クスノキ
傷を見ていた目線をあげると、目の前には大きな木に守られるように一件の木造の家が建っていた。
離れのようだ。
質素でこじんまりとしており歴史を感じさせる。
そのまま時代劇にでてきそうな佇まいをしている。
その離れを覆うように木は枝葉を悠々と伸ばしている。
離れと木の周りだけ時間の流れが止まっているようで、その異質さは私の興味をかきたてた。
さわさわと葉が奏でる音をひとつひとつ聞き取ろうと少し必死になってみる。
感動する映画を見てもいくら素晴らしい歌を聴いても自然が発するメッセージに勝てるものなんてないと思う。自然は一瞬にして人の心を捕らえて話さなくなる。
このまま耳をすませ続けたら木の根が水を吸い上げる音まで聞こえてきそうだ。私は目を閉じ、左手でそっと幹に触れた。
冷たく少し湿った幹の感触に少し違和があるものの、私の掌を自分自身と同化させるように徐々に木の温度は上昇していく。そして完全に一体となった時、私は一人の男の子と猫と女の子の姿を眺めていた
。2人と1匹は小さな三角形のような円を作り、何やら話をしているようだ。猫がひと鳴きし、女の子の左手を噛んだ。
「痛っ」
私は我に返り、幹から手を離すが、特に変わったことはなかった。
あるのはあの、三日月型の傷だけだ。
「おまえ、いい加減にしろ」
いきなり人間の声が上から降ってきた。
驚いて振り返るとさっきまでは閉まっていたはずの離れの戸が全開にされ、そこには先ほどの青年が開け放たれた戸に寄り掛かるようにして立っていた。
中はだだっ広い和室で、生活感を感じさせるようなものは部屋の中央に敷かれた布団と小さな文机くらいだった。
その青年は先ほど見た時よりもさらに美しく、具合が悪そうに青白かった。
「お前、なんのようでここに来た。さっさと消えろと言っただろ。俺を殺す気か」
青年は一息でそう言うと更に具合が悪くなったようで、戸によりかかるようにして座りこんだ。襟元は乱れ、白い肌が覗いている。でも、額を抑える手は思っていたよりも筋張っていて、男の人の腕だった。私は不謹慎だが、胸がドキリと跳ねたのを感じた。
しかし、彼の物言いはあまりにひどい。
いくら具合が悪いと言えど、言っていいことと悪いことがあることくらいわかっていても良い年齢ではないか。
「人のこと殺人狂みたいな言い方しないでください。私だって好きでここに来たわけじゃないんです。駅に抜ける道があるって聞いたから探しに来たんです。あなたこそ、神社の人間じゃないくせに偉そうなこと言わないでください」
私はそれだけ言うと、離れを背に歩きだす。
本当にいちいち頭にくる。やなやつ!
やなやつ!!
やなやつ!!
私はズカズカと大股でその場を去る。こんなやつ、一瞬でもかっこいいなんて思った私がバカだった。
初めて会った人に消えろなんて普通言わないでしょう。
ふと気がつくと、そこは見覚えのない景色が広がっていた。
…しまった
怒りにまかせて歩いてきたせいでここがどこだかわからない。
わかるのは…離れまでの道のりだけだ。
私は離れの前まで戻ってきた。
このまま、迷子になり続けるか、恥をしのんで道を聞きに戻るか。
私は一瞬の恥を選んだのだ。
さっきと同じ体制で戸に寄り掛かる青年の姿を見つけ、私は意を決して歩を進める。
「私にここからいなくなってほしかったら、駅までの道を教えなさいよ」
くそう。恥ずかしい。こんな言い方じゃあ負け惜しみみたいで更に格好が悪い。
さぞかし厭味を言われるだろうと覚悟していたが何も言ってこない。
「ちょっと、聞いていますか。駅までの道のりを教えてくれたらすぐに立ち去りますよ」
少し優しく聞いてみても全く反応がない。
無視、されているとか…
寝ているとか…
確認しようと近くに寄ると青年の額はじっとりと冷や汗で濡れており、顔にはもはや色がなくなっていた。
「え、ちょっと、ねぇ、ちょっと大丈夫!?」
まさか死んでいるのではと思い、必死に頬を叩いてみる。
かなり冷たくなっていた。しかし、まだ息はあるようだ。
叩かれたことで、青年は小さくうっと声をもらした。
「猫…鈴はどこ?」
私ははじかれるようにして立ち上がり鈴を探しはじめる。
鈴ならなんとかしてくれると思った。
そもそも、青年と鈴が一緒にいないことが不思議で仕方なかった。
だが、鈴の名前を呼んでもどこにもいない。
どうしよう。このままこの人死んだらどうしよう。
私はぐったりとしている青年の元へ戻り、上半身を抱え、畳み寝かせる。
布団まで連れていけるほど華奢ではなかったから、その場に寝かせ持っていたハンカチで彼の額の汗をぬぐうと再び境内の方へ走った。




