「お前は何もしてこなかった」と夫が言うので、銀婚式の夜会で二十五年分の帳簿を読み上げました
全1話・約8,000字の完結済み短編です。
「お前はこの二十五年、何もしてこなかったではないか」
夫の声は、楽団の演奏を止めるほど大きかった。
銀婚式の夜会。シャンデリアの下には二百人の招待客がいる。その全員の視線が、私と、夫と、夫の腕にしなだれかかる若い女に集まった。
「ヴァルディス伯爵家の女主人は、今夜からこのミレーヌだ。エレオノーラ、お前とは離縁する」
ミレーヌ嬢は二十二歳。夫が三年前から「狩猟小屋に行く」と言って通っていた先の、男爵家の未亡人だ。
首元で、大粒の青玉の首飾りが光っている。
私は扇を閉じた。
「承りました」
一礼する。
会場が、ざわりと揺れた。
「今、承りましたと……」
「伯爵夫人、顔色ひとつ変えないわ」
扇の陰で交わされる囁きが、あちこちで生まれては消えていく。
夫の眉が跳ね上がる。泣いて縋る妻を、皆の前で振り払う。たぶん、そういう筋書きを用意していたのだろう。
二百人分の料理を手配し、楽団を呼び、テーブルの白百合を三百本揃えたのは私だ。夫は今夜、乾杯の挨拶を一言しただけ。その挨拶の原稿も、私が書いた。
自分の銀婚式の会場で、自分の離縁を告げられる。
なかなか味わえない経験だと思う。
「……ずいぶんあっさりしているな。少しは取り乱したらどうだ」
「取り乱すほどのことでもございませんので」
本心だった。
十八で嫁いで二十五年。この家の帳簿は、毎晩欠かさずつけてきた。
いつか、自分のためだけの帳簿をつけてみたい。海の見える町の、小さな家で。それが、私がこの家で一度も口にしなかった、ささやかな望みだった。
望みが一つ、思ったより早く叶う。それだけのことだ。
「まあ、奥様。お可哀想に」
ミレーヌ嬢が、夫の肩越しに微笑んだ。
「でもご安心なさって。奥様のお仕事は、わたくしがすべて引き継ぎますわ。お茶会の采配とか、ドレスの色合わせとか。そういうのは得意ですの」
夫が鼻で笑う。
「引き継ぐものなど何もないだろう。こいつがしてきたのは、刺繍と茶会だけだ。そうだろう、エレオノーラ。何かしてきたというなら、ここで言ってみろ」
招待客の何人かが、気まずそうに目を伏せた。
私は少しだけ考えた。
引き継ぎ。
それは確かに、必要だ。
「では、引き継ぎをいたしましょう」
「……は?」
「ミレーヌ様が明日から困らないよう、私がこの二十五年担ってきた仕事を、ご説明いたします。ハンナ」
壁際に控えていた侍女頭が、一歩前へ出た。私が嫁いだ日から仕えてくれている、ただ一人の味方だ。
「はい、奥様。こちらに」
ハンナが差し出したのは、一冊の帳簿だった。
二百人の視線が、今度はその帳簿に移った。前列の令嬢が、扇の陰から首を伸ばしている。
厚さは指四本分。濃紺の革表紙は、角がすっかり丸くなっている。
「なんだそれは」
「伯爵家の総括帳です。二十五年分の収支を、年ごとに一枚ずつまとめてあります。いつか誰かに引き継ぐ日が来ると思って、作っておきました」
革紐をほどく。
紙の匂いが、ふわりと立った。
「旦那様は、一度もお開きになりませんでしたね」
◇
「結婚一年目」
最初の頁に指を置く。
「旦那様の賭博の負債。金貨三千二百枚。王都の賭場四軒と、高利貸し二軒への返済です。私の持参金から、全額お支払いしました」
会場の空気が、凍った。
夫の顔から、血の気が引いていく。
「な、何を……。そんな昔のことを、今さら」
「引き継ぎですので。高利貸しのうち一軒は、今も旦那様のお名前で時々お手紙をくださいます。お返事の書式は、帳簿の後ろに挟んでございます」
ミレーヌ嬢の笑顔が、ほんのわずかに固まった。
私は頁をめくる。
「三年目。北の堤防が決壊しました。修繕費は金貨八百枚。その年の王都での夜会を三回に減らして、捻出しました」
「あれは……お前が夜会をケチったせいで、俺が恥をかいた年だ!」
「はい。代わりに、北の三つの村が冬を越せました」
誰かが、小さく息を呑んだ。
「七年目からは、王国への税の申告書を、毎年私が作成しております。旦那様には、最後の頁に署名だけいただいておりました」
招待客の端で、恰幅のいい男が身じろぎした。王都で一番大きい穀物商会の会長、バルトロ氏だ。
「……失礼ですが、奥様。では、うちの商会との取引の書面も」
「はい。十六年分、すべて私が。バルトロ様の商会は、支払いがいつも三日早いので助かっておりました。記録してございます」
バルトロ氏は口を開け、それから閉じた。
隣の夫人と、何か囁き合っている。囁きは、波紋のように広がっていった。
「十二年目。小麦が不作でした。領民に種籾を貸し付け、返済は三年の分割としました。この年、ヴァルディス領の餓死者はゼロです」
ざわめきが、一段大きくなった。
あの年のことは、ここにいる誰もが覚えている。隣のグレン領では三百人が冬を越せなかった。王都の救貧院に、北部からの流民が溢れた年だ。
「ゼロ……? あの年に?」
「ヴァルディス伯の手腕だと、陛下が褒めておられたはずだが」
「伯爵本人は、あの冬ずっと南の保養地にいたぞ。私は向こうで会った」
夫が、ぎこちなく笑った。
「く、くだらん。数字など、誰が書いてもいい。そんなものは、家令の仕事だ。そうだろう、オズワルド!」
呼ばれた老家令は、背筋を伸ばして一礼した。
「恐れながら、旦那様。私がお仕えして十五年、帳簿の締めは毎月、奥様がなさっておいでです。私は奥様のお指図で、お金を運んでいただけでございます」
夫の口が、半開きのまま止まった。
「十五年目」
私は次の頁に指を移す。
「領地の六つの村に、小さな学び舎を建てました。子どもたちに、読み書きと計算を教えるためです。建設費は金貨三百枚。教師の給金は、毎年金貨六十枚。こちらも、私の個人資産から出しております」
「学び舎だと? そんな無駄なものに金を……」
「無駄ではございませんでした。領地の帳簿を、今は村ごとに村長がつけてくれています。十年前は、自分の名前を書ける村長が二人しかいませんでした」
そのとき、会場の後方から声が上がった。
「……あの、失礼いたします」
近衛騎士の礼装をつけた、まだ若い青年だった。耳まで赤くして、それでもまっすぐこちらを見ている。
「私は、ヴァルディス領の東の村の出です。粉挽きの三男で、学び舎の一期生でした。字が読めたから、騎士団の試験を受けられました」
青年は、深々と頭を下げた。
「学び舎を建ててくださったのは、伯爵閣下だと聞いておりました。……奥様、だったのですね」
私は少しだけ、言葉に詰まった。
学び舎の一期生は十四人。あの東の村の子は、たしか、算術の答えをいつも一つ多く書く癖のある子だった。
「試験の算術は、何問合っていましたか」
「……二十問中、二十問です」
「それは、よかった」
青年は顔を上げ、泣き笑いのような顔をした。
夫は、その青年の名前すら知らないはずだ。
◇
私は、頁をめくり続ける。
紙の擦れる音が、やけに大きく響いた。夫の額には、汗の粒が浮いている。
「二十年目。旦那様のお母様の療養費。十年分で、金貨千百枚」
夫が何か言いかけて、口を閉じた。
「旦那様は一度もお見舞いに行かれませんでしたが、お母様は最後まで、旦那様のお好きな林檎の砂糖煮のことを気にしておいででした。作り方は、帳簿の最後に書き写してございます」
ミレーヌ嬢が、夫の腕からそっと手を離した。
「二十三年目。旦那様の狩猟小屋の改装費として、金貨二百枚の請求書が回ってまいりました。現地を確認したところ、狩猟小屋はございませんでした。代わりに、ミレーヌ様のお屋敷の屋根が新しくなっておりました」
「……っ」
「こちらは旦那様の個人の出費として、旦那様のお小遣いから毎月差し引いております。残りは金貨四十枚。完済まで、あと三年と四か月です。記録してございます」
会場のどこかで、誰かが噴き出しかけ、慌てて咳払いをした。
私は帳簿の最後に挟んだ、新しい紙を取り出す。
「それから、今月分の請求書です。王都の宝飾店から。青玉の首飾り、金貨四百枚」
全員の目が、ミレーヌ嬢の首元へ吸い寄せられた。
「支払い期日は、今月末です。私の署名がなければ、伯爵家の金庫は開きません。ですので、これはミレーヌ様にお引き継ぎいたします」
ミレーヌ嬢の指が、首飾りの留め金に触れた。
震えている。
「ゲルハルト様。……わたくし、お支払いなんて、聞いていませんわ」
「ま、待て。違う、それは」
「わたくし、てっきり贈り物だと……。伯爵家の奥様になれば、毎月こういうものが届くのだと、ゲルハルト様が」
「ミレーヌ、声が大きい!」
その声のほうが、ずっと大きかった。
「旦那様」
私は、穏やかに言った。
「伯爵家の金庫の残高は、金貨四百五十枚です。ミレーヌ様の首飾りをお支払いになると、来月の使用人四十二名のお給金が出ません」
壁際に控えていた給仕たちが、揃って顔を上げた。
「来年の春の種籾も買えません。その場合は、どうか王都の高利貸しの方に。書式は、帳簿の後ろに」
夫は、何も言わなかった。
言えなかったのだと思う。
「最後に、二十五年目」
私は、最後の頁を開いた。まだインクが新しい頁だ。
「本日の夜会。料理二百人分、楽団十二名、白百合三百本、葡萄酒百二十本。合計、金貨百八十枚。こちらは、私の個人資産からお支払い済みです」
一拍、置く。
「銀婚式ですので。二十五年の締めくくりくらいは、きちんとしておきたかったのです」
今度こそ、会場は静まり返った。
招待客の手元のグラスが、急に重そうに見えた。この葡萄酒を、誰が、何のために用意したのか。二百人が同時に理解した顔だった。
年配の公爵夫人が、グラスをそっとテーブルに戻した。それにならうように、一つ、また一つと、グラスが置かれていく。
硝子の小さな音が、波のように広がった。
夫の頬が、引きつった。
「お、お前……。最初から、こうするつもりで」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「引き継ぎをせよと仰ったのは、旦那様です」
◇
そのとき、会場の奥で椅子が鳴った。
立ち上がったのは、灰色の髪を後ろへ撫でつけた、背の高い紳士だった。
招待客たちが、慌てて道を空ける。
王国財務卿、リヒャルト・ノイマン侯爵。王の金庫を預かる人だ。夫が見栄のために、三度も招待状を送ってようやく来てくれた客だった。
侯爵は、まっすぐ私の前まで歩いてきた。
磨き上げた床に、硬い靴音が一つずつ落ちる。その音のほかに、広間で動くものは何もなかった。
「ヴァルディス伯爵夫人。失礼だが、その帳簿の七年目を見せていただけますか」
私は頁を開いて差し出した。
侯爵は胸元から片眼鏡を取り出し、右目にはめた。
長い指が、数字の列をなぞる。
一行。
二行。
三行目で、指が止まった。
侯爵は、帳簿の端に記された小さな印に目を落とした。三本の縦線を、一本の横線で束ねた印。合計を確かめ終えた行に、私がいつも付けている癖だ。
侯爵の喉が、小さく動いた。
「……この印」
低い声だった。
「財務院の新人は、皆これを真似します。理由も知らずに。最初の一枚に、この印が付いていたからです」
侯爵は片眼鏡を外し、ゆっくりと息を吐いた。
「やはり、そうか」
侯爵は顔を上げた。
その目が、私ではなく、夫を見た。
「伯爵。財務院では十八年前から、ヴァルディス領の申告書を『模範書式』として、新人の監査官全員に写させている。十八年間、一度も訂正を入れたことがない申告書だ。王国でただ一つのね」
夫の顔が、青から白へ変わった。
「私はずっと、あれを書いたのは貴公だと思っていた。陛下にも、そうご報告申し上げた。……どうやら、私は十八年間、報告を誤っていたらしい」
会場が、しんと静まり返った。
楽団の誰かが、弓を取り落とした音だけが響いた。
「お、お待ちください、財務卿閣下!」
夫が、裏返った声を上げた。
「それは、その、妻に清書をさせていただけで。中身を考えたのは、私です」
侯爵は、夫を見た。表情は変わらなかった。
「では伯爵。昨年の申告書で、東の三村の小麦の税率だけ、二分下げてある。その理由をお聞かせ願えますか」
「そ、それは……」
夫の目が泳いだ。
助けを求めるように、私を見る。二十五年で、初めて見る顔だった。
私は、何も言わなかった。引き継ぎは、聞かれたことに答えるものだ。聞かれていないことまで、答える必要はない。
沈黙が、三つ数えるほど続いた。
「……結構です」
侯爵は、それ以上何も問わなかった。
答えは、東の三村の水車が去年の秋に壊れて、粉挽きの代金が嵩んだからだ。帳簿の二十四年目の頁に、ちゃんと書いてある。
侯爵は、私に向き直った。
「十三年前の冬を、覚えておいでですか。北部が不作だった年です」
「……十二年目の、ことでしょうか」
「ええ。あの年、私はまだ駆け出しの監査官でした。北部の申告書を、山のように抱えていました」
侯爵は、帳簿の一点を指で示した。
小さな注記がある。私の字だ。
『隣領グレンへ、種籾二百袋を融通。返済は不要。』
「グレン領の申告書は、穴だらけでした。けれど、この一行のおかげで、私は北部全体の種籾の流れに気づけた」
侯爵は、注記の文字を指先で軽く叩いた。
「王都の備蓄を、南ではなく北へ回すよう進言できた。あの冬、それで救われた命は、少なくとも千を下りません」
私は首を傾げた。
「そんな大層なことを書いたつもりは、ございませんでした。グレン領の小麦の値段が、帳尻に比べて妙に高かったので。種籾が足りていないのだろうと思っただけです」
「その『だけ』が、王国の誰にもできなかったのですよ」
侯爵は、ほんの少しだけ笑った。
それから、背筋を正した。
「エレオノーラ殿。財務院は今、王立監査院に新しい監査官を一人求めています。十八年分の模範書式を書いた方以上の適任を、私は知りません」
会場が、今夜いちばん大きくどよめいた。
王立監査院の監査官。王国じゅうの貴族の帳簿に、目を通す役職だ。女性が就いた前例はない。
「お引き受けいただけませんか」
私は扇を開き、口元を隠した。
二十五年、誰にも頼まれなかったことを、今夜、二度も頼まれている。引き継ぎと、新しい仕事と。
少し考えて、正直に言った。
「……ありがたいお話です。ただ、その前に一つだけ、叶えたい望みがございまして」
「伺いましょう」
「海の見える町で、自分のためだけの帳簿をつけてみたいのです。一冊目は、まだ白紙のままなので」
侯爵は、真顔で頷いた。
「監査院には、南の港町マリスに支局があります。窓から、海が見えます」
「……それは、ずるいお返事ですね」
「財務卿ですので。条件の詰め方は心得ております」
私は、思わず笑ってしまった。
◇
引き継ぎの残りは、短く済んだ。
伯爵家の金庫の鍵を二本、家令のオズワルドに預けた。署名の権限を、正式に夫へ返す書面を一枚。私の個人資産の目録を一枚。
結婚のときに持参した金貨のうち、まだ私の名義で残っている分は、明日の朝、ハンナと一緒に運び出す。
最後に、離縁の書面に署名した。
羽根ペンを置く。
「これで、引き継ぎはすべて完了です」
総括帳を、閉じたままミレーヌ嬢へ差し出した。
彼女は、受け取らなかった。両手を胸の前で握りしめたまま、首を横に振っている。首飾りは、もう外されていた。
「では、こちらに置いておきますね」
私は帳簿をテーブルに置いた。
濃紺の革表紙が、銀の燭台の光を受けて鈍く光った。二十五年、毎晩開いてきた帳簿だ。手を離すとき、指先が少しだけ名残を惜しんだ。
「エレオノーラ」
夫の声がした。
さっきとは別人のように、掠れていた。
「ま、待ってくれ。お前がいないと、俺は……。せめて、来月の給金の分だけでも」
私は振り返り、一礼した。
「旦那様。何もしてこなかった私がいなくなっても、何も変わらないはずですわ」
扇を閉じる。
「二十五年間、お世話になりました」
背を向けて、歩き出す。
招待客たちが、左右に分かれて道を空けた。誰かが、ためらいがちに拍手を始めた。それが一つ、二つと増えていく。
広間を出ると、長い廊下に使用人たちが並んでいた。
料理番。洗濯係。庭師の親方。厩番の少年。
誰が知らせたのか、厨房の奥にいるはずの者まで、エプロン姿のまま壁際に立っている。
私が前を通るたび、一人ずつ頭を下げていく。
声をかけてくる者はいない。それが、この家の使用人の礼儀だと、私が教えた。
庭師の親方の前で、足が止まった。手の中に、白百合が一輪だけ握られている。今夜の会場に飾ったものと、同じ花だ。
「……奥様が、二十年前に植えさせた球根です」
親方は、ぶっきらぼうに言った。
「来年も、咲きます。ちゃんと、咲かせます」
私は花を受け取った。
茎が、まだ少し湿っていた。
「ありがとう。お給金は、オズワルドに預けた目録のとおり、来月分まで私の資産から出るようにしてあります。その先のことは……新しい奥様に、よくお願いしてちょうだいね」
親方は返事をしなかった。代わりに、帽子を胸に当てて、いつもより深く腰を折った。
玄関の扉の前で、ハンナが外套を広げて待っていた。
「奥様。いえ、エレオノーラ様。どちらへお供いたしましょう」
「まずは海ね、ハンナ」
夜風が、頬に冷たかった。
馬車は、王都の宿へ向かって石畳を下っていく。
向かいの座席で、ハンナが膝の上の鞄を抱え直した。中身は、私の着替えが三日分と、インクが二瓶、羽根ペンが六本。それから、白紙の帳簿が一冊。
「エレオノーラ様」
「何かしら」
「一つだけ、お伺いしても」
ハンナは、珍しく言いよどんだ。
「あの帳簿、本当に置いてきてよろしかったのですか。二十五年分ですのに」
私は窓の外を見た。
伯爵家の灯りが、坂の上で小さくなっていく。二十五年、毎晩あの窓の一つで、私は帳簿を締めてきた。
「いいのよ。あれは、あの家の帳簿だもの」
膝の上の白百合を、指先で撫でる。
「それに、写しは全部、頭の中に入っているから」
ハンナが、吹き出した。
嫁いで以来、初めて聞く彼女の笑い声だった。
◇
【SIDE:ヴァルディス伯爵家】
三か月後。
伯爵家の使用人四十二名のうち、残ったのは家令のオズワルドを含む三名だった。前の奥様が払った一か月分のあと、給金は二か月続けて払われていない。
伯爵の書斎には、未決裁の書類が木箱で七つ積まれている。開封されていない督促状は、二十三通。署名欄の場所が分からない、と伯爵は言った。
穀物商会のバルトロ氏は、伯爵家との取引を打ち切った。理由は「書面の作成者が変わったため」。ほかの商会四軒も、これに続いた。
王都の宝飾店は、青玉の首飾りを回収した。ミレーヌ嬢は首飾りを返した翌日、男爵家の屋敷へ戻り、二度と伯爵家を訪れなかった。
財務院は、ヴァルディス領の過去十八年分の申告書を、作成者の欄だけ訂正した。模範書式としての回覧は、名前を書き換えて続けられている。
春の種籾の代金を、伯爵は王都の高利貸しから借りた。
書式は、帳簿の後ろに挟んであった。
◇
港町マリスの朝は、潮の匂いがする。
監査院の支局の二階。窓を開けると、白い帆が三つ、沖へ出ていくのが見えた。
机の上には、真新しい帳簿が一冊。表紙は、私が選んだ若草色だ。
一頁目を開く。
羽根ペンをインクに浸して、少し迷ってから、書いた。
『エレオノーラ個人帳 一年目』
その下に、最初の一行。
『支出。海の見える部屋の家賃、銀貨十二枚』
『収入。監査官としての初任給、金貨二十枚』
数字を見る。
座りのいい数字だった。
扉が叩かれる。
「エレオノーラ殿。王都から、最初の監査の依頼が届きました」
聞き覚えのある、低い声だった。
なぜ財務卿ご本人が、わざわざ港町の支局まで書類を届けに来るのだろう。
私は扇を手に取りかけて、やめた。帳簿の余白に、一行だけ書き足す。
『本日。財務卿、今週二度目のご来訪。理由は不明。』
記録しておこう。
これから、何度でも。
(完)
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