柚が来た
俺、水上夏樹はあまり運のいい方ではない。
先日も特に買い物もないのにショッピングセンターをうろついていたら、エレベーターで閉じ込められてしまった。まったくついてない。こういうときアニメなどだと一緒にかわいい女の子が閉じ込められていてその子と仲良くなるという展開があったりするわけだが、俺が一緒に閉じ込められたのは一匹の大きなカメムシだった。しかもエレベーターの操作パネルのそばに止まっていた。助けを呼ぶにはパネルの緊急呼び出しボタンを押すしかない。なんとかカメムシをよけてボタンを押したのだが、通話を終えて気が緩んだ瞬間にうっかりカメムシのそばに手を置いてしまった。カメムシは即座に反応し、見事に室内にあの何とも言えない生臭い匂いが充満したのである。俺は救出されるまでの数十分カメムシの匂いに染められていた。運が悪いにもほどがある。
そんな運の悪い俺が、今とんでもない幸運に恵まれている。
九月も末の金曜日。夏はとうに過ぎているのに福岡県全体がまだ暑さの中にとどまり続けていた。そんな中を汗まみれになりながら高校から吉塚駅まで歩いてホームに上がるとボブカットの女子がいるのに気がついたのだ。
北村雪奈である。
学校で男子の人気を集めている女子の一人だ。五本の指に入ると言われている。俺はずっと話をしてみたいと思っていた。雪奈と親しくなれたら、この不幸続きのパッとしない人生も変わるのではないかとも思う。それは無理な話ではないはずなのだ。もともと俺たちは小学校、中学校と同じ学校だった。小学校ではよく同じクラスになったりして話をすることもあったのだ。
それが、中学になったころからなんとなく疎遠になり、あまり話さなくなった。偶然同じ高校に通うようになったけれども同じクラスになることはなく、同じ駅で乗り降りするのに行動パターンが違うのか、行き帰りに滅多に見かけることもない。
今日は運悪く数学の先生に用事を言いつけられて、少し遅くなったのが逆によかったらしい。ホームには他にうちの学校の生徒も少ない。話をするチャンスである。
さりげないふりで雪奈のそばに立ってみると、
「あ、水上君、久しぶりね」
と向こうから声をかけてくれた。覚えていてくれたようだ。それだけで嬉しくなる。
「うん、そうだね。一人?」
緊張したが何とか会話になっている。
「ええ、今日はお友達がお休みで」
何という幸運。その友達がいたら話しかけることなど出来なかっただろう。
俺は雪奈を見た。中学の頃までは普通の女の子だと思っていた。それが、高校に入ったころから肌の色が名前の通りに雪のように白くなり、元々赤かった唇がルージュでも引いたかのようになった。男子の注目が集まったのはそれからだ。そんな雪奈と一緒に帰ることができるなんて、信じられない。
すぐに快速電車がやってきた。まだ来なくていいのにと思いながら、雪奈の後について一緒に乗る。会社勤めの人たちの帰宅ラッシュまでには時間があり、車内はそれほど混んでいないが、座れるほど空いているわけでもない。
「電車の中は涼しくていいよね」
雪奈が話しかけてくれるが、俺は頭がうまく回っていなかった。
「そうだね」
などと短く答えてしまう。もとからの知り合いであるとはいえ、何せ、相手は今や学校のアイドルに成長した女の子である。どこを見ていいのかさえ戸惑う状況だ。
「いつまで暑いのかな」
「予報ではもう少し暑いみたいだけど」
これだけ話しただけで、すでにのどが乾いている。
「困るよね。もうすぐ衣替えなのに」
「そうだね」
自分の対応力のなさが嫌になる。もう少し他に言うことがあるだろう。小学校の頃は普通に会話ができたのに今は当たり前の話をするだけで苦労するなんて、いくらなんでもひどすぎる。
「どうしたの、黙り込んで?」
雪白の顔が俺をのぞきこんでいる。細い眉に切れ長な目、茶色がかった瞳、形のよい鼻。俺は黙り込んでいただろうか。いや、反省している場合じゃない。今は何か言わないといけない。
「い、いや。暑さが終わらない原因について考えていて」
どうにも苦しい言い訳だ。雪奈は首をかしげた。
「そうなの? 何かわかった?」
「いや、とくに」
なんだろう、この答えは。それでもこれが俺には精一杯である。
「やっぱり、温暖化のせいかな」
「そうかもしれないね」
雪奈からのアシストらしき言葉をうまく生かせない。何という決定力のなさ。
「でも、冬は寒かったよね」
「他の地域では冬に温かったらしいよ」
ここで、なんとか今朝のニュースで耳にした話を入れてみる。
「そっかあ、世界的に天候が乱れているのかな」
「そうだろうね」
雪奈との会話は楽しい。それは間違いない。だが、続けて行くのはなかなかの苦行だ。このままうまくやっていく自信がない。
「水上君も物理選択だよね。プリント配られたでしょ」
「うん、昨日ね」
こういう質問なら、問題なく答えられる。
「解いた?」
「解いたよ。今日提出した」
事実だから悩まず話せる。
「教えてくれない? 私、物理苦手なの」
雪奈がプリントを取り出した。これは、おあつらえ向きだ。第一に今日クラスメートに教えてもらったばかりで全ての解き方が頭に入っているし、第二に雪奈の顔を見ながら話さなくていいので少しは緊張しなくて済む。俺はプリントを受け取ると、さっそくドアの窓ガラスに片手で押しつけて運動量保存の法則についての説明を始めた。
香椎駅を過ぎたあたりでだいぶ人が降りて椅子に座ることができた。二人で並んで座り、解説を続ける。黒くさらさらとした髪が近くで揺れてドキドキするが、今はプリントに集中だ。物理のことだけ考えていれば話を続けるのには問題がない。
一つ一つの問題について解き方を説明してゆき、ふと顔を上げた時には駅へ向けて電車が減速していた。俺たちの降りる駅である。
「もう着いたのね」雪奈はプリントを鞄にしまった。「ありがとう。すごくわかりやすかったよ」
「そっか、よかった」
つまらなかったとかわからなかったと言われずに、俺は安堵した。
電車が停まった。俺たちは立ちあがった。楽しい時間が過ぎるのは早い。名残惜しく思いながら席を離れる。出来る男ならここで週末の約束でも取り付けるところなのだろうが、どうにもそういう勇気が俺にはない。
ところがホームに降りたときに雪奈が言った。
「この後ちょっと時間ある? つきあってほしいところがあるのだけど」
「いいけど」
ぶっきらぼうな言い方になりながら、俺は喜んでうなずいた。
「誰かに一緒に行ってもらいたいなと思っていたのだけど、水上君ならちょうどいいかなと思ったの」
「どこへ?」
雪奈が微笑む顔がまぶしくてまともに見られず、俺は足元を確かめるふりをしながら尋ねた。
「ほら、橘神社。あそこって道を拓いてくれるのだそうよ」
「そうなの?」
橘神社というのは駅から北の山の方に少し歩いたところにある神社だ。小さな林の端に小さな社が立っている。俺たちの家があるのは駅の南だから反対方向だ。
「うん。それで一緒にお参りしてほしいの」
「いいよ」
もとより俺に断わるつもりがあろうはずがない。多少の遠回りがなんだというのだろう。楽しい時間が延長されたのだ。この喜びを誰に感謝したらいいのかという気持ちでいっぱいである。
「ありがとう」
「何をお参りするの?」
「そろそろ、進路を決める時期じゃない? 私もいい進路を見つけたいからお願いしてみようかなと思って」
「そういうのって神頼みで決めることだっけ」
顔を上げて雪奈を見ると、首をかしげて俺の方をのぞきこんできた。
「選択肢を見つけ出すのにも運が必要なことがあると思うの。だからお参りしてみようと思ってね。だめ、かな?」
「いいんじゃない」
俺は幸運をかみしめながら、そうとは気づかれないように言った。
駅前は田舎の駅には似つかわしくない大きなロータリーが整備されたばかりだ。強く照りつける太陽の光をさえぎるものがない。俺たちはそこを足早に抜けて、古い小さな建物が軒を並べる細い道に入った。しかし、建物の陰になって日差しは防げるが、熱くなった空気がどんよりとたまっていてここも快適とは言えない。
「暑いね」
雪奈が小さなタオルで汗をぬぐっている。
「そうだね」
そういうものを持たない俺は手で額の汗をぬぐう。
電車を降りてからこちら、雪奈の言葉数が減っている。雪奈の様子をうかがうが、表情が読み取れない。何かまずいことでもあっただろうか。しかし、今は雪奈の頼みにつきあっているのである。怒っているはずはない。
考えるうちに道は家並みを抜けて左に杉林、右に畑が広がる場所に出た。ゆるく右にカーブしながら道は山すそへと向かう。俺は杉林のつくる影に入って歩いたが、雪奈はそうしなかった。細い道の右端を歩いている。
俺は杉林の中をみた。こんもりと土が盛り上がっている場所がある。笠塚だ。昔、討ち死にした人を葬ったと言われている。
俺は小学校の頃のことを思い出した。あれは四年生の時だったか、校内キャンプといって学校内にクラス全員で泊りこんだ。イベントの一つとして夜に肝試しが行われた。まあ、定番だろう。肝試しの前には怪談がいろいろと披露されたのだが、その中にこの笠塚の話もあった。
その話によると、笠塚に葬られた者はこの世に強い恨みを残しており、塚のそばを通りかかったものに呪いの言葉をかけるのだという。そうして言葉を聞いたものは数日のうちに死んでしまうことだった。
もしかして雪奈はその怪談を思い出して杉林を避けるように歩いているのだろうか。
そういえば肝試しではくじ引きで雪奈と組んで一緒に回ることになったが、雪奈は終始ひどくおびえていて、俺は雪奈を守りながら脅かし役のクラスメートたちを一人で蹴散らしてまわることになった。
もしかすると神社に行くのに俺を誘ったのはそのことがあったからだろうか。
「ええと、北村さん」
「はい」
「もしかして笠塚のこと……」
雪奈が耳をふさいで小さな声で言った。
「止めて、言わないで」
「言わないよ」
俺は思いの外の反応にあわてて口を閉じた。
「急ごう」雪奈が足を早める。
どうやら、怪談に怯えているのは本当らしい。ということは、俺は肝試しの時の実績を買われてガード役に選ばれたということだろうか。それであればすごく嬉しい。俺のことをそこまで覚えてくれていた上に指名してもらえたのだから、親密な関係まであと少しである。俺は足取りも軽く、雪奈の後を追った。
ようやく林の北の端に来た。苔のむした石の鳥居がある。橘神社だ。
俺たちは一緒に鳥居をくぐった。境内は木々が日差しを遮りひんやりとしている。どこからか風が抜けて汗ばんだ肌に心地いい。しかし、あまり手入れはされていないようで、手水舎の水は枯れ石畳は枯れ葉に埋まっている。
「なんだかご利益がありそうに見えない感じだね」
つい、正直な感想が口をついて出る。
「見た目じゃないと思うの」
「そうだね、ごめん」
「あやまることないけど」
並んで拝殿の前に立った。雪奈は小さな財布から五百円玉を取り出した。
「そんなに入れるの?」
「大事なお願いをするんだから、これでも少ない気がするけど」
雪奈の真剣な目に俺は戸惑った。
「十円じゃ駄目かな?」
「百円くらいは出そうよ」
仕方なく俺はズボンのポケットから財布を出して百円玉を一枚取った。
「じゃあ、いくよ」
雪奈の合図で一緒に賽銭を投げ、礼をして柏手を打つ。適当な願い事を百円分して顔を上げたら、雪奈はまだ手を合わせていた。
「ずいぶん、長いお願いをしたんだね」
ようやくお祈りを終えて歩きだした雪奈に聞いてみる。
「だって、人生を決めるかもしれない大事なお願いだから」
「どんなお願いなの?」
そこまでして願うお願いの内容が気になる。
「さっき言ったとおりよ。いい進路を見つけたいって願ったの」
「そっか」
なるほどその通りだ。何をきいているんだ、俺は。
「あ、おみくじを引いて行かない?」
雪奈が拝殿脇のおみくじの自動販売機を指して言った。
「そうだね」
金額は五十円である。財布を見るとちょうど十円玉が五枚あった。雪奈が引くのを待ってから、俺も十円玉を五枚入れた。五枚目が入ると同時に取りだし口におみくじが滑り下りてくる。
「私、末吉だわ」
雪奈が少し悔しそうに言った。俺のは開いてみると大吉である。
「すごい」
驚きが声になってしまう。こんなこと滅多にあることじゃないのだ。運のよくない俺は大抵、小吉や凶ばかりで、大吉なんて引いたのは人生で二回目くらいだ。
「よかったね。お財布に入れて持ち歩くといいよ」
「ありがとう。そうする」
雪奈のアドバイスに従って財布のカード入れにおみくじをしまう。
「私は結んで行くわ。あまりよくなかったから」
雪奈は張られていた糸におみくじを結んだ。その後ろ姿を間近で眺める。そこで、ふと、まるでデートの途中で神社に寄ったカップルのようだ、と思った。なんともいい感じである。つい、顔がにやける。
「お待たせ。いこう」
雪奈が振り向いて言った。俺はあわてて顔を戻した。せっかくのデートももう終わりのようだ。俺たちは降り積もった落ち葉の上を歩いて小さな境内を出た。
「ところで、水上君は何を願ったの?」
左を歩く雪奈に尋ねられて俺は困った。小さな神社のことでもあるしと、いい加減なことを願ったのである。
「大したことじゃないよ」
「教えてよ。私も教えたじゃない」
「本当に大したことじゃないから」
「ええ。いいじゃない」
澄んだ瞳にまっすぐに見つめられると嘘がつけない。こういう時にとっさにかっこいいことが言える人間になりたい、と思う。俺は本当のことを言った。
「楽しい人生が送れますようにって、お願いしたよ」
「へえ?」
想像通りの雪奈のあきれたような声に俺はうつむきかけたが、そこにもう一つ別の声がした。
「面白い!」
俺は最初雪奈が言ったのかと思ったが、すぐに声がした方向が違うことに気がついた。声は右の方から聞こえてきたのだ。右を見ると林で、中に笠塚がある。話しているうちに笠塚のそばまで来ていたらしい。
俺は呪いの言葉の話を思い出した。まさか、そんなことがあるだろうか。
「どうしたの?」
恐る恐るといった様子で雪奈が尋ねてくる。俺の顔をのぞきこむ瞳には怯えの色が見える。俺が塚の方を見て止まったので、呪いの言葉のことを思い出してしまったのだろう。
「なんでもないんだ」
俺は雪奈を怖がらせまいとして平気を装って答えた。
雪奈は俺の嘘に気付いたようだ。しかしそれ以上聞いてこなかった。俺も何も言わなかった。俺たちは微妙な空気のまま駅の南まで歩き、雪奈の住むマンションの近くで言葉少なに別れた。せっかくの楽しい時間が台無しである。気落ちしながら家に帰る。
バス停二つ分歩いた角を左に曲がって田んぼの中の道を抜け、坂を少し上がったところが俺の家だ。駅から十五分ほどの道のりである。
鍵を開けて家に入る
「ただいま」
誰もいない家に声が響く。父は幼いころに亡くなった。兄弟姉妹はいない。母は俺の通う高校とは別の高校で教員をしていて連日帰りが遅い。
台所に行き冷蔵庫を開け、牛乳をコップに半分ほど注いで飲みほした。
さっきの声はなんだったのだろうと、つい考え込んでしまう。呪いの言葉などという話は子供だましだとおもっているが、空耳にしてははっきり聞こえた。怪談の通りなら俺はあと数日の命ということになる。
じんわりと額ににじむ変な汗とともに嫌な想像を振り払うと、冷蔵庫の中を確認した。帰りの遅い母に代わり、夕食をつくるのは俺の役割だ。中学の頃からこういう生活なので、料理は一通り出来る。
今日は買い置きの材料だけで何とかなりそうだ。目算の立ったところで着替えることにした。
廊下を抜けて自分の部屋に行く。ドアを開けた俺は一瞬頭が真っ白になった。手にしていた鞄を取り落とす。
女の子が俺のベッドの上に寝転がって本をめくっている。
年は俺と同じくらいだろう。長い漆黒の髪を二つに結んで、ゴスロリ姿でほっそりとした両足をゆらゆらとゆらしている。
「ああ、来たか。勝手にやらせてもらってるよ」
女の子はこちらを見てにっこりと笑った。整った顔立ちである。
何か言おうとしたが驚きのあまり声にならない。そんな様子を見て女の子は起き上がって俺の前までやってきた。大きな胸を突き出すように身をかがめると、上品な口をいたずらっぽくゆがめて大きな目を細め、見上げてくる。
「なんだ。『お帰りなさいませ、ご主人様』とでも言ってほしかったのか?」
「あの、あなたは何なんですか?」
やっと言葉が口から出た。
「この格好か? これはその本を見てお前が喜びそうだと思って着てみたのだがな」
女の子はベッドの上に開いたままの本を指す。それはアイドルがさまざまな衣装を着て写っている写真集だ。勇んで買ったものの何となく持っているのが恥ずかしくて、本棚の後ろに隠していたものだ。それなのにどうやって見つけ出したのだろう。
「いえ、そうではなくてですね」
格好は確かに好みだった。しかもこの女の子にすごく似合っている。
でも、鍵にかかった家に勝手に入りこんでベッドの上で本を見ているなんて普通の人間のすることじゃない。そもそも犯罪だ。
「とにかく出て行って下さい」
俺は少女の細い手をつかんだ。冷たい手だ。抵抗することなく笑みを浮かべたまま俺に手をひかれて部屋を出る。
そのまま廊下を通って玄関に連れて行った。
「今回は警察には言わないでおきますから帰ってください。靴はどうしたんですか?」
玄関に女の子のものらしい靴はない。どこかに隠しているのだろうか。
「それは、出来ないのだが」
女の子は涼しい顔で立っている。靴のことは気にもしていないようだ。
「出て行って下さい」
「断わる」
「通報しますよ」
「無駄なこと」
いらいらとした俺はついに玄関を開けて女の子を表に突きだした。玄関を閉めて鍵をかける。腹立ちと困惑で興奮しながら、俺はこれで問題は解決したと思った。
しかし、それは安易な考えだった。
振り向いた俺の目の前に、追い出したばかりの女の子が現れたのだ。玄関わきの壁から湧き出るようにして抜けてくる。
俺は愕然とした。
「だから、出来ないと言っただろう」
完全に抜け出た女の子が俺の方を向いて、にやりと笑う。
「あ、あなたは一体?」
俺は床にへたり込みそうになるのをこらえた。
「私は幽霊だよ。安心しろ。今のところ、危害を加えるつもりはない」
そう宣言した自称幽霊は、全く幽霊らしくない小麦色に日焼けした健康的な肌でピンと背筋を伸ばして立っている。背丈は俺より少し低いくらいだが、姿勢のよさのせいか大きく見える。
「幽霊?」
俺がぼう然と尋ねると女の子はうなずいた。
「そうだ。こんなこともできるぞ」
そのまま浮き上がって空中に静止した。スカートの端が目線の高さになって目のやり場に困る。
「あの、普通に立っていてください」
「そうか?」
幽霊は床に降り立った。ある程度、話せばわかる相手なのだろうか。正面切って頼んでみることにした。
「帰ってくれませんか?」
「それは出来ないな」
「なぜですか?」
「お前に用がある」
「どんな用ですか?」
「それはいずれわかる」
やはり話にならない。俺は幽霊の様子を見ながら電話機に手を伸ばした。誰かに助けを求めようと思ったのだ。幽霊はそれを見て言った。
「別にどこに知らせてもいいし、どこに逃げてもいいが、私はお前について行くし、私の姿はお前以外には見えない。お前が正気を疑われるだけだよ」
こうなるとどうしていいかわからない。逃げるのも助けを求めるのも無駄だというのだ。俺はにらんだが、幽霊は涼しい顔をしている。
「もしかして、笠塚の幽霊ですか?」
俺は呪いの言葉のことを思わずにはいられなかった。
「その通りだ。この声に聞き覚えがないか?」
確かにこの幽霊の声はさっき笠塚の前で聞いた声のようだ。さっきは一言だけだったので、自信はないが、本人が言うのなら間違いないだろう。などと落ち着いている場合ではない。笠塚の幽霊なら目的はあれしかない。
「ということは、もしかして用というのは俺を呪い殺すということ……」
「ほう、知っておったか。ならば隠しておいても仕方ない。その通りだ」
死刑宣告を受けて俺はがっくりとその場に崩れ落ちた。運が悪いにもほどがある。おみくじの大吉なんて大外れだ。あの場を一日に何人通行するかはしらないが、何も俺がその呪いを受ける相手に当たらなくてもいいだろうに。さっきだって雪奈も一緒だったのだ。雪奈が呪われなかったのはいいけれど、なぜ俺が。いや、待て。本当に雪奈は無事だろうか。この幽霊の仲間が雪奈のところに行っていたりしていないだろうか。
「あの、今呪いを受けているのは俺だけですよね?」
「呪い? ああ、私がとりついている相手ということか。お前だけだ」
「さっき俺と一緒に歩いていた女の子は幽霊にとりつかれていたりしないんですね」
「あの女か。無事だ。とりついているものはない」
幽霊は少し目を細めて俺を見下ろした。「しかし、感心な奴だな。こんな状況でも他人の心配をするとは。あの女とお前は恋仲なのか?」
「そういうわけじゃないですけど」
俺が口ごもると幽霊はくっくっと笑った。
「まあ、よい。私が目覚めたのは多分数十年ぶりくらいで、とりついたのは目覚めてからではお前が初めてだ。そして笠塚の怨霊は他にはおらん」
一安心だ。しかし、やはり俺は不幸な星の下に生まれたようである。なんで数十年に一度の悪運に見舞われないといけないのだろう。
「なぜ俺を選んだんですか?」
自分でも声に力がないのがわかる。
「そうだな。教えてやろう。お前の顔だよ」
「顔?」
自分の顔は丸顔でさえない感じだと自分でも思う。だが、それが理由で殺されないといけないのだろうか。
「そう情けない顔をするな。お前は私を殺した者とよく似た顔をしておる。そう言っておるのだ」
幽霊はかがみこんで内容にそぐわない明るい声で告げた。
「同じ顔というだけで、ですか?」
「いや、それだけで殺すのではないぞ。顔が似ているので、先ほど少し調べさせてもらった。間違いなくお前は私を殺した男の血をひいておる。つまりは仇だな。だから殺す」
ずいぶんと迅速な調査だ。お役所あたりにも見習ってもらいたい。などと感心している場合ではない。
「そんな。もう俺は殺されるしかないんですか?」
「そうだ。だが、まだ生かしておいてやる。せいぜい残り時間を楽しめ」
幽霊は立ちあがって俺を見下ろしながら、言い放った。俺はしばらくショックで動けなかった。
衝撃が去って頭が動くようになると俺は立ち上がった。このままでいると確実に殺されてしまうのだ。無駄にすわりこんでいる時間はない。
とりあえずふらつく脚で立ったが何をしていいかわからない。女の子は楽しげに俺の様子を見ている。壁を殴ってみた。しかし手が痛いだけだ。
自分の部屋に戻ってみる。幽霊は音もなく後をついてきた。
鞄が床に落ちている。そういえばさっき女の子を見たときに驚いて落としたのだった。宿題や勉強はしなくていいだろう。もはや何の役にもたたない。鞄を蹴飛ばす。棚を見た。そのうちやろうと思っていたゲームが置いてある。でも、ゲームをする気にもなれない。まだ読んでいない本もあるが、これも同様だ。
ネットはどうだろうか。ブログや掲示板に幽霊に殺されることになったと書いたら話題になるかもしれない。パソコンの電源を入れてみたが、書いたところで誰も信じないだろうと思いあたって、気持ちがなえた。
いらいらして布団やまくらや本を床に散らかしてみたが、大して気は紛れなかった。何より意味がない。
笑顔で俺を眺めている幽霊に向かって本を投げつけてみた。本は幽霊の胴体を素通りして、後ろの壁に当たって落ちた。
「無駄なことだ。私は幽霊なのだよ」
女の子はあざ笑うように言った。
「いつ俺を殺すんだ」
俺は叫んだ。もはや丁寧語で話している場合ではない。
「お前次第だな」
「どういうことだ?」
「じきにわかる」
俺は布団に倒れ込んだ。こぶしを強く握って振りあげたときに、自分が汗をかいているのに気がついた。そういえばひどく暑い。帰ってからまだ、エアコンもつけていなかったのだ。それで暴れたのだから暑くて当然である。
俺はエアコンをつけた。ついでにTシャツとハーフパンツに着替える。幽霊が見ているがかまうものか。ワイシャツとズボンは床に放り投げた。
「ほう。そろそろ、いいか」
幽霊が言った。見るといつの間にか白い着物に着替えている。頭には鉢巻きをして胴にたすきをかけて、そして手には大きな刀を握っていた。
「ちょっと。もう、なのか」
俺がうめくと女の子の幽霊は神妙な顔で刀を構えて俺をにらんだ。
「冥土の土産に教えてやろう。お前が殺されるのは私のことではない。我が主君、橘姫様の無念を晴らすためだ。お前でちょうど百八人目となる。わかったら、観念して我が刀の錆となれ」
そのまま刀を振るって突っ込んでくる。俺は右にかわそうとしたが、床が散らかっていて本で滑って盛大に転んでしまった。
それがよかったらしい。幽霊の刀は俺ではなく、俺のそばに落ちていたクッションに突き刺さった。
「外したか」
クッションの刺さった刀を幽霊が持ち上げる。すっとクッションが抜け落ちた。どうやら幽霊の刀は実体を持ったり実体を持たなかったりしているらしい。そういえば、女の子を玄関まで引っ張って行って外に突きだしたときは体にさわれたが、本を投げたときは通り抜けた。やっかいな相手に狙われたものだ。
幽霊が刀を構えなおした。ゆっくりと間合いを詰めてくる。俺は床を後ずさりしながら手に触れたものを幽霊に投げた。やはり刀や手は実体化しているようで、そこに当たると弾かれて落ちるが、体には実体がないらしく通り抜けてしまう。
やがて、俺は布をつかんだ。振りあげてみるとさっき脱いだズボンだ。と、幽霊の動きが止まった。それどころか一歩後ろに下がる。
「お前、これが苦手なのか?」
「そういうわけではないが」
幽霊が歯切れ悪く答える。
ここは考えるところだ。着替えた途端、幽霊は襲ってきた、それでズボンを手にしたら襲うのをやめた、ということはこのズボンに何かがある。といってもこれはただの布だ。何か特別なことがあっただろうか。ベルトがついて、ポケットにはハンカチと財布とティッシュが入っている。それだけだ。
いや、何か引っかかる。さっきこの幽霊は何と言っただろうか。「主君、橘姫様の無念」と言った。そしてさっき行った神社の名前は、そう、橘神社だ。そこには関連があるとみていいのではないだろうか。だとすれば幽霊をひるませたのはあれしかない。俺はポケットから財布を出して、カード入れに差していた橘神社のおみくじを手に取った。
「お前、これが苦手なんじゃないのか?」
幽霊の方にかざして言う。
「ほう。存外知恵の回るやつだ」
女の子は苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべた。刀を宙に放り投げる。刀はそのまま空中で溶けるように消えた。
「これを持っている限りは俺に手出しは出来ないということだな」
俺が勝ち誇ったように言うと幽霊は笑った。
「一両日中はな。そのような小さき守り札の霊力はそうは続かぬ」
二日ほど生き延びたようである。俺は生き延びた期間の短さにがっかりしたが、それと同時におみくじが大吉だったことに感謝した。もし、小吉や凶だったら俺は神社でおみくじを結んでしまって、財布に入れるなどということはしなかっただろう。そうすれば、家に帰ってすぐに、いやひょっとすると帰る前に、問答無用に斬り捨てられていたかもしれない。運が悪い俺にしては運のいいことである。
俺はおみくじを握って台所に行くと食品保存用のビニールの小袋を一枚取ってそれに入れた。これで、お風呂でも持っていける。とりあえずは短パンのポケットに入れておく。
それから考えた。五十円のおみくじでそれだけの効果があるとすればちゃんとしたお札などであればもっと効果があるに違いない。問題はあの橘神社には社務所などがなくてお札を売ってはいないということだ。であれば、他の神社のお札はどうだろう。この幽霊が畏れ入るような神様が他にいないだろうか。
「おい、幽霊。橘神社はお前の主人の橘姫の神社なんだよな」
俺は確認した。
「姫様を呼び捨てにするな。お前などが口にしていい名前ではないぞ」
幽霊がすごむが気にしない。推論は正しいようだ。
「そのお姫様の生まれはどこなんだ?」
「教えると思うか」
「教えるわけないか」
「おおかた主家の信心していた神社の力を借りようと思っておるのだろうが、私は姫様を守ってくれなかった神など神と思っておらぬ」
神に対して屈折した思いがあるようだ。
しかし適当な神様を盾にすればいいという考え方は間違っていないらしい。まずすぐに思いつく手段としては橘神社の境内に逃げ込むというのがある。幽霊の態度からしてたぶん攻撃して来れないだろう。境内に入ることさえできないかもしれない。だけど、生涯をあの狭い境内で過ごすわけにはいかない。とりあえず、それは最後に取っておくことにして、ここはじっくり考えてみることにしよう。
そう結論をつけたら気持ちが少し落ち着いた。
俺は部屋を片付けた。生き延びる希望が出てきたのだ。部屋を散らかしている場合ではない。
部屋を片付けてから、夕食の準備にかかった。もう、そういう時間だったし、何よりいろいろあってお腹がすいていた。
「ほう、食事か。余裕を見せるではないか」
幽霊は時代劇に出てくる武家の娘のような格好に変わっていた。髪を結いあげて、茶色っぽい着物を着ている。それが台所の壁際で腕組みしながら文句をつけてくるのだ。
「腹が減っては戦は出来ぬ、というからね」
「ふっ、戦か。小僧が笑わせてくれる」
「勝手に笑ってろよ」
冷蔵庫から豚肉を取り出していて戸袋の棚に置かれていた柚胡椒に目が止まった。
その瓶を見るうちに幽霊に名前をつけてやろうと思いついた。「幽霊」だから「ゆう」でもいいが、それでは芸がない。ここは同じ「ゆ」で始まる「ゆず」でどうだろう。
その前に一応聞いてみる。
「幽霊よ。お前の名前は?」
「お前に名乗る名前はない」
「だろうな」
ここまでで、名乗って来ないということは名乗る気がないのだろうと思っていた。
「じゃあ、幽霊」
「なんだ?」
「お前の名前は今から『柚』だ」
「な、何を勝手に……」
「よろしくな、柚」
「止めぬか。私はそのような名前ではない」
柚は嫌そうな顔をして向こうを向いてしまった。使えそうである。命を狙われる経験は初めてだが、相手が嫌がることをするのは生き延びるのに役に立つに違いない。
「お前も何か食べるか、柚?」
返事をしない。効いてる、効いてる。
俺は豚とナスとピーマンの味噌炒めと、豆腐とわかめの味噌汁を作った。その間も頻繁に柚に話しかけてやる。
「豚を食べたことあるのか、柚?」「ガスって見たことあるのか、柚?」「ご飯はどうやって炊いていたんだ。やっぱり囲炉裏か、柚?」「味噌は赤味噌か、柚?」「豆腐は絹ごしのほうが好きか、柚?」
返事は一切なかった。ただ、嫌そうな顔をする。俺はそれが面白くてますます話しかけた。
「柚の時代は白米を食べていたのか?」「柚は五穀米って知っているか?」「柚はナスって好きか?」
嫌な顔をしながら決して俺のそばを離れないのは、命を狙う機会を探っているからだろう。しかし、それを俺に好意があるからだと勝手に解釈してみてはどうだろう。柚は健康美人といった感じの顔をしているので、なかなか楽しい妄想が出来そうだ。
意地悪をされても健気についてくるちょっと心を病んだ健康系の美少女。台詞は
『やめて、いじわるばかり言っていると刀で刺しちゃうんだからね』
という感じでどうか。なかなか、上級者向けのシチュエーションだ。
「お前はさっきから、何を楽しそうにしているのだ」
現実の柚が冷たい目で言った。どうやら妄想が顔に出てしまっていたようだ。
出来あがったので、食事を始める。母は遅くにしか帰って来ないので、夕食はいつも一人で先に済ませているのだ。
俺は食べながら柚を眺めた。考えてみると一人でない夕食は久しぶりだ。母は部活の指導や教材研究のために土日も学校に行って夜まで帰って来ない。
「何をじろじろと私を見ておる」
「いや、美人が食事時にそばにいるのもいいものだと思ってね、柚」
どういうわけだか俺はこれまでの人生で女性相手に口にしたことのない「美人」などという言葉を使っていた。相手が幽霊だからだろうか。
「正気か?」
柚の顔に朱が差したように見えたのは気のせいか。
「お、返事をしたな、柚」
「いや、返事ではないし、私は断じて柚などという名前ではない」
柚もなかなか粘る。そうなるとますます名前を認めさせたくなる。
「飯がすんでしまったぞ、柚」「茶碗を洗ってくれないか、柚」
また無視である。俺は母の分の夕食を用意してフードカバーで覆うと、自分の茶碗と鍋や菜箸を洗った。
洗い物を済ませると風呂に入ることにした。湯ぶねを洗ってから、お湯張りボタンを押す。柚は妙な顔をしていた。
「何だ、何か聞きたいことでもあるのか、柚?」
反応しない。意地でも返事をする気はないようだ。しかし、湯ぶねにお湯が出てくるのをしげしげと見ている。前に起きたのは数十年前と言っていたから、こういうものを見るのは初めてなのだろう。
湯がたまるまでの間部屋に戻って、ネットで命が助かる方法を検索してみることにした。まずは「幽霊 撃退法」で検索する。有効な対策として、お札やパワーストーン、六芒星の書かれた紙、塩、聖水が出てきた。ほかに変わったところでは、排泄物や体液をかける、下ネタをする、ふざけてみせる、というのがある。排泄物や体液は人間の生命力の象徴で、幽霊はそれを恐れるという。下ネタやふざけたことは真面目な雰囲気を大切にする幽霊が嫌がるのだそうだ。
パワーストーンなら、去年大阪に住んでいる従姉妹が九州旅行に来たついでにうちに寄ったのだが、その時にくれたものがひとつある。名前は忘れたが黒い小さな石だ。引き出しからそれを取り出して、部屋の真ん中に立っている柚に投げつけてみる。
石は柚の体を素通りして壁に当たった。
「何の真似だ?」
柚は怪訝な顔をしている。効き目はなかったようだ。
次は紙に六芒星を書いて柚の目の前につきつける。
「だから、何をしている?」
柚が苛立ったように言う。これも効果はない。
台所に行って塩を一掴み取り、柚に向けて撒いてみたが、無駄だった。柚は今度は笑った。
「そのようなことで霊力のある私が帰ると思うな」
失敗である。
今度は聖水と言いたいところだが、ないので、体液を試す。あまり匂いのするものを撒くと後が大変なので、つばを吐いてみた。
「何の真似だ?」
「幽霊は排泄物や体液が苦手というからな」
柚はくっくっと笑った。
「返り血を浴びても平気だった私だぞ。そのようなものが効くわけがなかろう」
体液系もやるだけ無駄のようである。
次は下ネタだ。具体的には下腹部を露出するといいらしい。女性に向かってどうかとは思うが、相手が押しかけて来ているわけであるし、命がかかっている。それにここは俺の家であるので実行しても差し支えないだろう。
短パンとパンツをおろして柚の方を向く。柚は首をかしげた。
「何だ。自慢のつもりか? それほどでもないように見えるが」
俺はそそくさとパンツを上げた。どちらかといえばダメージを受けたのはこっちだ。
後はふざけたことだ。どうにも性格上そういうことは俺の方が苦手なので、他に頼ることにした。居間のテレビをつける。うまい具合にお笑い番組をやっていた。音量を上げてテレビの前に座り込んでみる。
柚は俺の近くまで来て画面を眺めながら、
「何だ、これは騒がしいな」
と言った。
画面の中では芸人が意味不明なことを叫びながら跳ねまわり、観客の笑い声がそらぞらしくこだましているが、柚は関心を示さない。どうやらこれも失敗のようだ。
テレビを消したところで、風呂場から音楽が流れた。風呂が沸いた合図だ。
裸になって風呂に入ると柚はついてこなかった。
「他人の風呂をのぞく趣味はない」
ということである。俺はおみくじの入ったビニールの小袋を頭の上にのせて湯に浸かった。そうしてぼんやり考える。
撃退方法で試していないのはあとは聖水くらいのものだ。そして効き目があったのはこのお札代わりのおみくじだけである。ここはお札に賭けるしかないだろう。となれば調べ方をかえるしかない。
手早く体を洗って風呂を出ると、検索画面に戻った。狙いは柚の主君である。さっそく「橘姫」で検索してみる。しかしそれらしき人物は検索結果を五ページ見ても出てこない。それではと「橘神社」で調べてみる。
「そのようなものに向かって、お前はさっきから何をしているのだ?」
柚が不審そうに言うので、画面を指さして説明してやった。
「インターネットと言ってね。この画面は線で世界中とつながっているんだよ。ここに文字を入れて検索をすると、世界中の知識を調べることができるというわけだ」
「世迷い事を」
信じる気はないようである。昔の人にいきなりインターネットを説明して理解してもらうのは無理だろう。
俺は画面に戻った。橘神社はいろいろとあるようだ。福岡県で絞り込んでみると、それらしい記述が見つかった。
『孔大寺忠光の妻、橘姫を祭神とする神社。橘姫は忠光の死後、忠光の異母弟の尚光に攻められて自害したが、領民からその人柄を慕われており、尚光の死後に領民によって祀られることとなった』
どうやら、これで当たりのようだ。孔大寺氏というのは、小学校で習った社会科の知識で言うと、この地方を昔支配していた一族である。もう少し詳しい話を知りたくて「孔大寺 橘姫」で検索してみた。この地方の歴史を解説するブログがトップに出てくる。
『……大内氏が陶晴賢によって滅ぼされ忠光が討ち死にすると忠光の異母弟尚光はこの機に乗じて陶晴賢に与し、この地方を手中にした。天文二十一年、忠光の遺児高千代丸とその母橘姫が邪魔になった尚光は配下の者を野に伏せさせて、家来もろとも山岡の地にて斬り殺した。女子供を含めて、命乞いする者も容赦なく皆殺しにしたという。ところが、この事件以後百年にわたって、尚光の血族や手を下した配下の者たちの一族が次々に不審な死を遂げるという異変が起こった。人々はこれを橘姫の呪いとして大いに恐れた……』
なんだかさっきのサイトと微妙に表現が違っているが、橘姫が身内に攻められて死ぬことになったという点は変わらないようだ。
「おい、見てみろよ。お前のことが載っているぞ」
俺ははなれて立っていた柚に場所を譲って見せてやった。ここですねられては話が進まず面倒なので「柚」と声をかけるのはよしておく。
「何だ、これは」
文章を読んだ柚は声を荒げた。「姫様の呪いとはどういうことだ。姫様はそんな方ではない。祀られて神となられておるのだぞ」
「しらないよ。そういう風な伝承があったんだろ」
「これだから伝聞というものは……」
「はいはい。尚光というやつが悪かったわけね」
「ああ、そうだとも。あの男の企みのせいで姫様は無念の最期を」
「お前はその時に何をしていたんだ。散歩か?」
「警護だ」
憤然と言い返してくる。
「それであっさりやられたのか」
情報を得るために怒りをあおるように言ってみた。
「花見に出かけた帰りで供が少ないところを数十名に狙われたのだぞ。しかも弓で供の大半を討ち取られて、姫様達を守るのは私の他数名という状況になった。姫様がご自害なさるまで耐えるのでやっとだったのだ」
柚は思い出すだけでも腹が立つと言わんばかりに声を震わせて語る。
「それで、姫様は神になって、お前たちは笠塚に葬られたのか」
「そうだ」
まだ、怒りがおさまらないのか握ったこぶしを震わせている。
「それで、お前一人が化けて出て、百人以上の人を殺したのか?」
「化けて出たのは私だけではない。だから、あわせて三百人は殺している」
「そんなにか。しかし今の笠塚の亡霊はお前だけだろう。化けて出た仲間はどうした?」
「一通り仇討ちを果たした後、みんなあの世に行ったよ」
これで橘姫の出自ははっきりしたが、同族に裏切られての無念の死では確かに孔大寺氏の氏神を探して詣でても柚は何とも思わないだろう。難しい。かと言って何もしないわけにはいかない。俺の命がかかっているのだ。
とにかくこのあたりで一番大きな神社に行ってみよう、と俺は決めた。それでだめならもう一度橘神社に行くまでだ。
考えがまとまったところで、玄関が開く音がした。母が帰ってきたようだ。疲れている母には心配をかけたくない。俺は何食わぬ顔で、母を出迎えた。
翌日は土曜日で休みである。母が出かけてしまってから、俺は自転車で家を出た。
よく晴れている。今日も暑くなりそうだ。
坂を下って、大通りに出て橋まで行く。それから釣川という川沿いに海の方へと向かった。目指すのはこの地域で一番大きな神社、○○大社である。
堤防の上の道はまずはレンガが敷き詰められたしゃれた小道だ。葉の生い茂った桜の並木の下を駆け抜ける。それから信号機のある交差点に出て車道わきの歩道を行くことになる。そこまではいい。次の信号の先は歩道のない細い道だ。そこを結構な頻度で車が通るので、そのたびにあおられる。ガードレールなどはないから川の方に落ちそうだ。
ひやひやとしながら自転車をこぐ俺の頭の上を、白のフリルのシャツに薄紅色のロングスカート姿の柚が長い髪をなびかせて悠然と飛んでいる。幽霊は好きな格好にいつでも変われるらしい。この姿も例の写真集に載っていた写真をまねしたものだ。ゴスロリ服の時に俺の好みがどうとか言っていたが、単に自分が気に入った服を着てみたかっただけなのではないだろうか。
「おい、そんな格好で飛んでいていいのか?」
「なにがだ?」
「その、スカートの中身が見えてしまうだろう」
「スカートとはなんだ?」
「その腰の周りの布のことだよ」
「ああ、そのことか。お前以外の人間に私は見えていないのだから、お前が見なければ問題なかろう。それとも見たいのか?」
「そ、そんなこと」
ついうろたえてしまう。
「ほう。面白い反応だ。見たいらしいな。気をつけるとしよう」
「ちがう! そんなんじゃない」
俺は強く否定した。自分の命を狙う相手に俺は何をやっているのだ。
そこにまた一台車が追い越して行った。白のハッチバックだったが、上を飛んでついていくスーツ姿の男性が見えた。
「おい、あれ」
俺が指を指して驚きの声を上げると柚はこともなげに言った。
「幽霊だな。それがどうした?」
「どうしたって、お前。あの車の人も呪い殺されてしまうのか?」
「ああ」柚は笑った。「あの幽霊はそういうものではないようだ。あれはどちらかというとあの乗り物の持ち主が心配でついてまわっているのだな」
「そうなのか。初めて見たぞ」
「ほう。どうやらお前は、力のある私がついたせいでそういうものが見えるようになったようだな。やれやれ、力があるというのも困ったものだ」
柚がため息をつく。
「それは自慢か?」
「まあ、せいぜい他の霊と目を合わせないようにすることだ」
「どういうことだ?」
「ほかにとりついている霊はこちらに来ることはないが、よるべなくうろついているものは目が合ったものを追いかけてくることがあるからな」
「わかった」
このうえ幽霊に増えてもらっては困る。俺は柚の忠告を入れることにした。
ようやく狭い道が終わるところに来た。東郷橋だ。旧三号線が釣川を越える場所で、橋の両岸に交差点があり、多くの車が行きかっている。俺は橋を渡って対岸に移り、信号が変わるのを待って交差点を横断した。後はまっすぐこの道を行くだけだ。
左手は田んぼ、その先に低い山。右手は釣川、そしてこんもりとした森だ。自転車を走らせていると、ゆったり流れる川のよどみに子供が立っているのが見えた。
「あれも、幽霊かな」
「そうだな」
結構幽霊はいるものだ。次の交差点で信号待ちをしているときにも車の上を飛ぶ女性の姿を見かけた。それだけではない。
「あれも幽霊だな」
柚が言うのを見ると赤い車の助手席にシートベルトをせずに座っている女の子の姿があった。こうなると普通の人間と区別がつかない。
「どうやって人間と見分けるんだ?」
「私には、はっきりと違って見えるがな」
オーラのようなものがあって、その違いで見分けているのだろうか。しかし、俺にはそれが見えない。これじゃ迂闊に人ごみの中を歩くこともできないではないか。すれ違う誰が幽霊かわからないのだから。早く強いお札を手に入れて、柚を追い払って普通に戻らなくては、と俺は思った。
大社につくと俺は第二駐車場に入って、参道入り口わきに自転車を停めた。木々に囲まれた砂利敷きの参道を通って手水舎のところに出る。柚は平気な顔をしてついてきた。
境内に人の気配は少ない。俺は手と口を水で清めた。ついでに柚に向けて柄杓で水をかけてみる。これも聖水みたいなものだから効くかもしれないと思ったからだ。だが、柚の体を水は通り抜けただけだった。
「神前で水遊びとは罰当たりな」
柚に注意を受けてしまい、俺はがっくりとした。
門をくぐり、拝殿で賽銭を投げて柏手を打って頭を下げる。柚は横に立って傲然と腕組みをしていた。畏れ入るつもりはまったくないらしい。罰当たりなのはお前だと思ったが、柚には神様に反抗的になる理由があるらしいし、言ってみても仕方のないことだ。
百円出しておみくじを買い、あまり期待せずに柚の目の前につきつけてみたが柚はそれを指ではじいた。やはり効果なしだ。ちなみにおみくじは凶だった。ここまで来たのはなんだったのかと思う。これでは高額なお札も買うだけ無駄だろう。
がっかりして自転車に戻り、駐車場の中をふらふらと走らせていると柚が俺のそばから離れた。
「どうした?」振り返って尋ねる。
「なんでもない」
が、明らかになんでもないという顔ではなかった。柚は何かを嫌がっている。俺の目の前には神宝館があった。俺ははっと閃いて自転車を降りて、神宝館のそばに行った。柚はついてこない。どうやらここにあるものが柚は苦手のようだ。新たな安全地帯の発見である。
料金を払って中に入ってみた。柚から解放されてのびのびとした気持ちになる。しかし、ずっとこの中にいるわけにはいかない。展示品のどれかが柚を畏れさせているのだろうが、展示されているものが多すぎでどれが本命かはわからないし、俺にそれを貸してくれるわけもないだろう。俺は順路に従って漫然と歩いた。そうして考えあぐねたすえにパンフレットを手に入れて外に出た。
外で待っていた柚は俺が手にしているパンフレットを嫌そうに見た。どうやらこの中に当たりがありそうだ。開いて柚につきつけてみる。一番大きな反応を示したのは金属製の鏡の写真だった。
新しいお守りを得て俺は嬉しくなった。このお守りがどれくらいの間、効果があるかはわからないがこれでまた少し安全な時間が増えたはずだ。それで稼いだ時間で次の手を考えればいい。
待てよ、時間を稼げばいいのか。そこではたと気がついた。もしかして、橘神社でまたおみくじを引けば期限が二日延びるのではないだろうか。そうであれば、これをずっと続ければ、安全地帯にたてこもる必要はない。名付けて、「無限おみくじ」だ。問題は金額だが、と頭の中で計算する。一月が三十日として毎日おみくじを引いたら、千五百円だ。一日置きでいいとしたら七百五十円ですむ。これならお小遣いの範囲で何とかなりそうだ。いちいち橘神社に行くのは面倒だが、大社よりは近いし、命には代えられない。
俺は笑いをこらえきれなくなった。
「ふっふっふっ、これで命の心配はなくなった」
「何を言っている。そのような写し絵、数日もすればただの紙だ」
「いやいや、いいことを思いついたんだよ。もうお前なんかこわくない」
「なんだと。詳しく言ってみろ」
「いやだね」
俺は自転車に乗った。駐車場から道に出て車の列が切れるのを待って道路を渡る。それから川沿いに上流へと向かった。目的地は橘神社である。そこでおみくじを引いて俺の考えを披露する。柚がどんな顔をするか楽しみだ。
浮かれていた俺はバス停を通り過ぎたところで年老いた男の人に自転車をぶつけてしまった。が、なんの手ごたえもない。そこでそのまま走り去ればよかったのだが俺は驚いて自転車を止めて振りかえってしまった。老人の目が鋭く光った。
幽霊だ。そう思った時には俺はバランスを崩して自転車を倒してしまっていた。自転車にまたがったまま後ろを向いたのだから当然の結果だ。倒れた俺は土手の草の上に転がった。起き上がると老人はゆっくりとこちらに向かって来ている。俺はパンフレットをかざした。老人の動きが止まった。しかし俺が立ちあがって自転車の方に行くのをじりじりと追いかけてくる。
「こいつ、何をするつもりなんだ?」
俺の問いに柚は少し離れた場所で腕組みをして答えた。
「自分が見えるお前をとり殺すつもりのようだな」
「何とかしてくれ」
「気にするな。お前のお守りが有効な間はこいつもそばにまでは寄れないよ」
「冗談じゃない。追い払ってくれ」
俺は叫んだ。柚だけでも面倒なのにこんなのについてこられては気が休まらない。それにさっき思いついた「無限おみくじ」による防護は柚向けだ。この老人の霊に効かないかもしれない。
「私としてはお前がどうなってもかまわないのだがな」
「お前は自分の手で仇の俺を殺すつもりじゃないのか」
その言葉は高みの見物をしていた柚にも感じるところがあったのか腕組みを解いた。
「そうだな。ではその紙を捨てろ、お前の近くに寄れない」
俺は言われたとおりにパンフレットを老人に向かって投げつけた。老人がひるんで飛び退く。パンフレットは地面に落ちた。
「柚、いまだ!」
「おう」
柚は返事をして空中から刀を取り出し、老人に袈裟がけに斬りかかった。老人がよける。だが、柚が刀を返す。胴を切り裂く。老人の霊は煙のように消えた。
「やったな、柚」
そう声をかけると柚は俺に向かって膝をついた。
「はい」
ぎこちなく答える。
「どうしたんだ?」
今までの尊大な態度とは大違いの振る舞いに俺は戸惑った。何が起きたというのだろう。しかし、柚はその姿勢のまま答えない。
「おい、何が起きたのか説明しろよ」
柚が顔を上げた。
「それは命令か?」
「そうだな」
俺は当惑しながら答えた。柚が小さく息を吐く。
「お前は私に名前を与えた。それを私は受け入れてしまった。名前をつけられた幽霊は相手に従わなくてはならない。それゆえ、私はお前の配下になったのだ」
「なんだ、それは? 名前を受け入れる?」おかしなことを言う。俺は思い返した。「そういえばさっき俺が『柚』と言ったのに『おう』と答えていたがそれのことか?」
「そうだ」
「それで、俺の配下に。部下になったということか」
「そうだ」
「お前、今まで俺が『柚』というたびに返事をしなかったのは、返事をすると俺の部下になってしまうからだったのか?」
「そういうことだ」
柚はいまいましげに答えた。これはどういうことだろう、俺は考えた。状況がまだつかみきれていないが、まず確認するべきことがある。
「ということは、もう俺を殺すのは止めるのか?」
柚は悔しそうにして黙っている。
「どうなんだ? 答えろ」
俺が追及すると口を開いた。
「殺さない。いや、殺すことができない。名前をもらったことにより、恩義が出来た。私はお前を守る義務がある」
柚は肩を落としてすすり泣きを始めた。大きな目から涙がこぼれ、健康な色合いの頬を流れる。俺は美しい幽霊の少女を泣かせてしまって困惑した。