると雪奈からである。急にドキドキとしてくる。指先がつい震えてしまうのが自分でもおかしくてならない。文面を開いた。短い言葉が書かれている。
『まだ、生きてる?』
俺は少し考えた。今日、どうしていたかを尋ねるべきだろうか。しかしそれはなれなれしすぎる気がする。聞かれたことにだけ答えるべきだろう。返信した。
『大丈夫だよ』
返事はすぐ来た。
『よかった。じゃあ、また明日ね』
メールはここまでのようである。俺はチャンスを逃したような気がして軽く落胆しながら返事を送った。
『また明日』
それで終わりだった。しかし、落胆する気持ちの一方で、俺の中にやる気がどこからともなく湧き出てくるのを感じた。具体的なことは何も約束していないにもかかわらず、「また明日」という言葉をもらった事実だけで、俺の気持ちは浮き立っていたのだ。この気持ちを何にぶつけていいのか迷った挙句、物理の予習をすることにした。雪奈が苦手だという科目を勉強して、また機会をみつけて教えられるようにするためだ。
例題を参考に練習問題を解きはじめる。俺も決して物理が得意とは言えないけれど、今なら出来るような気がする。
洗い物を片付けた柚がやってきた。
「何だ、宿題か?」
「予習だ」
練習問題を図に書き表しながら、返事をする。
「ほう、感心なことだな。おおかた、あの女にいいところを見せようと思っておるのだろうが、努力するのは悪いことではないぞ」
「なんで、そんな言い方をするんだ。俺だって勉強くらいする」
はねかえり係数と運動量保存の式の連立方程式から衝突後の速度を求めるらしいが、式の立て方がよくわからない。
「それは悪かったな。先ほどメールとやらが着信する音が聞こえたから、そうだろうと思ったのだ」
さすがに耳がいい。しかも、嫌に勘のいい奴だ。
「帰りに会えなくて残念だったとメールをしたか?」
「そんなこと書けるわけないだろう」
頭の中がぐちゃぐちゃしてきて練習問題どころではなくなる。
「やれやれ、相変わらずだな。まあ、よい。明日の朝も会えるようにしてやろう」
「ほんとうか」
思わず振り返って尋ねると、柚はフッと笑って言った。
「今日と同じ電車に乗ればよいのであろう。乗れるようにしてやる。ついでに電車に乗る前にあの女を探してやるから、一緒に電車に乗るといい」
「ありがとう」
「何、それくらい造作もないことだ」
柚は楽しそうに言った。
そして翌朝、本当に柚は、人のあふれそうなプラットホームで雪奈を見つけて俺を案内してくれた。
「あ、水上君。おはよう」
少し驚いたふうにする雪奈に俺は何でもないようなていを装って挨拶をした。
「おはよう。北村さんの姿が見えたから」
「そうなんだ」
雪奈は並んでいた列を離れて、俺と並び直してくれた。嬉しい反応である。
「ごめん。せっかく並んでいたのに」
「いいよ。どうせ座れないし」
そこに列車が来た。窓から見える車内は空席がちらほら見える状態だ。ドアが開くとその車内に人が流れ込んでいく。俺たちもその流れの一部となって乗車した。ドア近くの間仕切りに雪奈が背中をつけるようにして立ち、俺はその前に向かい合うように位置をとる。ついでにいえば、柚は制服姿で、俺の頭の上あたりの天井に寝そべっている。
「多いね、本当に」
俺はありさわりのない感想を言った。実際、まだ体が触れ合わないだけの空間がお互いの間にはあるが、多くの人が立っている。もちろん空席はすでにない。
「昨日も体験したとは思うけど、この列車混むよ」
「そうなんだ。大変だね」
と、いいつつ、いつも乗っている電車も混むので、そんなには気にならない。今の俺の問題は雪奈が近いことだ。ちょっと電車が揺れたら体がぶつかってしまいかねない近さである。目の前に雪奈のさらさらの黒い髪が迫っている。俺は気持ちを落ち着けて平常心を保つことに集中した。
「そろそろ、中間試験が近いよねえ」
雪奈がいきなり、まだ一週間以上先の試験の話をするので、戸惑う。
「そうだね」
「勉強している?」
「少しだけ」
「へえ、すごいね。何をしているの?」
「昨日は物理の勉強した」
やっておいてよかった、と俺は思った。
「そうなんだ。わからなくなったら水上君に聞くね」
雪奈に頼ってもらえるなら、全教科頑張ることにしようと心に決める。でも、雪奈が得意な科目を俺があてにするという手もあるのではないだろうか。そこは尋ねてみるべきだろう。
「北村さんは何の勉強をしてるの?」
「古文とか英語かな、あと数学」
「得意なんだ?」
「ううん。数学は苦手。でもやっておかないと後で困るでしょう」
なかなか堅実なタイプのようだ。小学校の頃の記憶の中の雪奈とはだいぶイメージが違っている。あの頃は思いつきで行動する感じだったのだけど、人は変わるのだろう。
「そうだね。俺もやらないといけないな」
電車は次の駅に着いた。また人の流れが乗り込んでくる。その圧力に背中を押されて雪奈とくっつきそうになるのを踏ん張ってこらえる。
「ありがとう」
雪奈の雪白の顔が俺を間近で見上げていた。ちょうど俺が雪奈を守るような格好になっている。その礼を言われたのだと気がついて俺の体に活力がみなぎった。なんとしてでも吉塚駅まで雪奈を守る。そう決めたのだった。