3月29日(火)放心の兄貴、ただ今絶賛後悔中
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――ん?
……もう朝か……
カーテンの隙間を縫うようにして、窓から光が差し込んでくる。外から聞こえてくる小鳥の鳴き声も、一日の始まりを告げていた。
目覚まし時計は鳴っていない。どうやら、いつもの起床時間よりも早くに目が覚めたようだ。
俺は寝起きで気怠い体を起こし上げ、目覚まし時計で時刻の確認を……
――あれ、何でジャンパーが体の上に? それに、ベッドが妙に硬いような……
というか、ベッドではなかった。俺が寝ているのは、床の上。
じゃあ、何で俺は床の上に? ベッドはどうした?
ベッドを覗き込んでみると、掛け布団が膨らんでいた。中に何が入っているのかと思い、さらに身を乗り出して覗くと……
――妹だった。
ベッドの上にいる物体は、紛れも無く俺の妹だった。
妹が――
スースーと穏やかな寝息をたてて、何だか幸せそうな顔で――
寝ている。
「ほ、穂波!?」
ちょ、おま、何で俺のベッドで!?
ゆっくりと、記憶の扉を開いていく。
昨日は、ゴキブリがどうのこうので穂波がテンパって、なんやかんやで俺と一緒に寝ることになって……
――そうだ。
俺は昨日、俺の部屋で穂波と一緒に寝たんだった。穂波をベッドに寝かして、俺は床で寝ることにして……
「あに……き……むにゃむにゃ……」
――ドクン。
朝っぱらから、心臓がフルビートした。
穂波が寝言で俺を……?
それってもしかして……
猫がひなたぼっこしてるみたいな、穂波の寝顔。
穏やかでかわいらしい。
ずっと見つめていたくなる。
「この……ばかあにぃ…………あにきぃ、あにきぃ……」
――おいおいおい!
穂波、お前いったいどんな夢見て……
「それはじゅーはちきんげーむでしょぉ? ……ぼっしゅう……なんだからぁ……」
――って待てぇい!
一昨日のエロゲの話かよ!!
ったく、期待して損したぜ。
……って期待?
……落ち着け。期待じゃなくて危惧だろ。何を言ってるんだ俺は……
「あにきぃ……」
夢の内容が多少アレだとしても、穂波に寝言で俺の名前を呼ばれると……
やっぱり、ドキドキしてしまう。
もうちょっと見ていたくなる。穂波のかわいらしい寝顔を……。
イケないことだとは分かっている。だけど、目が離せないんだ。
触れてみたい、とは思わなかった。この寝顔を壊したくない。穂波には、しばらく眠り姫のままでいてもらいたかった。
――熱を出して寝込んだ時のように、
思考がぼんやりと霞んでいく。
俺はただただ、穂波の寝顔を見つめて――
パチリ。
穂波が、瞼を開いた。
その視線の先、目の前には……
穂波の顔を覗き込む、俺の顔があるわけで。
「イ、……イヤァァァ!!」
「グハァァァ!!」
眠気覚ましには少々ハードな、鉄拳右ストレートが飛んできた。
おはようございます、穂波さん。
☆☆☆
こんな経験はないだろうか。
深夜に人と話していると、ヤケにテンションが上がったり、羞恥心が薄れていって普段できないような行動や言動を取ってしまったり、まるで酒に酔ったかのような状態になってしまったり――
そして翌日、後悔する。
冷静になった頭で考えてみると、急激に恥ずかしくなる。
昨夜の自分は自分じゃなかった、と言い訳したくなる。
――誰もが、こんな経験を一度はしたことだろう。
かくいう俺も、何回も経験してきた。
けど…………
「死にたい。とにかく死にたい。……昨日の自分を殺したい今の自分は自殺したい死にたい消えたい召されたい……」
廃人同然になるほどの経験は、今回が初めてだった。
時刻は午前11時。
近所のスーパーでバルサンと昼飯に食べる弁当を買い終えた俺は、D公園近くの路上をふらふらと歩き、自宅へと向かっている。
穂波は一緒ではない。アイツは10時から友人と遊びに行く約束をしていたので、俺1人で買ってきたのだ。穂波が遊びに行ってる間に、バルサンを焚いておく予定である。
まあそれでなくとも、穂波と一緒に買い物になど行けなかったが……。
アイツは、朝から俺と目を合わせてくれなかった。それどころか、まともに会話さえしてくれない。
いくら弁明しても、俺に対する「寝顔を見つめてた変態」という認識を変えてくれないのだ。……まあ、実際にそうなのだが。
朝飯は作ってくれたけど一緒に食べてくれないし、俺を見ると真っ赤な顔になって逃げ出すし。
いっそのこと罵倒してくれるほうがまだ良いのだが、全く口を聞いてくれない。
――ショックだ。
穂波に嫌われた。
帰ったら、土下座してでも赦してもらおう。そう思えるくらい、穂波と仲良くしていたいんだ。
――って、シスコン丸出しだよな。どんだけヘンタイなんだよ俺は……。
ヘンタイと言えば……
昨日の俺、何をやっているんだ。
女の子と一緒に寝ている状況で、「何も嫌らしいこと考えてない」と言うのはやはり失礼かと思い、正直な気持ちを伝えたのだが……
正直過ぎた。
表現がダイレクト過ぎた。
そもそも、妹相手に言う台詞じゃないし、妹相手に抱いて良い感情じゃない。
あの時穂波が起きていたのか寝ていたのかはわからないが、どっちにしろ俺があんな発言をした事実は変わらない。死にたい。
――そんなわけで俺は、ただ今絶賛後悔中なわけである。
ガツン。
ふらふらと歩道を歩いていたら、すれ違ったオッサンにぶつかった。
「スミマセン……」
「気をつけろよな」
オッサンは舌打ちをして去っていったが、俺は再び歩き出すまでに時間がかかった。
――もうダメだ。
多分次は、車にでも轢かれて死ぬのだろう。
いや待て、そしたら運転手に迷惑がかかる。どうせ死ぬなら他の方法で……って、そもそも人に迷惑をかけない死に方ってあるのか? どんなに上手く死ねても、葬式代とかで親に迷惑かけるし……
ゴツン。
「キャッ」
俺の前を歩いていたセミロングの若い女性が、電柱に頭をぶつけ、その反動で俺の胸に背中を預けるように寄り掛かってきた。
「だ、大丈夫ですか?」
「ご、ごめんなさい……。ボーとしてまして」
女性は寄り掛かったまま、動こうとしない。脚がふらふらとしていて、今にも崩れ落ちそうだった。
「ごめんなさい……、体に力が入らないんです……」
その声も、沈んでいてとてもか細い。
「とりあえず、体調悪いなら、そこの公園のベンチで休みますか? 肩お貸しますよ」
「ありがとう……ございます。お優しいんですね」
「い、いえ……それほどでは……」
背中越しに振り向いたその女性は――
全体的に地味な印象はするものの、なかなかの美人だった。
歳は20代前半くらいだろうか。縁無し眼鏡を掛けた顔も、灰色のロングスカートにベージュの上着を羽織った服装も、非常に大人びた印象を受ける。
「とにかく、そこのベンチへ行きましょう。俺で良かったら、力になりますから」
「すみません……お願いします」
「任せてください」
もちろん、俺は笑顔で快諾した。「困っている人がいるのなら助ける」っていうのが、俺のアイデンティティだから。
突然女性に寄り掛かられた時はドキリとしたが、彼女の雰囲気があまりにも心配だったので、逆に冷静でいることができた。
あの夜穂波が座っていたベンチへ、俺は彼女を支えながら移動することにした。




